29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

反体制を煽った体制が別の反体制によってやりこめられる

2017-05-30 16:19:43 | 読書ノート
スティーヴン・ウィット『誰が音楽をタダにした?:巨大産業をぶっ潰した男たち』関美和訳, 早川書房, 2016.

  著作権違反となる音楽ファイルをインターネットで配布する海賊集団と大衆音楽業界との攻防を描いたルポルタージュ。著者は1979年生まれの米国のジャーナリストで、20歳ぐらいの頃はナップスターから落とした無料の音楽ファイルでパソコンのハードディスクがいっぱいになっていたという。原書はHow music got free: The end of an industry, the turn of the century, and the patient zero of piracy (Viking, 2015.)である。

  今世紀初頭、ファイル共有ソフト・ナップスターを通じて、CDを元にしたと思われる違法な音楽ファイルがネットで流通するようになった。世間ではそうした音楽ファイルは一般の市民が罪の意識無くアップロードしているものと思われてきたが、どうもそうではないらしい。CDのプレス工場の勤務者やマスメディアおよび音楽業界人を内通者に持つ、組織的な海賊集団が存在していて、彼らが発売前のCDを入手してそれをアップロードしていたというのが実態であった。ただし、それは金銭を動機としているのではなく、ネット内で認知されるため・権威獲得のためだったらしい。ちなみに、海賊集団の逮捕時の罪状は今話題の「共謀罪」であり、こういうことにも使えるのね。

  対する音楽業界だが、最終的には法的な対応で海賊集団を摘発したものの、時すでに遅しで、一般リスナーは無料ダウンロードで音楽を聴くことに慣れてしまっていた。その後はiTunesやストーリミングに対応するようにはなったが、業界はかつての売上額を取り戻せていない。対応で出遅れたのは、映画業界のように自主規制に積極的でなかったために、政治家を味方につけることができなかったのが理由の一つらしい。1990年代、ユニバーサル社を筆頭に、ギャングを気取るラッパーらの反社会的な歌詞に何の対応もしなかったのが政治家らの不興を買ったとのこと。これらの話に加えて、mp3を開発した技術者の話が三つめのストーリーとなっている。

  著者は、業界側としては打つ手があまりなかったという見方であるが、まあそうだろう。結局、音楽業界が長年かけて育ててきたイデオロギーが皮肉な帰結をもたらしたとしか思えない。音楽業界はロックやヒップホップを通じて「反体制」を煽ってきた。それが世紀の変わり目になって、著作権を「体制」とみる反体制海賊集団にやられたというわけだ。2000年前後における、資本のコントロールを嫌い、フリーを至上とみなすような、インターネットの雰囲気が思い出される。黎明期のネットではヒッピー的な情報共有のユートピアが夢見られてきたのだが、その雰囲気は若い人にはわからないかもしれないな。
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飲料水の加工方法がアルコール分解酵素の遺伝に影響したと

2017-05-27 23:02:40 | 読書ノート
シャロン・モアレム, ジョナサン・プリンス『迷惑な進化:病気の遺伝子はどこから来たのか』矢野真千子訳, NHK出版, 2007.

  進化医学。現在の遺伝病のいくつかは、伝染病に対抗するための「適応」だったのではないか、と説く一般書籍である。著者のうち、モアレムは専門の医学研究者で、一方のプリンスはクリントン大統領のスピーチライターを務めたことのある文筆家である。モアレムの語り下ろしをプリンスが文章にしたのだと思われる。原書はSurvival of the sickest : A medical maverick discovers why we need disease (William Morrow, 2007.)のようだが、ペーパーバック版では副題がThe surprising connections between disease and longevityに変更されている。

  前半は面白い。著者本人も受け継いでいる鉄分を体にため込む遺伝子──鉄分の過剰な蓄積は臓器に害をもたらす──は、なぜ淘汰されなかったのか。それは中世に猛威をふるった伝染病・腺ペストの毒を弱めた有利な突然変異だったのではないかと、この遺伝子の普及地域から推論する。このほか糖尿病は氷河期に対する適応だとか、ソラマメ中毒はマラリアに抗する適応、皮膚の色とビタミン摂取のトレードオフ関係の存在、などがネタとなっている。また、アルコール分解酵素のあるなしは、汚染水対策の結果であり、ヨーロッパ人は発酵(ビール)で、東アジア人は煮沸(お茶)で対応してきたためだという。

  後半はエピジェネティクスだが、こちらは問題あり。挙げられている事例は、遺伝子の発現が環境の影響によって調整されるという当たり前の話にすぎない。こうした話をラマルク説の復権に、すなわち「獲得形質は遺伝する」という大風呂敷に仕立て上げてしまう。これは誤解だろう。説明もわかりにくい。最後の章の水生類人猿説の紹介は興味深いけれども。

  というわけで、前半の第四章まで読んで、最後の第八章を読むというのがおすすめ。10年前の本だが、今さらながら古書で安く手に入ったので読んでみた。読んでみて、発売時に本書のあまり良くない評判を知って読むのを控えたことを思い出した。
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量的研究のための調査や実験デザインを平易に解説する

2017-05-23 21:07:22 | 読書ノート
伊藤公一朗『データ分析の力:因果関係に迫る思考法』光文社新書, 光文社, 2017.

  計量経済学入門のさらに前段階での入門書。中室牧子の『「原因と結果」の経済学』と同様に、統計分析手法そのものではなく、実験や調査の設計を説く内容である。本書のほうが実際の研究成果に言及することが多く、分析事例も楽しめる。

  ランダム化比較試験がお薦めだとまず力説されるが、実施にはコストがかかることが多いという。それができないならば「自然実験」となる状況を見つけよ、ということで、RDデザイン、集積分析、パネルデータ分析が説明される。それらの説明のために、著者自身が行った日本およびカリフォルニアの電気料金価格の調査、オバマ前大統領選挙陣営のウェブサイトでの実験、医療費の自己負担率が患者数に与える影響の調査、自動車への補助金政策の効果などなどが紹介される。

  ただし、あまり統計になれていない人ならば、事例のいくつかを見て「価格が上がれば需要は減る。当たり前だろ」と言いたくなるだろう。次の点は本書であまり強調されていないが、メリットはその点の実証の意義ではなく、価格がどの程度変化すればどの程度需要が変化するのか、その程度がわかることである。文献紹介もあり、結果の解釈への注意も親切で、「使ってみよう」という気にさせる良書である。
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学歴を分断線とした米国格差社会論

2017-05-19 14:03:59 | 読書ノート
ロバート・D. パットナム『われらの子ども:米国における機会格差の拡大』柴内康文訳, 創元社, 2017.

  『孤独なボウリング』で知られるパットナムの新著。学歴を基準に、現代アメリカの階級分断線を描いてみるという試みである。統計データはあるにはあるが補助的なもので、メインはインタビューによる格差の描写である。原書はOur kids: The American dream in crisis (S&S, 2015)。

  インタビューの対象の多くは、1970年代から80年代あたりに大学または高校を卒業した親のいる家庭で、親と20歳前後の子どもそれぞれが、その子どもの養育環境について訊ねられている。掲載されているインタビュー数は10数件と少ないが、2年をかけて全米各地で行われた100を超える家庭のインタビューからの選りすぐりだとのこと。家庭、育児、学校、コミュニティを論点として、同一地域の高学歴(大卒)の親の家庭と低学歴(高卒)の親の家庭を対照させている。

  低学歴家庭のほうは、崩壊家庭(父親が収監されているなど)・暴力・ドラッグなど、日本人にはあまり馴染みがなくてその生態が興味を引くものの、イメージ通りというか、他の書籍や報道で伝えられることの範囲内である。意外なのは高学歴家庭の親のほう。定収のある家庭がなんとなく育児をやっている、というものでは全然ない。科学的裏付けのある最新の育児・教育方法を自ら学習し、安全な居住地を選び、大学進学に適切な学校を子どもに勧め、子どもがつまづいた際には知人のネットワークを使って専門的アドバイスを入手する、そういうものすごく時間と労力と知力を投入する作業である。長期計画を立てつつなにか機会がある毎に主体的に選択する。そうしないと前に進んでゆかないのだ。育児がビジネスに似た、気の抜けない長期プロジェクトのようだ。こういうのに耐えられない大人が大勢いて、学歴がその分断線になってしまうというのはなんとなくわかる。

  将来、格差が広がると日本もこうなるのだろうか。米国の場合、低学歴層の「落ちぶれ方」が酷いのだが、それは身近にドラッグと銃があるために犯罪に接近しやすいという理由があるのだと思う。こういうリスクが少ない分、日本は米国のような階級分断のフォードバックループにははまらないだろうとは予想する。しかし、一方で治安が崩壊しないならば、日本は格差に鈍感であり続けるかもしれない。
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ボツ作品と録り直し作品のカップリング聞き比べ

2017-05-16 23:35:25 | 音盤ノート
Josef K "The Only Fun In Town / Sorry For Laughing" LTM, 1990.

  ロック。カフカの『変身』からバンド名を採っているので「ヨーゼフ・ケイ」と読みたくなるが、「ジョセフ・ケイ」と読むのが正しいみたい。1979年から82年まで活動したスコットランドのバンドで、「ポストパンク」と分かったようなわからないようなカテゴリが与えられているが、ファンク要素のあるリズム隊に、カッティングを多用する二台のギターが高音でキンキン鳴り、Talking HeadsのDavid Byrne風のボーカル(曲によってはBauhausのPeter Murphy風)が加わるという演奏である。

  ネオアコ黎明期のレーベルとして知られるPostcardから1981年に発表されたアルバムが本作前半の"The Only Fun In Town"である。この前年にエジンバラでアルバム一枚分を録音したのだが、出来が気に入らず──音が整理されすぎているのがメンバーの気に入らなかったらしい──にボツにして、わざわざブリュッセルに行って二日で録り直したという。結果として、スタジオライブ盤のようなガレージ感溢れるラフな演奏となった。ガチャガチャうるさい攻撃的なサウンドだが、どこかクールで醒めた感覚も残る。自傷的になったGang of Fourという印象だ。

  後半の"Sorry For Laughing"はボツにされた作品のほうで、公式には解散後の1990年に発表されている。Gang of Fourに加えて、"Unknown Pleasures"期のJoy Divisionのテイストもある。確かに音は整理されてはいるが、一点突破で突っ走る"The Only Fun In Town"に比べて、こちらのほうがギターやリズムのアイデアが多彩であり、録音にも空間が感じられて奥行きがある。クオリティは高く、活動中に発表しなかったのがもったいないぐらい。けれども、冒頭を飾る'Fun N' Frenzy'とアルバムタイトル曲'Sorry For Laughing'の二つの代表曲は少々重くなってしまっており、"The Only Fun In Town"のヴァージョンに軍配が上がる。この点が気に食わなかったのだろうな。

  このカップリングは聞き比べができて面白い。バンドの美学はラフな方を選んだのか、などと思いながら。なお、本作品にはさらにシングル曲など3曲のボートラを付した全25曲盤がある。現時点で入手しやすい2014年のCrepuscule盤の収録は22曲であるが、リマスターされている。ボーカルのPaul Haigは、僕の世代では「売れないインディー系エレポップの人」というイメージだったが、ソロになる前はギターバンドなんかやっていたのね。このバンドのほうがソロ時代より全然良い。
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パンクのわかる英国在住保育士によるモリッシー論

2017-05-13 11:54:12 | 読書ノート
ブレイディみかこ『いまモリッシーを聴くということ』ele-king books, Pヴァイン,
2017.


  英国のロックシンガー、モリッシー論。アルバム評をしながらの論考である。現代英国事情のレポートにもなってはいるが、基本ファン向けだろう。なお僕は高校時代、モリッシー初来日時の名古屋公演を観に行き、ステージに駆け寄って彼の衣服を破ってきたという剛の者である(注:衣服をファンに引きちぎられるのは彼のパフォーマンスの一環だった)。その布きれは今でも大切にしまってある。傍から見れば阿呆かもしれないが、これは自慢だ。また、このブログでも「貧乏無職引きこもりを歌にする耽美なギターポップ」というタイトルで、The Smithsの七つのアルバムの紹介をしている。

  著者のブレイディみかこは、英国在住の日系人保育士で、00年代前半から本場英国からパンクとかニューウェーブ系の音楽記事を自身のブログ1)に挙げていたので、その界隈では有名だった。彼女のブログは、キャメロン政権期の財政緊縮政策がワーキングラスの生活を逼迫させてきたことも伝えており、この点においても最近の日本で注目されるようになった。日本の民進党とは異なった「緊縮財政に反対する"正しい"サヨク」として「経済のわかる人たち」から祭り上げられるようになったのだ。岩波書店やみすず書房から著書もでるようになって、彼女の日本での需要は増している。

  で、モリッシー論である。著者は、1980年代以降の先進国における格差拡大の趨勢の中、「負け組」の心情を一貫して歌にしてきたミュージシャンとして彼を高く評価する。当たり前とはいえ、歌詞が分析の中心で、インタビュー記事や自伝からの情報が少々となっている。音楽的な分析は少なく、彼の音楽的達成ではなく、言葉の面からわかる彼の立ち位置を評価の対象としている。モリッシーだからこれでいいんだろう。個人的には、"Vauxhall and I"(1994)以降はきちんと聴いていなかったこともあって、1990年代半ば以降の話は面白かった。

  本書に触発されてあらためて音を聴いてみたが、1990年代半ばからの音楽的なパワーダウンは否めないな。バンドサウンドになっておらず、カラオケみたいだ。今から聴く人は、1980年代の、The Smiths時代からソロ初期作品だけに接すればよいと思う。The Smiths時代の歌詞なんか、ネットで探せばけっこう邦訳が出てくる。

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1) The Brady Blog http://blog.livedoor.jp/mikako0607jp/
  
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正義と法をめぐる若手法哲学者二人の対論

2017-05-09 22:16:57 | 読書ノート
安藤馨, 大屋雄裕『法哲学と法哲学の対話』有斐閣, 2017.

  若手法学者、安藤馨大屋雄裕の共著。対談ではない。一つのテーマについて、まず片方が問題提起の論考を提示し、次にもう片方がそれを分析・検討する論考を記し、第三に該当テーマに詳しい第三者が二人の論考について行司のような立場で議論を整理し、最後に二人が1-3頁程度の短いコメントを残す、という構成である。この形式で6つの議論が繰り広げられる。初出は雑誌『法学教室』で、その連載をまとめた書籍となる。

  テーマとして、人間のみが持つ権利の正当性、主体についての妥当な認識、平等な分配、危険の事前抑制、平等さを測る基準の恣意性、憲法が実は最高法規ではないこと、これらが扱われている。二人とも当然と考えられている事柄をまず疑ってかかるけれども、結論が一致していることは多い。しかしながら、結論を導く理路が異なっていたり、提起された問題の重要性についての認識が異なっていたりする。これらの相違をお互いわざわざ拡大して言い立てており、意図して啓蒙的に論じようとしているのがわかる。ただし、けっこう難解な議論が続くので、一般向けとはいかない。二人がそれぞれのテーマについて下す結論自体よりも、その「論じ方」を吟味するべき内容である。

  素人の印象であるが、大屋が俎上に載せるテーマについては、個人的な興味もあって理解できた気がする。一方、安藤の立論はとてもエキセントリックであり、十分理解できたかどうか心もとない。なお二人とも法哲学者・井上達夫(参考 1/ 2)のお弟子さんだそうで。
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個々の戦闘で負けても強固な同盟があれば戦争に勝てる、と

2017-05-05 20:57:31 | 読書ノート
エドワード・ルトワック『中国4.0:暴発する中華帝国』奥山真司訳, 文春新書, 文藝春秋, 2016.
エドワード・ルトワック『戦争にチャンスを与えよ』奥山真司訳, 文春新書, 文藝春秋, 2017.

  二著とも日本の安全保障についてのインタビュー本。文章はインタビュアーの存在を隠しての「語り下ろし本」となっている。著者(?)のエドワード・ルトワックは、ルーマニア出身の在野の軍事研究家で、イスラエルや米国の軍のアドバイザーをやっているという人である。『エドワード・ルトワックの戦略論』(毎日新聞社, 原著は1987年)が代表作で、「逆説的論理」というのがキーコンセプトであるらしい。が未読。

  『中国4.0』は、タイトル通り対中国の国防論である。普通の国ならば国防方針の変更には30年以上かかるはずであるが、中国は2000年以降の15年程度で3度も方針を変えているという。中国政府には、そもそも意思決定方式や組織内の情報伝達能力に難があり、合理的な外交を期待できない。漢民族は歴史的にしばしば異民族の侵入を許しており、世間でイメージされているほど外交上手ではないという。日本に対して、外交的に中国を「封じ込め」ることを進めている。

  『戦争にチャンスを与えよ』はジョン・レノンの名曲'Give Peace A Chance'をもじったタイトルを持つ1999年の論文を下敷きとしたもの。元となる論文はユーゴ内戦をネタにしたもので、内戦に外国が介入することを批判し、戦争が続くに任せたほうが短期で損害も小さいと説く。このほか自身の思想、対中国・対北朝鮮の防衛、同盟で勝った徳川家康やビザンティン帝国への評価などを解説している。

  後者によれば、内戦に外国が介入して無理矢理和平をもたらすのは正しくないという。平和というのは、十分に戦闘が行われ、どちらかが疲れ切って敗北することによってもたらされる。外国による介入はこのプロセスを断ち切ってしまい、敗北するはずの側に余力と憎しみを残して、武力対立を長期化させることになる。NGOや国連は、難民を永続化させ、地域的不安定を固定化させるのでタチが悪い、というわけである。

  豊富な知識に裏打ちされていると推測する(最後の文化論を除く)が、新書の分量では著者が断定的に主張するところの根拠がよくわからず、素直に納得していいものかどうか迷ってしまう。外国の介入あるなしでの人命のコスト計算という、これまた不道徳なことを誰かやってくれれば、その主張の正しさがわかるのだろう。
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理性の進化論。「先のことを考える」のが重要である、と

2017-05-02 14:33:01 | 読書ノート
網谷祐一『理性の起源:賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ』河出ブックス, 河出書房, 2012.

  ヒトの能力に関する哲学的考察。「哲学的」といっても、認知科学や生物学での成果を参照ての、科学的知見をもとにした議論となっている。著者は東京農業大学の先生だが、勤務先となる学部は東京にはなく、北海道の網走にあるらしい。

  ヒトにおいて理性がなぜ備わったのか、そもそも理性とは何か、というのが本書で提示される問いである。「進化によって理性が発達した」と一応言えるとして、人間は理性の不足に見えるような馬鹿をしでかすこともあるし、進化の必要を超えるような「理性の過剰」──現代の科学など──を見せることもある。人間の思考はどうなっているのか?これに対して、直観による経済的な判断システムと、熟慮を求める高燃費な判断システムの二重過程説が紹介される。特に後者が重要であり、未来に備えてリハーサルでき、時間的に先にある収穫のために計画を立て・現在の消費を抑えて投資できることが、ヒトとその他の動物を分かつものだという。

  以上のように単純化してみたものの、きちんと機能する心的リハーサルには、シンボルを使ったり、他者の心を推測できたり、あるべき状態を実現しようとする意欲が付随したり、などなどの条件が付く。というわけで短い本ながらけっこう複雑な議論が展開されている。しかし複雑ながらケムにまかれるような感覚はなく、理性の進化を考えるための必要な情報が与えられており、読者の好奇心を満たすだろう。

  なお、ちょっとした疑問があった。本書において、心的リハーサルの能力の発達は、狩猟局面での獲物の動きの予想を例として、動物-人間間の関係から推論されている。しかし、獲物を追跡は直観=ヒューリスティクスで説明したほうが適切だろう。これよりも、人間間の心の読み合いのような、マキャベリ的知性仮説でアプローチしたほうがいいんじゃないかという気がする。
  
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