29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

ジェットコースターのようにめまぐるしく変化する室内楽

2015-03-30 11:48:31 | 音盤ノート
Egberto Gismonti Group "Infância" ECM, 1991.

  ブラジル出身のピアニスト兼ギタリスト、エグベルト・ジスモンチをリーダーとした四重奏団。シンセとギター担当のNando CarneiroとベースのZeca Assumpçãoについては不明だが、チェロ担当のJacques Morelenbaumは晩年のアントニオ・カルロス・ジョビンや坂本龍一との共演があるので知っている人もいるかもしれない。どちらを演奏しても巧いジスモンチだが、本作ではピアノ演奏のほうが印象に残る。

  ジスモンチはEMI Odeonの録音ではプログレッシブ・ロックっぽいことをやっていたのだが、ECMでの初期作品では静謐な器楽演奏を録音してきた。本作は二つの路線を融合させ、山あり谷ありの複雑怪奇な楽曲を小人数編成のグループで優雅に演奏するというもの。収録された8曲すべて彼のオリジナルであるが、うちtrack 2, 4, 6(の前半)が変化の激しい曲である。多くの場合、楽器を弾く指がもつれそうな超高速フレーズが繰り出され、その後に聴き手はあらぬ方向に連れて行かれる。この種の凝り過ぎた曲はえてして重苦しくなりがちなのだが、本作に関しては最後まで軽やかで嬉々としており、そこがまた奇怪。楽しいが、聴いていて疲れるのも確か。それらの曲の間にある箸休め的なスローな曲(track 3, 5, 6(の後半))もまた叙情的でよろしい。残りのtrack 1, 7, 8はヘンテコなフレーズを用いるギター曲で、これまた印象に残る。

  面白いがしかしトゥーマッチなところもあり、ジスモンチ入門の最初一枚という感じではないな。初めての人にはチャーリー・ヘイデンとヤン・ガルバレクのトリオを勧める(参考)。なお室内楽編成のECM作はこのあと二作続くのだが、その後はオーケストラ曲に手をだす。個人的にはオーケストラ作品はさすがについていけなかった。
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法哲学の概説書だが、入門書ではない

2015-03-28 15:11:07 | 読書ノート
森村進『法哲学講義』筑摩選書, 筑摩書房, 2015.

  法哲学の入門書。著者にはリバタリアンとしての著作(参考)もあるが、本書ではその主張は控え目。歴史をたどるような記述ではなく、ケルゼン、ハート、ドウォーキンの三人の議論を詳細に検討し、正義論とメタ倫理学について解説を少し加えるという構成である。

  一橋大学の講義がもとになっているというが、少々レベルが高い。自然法と法実証主義の対立について読者はあらかじめわかっているとみなされているのか、前者の説明がほとんどない(対して後者の説明は詳細すぎる)。この点は戦略的にそうしているのかもしれないが、読む方にとっては方向不明のストーリーに入ってゆく感覚で、読み進めるのを迷ってしまうところである。著者は、「法」概念に対して多くの分析の手がかりを与えたハートを高く評価する。いわゆる法実証主義系の人である。一方、自然法系となるドウォーキンは法概念を裁判との関係に縛ろうとしており、視野狭窄であるという評価である。あと、功利主義は統治理論として英米では再評価されつつあるとのこと。著者のスタンスがはっきりしていて、その点は読みやすい工夫であるが、いきなり細かい論点に突き合わされているという錯覚に陥らなくもない。

  うーむバランス的にはどうなんだろうか。このあたりは僕の知識では判断できないが、初学者には敷居が高いことは確かだ。ドウォーキンはそんなに駄目かなあ。
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奨学金という名の学生ローンを返済した

2015-03-26 12:44:50 | チラシの裏
  今年はじめに、大学院生時代に借りていた日本育英会(現・学生支援機構)の奨学金を完済した。一応名称は「奨学金」であるが、返済義務があり、実質借金であることは周知のとおりである。その総額は、修士課程時代の200万円弱と博士課程時代の420万円強を合わせて計620万円ほどになる。毎月の3万円程度の返済を17年ほど続ければ完済になるのだが、お金が貯まってきたこともあって今年繰上げで全額返済することに決めた。返済開始から8年目にして晴れて重荷が無くなった。

  この話を他の教員にするとけっこう驚かれる。育英会の奨学金って大学の常勤の教員になれば返さなくていいんじゃないの?と。常勤教員として15年程度勤めれば借金がチャラになる、という条件については研究者を目指す大学院生ならばよく知っていることだろう。僕もそれを期待して、大学院を出た後しばらく非常勤講師稼業を続けていた。博士課程の満期退学後から常勤となるまでの間、支配猶予期間の制度というのがあって、手続きを踏めば返済開始を先送りできた。が、返済開始の延長にも上限もあって、当時の規定では確か7年間だった。僕もぎりぎり7年間それを利用したが、非常勤生活の8年目からは返済を始めなければならなかったのである。以降、毎月返済を続けて、今年初頭までに200万円は返していたと思う。

  返済開始の年は個人的にはいろいろあった時で、もう30代半ばになっていたけれど、大して業績もあげてないし、幼い子どもを抱えてることもあって、いつまでも年契約の仕事を続けられないだろうと、研究職をあきらめて別の仕事を探しはじめた時である。ありがたいことに、この話を聞いた恩師が静岡の短大の常勤の話を持ってきてくれて、翌年からそこに単身赴任することになり現在に至ったわけである。世の中には常勤を得るのが早くて奨学金を返さなくて済んでいるという大学教員がけっこうな数存在していて、彼らと比べると僕は失敗した部類に入る。だが、この職を続けられるという僥倖には感謝しなければならないと感じている。

  なお繰上げ返済すると、返済期間と額に合わせて、いくらか報奨金としてお金が戻ってくる。今回、420万円程度を繰上げ返済したところ、36万円の報奨金が返ってきた。当初報奨金は数万だろうと予想していたので、それを使って豪華なディナーでも家族で食べようと目論でいたところだった。しかし、思ったより高額だったので全額銀行に預けてしまった次第。

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対概念は「不合理な賢者」となるのか

2015-03-24 14:11:30 | 読書ノート
アマルティア・セン『合理的な愚か者:経済学=倫理学的探究』大庭健, 川本隆史訳, 勁草書房, 1989.

  社会選択理論を用いた経済学における厚生概念の批判。原書はChoice, Welfare and Measurement (1982)で、1960年代後半から70年代にかけて専門誌で発表された20本の論文が収められている。この邦訳は、その中から6本の論文を訳出したものである。パレート最適やアローの不可能性定理についての知識が読む上での前提となっており、一般向けではない。

  とはいえ、本書全体の主張はそんなに難しいというわけではない。最初の二本の論文は次のようなものだ。パレート原理に基づいた意思決定は、個人の自由を尊重した意思決定と両立しないケースがある。例えば、『チャタレイ夫人の恋人』を誰が読むかについての選択肢── a.謹厳家のAだけが読む、b.好色家のBだけが読む、c.誰も読まない──のうち、Aはc >a >b、Bはa >b >cという選好順序であったならば、二人を含む社会はどのように選択するのが正しいか。その説明に従えば、結局価値判断なしに正当な決定はできない、もっと正確に言えば「効用」だけを判断材料として正当な決定はできない、ということになる。ここまでの議論は鮮やかだ。

  中盤以降の論文において、上の問題の解決のために、著者は倫理的基準による選好順序付けを持ち出す。その基準を説明するべく、自己の利益を最大化する合理的経済人というモデルは間違っているとし、コミットメント概念を使って人間の利他性を止揚、それを前提に基本潜在能力を再分配の対象とする社会を考えましょうとように議論が展開される。個人的には、倫理的基準による選好順序付け自体には異論は無いが、潜在能力概念の内実に疑問が残った。また、合理的経済人を否定するにはその不合理性を否定すればいいだけで、利他性を理由にするのは飛躍だろう。ましてや、それを根拠に社会を設計しようとするとなると、ちょっと待ってと言いたくなる。

  とはいえ、価値判断を持ち込まない故にリベラルだと考えられてきたパレート的厚生について、実はそれがリベラリズムと両立しないのだと証明した前半の論文は、大きな意義を持っている。しかし、後半に出てくる、世間でよくもてはやされる概念である「潜在能力」などの話は、少なくとも本書においては説明不足である。
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古代からユーゴ紛争まで扱う世界戦争史、ただし入門には適さない

2015-03-20 13:50:11 | 読書ノート
ジョン・キーガン『戦略の歴史』遠藤利國訳, 中公文庫, 中央公論, 2015.

  戦争史。著者はイギリスの軍事史家で、原著は1993年刊のA History of Warfare。1997年に心交社から最初の邦訳が出ているが、この文庫版はそれを改訂したもの。邦題からは外交や長期的な作戦などを扱っているかのように誤解しそうになる。実際の中身は、未開の戦争から、ステップの騎馬民族、古代ギリシアとローマ、西洋の火力兵器までを通覧する世界戦争史であり、特に戦争の様式が文化に規定されているということが繰り返し強調される。

  著者の論敵はクラウゼヴィッツで、冒頭で戦争は政治の継続だとするような「合理的な選択肢としての戦争」という考え方を批判する。敵を殲滅してその土地を占領するのが最終目標となる戦争は、歴史を見れば普遍的と言えるようなものではない、と。以降は各論。イスラムでは信者間の戦争が嫌われたために傭兵的に使っていたトルコ系騎馬民族に国をのっとられることになった、敵を会戦で殺害し尽すような白兵戦は古代ギリシアが起源である、使用に訓練が必要な銃火器の導入が軍人を官僚的に変貌させ西欧の騎士的なスタイルを凋落させた、などなどが語られる。

  古さもある。未開社会の会戦は儀礼的で多くの死者の出るようなものではなかった、と語られるが、この点の強調は疑問あり。近年では会戦よりも奇襲攻撃による死亡率が高くて、そちらのほうが重要だという解釈のほうをよく目にする(参考)。全体として、文化による違いには納得できたし、クラウゼヴィッツに対する批判は成功している。しかしながら、その批判は大して意義があるようには見えない。著者の主張を受け入れずとも、普通の軍事史として読んで十分教養になる。

  あと、イギリス人らしく文章が晦渋である。個人的には、昨年中公文庫版が出たマクニールの『戦争の世界史』(参考)の方が読みやすいと思う。最新の解釈ならば、戦争の普遍的側面にも配慮のあるアザー・ガット『文明と戦争』(参考)のほうがためになる。
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女声とギターのアルゼンチン産フォーク・デュオ

2015-03-18 11:15:45 | 音盤ノート
Guadalupe Gomez & Quique Sinesi "Cancion Hacia Vos" Independiente, 2014.

  アコギに女性ボーカルのデュオ。いわゆるフォーク・ミュージックということになるが、アルゼンチン産というところがポイント。なお最後の曲だけ、弦楽四重奏をバックにした演奏となっている。

  キネ・シネシのオリジナル曲に、歌手のグアダルーペ・ゴメスが詞をつけて歌うという企画もので、ギターはシネシが弾いている。フォークではあるが、流麗なアルペジオがこれでもかと繰り出される一方、コードストロークはなし。いつものシネシの柔らかいギター音と甘美な旋律が聴ける。

  で、女性ボーカルは? 巧いけれど、個人的にはそんなに好きな声質ではなかった。低域から高域まで自在に操り、また透明感もある。だが、ちと周波数が高いというか、若々しすぎる。シネシの曲にはもう少し落ち着いた渋い声の方が合うと思う。まあ、これは好みの問題だろう。
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勤務校の書籍購買部が割引販売を止めます、だって

2015-03-16 12:16:26 | チラシの裏
  勤務校の購買部(といっても委託会社)からの一通の通知がきた。その内容を要約すると、これまで購買部では書籍を定価の一割引きで販売していたが、4月1日以降は値引きなしの定価販売をすることになったという。この変更の理由は明確に述べられていないけれども、どうも取次側の希望のようだ。購買部はe-honの荷受け先になっているからトーハンということになる。

  どういう経緯で諸大学の購買部が定価一割引の書籍販売をするようになったかは知らない。個人的には、定価販売を強制できるかわりに出版社は在庫のリスクを負うっていうのがスジだと考える。なので大学購買部の場合、教科書や注文書籍には限っては返品無し、すなわち委託制の枠外となるので、その場合は再販価格契約が外される、と勝手に解釈していたのだけれど、どうなんだろうか。再販制と委託制は必ずしもセットではないというのは歴史的にはそうなんだけれど、僕はセットで考えたくなる。委託制なしに再販価格を正当化するのは難しいと思うから。

  ただ、注文品や教科書以外の一般販売分も購買部では割引き価格だったりするのだが、それらは返品可能なのか。また割引分によって失われた利益は購買部、取次、出版社のどこが被るのか(上のロジックだと購買部が被らないとおかしいのだが)。このあたりの事情によって、割引販売が正当化できるかどうかが変わるだろう。

  それにしても、いろいろ疑問が湧きおこる。今回の件はうちの大学だけなのだろうか。また値引きを止めよと最初に言い出したのは出版社なのか?それともやはり取次?これも出版不況の影響なのか。
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容姿による扱いの違いは差別であると主張

2015-03-13 13:27:34 | 読書ノート
ダニエル・S.ハマーメッシュ『美貌格差:生まれつき不平等の経済学』望月衛訳, 東洋経済新報, 2015.

  美醜がもたらす経済上の得失を論じた一般向けの書籍。著者は米国の経済学者。原書はBeauty Pays: Why Attractive People Are More Successfulで、2011年の発行である。邦訳書は四六版の254頁という長さで短め。しかし、さらに文字フォントも大きくて、一ページ内の文字数がけっこう少ない。新書を読むようにすぐに読める。これで内容が濃ければ文句はないのだが…。

  個人的には説明を端折りすぎていると感じた。テーマに関する研究をいろいろ紹介してくれてはいるのだが、仮説だとか検証方法だとかを詳しく説明してくれていないことが多い。一般向け書籍だから省いたのだろうが、もう少し言葉を費やしてくれたほうが面白さが伝わるはずである。引っかかるところの少ないさらりとした書き方である。本書で明らかにされた事実が、だいたいそんなところだろうと誰もが予想する範囲に落ち着いているので、なおさらそう感じる。

  内容は、容姿によって就職機会や顧客の獲得、稼げる配偶者との結婚で格差がつくという話。その差は、計算によっては生涯で14万ドルになるという。また、女性よりも男性のほうが格差が大きいとも。最後は、容姿は生まれによるもので努力によってどうにもならないものであるのだから、障害や人種と同じように差別として法的に扱うべきだという。格差を示すデータよりも、容姿差別をどう矯正するかやその影響などを考察したこの8章が、個人的には興味深いところだった。
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耽美的であるべき音楽なのにそうなれなかった音楽

2015-03-11 13:06:02 | 音盤ノート
A.C. Marias ‎"One Of Our Girls (Has Gone Missing)" Mute, 1989.

  ロック。英国ニューウェーヴ末期にインダストリアル系のミュージシャンが女性ボーカルを配したアンビエント音楽にチャレンジした、という珍品。基本、ボーカルのAngela Conwayがメインのプロジェクトで、この人はWireのギタリストBruce Gilbertの奥さんなのか恋人なのかよくわからないが、1981年頃から共演があるようだ。本作もこの二人で曲を書いて演奏している。この他にPaul Kendall, Gareth Jones, John FryerといったDepeche Mode系列のプロデューサーの名が見られる。

  そのサウンドは、打込みドラム、薄いシンセ音、控え目なギターに、『ツイン・ピークス』の歌姫Julee Cruise風のボーカルがのるというもの。収録曲の大半はゆったりした牧歌的なもので、すっきりとして清涼ながら全体としていかにも地味な印象。アレンジも平板で、引っかかるところがないままアルバムが終わってしまう。こういうスタイルの場合、聴く方がもうちょい陶酔できるよう、ドリーミーかつ耽美的にサウンドを構築すべきだと感じる。Wireのように音楽様式にこだわらないバンドに所属していると、一つの音楽スタイルを十分掘り下げられないのがキャリア上の弱点となるという例である。

  以上のように特に良い作品というわけではないのだが、たまたま中古盤屋でCDをみつけたので採りあげてみた。ボーカルの声質は個人的には好きなほうなので、別の人と組んでもっとベロベロに耽溺できるような音楽を残してほしかったのだが、そういうわけにはいかなかったようで、この一作で消えてしまった。
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出版関係者による久々の図書館批判についてのノート・その2

2015-03-09 12:57:29 | 図書館・情報学
  文藝春秋社の『文學界』2015年4月号「「図書館」に異議あり!」特集に釣られてみた。図書館批判は『新潮45』2月号(参考)に続いて今年二つ目。ただし、特集記事は二本だけで、与那原恵のルポ"「民営化」の危険な罠"と、2月2日に紀伊國屋サザンシアターで開かれた日本文藝化協会主催のシンポジウム"公共図書館はほんとうに本の敵?:図書館・書店・作家・出版社が共生する「活字文化」の未来を考える"を書き起こしたものである。シンポジウムの司会は植村八潮、パネリストは根本彰、佐藤優、猪谷千香、林真理子、菊池明郎 (筑摩書房前会長) 、石井(新潮社常務取締役)である。

  テーマは『新潮45』より絞られているけれども、問題を適切に扱う切り口をみつけられないまま議論が終わっている、というのが一読した印象である。特集の冒頭で、書籍の販売冊数より公共図書館の貸出冊数の方が多い、という現状に対する出版社側の危機感が述べられている。ところが、記事では問題解決につながるような事象を扱うことができていない。例えば、ルポ記事やシンポジウムで、たびたび武雄市図書館がディスられ、伊万里市民図書館が持ち上げられる。僕がOPACを叩いた印象(参考)では、伊万里より武雄の方が複本が少なくて出版関係者にとって望ましいのでは?などと思ってしまう。誤解を避けるために加えておくと、ここでは両者の優劣について云々したいのではなく、指定管理者が問題であるとか運営に市民の参加があるので望ましいという図書館関係者の評価を、出版危機に関連する要因として出版関係者が採りあげるのはテーマからの脱線だということを指摘したいだけである。個別の図書館の運営が指定管理者であれ公務員であれ、全体としての図書館利用が増えれば出版社の利益が侵害される、と想定されているからこそこのテーマが成立しているのだから。せっかく専門家の根本彰が「図書館の評価が来館者数と貸出冊数であることが問題」と問題提起しているのに、記事ではどういう反応があったのかわからない。石井による、新刊に貸出猶予期間を設けるという、2000年の『文芸春秋』林望論文とあまり変わらない案のみが、図書館サービスにも書籍市場にも影響しそうな唯一の具体的な提案である。

  いずれにせよ、執筆者の多くが図書館に理解がありすぎるという感じで、センセーショナルなタイトルの割には穏当な内容となっている。それとも記事がそうなっているだけで、実際のシンポジウムは盛り上がったのだろうか。テーマと無関係に啓発的で面白い部分もあり(佐藤優の拘置所図書館の話とか)、一読する価値は無いとは言えないが、議論の深まりをあまり期待しすぎてもいけないというところだろう。
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