29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

欧州ポピュリズム運動の過去と現状

2017-01-30 16:41:53 | 読書ノート
水島治郎『ポピュリズムとは何か:民主主義の敵か、改革の希望か』中公新書, 中央公論新社, 2016.

  ポピュリズム史。そもそもは19世紀半ばの米国の第三政党「人民党」が起源で、経済発展で取り残された人々の支持を集めたという。それが20世紀半ばのラテンアメリカに広がって、今世紀になってヨーロッパを席巻し、英国のEU離脱、さらには発祥地の米国に戻ってトランプ現象を巻き起こしている。著者は『反転する福祉国家』などの著作のあるヨーロッパ政治史の研究者である。

  僕が学生だった1990年代には、ポピュリズムの本場と言えばラテンアメリカ──特にアルゼンチンのペロン──で、そもそも途上国のみにおきる現象であり、保護主義と再分配重視の経済政策で資本逃避がおきて、最終的に国の経済を破壊したというイメージだ。著者は、今でもベネズエラのポピュリズムはそういうものだという。だが、近年の欧州のそれはまた別の特徴を持つとのこと。労働者階級が支持基盤で、福祉の対象として彼らと競合する移民に批判的であることは知られていることだろう。その方針はナショナリスティックに見えるものの、移民排斥の理由が「イスラム教が性差別的でかつ政教分離を認めない」であるように、リベラリズムがその主張の根底にあるという。したがって、ポピュリズムは反デモクラシーでも極右でもなく、リベラルな民主主義の一つの帰結である、というのが著者の見立てである。ポピュリズムは、変化した有権者のニーズに合わせるよう既存政党の改革を促す結果もたらすこともあり、民主主義を活性化させる貢献もあったという。

  とはいえ懸念も交えての記述であり、肯定一辺倒ではない。その展望は楽天的でも悲観的でもなく、曖昧なところだが、それはポピュリズム政治家がもたらす成果次第なのだろう。本書は、日本ではあまり情報のないデンマーク、ベルギー、オランダ、スイスなどの小国の政治の動きに詳しい。支持者が存続する限り、目立つポピュリスト──例えばドナルド・トランプ──が一時的に舞台から消えても、しぶとくポピュリズム政党は生き続けるという事実をこれらの小国は示している。
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健康法それ自体よりもメカニズムの理解に

2017-01-27 22:43:42 | 読書ノート
奥田昌子『欧米人とはこんなに違った日本人の「体質」:科学的事実が教える正しいがん・生活習慣病予防』ブルーバックス, 講談社, 2016.

  日本人向けの予防医学。東アジア系あるいは日本人特有の遺伝子と食習慣にとって適切な健康法を説くというもの。白人に比べて、一部の日本人でアルコール分解酵素が欠如しているという話はよく知られているが、それと似たような話がたくさん扱われている。

  糖尿病、高血圧、動脈硬化と骨粗鬆症、胃がん、大腸がん、乳がんを採りあげ、病気発生のメカニズムを解説しつつ、白人・日系米国人・日本人との間の発生率の違いや経年変化を見ている。日本人の乳製品摂取にカルシウムを充填する効果はない、という話はどこかで聞いたことがある。内臓脂肪から悪い物質がでる、日本人の胃の形は欧米人と違う(一方で腸の長さが違うというのは間違い)、塩分取り過ぎを気にしすぎるのではなくカリウムを採るべき、というのは、はじめて知った。全体としてあれこれと「体によい・悪い」化学物質が挙げられてゆくが、まとめると次のようになる。「あまり脂質を採り過ぎず、野菜をたくさん食べること。魚や大豆(後者は女性のみ)は体に良い。煙草やお酒は控えましょう」。

  というわけで日本人専用の新たな健康法というオチには至らず、この点では目から鱗という感じではない。昔から言われていたことの正しさを再確認したという印象である。だが、その理由をきちんと理解できるというのが本書の魅力なんだろう。
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人間行動が予想通りに不合理ならば政府の出番なのか

2017-01-25 08:37:13 | 読書ノート
若松良樹『自由放任主義の乗り越え方:自由と合理性を問い直す』勁草書房, 2016.

  政治哲学。合理的経済人や行動経済学における「合理性」概念を検討し、単純な自由放任主義を批判しつつ一方でリバタリアン・パターナリズムも批判するという試み。前半の合理的経済人に対する批判は、それが実証によって支持されるものではないことをその否定の理由の一つとしている。だが、これは行動経済学による批判と同じで、すでによく知られた切り口だろう。

  本書で面白いのは中盤以降のリバタリアン・パターナリズム批判である。個人が自己利益を達成するための最適な選択をすることができないことがあるということは、政策的介入が必要なことなのか、と著者は問う。厚生を高める立場から、そして失敗した人を見捨てたりしない立場からは、YESと言いたくなるところだが、そう単純ではない。例えば「肥満」は回避されるべき失敗であったとしても、1.複数の目標があって肥満の優先度が低い場合──大学合格を目指して受験勉強をするべく夜中にジャンクフードで栄養を補填する等──、2.結果に不確実性がある場合──何をどの程度食べると肥満となるのかがはっきりしていない──、3.他の選択肢が不在である場合──近所にスーパーマーケットがないためにファストフードで食べざるをえない(実際に米国ではそのような地域があるらしい)──、これら三つのケースではその個人の行動に不合理の烙印を押すことはできないという。

  対して著者は、人間が限定合理的であることを肯定的に捉える。チェスのAIのようにあらゆる手を調べ尽くしてから選択する、というようなことは人間にはできないし、そんな時間もない。そうした認知的限界のあるなかで、(行動経済学においては認知エラーの原因とされる)「ヒューリスティクス」をもとに行動することは、それなりに満足のいく結果をもたらすことが多いと評価する。そして、上の三つのケースのような「最適な戦略」を低コストで発見できない場合において──そしてそのようなケースこそが通常の環境である──は、ヒューリスティクスの利用は正当化できるとする。とはいえ、本書の議論であらゆる面でのパターナリズム的介入を排したというわけではなく、専門家の判断の優位があり、かつ成功例の模倣が有効な戦略である環境ならば認められるとしている。

  以上。読むのに知識が必要であるし、丹念に論理を追う必要はあるものの、論点が巧みに整理されていて理解が難しいというほどではない。特に、よくある自由主義の立場からのリバタリアン・パターナリズム批判ではなく、限定合理主義というほとんど行動経済学と似たような立場からそれを評価してみせている点が非常に興味深いところである。
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教養は女性を隔離する装置でありパスポートでもある

2017-01-23 20:55:26 | 読書ノート
小平麻衣子『夢みる教養:文系女性のための知的生き方史』河出ブックス, 河出書房, 2016.

  日本の女性にとっての近代教養史。人格陶冶を理想とする「教養」は、女性にとっては職業キャリアと切り離された知的コンテンツとして消費されてきたこと、かつ社会によってそのように誘導されてきたと主張する。それは文学指向であるために実学的でないとして低評価を受け、また哲学風味のある旧制高校的教養に比べても軽くみられてきた。その一方で、それは女性にも発言できるという希望を与え、実際に女性のための表現の機会を作ってきた。と、教養に対して愛憎入り乱れるスタンスで著述されている。

  ただ大雑把な話としては、「地方+貧困層出身者(♂)が文学部に入学して頑張って勉強するのだが、遊んでいる他学部の連中に卒業後は所得においてもモテ度においても負ける」(超要約)ことを述べた竹内洋の『教養主義の没落』(中公新書)と似ていなくもない。これは他学部に対して相対的劣位にあった文学部男性が、小説家ワナビーの女性を相対的劣位に留めることで構造を模倣していたということではないだろうか。そう思うと著者の教養に対する両義的評価はちょっと甘い気がする。その種の「教養」に希望なんか持つな、と言いたくなる。

  とはいえ、この本は細部が面白い。太宰治が『女生徒』をネタを女性の日記からパクッて書き換えていたこと、川端康成の女性投稿の評価──素人っぽければぽいほど褒められ、一方でプロっぽいのはこき下ろされる──など、男性作家の無意識をあぶりだす分析はとても冴えている。それぞれ歪んだ振る舞いなのに、あまり悪気がなさそうに見えるのが頭を抱えたくなるところである。
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中の人による当世米国大学事情

2017-01-20 22:11:47 | 読書ノート
アキ・ロバーツ, 竹内洋 『アメリカの大学の裏側:「世界最高水準」は危機にあるのか? 』朝日新書, 朝日新聞出版, 2017.

  タイトル通りアメリカの大学の現状について伝えるレポート。全6章中の1-5章を執筆しているアキ・ロバーツは、現在ウィスコンシン大学ミルウォーキー校の准教授で、専門は犯罪学である。彼女は日本生まれであり、その父は教育社会学者の竹内洋。最後の6章を彼が書いている。扱われているトピックは、大学ランキング、採用と昇進、大学財政、学生の選抜、大卒者の社会的価値、日本の大学との比較である。

  米国の大学の学費は高いとは聞いていたが、私立四年制大学で「年間」の平均320万円、アイビーリーグだと500万円になるという。州立でも100万円ほど(ただし州外出身者はその2倍強)になる。それに合わせて教員の給与も上っているのかというとそうでもなくて、職階によって差はあるものの、おおよそ年収1000万円前後ぐらいとのこと。学費が高騰しているのは、管理業務が増えているから──例えば電子機器システムの管理や特殊な事情を持つ学生の対応──で、そのためのポストが増えたためだという。

  また、米国の大学は、業績主義が徹底されていない面もあり、教員の採用においても入学希望者の選抜においても情実が絡むことがしばしばあるとのこと。その一方で、不公平な扱いを受けるグループも生み出されて、大学批判の恰好の材料になっている、と。特に選抜における面接重視は、貧困層の応募者をはじくことになりがちだという。アファーマティブアクションもあるが、特定のエスニックグループか否かが基準であるために、そのグループの富裕層出身者ばかりが有利となっているという。ちなみにアジア系は優遇されないグループである。

  全体を読んでみて、どこの大学でも肯定的にみなす「多様性」というコンセプトが、能力主義の否定となり、不公平へな処遇への第一歩となっているように見えるのが示唆的であった。あと、米国でもテニュアを得たら研究しなくなるという人がそれなりいることを知った。僕の勤務先では(以下爆発音)。
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テレビの見方は子ども向け番組を通じて学習される

2017-01-18 22:23:44 | 読書ノート
村野井均『子どもはテレビをどう見るか:テレビ理解の心理学』勁草書房, 2016.

  メディア論。副題に「心理学」とあるが実験系ではなく、自由記述方式の学生アンケートからエピソードを拾って、子どもやお年寄りのテレビに対する理解(というか誤解)を材料にするもの。そうした誤解の存在によって、テレビ映像を理解することは訓練が必要だということ、そしてどうやって子どもが訓練されてゆくのか、を明らかにしている。統計にうるさい本ではなく、ですます調で書かれているので一般の人にも読みやすいだろう。

  幼い時は、テレビの中には人がいない、画面の向こうにいる人からは茶の間の視聴者のことは見えない、などのことを理解できない。では日本人はどうやってテレビ番組の見方を学習するのか。著者によれば、幼児向け番組や、CMの入る民放と入らないNHKの差異などを学習してゆくことによってだという。幼児向け番組にはカメラワークが少なく、時制の変化がない。すなわち、モンタージュや回想シーンがないので理解しやすい。しかし、子ども向けと思われる番組にも対象年齢があって、『サザエさん』のようなもう少し上の年齢以上を狙った作品の場合は盛んに回想シーンが入る。そうしたシーンは幼児には分かりにくいのだが、音やワイプという処理によってできるだけ時制を明瞭化しようとしているという。こうした製作者側が与えた符牒のほか、子ども同士での議論や、就学して知識を得ることによっても正しいテレビ視聴の仕方を身につけているようだという。

  例として挙げられている学生アンケートの回答は、真面目に書かれているのだが笑える。汗をかいているテレビ出演者に対して、茶の間で見ていたおばあちゃんが「お茶をだしてあげなさい」と述べるとか。昔NHK教育で放送されていた『できるかな』は当時の子どもを混乱させていたようで、姿を見せないナレーターの女性の声をノッポさんの声だと勘違いしていた人は多かったみたいだ。当時の僕も見ていたが、逆にゴン太くんがナレーターの声でしゃべっていて、ノッポさんがウゴウゴ言っているのだと思い込んでいた。挙げられている番組がわかるので、非常に理解しやすかった。
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体や世間体にとって良くないことは「良い」

2017-01-16 20:51:08 | 読書ノート
リチャード・スティーヴンズ『悪癖の科学:その隠れた効用をめぐる実験』藤井留美訳, 紀伊國屋書店, 2016.

  体に悪いことや下品な振る舞いなどの効用について検証したポピュラーサイエンス本。ただし、セックス、飲酒、悪態、スピード違反、恋愛、ストレス、退屈、臨死体験が扱われており、必ずしも「悪癖」に限られた内容ではない。原書はBlack sheep : The hidden benefits of being bad (John Murray Learning, 2015.)である。

  内容について一例だけ挙げる。学生にアンケートをとると、退屈なものの筆頭に「大学の講義」がくる。退屈のあまり配布物や教科書の余白にイラストを描きだす輩もあるが、これには集中力を引き戻す効用があるらしい。電話を通した単調な聞き取りテストをしたところ、何もしない被験者よりも、受話器を受けながらペンで塗り絵をしていた被験者のほうが点が良かったとのこと。ボーっとしている学生よりお絵かきしている学生のほうが講義での話を覚えている可能性が高いのか。また、悪態をつくことによって痛みへの耐性が高まるとのこと。痛い目にあったら、すぐに「クソッ」とか「畜生」とか言うことにしよう。なお、著者はこの悪態の研究でイグノーベル賞を貰っている。

  他の研究だが、スカイダイビング中に記憶力のテストをするとか、よく思いつくよな。この世には、一見くだらないように見えることを真剣に考えている科学者たちが存在する。このことに、個人的に勇気づけられた。
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イラク人質事件で日本政府は身代金を払ったはずだと

2017-01-12 21:25:19 | 読書ノート
ロレッタ・ナポリオーニ『人質の経済学』村井章子訳, 文藝春秋, 2016.

  崩壊国家における誘拐・難民ビジネスについてのジャーナリスティックな内容で、邦題に銘打つほど「経済学」してはいない。関係者からのインタビューに基づいて事情を説明するものである。著者はイタリア人ジャーナリストで、すでに『マオノミクス』(原書房, 2012)と『イスラム国』(文藝春秋, 2015)の邦訳がある。オリジナルはMerchants of men: How Jihadists and ISIS turned kidnapping and refugee trafficking into a multi-million dollar business (Seven Stories Press, 2016)である。

  9.11後の米国がドルによる資金洗浄を難しくしたため、犯罪者集団らはユーロを決済通貨としたという話からはじまる。当初は麻薬が彼らの第一の商品で、コロンビア─アフリカ西部─サハラ砂漠─マグレブを経由してヨーロッパに運ばれていた。しかし、一部ジハーディストが先進国の観光客を誘拐して身代金で大金をせしめることに成功し、誘拐ビジネスがイラク、アフガニスタン、ソマリア、シリアに広がっていったという。ソマリアでは、誘拐が海賊が地域の重要な収入源となり、トリクルダウン効果さえもたらしていた。しかし、観光客はそうした地域には来なくなり、たまの訪問者──ジャーナリストやNGO──側でも対策が進んで、誘拐は難しくなる(それでも無謀なジャーナリストのワナビーが拘束されることはある)。そこで次に現れたのが難民輸送ビジネスで、これまで築いた人脈をつかって組織的に大量に難民を運ぶことに成功したために、英国のEU離脱を原因の一つとなったとしている。

  日本の話も出ている。2004年にイラクで三人の日本人ボランティアが人質になり、解放された事件があった。あのとき政府は身代金は払っていないと説明していたが、「テロリストと交渉しない」という建前の手前、各国政府は決して認めることはない。だが、著者によれば、誘拐がビジネスとして成立している以上、政府は交渉したうえに当然金を支払っているとのことである。金払いが一番いいのはイタリア政府であるとのことだ。税金が犯罪者集団に支払われているわけである。著者いわく、プロのジャーナリストでも状況の見極めが難しいシリアなんかにわざわざ行って目立とうとしないようにと、ジャーナリスト志望者に釘を刺している。

  ただ、どうすればいいのかの展望は得られない。著者はこうした状況を造りだした先進国を批判するが、失敗国家を再植民地化して秩序と安定をもたらすというわけにもいかないだろう。一方で、放っておくというのも人道的ではない。ときおり出てくる著者の先進国批判は空回りしており、この点については期待すべきではないだろう。イスラム国の評価も高すぎる気がする。
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19世紀のマイナー作曲家の記録を求めての探索誌

2017-01-10 22:24:32 | 読書ノート
安田寛『バイエルの謎:日本文化になった教則本』音楽之友社, 2012.


  日本では定番のピアノ教則本『バイエル』。その作者の謎につつまれた生涯を明らかにしようと、音楽史家の著者がそのゆかりの地をまわって文献探しをするという探訪記である。残念ながら僕はピアノのレッスンとは縁の無いような階級の育ちであるため、著者の感動を共有できる知識も教養もない。だが、図書館情報学者としては図書館およびアーカイブの訪問記として楽しめた。なお2016年に新潮文庫版が発行されている。

  著者は、日本に輸入されたバイエルの英語初版、現地ドイツ語での初版、それらの発行を知らせる新刊目録、バイエルの戸籍や洗礼簿、などなどを求めて、米国の大学図書館やオーストリアの国立図書館、ドイツの小都市の音楽出版社の書庫や公立図書館、文書館を次々と訪ねてまわっている。数年にわたる調査の甲斐あって、著者はある程度のバイエルの生涯をイメージできるほどになる。その矢先にどんでん返しがある。グーグルによる過去記録の電子化によって、バイエルの詳細なバイオグラフィーが記された1863年の訃報記事がネットで簡単に手に入るようになっていたのだった。

  こうしたバイエルの人物情報探しのほか、バイエルが日本でなぜ広く受容されたのかについての考察や、バイエル教則本についての著者流の解釈、また調査を進める著者自身の心情や人間関係までも伝えており、複数の主題を持つ内容となっている。著者の歩みを辿って謎解きに付き合う楽しみを提供できるよう書かれているのである。僕のような人間にとっても面白い本なのだが、ピアノのお稽古をやるような中流家庭に育った人ならばもっと楽しめるんだろうなあ。
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復興運動からみた米国キリスト教史

2017-01-07 19:56:03 | 読書ノート
森本あんり『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』新潮選書, 新潮社, 2015.

  一昨年の話題作だが今さらながら読んでみた。内容は米国キリスト教のリバイバル史であって、直接「反知性主義」を扱うものではない。この概念に取り組んだ基本書籍、ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』が扱う領域のうち、その一部分である宗教に特化して詳しく語ったという趣きである。本書を購入した大宮のブックオフでも宗教書のコーナーに置かれていた。

  米国キリスト教史としては大変興味深く、日本人にはわかりにくいプロテスタントの会派──メソジストやらバプティストやら──について直観的に整理されておりわかりやすい。米国に会派は数あれど、教理には大して違いがなく(そもそもプロテスタントという出自のゆえに教会が特定の聖書解釈を独占できないという)、布教方法や信者の社会階層や居住地域が違うだけだという。伝道者のうち名が残るような者は、米国の広大な地域に散在する街から街へと行脚し、広場やホールに集まった聴衆を演説一丁で回心させる技量を持つ。米国ではそういうスター伝道者がときおり現われて、一般の下層労働者の支持を集めたというのが全体の話である。

  ところで、著者によれば、反知性主義というのは知性に反対しているのではなく、知性と結びついた権威に反対するものだということである。知識を権威づけるために持ち込まれるヒエラルヒ―こそが、キリスト教的な平等の観点から否定の対象となるというのである。ならば、反権威主義と言えばいいのになぜ反知性主義と言うのか、という点は疑問に感じたところ。出てくるスター伝道者像があまりにトランプ的なので、やはり知性に反対しているように見えてしまう。
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