29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

静岡空港建設をめぐる謝罪騒ぎ

2008-11-30 22:06:48 | チラシの裏
 静岡空港が将来赤字を累積させることになるという予想があるが、おそらくそうなんだろう。

 それとは別の話だが、空港建設の不手際をめぐって、県知事が地権者に謝罪するのに「テレビカメラの前で」というのはよくわからない。相手は不特定多数ではないのだから、直接地権者の前で内々にすればいいと思うのだが。県は空港建設で余計な縮小+拡張工事で無駄銭を使っている。だから、その件で「納税してくれた県民に対して謝罪する」のにテレビカメラを用いるというのは筋が通っている。相手が多数だからだ。しかし、特定の個人に対して、本人を目前にせずカメラの前を通して謝るというのは何だ?

 僕は今年越してきたばかりの余所者なので、これまでの経緯を掴んでいない。また、政治の世界を知っているわけではないので、もしかしたらこういうのは普通にあるのかもしれない。よく知っている方がいたら是非教えていただきたい。


<追記>公開の場での謝罪は地権者の要求の一つなのね。しかし、地権者側にどういうメリットがあるのかはよくわからんままだ。まあ、話がこじれてしまったということなのだろう。
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妻と僕とDCPRG

2008-11-27 08:17:05 | 音盤ノート
Date Course Pentagon Royal Garden "Musical from Chaos" P-Vine, 2003

 このライブ盤と二枚目のスタジオアルバムを発表した年の秋、今は無き新宿リキッドルーム(恵比寿に移転したらしい)にDCPRGのライブを観に行ったことがある。

 この日の演奏はテンションが高かった。主幹の菊地成孔が客席に向けておしゃべりを始めようとしたら、客席の女性に「いいから早く次の曲をやって」と話を止めるようクレームが付けられたからだ。饒舌さに隠れて生身の姿をさらけださない印象のある彼だが、この日の「むかついたー」と怒りながらの指揮は、あまり見せることのない感情をさらけだしていた。

 僕は妻と一緒に観にいった。仕事帰りのため、サラリーマンとOL風の格好だったが、会場は完全にクラブのりだった。妻は、会場の不穏な空気を察したのか、演奏の途中、僕を置いて一人で帰ってしまった。(後で聞いたら「大音量・クラブ系の聴衆・タバコの煙の三点が嫌だった」とのこと)。そういうわけでこの日のステージはとても印象深い。

 このライブ二枚組は、結成時から2003年までの、ギターの大友良英在籍時の演奏を記録したものである。当時の僕の中で、大友良英は「ノイズ職人」というイメージがあった。なのでスピーカーから聞こえてくる、ちゃんとしたギターソロの旋律に耳を疑った記憶がある。バンドのアンサンブルも、最初のスタジオアルバム"Report from Iron Mountain" (P-Vine 2001)ほど神経質ではなく、次のスタジオアルバム"Structure et Force" (P-Vine 2003)ほど整理され過ぎていない。骨太さと混沌が適度なバランスの演奏となっている。

 いつの間にかこのバンドは解散していたそうで、もったいないなあ。
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新書だけど読むのに苦労した

2008-11-26 09:11:26 | 読書ノート
小野善康『不況のメカニズム:ケインズ『一般理論』から新たな「不況動学」へ』中公新書, 中央公論, 2007.

 昨年の話題作だが、いまさら読んだ。といっても、不況に関する普遍的な理論構築を目指したもので、時宜とは無関係に読める。内容は、ケインズ理論の間違いを正し、需要不足に基づいて展開される経済のメカニズムをすっきりと説明するよう試みるものである。経済学素人の僕にはその当否を判定できないが、専門家の評(外部リンク:A)を読む限りそれは上手くいっているのだろう。

 僕が読んだこの著者の書籍はこれで三冊目で、岩波新書になっている二冊1)2)を10年くらい前に読んでいる。特に『景気と経済政策』の方は、「公共事業を肯定する主張が現われた」として、当時論争をまきおこしていた記憶がある(外部リンク:B, C)。この本のスタンスも当時と変わっていないが、今度は論敵が依拠する経済学(=新古典派)を超える(修正する?)枠組みを提示する形で説明に挑んでいる。

 とはいえ「政府がよい公共事業を選択できるのか」という昔からの批判はこの本でも残されたままである。だがそれに答を出すことは、不況に関する主流とは異なる体系の構築という大仕事をやってのけたこの著者の領分ではないのだと思う。(「あまり期待できないが、できる可能性もないわけではない」という程度のことは書いてある。p.205-209あたり)。

------

1)小野善康『景気と経済政策』岩波新書, 岩波書店, 1998.
2)小野善康『景気と国際金融』岩波新書, 岩波書店, 2000.
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中年男女による30人31脚

2008-11-22 07:40:57 | 音盤ノート
渋さ知らズ“渋旗”地底レコード, 2002.

 今年12月、静岡に渋さ知らズが来るらしい。久しぶりなので観に行こうと思っているのだが、ためらわせる要素もある。まずメンバーが七人だけ。大編成+ダンサーで観たいよなあ。あと、会場が静岡のブルーノート。いや、この会場についてよく知らないのだけど、渋さ知らズと洒落たジャズクラブ(たぶん)は合わないという気がする。

 僕は三度彼らを目撃したことがある。最初は江古田BUDDYで、そのときは大編成で、聴く方がクタクタになるほどパワフルかつ長い演奏だった。あと、神田のディクスユニオンで、新作の宣伝のために小編成で演奏する姿を見た。まるでチンドン屋だった。三つ目は、横浜の野外のジャズフェスティバルで、大編成だった。このときは、子連れの知人が遠巻きに演奏風景を眺めていたが、ジミヘンの曲"Little Wing"が始まるや客席の最前列目指して駆け出していき、子ども(小学生ぐらい)が置き去りにされているのが印象深かった。僕が金を払ったのは江古田の一回だけで、あとはタダ見させてもらっている。

 怠惰なファンなので、録音は2004年の『渋星』までしか把握していないのだが、それ以前のアルバムで気に入っているのは2002年の『渋旗』である。音圧勝負で盛り上げる点はファーストから変わっていないが、このアルバムは「軽い」のが特徴である。テンポの早い曲が多いからだろう。重い図体で走り回っているかのような、メタボリックな体でありながら軽快という印象をもたらす。女声付きの“諸行でムーチョ”は馬鹿馬鹿しい歌詞で、勝井祐二や芳垣安洋、渋谷毅といった日本を代表する音楽家をわざわざ従えて歌うものかというクオリティだが、それがまたよろしい。

 この前後の『渋龍』『渋星』はかなりヘヴィだ。『渋龍』は別の意味で優れたアルバムだが、『渋星』はいかがわしさが減退し、まっとうなフリージャズのような感じがあるため、あまり聴いていない。この後、僕の個人的事情で聞かなくなってしまったが、まだ元気に活動しているようで喜ばしい。二度タダで観せてもらった負い目があるので、今度はお金を払って観ようと思っているのだが…(最初の段落に戻る)
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歴史書というより歴史を見る視点についての本

2008-11-21 09:27:31 | 読書ノート
E.L.ジョーンズ『経済成長の世界史』天野雅敏, 重富公生, 小瀬一, 北原聡訳, 名古屋大学出版会, 2007.

 いわゆる比較史ということになるが、前著『ヨーロッパの奇跡』1)とよく似た範囲──ヨーロッパと中国、インド、イスラム──を扱っている。新たに検討範囲に加えられたのが日本である。ただ、前著より思弁的というか、方法の妥当性、概念の説明、他の議論の検討に多くが費やされている。それは採り上げている地域や時代の十分なデータが無いためである(図表は一つしか無い)。実証性にも十分な配慮が見られる『ヨーロッパの奇跡』と比べれば、新たな視角を提起するための議論という性格が強い。

 著者の議論はこうだ。経済成長には二つある。一つは、全体としては拡大するが、人口も同程度に増加するために平均所得の向上が無いもの。もう一つは、人口の増加以上に経済が早く拡大し、平均所得の向上があるもの。前者を外包的(extensive)な、後者を内包的(intensive)な経済成長と呼ぶ。後者は工業化を伴わなくとも起こる。

 外包的成長は世界中どこにでもあった。人口の拡大はこれまで「停滞」していたと考えられたアジアにも普通に見られた。一方、内包的成長については、これまで産業革命後のイギリスに特有の現象と見られてきた。だが、工業化以前のヨーロッパや、宋代の中国、江戸時代の日本にも、この内包的成長が見られたという。

 すなわち、条件が整えば文化や宗教とは無関係に内包的成長は起こる。ではどのような条件が重要なのかというと、政治体制だという。帝国的支配形態は、公共投資に無関心で、体制維持のために民間の経済発展を芽をつむことになりがちだという。一方、小国家分立状態は、国家が外国との力関係を配慮するようになるため、国家は経済発展に貢献しようとし、国民から搾取しようとしなくなる。ヨーロッパと、江戸時代の幕藩体制は後者に適合するという見立てである。(宋代中国は後者に当てはまるのか?)

 ただ、そのような政治体制の違いがなぜ起こるのかは、この本を読んだだけでは分からない。環境と地理的位置に原因があると著者は見るのだが、そのあたりの説明は『ヨーロッパの奇跡』にある。というわけで、前著とセットで読むべきもの。

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1) E.L.ジョーンズ『ヨーロッパの奇跡』安元稔, 脇村孝平訳, 名古屋大学出版会, 2000.
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心臓に悪いこと

2008-11-20 14:06:23 | チラシの裏
 昨日、長い会議を終えた後、外で食事を済ませて帰宅して、かばんの中にフラッシュメモリが無いことに気付いた。職場に忘れてきたのだろうと思って今日の朝、職場中を探し回ったのだが、みつからない。

 ヤバい。あの中に学生の成績表ファイルが入っている。一瞬、頭を丸めた僕と学長が報道陣の前で謝罪する姿が脳裏をよぎった。個人情報もれに対する謝罪である。不安を覚えつつ、午前の講義に挑んだ。で、結局メモリは見つかった。会議で使ったノートパソコンの裏に落ちていた。ひと安心である。

 しかし、長過ぎる会議は良くない。疲れがミスを呼ぶ。会議は短く終えましょうよ、皆さん。
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ピアノトリオ演奏の完璧さの果てに…

2008-11-17 21:18:14 | 音盤ノート
Keith Jarrett Trio "Still Live" ECM, rec.1986

 静岡市呉服町のサンマルク・カフェに行くと店内BGMとしていつもかかっているのがこれ。店員の趣味なのだろうか? 内容はピアノ・トリオによる1986年のライブ録音二枚組で、"Autumn Leaves""My Funny Valentine"といったコテコテのスタンダード曲を、叙情性と緊張感を完璧にバランスさせて聴かせる。

 Keith Jarrett Trioはこの後現在に至るまでに活動を続け、傑作と呼びうる作品を何枚も残している。ただ、僕が気に行っているのは結成時(1983)からこの"Still Live"までの5枚のアルバムだけである。この時期の来日公演の演奏を収めた映像──1985年と1986年のもの──も素晴らしかった。

 実のところ、この五枚とこれ以降のアルバムの間にどのような違いがあるのかわからない。つい最近まで、これ以降のアルバムでは、三者のバランスが崩れて、Jarrettの演奏をPeacockとDeJohnettがあわてて追いかけているようなイメージを持っていた。だが、あらためて比較して聴いてみると、以前と以後でそんなに変わっていないような気もする。

 その後もJarrettの新作は聴き続けているが、以前ほどの喜びが無い。たぶん聴く方が変わってしまったためだろう。完璧な演奏も当たり前になれば飽きるということか?
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学生プロレス雑感

2008-11-14 10:03:39 | チラシの裏
 週末に僕の所属する短大で学園祭が行われた。ショックだったのは、女学生中心の学園祭では「学生プロレス」が無い!! ことだ。これを観ないと学園祭に来た気がしないのだが。残念だ。

 僕のイメージの「学生プロレス」は、メイン・イベントの裏で、筋肉とは無縁のガリガリ男子学生が、ひたすらプロレスごっこをするというものだ。観客はそのぎこちなさを笑って楽しむ。観る者もむさい野郎どもばかりで、女子学生はほとんどいない。

 学生に尋ねたら、そもそも「プロレスを観たことが無い」とのこと。ゴールデンタイムからプロレス放送が消えたのは今から20年以上前だから、そうなのだろう。元ネタを知らなければパロディ的な「学生プロレス」の面白さはわからないかもしれない。

 K1やプライドのような本気で戦う格闘技を見てきた後では、ショー的なプロレスの緩さは耐え難いかもしれない。今の男子学生でさえも楽しめるかどうか疑問だ。

 聞けば、僕の短大の隣の大学(共学なのに!!)の学園祭でも行われていないらしい。全国的にも学生プロレスは滅びつつあるのか?
 
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文字を読む脳内プロセスの解説と識字教育への適用について

2008-11-11 16:25:10 | 読書ノート
メアリアン・ウルフ『プルーストとイカ:読書は脳をどのように変えるのか』小松淳子訳, インターシフト, 2008.

 文字を読む際の脳の働き方について、専門家が一般向けにわかりやすく書いた書籍。文字といっても、漢字やカナへの言及はあるものの、基本はアルファベット、それも英語使用時を想定した説明が多い。脳は文字を読むように遺伝的にプログラムされているわけではないので、別の用途で作られた部位を繋ぎ合わせることで読字を可能にしているとのこと。アルファベットと漢字を読む時は使う脳の部位が異なるらしい。さらに読字障害についてなど、興味深いトピックが並ぶ。

 ただ、タイトルを見て分かるように、著者の文学趣味がやや冗長と感じられる部分もある(イカの話はあまり無いが)。最終章のインターネット検索批判も浅いもので終わっている(こういう議論をする場合はテレビやケータイ電話なども比較の枠に入れるべきだ)。一方で、読字障害の話は、僕も全然知らなかったので参考になった(読字障害は、普通の人と脳の配線が異なるために起こるらしい)。全体的な評価としては、読書に関心のある者には一読の価値があると言える。

 P.134に“ヴィクトリア・パーセル・ゲイツ”なる人による読み聞かせの研究について言及がある。「読み聞かせには効果がある」ということらしい。だが、名前だけの言及に留まり、なぜか参考文献リストに論文が挙げられていない。興味があるので探してみることにする。
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人格陶冶とは別の読書を訴える

2008-11-10 10:30:47 | 読書ノート
東郷雄二『打たれ強くなるための読書術』ちくま新書, 筑摩書房, 2008.

 人生に影響するような読書ではなく、複数の著作を比較しその主張の理非を判断するような「知的読書」について解説する書籍である。タイトルにある「打たれ強さ」とは、すぐに正解を求めず、判断をいったん留保する態度のことである。アドラーの読書論1)にもとづき、読書レベルの四段階論を展開している。

 最初の三章で「知的読書」の意義を説いている。著者は、日本の読書論は文学・古典指向で、人格形成が読書の目的として目指されがちであることを指摘する。しかし、これでは読書が青春時代までのものになってしまう。知識を得るために読むという場合もあり、それが大人の読み方である。しかし、著者は、時事的な本やハウツー本のような著作を読み、そこに書かれている知識を吸収するだけの読書も理想とはしない。自分の頭で考えるプロセスが欠けているからだ。そこで、「批判的に本を読む」ことが薦められることになる、

 以上の著者の主張には全面的に賛同したい。僕も、日本の教育での読書指導で、読解力や表現力の技能よりも人格形成が求められる風潮に懸念を抱いている。近年はやっとその偏向が理解されるようになってきたものの、まだ十分に学習指導に反映されているとは言えない。僕が司書資格課程で身に付けさせたいと考える読書も著者の主張するようなものである。だが、まったく訓練プログラムが無いのが実情である。

 第4章以下の構成に関して、どう評価するかは微妙である。読書レベルの四段階論を論じた、中心となるべき第8章が短すぎるからである。自分の頭で考えるという主張も「判断を留保する」という以上に進むことが無く、不満が残る。どのようなケースで著者の主張を受け入れていいのか? 論理構成や実証の度合い、レトリックなどについて論じることで、ある程度序列をつけられることを教えるべきではないだろうか? 様々な主張に対する判断の留保は、別の意味で自分の頭で考えることを阻害するだろう。

 とはいえ、新書のバランスと分量を考えれば、第8章の短さは理解できなくもない。読書に関する必要な論点はカバーされている。日本における読書で欠けているものを教えてくれるいい書籍である。

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1) M.J.アドラー;C.V.ドーレン『本を読む本』外山滋比古;槇未知子訳, 講談社学術文庫, 講談社, 1997.
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