29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

フェイクニュース拡散の量的研究をわかりやすく

2018-12-29 11:39:33 | 読書ノート
笹原和俊『フェイクニュースを科学する:拡散するデマ、陰謀論、プロパガンダのしくみ』DOJIN選書, 化学同人, 2018.

  SNSを材料にフェイクニュース現象を量的に分析するという内容である。著者は名古屋大学の所属の研究者であり、専門は「計算社会科学」だそうだ。説明はやさしく読みやすいが、フォントが大きめで本文は180頁ほどで、もう少しトピックを加えて欲しい気もする。現状はここまでということなのだろう。

  その知見は以下のようなものである。科学ニュースと比べるとフェイクニュースの拡散の広がりは小さいけれども、時間的にはより長く持続する。道徳感情を刺激するニュースは、真偽に関係なく拡散しやすく、フェイクニュース作成者はそこを利用する。SNSにおけるブロッキング機能は高速で純度の高いエコーチェンバーを生み出す。「いいね」やリツイートで個人的属性やリベラルか保守かなどの志向がある程度の確率でわかる、などなど。処方箋としては、個人的な対処法のみならず、法的規制も提示されている。

  フェイスブックを通じた、ロシアによる2016年の米国大統領選挙への介入などの噂話も生々しい。読者としては、さらにフェイクニュースによって投票行動が変わるのかどうかも知りたいところだった。「フェイクニュースによってトランプ大統領が誕生した」などと言われることがある。しかし、因果関係としては単にトランプ大統領を支持する層が反リベラルのフェイクニュースを好んでいただけで、ニュースの真偽は投票に影響しなかった可能性もある。今後の研究の進展に期待したい。
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苦労して読んだ後に訳者によって疑義を呈される

2018-12-25 08:02:03 | 読書ノート
デイヴィド・ゴティエ『合意による道徳』小林公訳, 木鐸社, 1999.

  倫理学。合理的経済人が社会契約によって協力行動をする、すなわち協力行動に付随する自由の制限を受け入れることの論証を試みている。原著はMorals by Agreement (Oxford University Press, 1986)。著者はカナダ出身で米国在住の哲学者である。丹念に論理展開を追う必要があって読むのに苦労する。なので一般向けではない。

  なぜ人間はルソーやホッブズのいう自然人のままではいけないのか。単純に私的利益を追求する個人だけでも広い意味での「市場」を形成できる、すなわち個人が相互作用する社会を形成できるではないか、と。これに対する著者の答えは、それだけでは「市場の失敗」特に外部性の問題に対処できない。したがって、私利追求者でさえも、合理的ならば他者と契約してその合意に服するならば、長期的な利益に預かることができる、という。

  以上が導入部分である。これ以降、ゲーム理論におけるナッシュ均衡や、全体の状況を悪化させない程度の私有財産を認めるという「ロックの但し書き」などが議論に持ち込まれる。ただし、全体として納得感は薄い。社会契約や合理的人間という仮想を用いて論理展開するせいだろう、普通の人間は本書で描かれているようなものではないと直感的に思ってしまう。

  と、思って読み進めて最後の訳者解説までたどり着いたところ、訳者が本書に対して疑問点を提示していた。多くは「著者は合理的人間ならばA,BのうちAを選ぶとしているが、必ずしもそうとはかぎらない」というパターンである。これら批判がいちいち説得力があって納得してしまった。人間は合理的であると想定して協力行動を正当化するのは難しいのではないか、という印象を持った。
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再販価格制はなんとか維持するも出版業は衰退の顛末

2018-12-21 10:33:19 | 読書ノート
高須次郎『出版の崩壊とアマゾン:出版再販制度〈四〇年〉の攻防』論創社, 2018.

  日本における書籍の定価販売を巡る攻防記。アマゾンの話「だけ」の内容ではない。著者は緑風出版社長で、同社はアマゾンとは取引停止をしているとのこと。また、数年前まで日本出版者協議会の会長も務めていた人物である。日本出版者協議会というのは、2012年に改名するまで出版流通対策協議会(流対協)と名乗っていた、マイナー出版社を会員とする団体である。その設立は1978年であり、その目的は再販価格制を維持することであった1)。同じく出版社を会員とする団体に日本書籍出版協会(書協)があるが、そちらのほうに著名な出版社が加盟しており、規模も大きい。

  全体の1/3は、1990年代の再販価格制の維持をめぐる公正取引委員会と出版界とのやりとりである。1990年代初頭の日米貿構造協議とそれを受けた規制緩和の雰囲気の中で、再販価格制の撤廃が議題にあがり、公正取引委員会が前のめりになる。しかし、出版関係者らが猛反対したことで再販価格制の維持が続くことになったという。続く1/3は、小売書店のポイントカード問題である。これは実質的に書籍の値引き販売を可能にしてしまう。小売書店間の公平のためにポイントカード廃止に向けて出版関係者は努力したのだが、ポイントカードを認める公正取引委員会の介入によって水泡に帰してしまう。こちらは敗北だった。

  最後の1/3でようやくアマゾンが登場する。10%におよぶポイントサービスはこれまでになかった値引き規模である。Amazon.co.jpで購入した商品の売り主は米シアトルに本社を持つAmazon.com Int'l Sales, Inc.であり、日本国内でモノをやり取りしているのに「輸入」していることになっているという。 こうしたトリックを使って、日本に消費税も法人税も払っていない(らしい)。なお、アマゾン日本法人なるものもあるが、商品の管理と配送を委託されているだけで売り主ではないという立場であり、その範囲で一応法人税を払っている。2014年に11億円程度と納税したとのことで、大手小売と比べてかなり少額である。

  2017年にアマゾンは、取次を介さず出版社との直取引を始める。日販を使っていたら、欠品やら補充の遅れやらで損失が発生したというのが理由である。直取引の場合、出版社はアマゾンが指定する倉庫に商品を納める。出版社の取り分は定価に対して60%ということになっているのが、送料やら返品やら倉庫使用料やらで実質50%程度になると見積もられている。とはいえこの試みは成功したようで、アマゾンの日本での書籍販売の売上の45%は直取引商品だと推計されている。

  以上がその内容である。全体としては細々とした話が続き、このテーマに興味の無い人にはお勧めしない。しかし、ポイントサービス問題など知らなかったし、アマゾンの契約についても詳細で、個人的には非常に有益だった。いちおう、著者は現状の枠組みを保ったままでの解決策を提示しているが、非常にささやかなもので、パイを奪い合う立場にある国内出版業者は足並みを揃えることはできないだろう。

  行事が重なって出席できなかったが、第104回図書館大会の出版流通委員として分科会2)を企画したときは、アマゾンと日本の小売書店の競争条件の不公平が念頭にあった(当日はもっと出版流通一般の話になったようだ)。日本の小売書店には足枷がはめられているのに、アマゾンは租税回避によって資金的余力ができ、いろいろ仕掛けることができる。では、再販制をやめればいいのだろうか。このあたりは微妙なところで、1990年代半ばに再販制を止めた英国を参考にすると、出版社の倒産、価格の上昇、流通点数の減少は覚悟しなければならないところだ。というわけで、対案なし。


1) 出版協とは / 日本出版者協議会HP
  https://shuppankyo.wixsite.com/shuppankyo/blank-17

2) 第11分科会出版流通 / 第104回全国図書館大会HP
  http://jla-conf.info/104th_tokyo/subcommittee/section11
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サウンド的には国籍不明だがとりあえずMPBというほかない

2018-12-17 20:25:38 | 音盤ノート
Antonio Loureiro "Livre" NRT, 2018.

  MPB。ブラジルの宅録シンガーソングライター、アントニオ・ロウレイロ4年ぶりのソロ作。前作はライブ録音だったから、スタジオ録音としては6年ぶりということになる(参考)。全9曲で40分ほどの再生時間で、Gilberto Gilのカバー以外はオリジナル曲である。CDが出るのは日本だけで、他の国はストリーミングがダウンロード販売の模様。

  おおかた前々作の"So"と同じ路線を踏襲している。フュージョンっぽい演奏と凝った曲構成でちっともブラジルっぽくないのだが、ローレイロの声域高めでゆったりとした男性ボーカルがのると「ちょっとだけイヴァン・リンスっぽい」という錯覚が生まれるマジックである。本作では、打楽器系の電子音がまぶされているのが新機軸であるが、違和感なく消化されていてさすがである。

  本人による多重録音部分は大きな割合を占めるが、すべての曲で他の人物もまた演奏に加わっている。有名どころだとAndre MehmariとKurt Rosenwinkelが一曲ずつ、無名ながら注目の若手Frederico HeliodoroとPedro Martinezがほとんどの曲に参加している。Knowerという米国のデュオの片割れである女性Genevieve Artadiがボーカルを取る曲もある。

  クオリティの高い作品であることは間違いない。だが、緻密すぎて息詰まるという感覚も残る。いちおう全体を短くまとめたおかげでぎりぎり気持ちよく聴けるようになっているが。せっかくのスケールの大きさを相殺してしまいかねないこの「やり過ぎ」感をどう料理してゆくかは今後の課題だと思う。
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日本の長期停滞の主要因たる生産性をめぐって

2018-12-14 09:57:45 | 読書ノート
宮川努『生産性とは何か:日本経済の活力を問いなおす』ちくま新書, 筑摩書房, 2018.

  生産性概念を使って日本経済の現況について考察するという内容である。落ち着いた説明が展開されており論争的ではないものの、全体としてはアベノミクスが金融政策一辺倒であることへの批判となっている。生産性改善のための改革を進めることも必要だ、と。いわゆる「構造改革論」である。著者は学習院大学の経済学部教授である。

  まずは生産性概念の定義と計測方法である。産出量または付加価値を分子として、生産要素の投入量を分母として割ったものが生産性となる。生産要素とは労働、資本、中間投入物をさす。特に労働生産性が論点となる。産業別にみると日本のサービス業は米国のそれと比べて労働生産性が低いこと、また普及したICT技術の効果を取り込んで生産性を計測することは難しいことなどが論じられる。では生産性向上の要因は何か。まず考えられるのが「新技術」であり、それを生み出すための研究開発への投資が重要となる。次に人材への投資(off the job trainingが想定されている)であるが、これは他の先進国と比べて日本は低い水準にあるという。

  金融政策は短期の景気維持を可能にするにすぎない。長期的には生産性が改善されないならば日本は経済の停滞から抜け出せない。では日本政府はどうしたらいいのか。その処方箋を大雑把にまとめると、生産性の高い企業に資金や人材が供給されるようにするための、投資に関する規制緩和や労働規制改革である。政府は市場への介入を控えつつ、長期的なヴィジョンを示せともいう。

  方向性はわかる。だが、本書でしばしば言及されているポール・クルーグマンは、デフレ期に構造改革なんかするとさらにデフレが酷くなるからやめておけ(参考)と述べていた。就業機会が減れば、人的資本を形成する機会がもっと失われる可能性が高いからだ。この点はどう考えられているのだろうか。あと、欧米で盛んだというoff the job trainingの中身について知りたいとも思った。短期の研修でないとすれば、英語塾とかパソコン塾とかなのか?それで労働生産性は上昇するものなのだろうか。
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懇切丁寧な解説のpython入門書新書版

2018-12-09 21:04:28 | 読書ノート
立山秀利『入門者のPython:プログラムを作りながら基本を学ぶ』ブルーバックス, 講談社, 2019.

  プログラミング言語Pythonの入門書。プログラミング本の領域では、プログラミングの習熟者に第二の言語を新たに習得させるという意味での「入門書」が溢れているので気をつけたほうがいい(僕もかつてオライリー本で痛い目にあった)。しかし、本書は正真正銘の初心者向けの内容であり、説明は懇切丁寧でくどいくらいである。2010年頃は辻真悟『Pythonスタートブック』(当時は2.0系統対応)と柴田淳『みんなのPython』(当時は第3版)ぐらいしかPythonのリアル初心者向け書籍はなかったのだが、2016年あたりからそういうのが大量に発行されるようになった。本書はその中で薄くて安く、手に取りやすい判型である。

  作例となるプログラムは三つある。最初の作例は、写真ファイルのフォルダへの振り分けである。これはループと条件分岐を覚えさせるもので、全体の3/4の分量を割いて解説されている。残りの1/4で、スクレイピングの作例と簡単な統計処理の作例の二つを学習する。前者に併せてエラー処理を学習できる。一方で、スクレイピングも統計も「こんな使い方ができますよ」ということを示す以上の内容ではない。細かい話はほどほどにして、if文、for文、例外処理という基本がマスターできて、かつpythonの主要な用途の一端を垣間見ることができるというのが要所なのだろう。ゲームとかを作らされるよりはためになるし、初心者向の興味を引くようにうまく構成されていると思う。

  最近ではpythonの開発環境としてanacondaを使うのが主流らしい。本書でもそう勧められる。しかし、自分はたまにデータの整形のためにプログラムを組むという初級レベルの日曜プログラマーである。大げさな開発環境は不要であり、エディタとコマンドプロンプトで十分である考え、anacondaをインストールしなかった。そうしたら、作例の二つめと三つめはモジュールをダウンロードしてパスを設定するという少々面倒くさい作業が必要になった。まあ、大したことではないとはいえ、まったくの初心者には手間かもしれない。なので、anacondaを指示通り準備しておくにこしたことはないだろう。
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細かいところに深入りしないで音楽を聴かせるロック映画

2018-12-05 23:19:10 | 映像ノート
映画『ボヘミアン・ラプソディ』20世紀フォックス, 2018.

  英国バンドのクイーンの、というよりそのリードシンガーだったフレディ・マーキュリーの伝記映画である。ロキノンでパンク~ニューウェーヴ系の趣味を叩き込まれた僕としては、クイーンはオールド・ウェイブに属する興味の湧かないバンドであった(まあ今となっては無意味な括りだけれども)。だが、妻が行きたがっていたので一緒に映画館で見ることにした。

  1970年のバンドの結成から1985年までのライブ・エイドまでというのがそのストーリー。マーキュリーのインドでの少年時代や、エイズ闘病時代はナシ。ブライアン・メイほか他のメンバーのプライバシーについて深く入りこむこともない。バンドとしての音楽上の思考錯誤と人間関係、同時期のマーキュリーの私生活を描く内容となっている。ただし、感情のメリハリはあるものの、じっくり見せるわけでもない。音楽を聴かせるためのつなぎのような扱いである。劇中では誰もが知っている有名曲が次々と繰り出されるので盛り上がる。

  今時の映画だなと思ったのは、インド系英国人であることが強調されているところである。当時の英語圏における大衆音楽界隈で、白人でも黒人でもない人種的アイデンティティというのは居場所がなかった。マーキュリー本人も自身のエスニック・アイデンティティを誇示してみせたことは無いと思う。しかし、この映画ではその家族的出自と父親との確執が主人公の孤独を説明する一つの原因として扱われている。

  一方で、同性愛者(正確にはバイセクシャル)であることをマスメディアに対して秘匿していたかのように描いているのはちょっと違和感が残った。というのは1980年代の英国で、もはやゲイであることはセールスに響くようなタブーではなかったからだ。Frankie Goes To HollywoodとかDead Or Aliveとか普通に売れていたし、ミュンヘンディスコのソロ作というのもわかりやすい記号だった(ジョルジオ・モロダーと組んだ"Love Kills"はエレポップ好きとしては見逃せない)。

  映画としては、スタジアムで大観衆に突き上げられる高揚感をうまく映像化できていたと評価したい。というか音楽の力かな。終わった後、映画にしたら面白いだろうロックバンドを考えてしまった。真っ先に思い浮かんだのはBadfingerだが、メンバーから自殺者二名というのは暗すぎるか。でも観たくならないだろうか。
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マッドさよりも真摯さを強く感じる

2018-12-01 16:26:13 | 読書ノート
トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』赤根洋子訳, 文藝春秋, 2012.

  自分自身を実験台にした科学者列伝であり、邦訳タイトルがうたう「歴史」とはかなり違う。著者はすでに引退した英国の海洋生物学者で、ダイビングの経験も豊富であるとのこと。原書はSmoking ears and screaming teeth : a celebration of scientific eccentricity and self-experimentation (Pegasus, 2011) である。2016年に邦訳文庫版が発行されている。

  全編を通じて英国式のユーモアを失わない。けれども、読み始めと読後の印象が少々異なる構成である。「はじめに」で"マッドサイエンティストの世界へようこそ"と導かれ、梅毒患者の膿を自分の性器にこすりつける医師の話で幕を開ける。以降、麻薬、ゲテモノ喰い、寄生虫、感染症などなどグロい人体実験話が続いてゆく。しかし中盤から、放射能、栄養素、血液型、毒ガス、水圧、気圧、重力などがトピックとなり、痛いし苦しい話ではあるものの不謹慎な印象は和らぐ。笑いを求めて読み始めたのに、途中から身を張った科学者を語る英雄譚となり、思わず目頭が熱くなってしまう。著者は科学者として犠牲者らを笑い者にはできなかったのだろう。

  このようにコンセプトの非一貫性が感じられるけれども、現在ある科学常識がいかに生み出されてきたかがわかって、大変ためになる内容である。似たような書籍に、レスリー・デンディとメル・ボーリングによる『自分の体で実験したい:命がけの科学者列伝』(紀伊國屋書店, 2007)があったが、そちらは中学生向けのようだ。本書は、一部トピックがかぶる『人間はどこまで耐えられるのか』ほど生理学的・医学的説明をくわしく展開していないので、軽く読めるという本であることは確かだ。
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