29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

ライヒ新録音

2008-04-30 09:06:32 | 音盤ノート
Steve Reich "Daniel Variations" Nonsuch 2008

 新曲は前作の"You Are (Variations)"と似た編成の曲。故人の書いた印象的なセンテンスにメロディを付けて歌わせ、それをアンサンブルの上にのっけるというスタイルである。"You Are"より重くて暗い。

 水準以上の作品であることは確かだけど、「"City Life"みたいなサンプリングをガンガン効かせた曲はもうやってくれないんだなあ」とか、「"Different Trains"あたりから、ミニマル音楽のイメージとは程遠いドラマチックな曲ばかり書くようになったなあ」とか、聴きながらいろいろ頭に浮かんできてしまう。

 併録の"Variations for Vibes, Pianos & Strings"は1970年代後半頃の作品スタイルをほうふつとさせる曲で懐かしい印象。気に入った。

 5月にアンサンブル・モデルンを連れて来日し、オペラシティで公演するそうだが、たぶん行けない。いや、もっと若ければ静岡市からでも駆けつけたと思うけど。聴いている僕の方が歳をとってしまった。
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「自由読書」(Free Voluntary Reading)について

2008-04-29 15:27:38 | 読書ノート
スティーヴン・クラッシェン『読書はパワー』長倉美恵子ほか訳, 金の星社, 1996.

 『反社会学講座』でも引用されていたこの本は、そもそも読書が語彙や読解力形成に役立つことを、さまざまな研究をレビューしながら明らかにしようとした本である。結論は、「自由読書」は効率的な能力育成方法だということだ。

 専門家の手になるこの著作の主張は、『ヤバい経済学』や『反社会学講座』よりは信用できるのかもしれない。だが、注意しなければならない点もある。ここで「読書によって獲得できる」とされている能力は、かなり初歩的なもののようだからである。

 本書で具体的に挙げられている研究例のほとんどは、読書によって語彙を豊富に獲得できることを証明するものである。「読書によって読解力の成績が伸びた」という研究にも言及されてはいるが、説明は詳しくない(引用元をあたれということか)。

「自由読書」は、文学作品だけでなく、漫画もライトノベルも許容する。だが、これらの読書経験が、近年騒がれているPISA調査レベルの読解力を保証するようには思えない。「自由読書」は語彙の形成に役立つかもしれないが、テキストから重要な情報がどれかを判断できる能力の獲得や、批判的読解が可能なようには見えない。実際、そのようなレベルの読解力についての記述は本書で充実していないのである。

 そういう次第で、文部科学省が是非成績を向上させたいと考えているPISAレベルの読解力が、はたして「自由読書」で形成されるかどうかについては、もう少し詳しい検証が必要だと思う。個人的には、情報リテラシー、あるいは論理的思考力や情報の分析力といった、高度な情報社会で求められる能力の形成には、単に物語文を読ませる以上のアプローチが必要ではないかと考えている。

 また、漫画やライトノベルでも、語彙の形成に役立つということは同意する。だが、軽読書の経験が高度な内容を持った書籍を読むことに結びつくことについて、著者ほど楽天的にはなれない(これは公共図書館の資料選択の世界で「自然向上論」と呼ばれてきた考えだ)。

 もちろん何も読まないよりは読んだほうがまし、というのはわかる。が、そうした関心を読書に向けるような「情報を獲得する意欲」こそ、遺伝または幼児期の環境にかかわる部分で、政策的に関与しづらいのではないかという気がしている。その点「自由読書」(Free Voluntary Reading)というのは誤解を招く表現だ。これだと、大人が書籍を揃えて待っていれば、子どもは自動的に読書に向かうみたいに聞こえる。自由なのは読書の対象の話で、時間の使い方については読書を強制するのであり、その点に選択の自由はない。こうした強制は、能力のばらつきを抑えるために最低限必要な政策なんだろう。

 ちょっとネガティヴな書き方になってしまったが、読書研究の基本文献であることは確かで、内容も保証できます。
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御幸町図書館

2008-04-28 10:23:57 | 図書館・情報学
 ビジネス支援で名高い、静岡市の御幸町図書館に行ってきた。感想をちょっとだけ述べる。

 蔵書に「これぞビジネス支援図書館!!」という印象は受けなかった。行政資料は充実していたけど、業界紙誌はあまり持ってないようで、シンクタンクのレポート類は全然無かった。どこの公共図書館のビジネス支援サービスもこれらの資料は買ってないと思う(といっても僕には2例ぐらいしかサンプルはありません)。一方で、僕の知る株屋のシンクタンクの資料室は、書店で買えるようなものはあまり持たず、これらの資料ばかり集めていた。シンクタンクのレポートは値段が高い上にグラフと数式を多用した衒学趣味のものが多くてとっつきにくい──その理由は訴訟リスクを最大限減らしつつ客に金融商品を買わせようと意図した文章だから──が、業界紙誌は広告だけでも役に立つと思うのだが。いやまあ、需要が無いというのか、コストパフォーマンスが悪いというのが最大の理由だということは予想できるんだけど。

 オンライン・データベースの方はかなり充実していて、しかもタダで使わせてくれるというのはありがたい。さっそく、日経テレコン21を使ってきた。契約のためか、データの転用の制限には苦心の後が見え、USBなどの媒体に保存できないようドライブに赤テープが貼られていた。それに印刷の制限もある。ただ、日経テレコン21のように本来「1ページいくら」で課金されるサービスが、料金を気にせず見放題というのはいいと思う。データなんかメモればいいし。今回、本来1件\350する人物情報数件と、1件\900する企業情報数件を見せてもらった。起業なんかしないけど、いいのかな?


 先入観を持って訪れたので、「ビジネス支援!!」という特徴が大々的にフィーチュアされているのかと思いきや、あくまでも公共図書館という佇まいだったのが意外だったな。以上。
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愛無き世界以降

2008-04-27 14:37:48 | 音盤ノート
 My Bloody Valentineが復活するらしい。具体的には、1.16年ぶりのライブ演奏、2.17年ぶりの新アルバム発表、3.過去録音のボックスセットの発売、の三つが今年中にあるというのだが・・・。

 これが全部実現すると考えているならば、甘い。全て実現しない可能性もある。僕は1988年の"Isn't Anything"以来の古参のファンだ。長い間、この種の情報にずっとだまされ続けてきた経験がある。狼が来た!!、という印象だ。

 1991年のアルバム"Loveless"以降、活動休止中のバンドの情報が邦語出版物に載ることは当然ながらほとんどなかった。代わりに、当時普及し始めたインターネットを使って色々調べたものだ。中にはメンバーへのインタビューもあった。それによれば「現在新作のレコーディング中」というのが1990年後半の状況だった。期待して待っていたが、そのまま20世紀が終わった。

 21世紀に入ってからは新作の話は消滅し、今度は「シングル曲とレア曲をまとめた編集盤が出る」という告知が二度なされた。ネット上の怪しげな情報ではない。最初の話は、ある音楽誌の広告として目にしたが、いつしか立ち消えになっていた。二度目の話は曲目まで発表され、大手輸入盤店で予約可能な段階まで進んだ。でも発売中止になった。

 2008年の4月現在まで、オリジナルアルバムも編集盤も発表されないままだ。増えたのは、海賊盤とシワの数だけ。音の悪い海賊録音盤を何枚もつかまされたおかげで、「サウンドボード録音」など、普通の音楽愛好家には意味不明な概念を分かるようにならなければならなかった。余計なことをさせるものだ。

 このような経験を積み重ねてきた古参のファンたちは、ひねくれた疑り深い人間にすっかり変わっていることだろう。そんな可哀想な人生を歩んできた人たちの静かな余生に、これまた強力な釣り針が放り込まれてきた!! 今回の話は、新作と編集盤に加えてライブ演奏付き!! まるで「ただの嘘には引っかからないだろうからもうちょっとすごい嘘を加えてみよう」と言わんばかりだ。シールズ様、だまされて打ちのめされるファンの姿をあなたはそんなに見たいのですか?

 いやいや、今回の話が嘘だと決まったわけではない。で結局、手はじめに今年の6月末に発売されるという「3.過去の録音のボックスセット」を予約してしまった。だが、たかがCDの予約にも、MBVのファンならば十分な精神衛生上の対策を練っておかなければならない。

 第一に、収録曲目はまだ公表されていないが、オリジナル盤と海賊盤で既に所有している曲以外の収録は無いだろう、とまず期待のハードルを下げておかなければならない。第二に、ボックスセットと告知されているが、もしかしたら告知通りの形態で発表されず、一枚もののベスト盤なんかに企画を縮小して発売されるかもしれない、という可能性も考慮しておく。第三に、そもそも発売されない、という「いつもの結果」を常に念頭に置いて毎日を過ごさなければならない。

 ここまでしてやっと、現物を目にするまでの、期待と不安が交錯するつらい待ちの時期をなんとかやり過ごせるようになる。

 お金を払ってくれる相手に、これほどまでに苦難と苦行を強いる客商売がかつてあっただろうか?罪深いにもほどがある。"Loveless"以来の新作が発表されたら、僕は即刻ファンを辞めるつもりでいる。しかし、いつ出るともわからない作品を待ったまま辞められない可能性がある、というのがこれまた悔しい。負けた。
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読書は読解力を形成するか?

2008-04-25 13:41:09 | 読書ノート
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス, 2004.

 読書と成績ネタでもう一題。本書の“第16回 それでも本を読みますか”で、成績と読書量の関係が調べられている。ちなみに文庫版がちくまから最近出版されたようだけど、そちらは読んでいない。

 その回で2000年のPISA調査の結果が言及されている。分析自体は、国立教育政策研究所の出版物1)に依存しているようだ。読書時間と読解力の成績との間の関係には次のような関係が認められるという。

“世界的な傾向として、読解力の成績と読書時間が比例するのは、一日二時間までということがわかりました。毎日二時間以上本を読んでいる生徒は、逆に成績が落ちています。”


 マッツァリーノは、これにアメリカでの調査の知見を加える2)。それによれば、テレビの場合でも、一日二時間までの間なら見る時間が長いほど成績は良くなるが、四時間を越えるとどんどん悪くなるという。
 読書とテレビの話を合わせて考えると、一日二時間以上何かに没頭すると、単に勉強時間が無くなって成績が悪くなるというわけだ。読書量と成績には直接の相関関係はないのだ、と。また、本も読まない、テレビも全然見ないような「世間に関心の無い」生徒も、その勉強意欲を推測すれば成績は推して知るべし。
 すなわち、本またはテレビなど媒介はなんであれ、知識・情報を取得することに意欲があり、一方で興味を二時間以内に抑えて、勉強時間を確保できる生徒は、成績が良いのである。

 これは「読書の量が読解力を形成するわけではない」という非常に大胆な主張に敷衍できる。一般に、読解力の成績が悪い児童・生徒に対して「もっと本を読め」というシンプルな対処法が提案されがちだ。国家レベルでも、PISA調査の結果の悪さから、学校図書館の充実のために予算を割いている(その使われ方が最近問題になったけど)。しかし、上の主張からは、成績を上げるためには、読むことよりも読解力形成のための修練を積んだ方が効果的であることが予想される。読書環境の充実よりも、教育プログラムを優先すべきなのだ。
 ただ、本書はシリアスな装いを廃したエンターテイメントの書であるので、この章の後半は「日本で本を読んでない層は子どもじゃなくて大人だよ」という別の話に流れて終わっている。読解力の形成について、もう少し考察を深めた話を読みたいところだ。

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1)国立教育政策研究所編『生きるための知識と技能:OECD生徒の学習到達度調査(PISA) 2000年調査国際結果報告書』ぎょうせい, 2002.
2)スティーヴン・クラッシェン『読書はパワー』長倉美恵子ほか訳, 金の星社, 1996.
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再び悪化

2008-04-22 15:42:50 | チラシの裏
以前から「家電が無い」と周りにアピールしてきた甲斐あって、テレビをもらえることになった。よりによってこの調子の悪いときに!!。15型くらいの小型テレビぐらい多少体調が悪くても3Fぐらいまで一人で運べるよ、と高をくくっていたのだが・・・ふたを開けてみれば、もらえるのは28型のブラウン管テレビ。でかすぎ。二人がかりで3階まで運ぶハメに。おかげで気管支炎はまた悪化した。
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フィンランドの読書教育

2008-04-21 10:25:54 | 読書ノート
福田誠治『競争やめたら学力世界一:フィンランド教育の成功』朝日選書, 朝日新聞, 2006.

 PISA調査で好成績を採ったおかげで、一躍世界中から注目を浴びたフィンランドの学校教育についてのレポート。

 教育思想としては「社会構成主義」を採用しており、学習者の主体性を重視する教育実践を行っている。この点は、前回の書評と対立する。米国の実証調査において、学習の主体性を重視する教育方法より、マニュアル的教育方法の方が高い評価を受けている。しかし、フィンランドのように、修士号を持つ「質の高い」教師によって指導されるならば、児童の興味に学習を任せてもかなりの教育成果が得られる、ということなのかもしれない。一方で米国の教員の社会的地位はそんなに高くないと聞くし、マニュアル化によって教師の質のバラつきを抑えた方が、教育レベルの底上げに効果があるんだろう。また、米国とフィンランドでは、計測されている「学力」が異なっているということもありうる。

 とはいえ、この本に対する多くの書評がすでに指摘しているように、東京の人口より少ない国をモデルに日本の教育制度を設計するのは難しいだろう、という読後感は避けられない。「質の高い」教員の育成と確保のためには教員養成と採用・質の維持の面で大改革が必要だろう(教員の組合から猛反発をくらうこと確実)。フィンランドの雇用事情は知らないが、人口の多い日本の方が職業の選択肢も多いだろうから、良い人材が学校教師の道を選んでくれるかどうかも不確かだ。今のところ、私立学校はともかく、現状の公立校で「教員の能力に成果が依存するような教育実践」を行うのはリスクが大きいように思える。

 p.170-181にかけて、フィンランドの図書館事情も紹介されていて興味深い。それによれば“人口56万人のヘルシンキ市には図書館が38あるのだが、人口で同規模の千葉県船橋市には10、大阪府東大阪市には6、鹿児島市には13(県立図書館を含む)である”(p.172)という。単に図書館が充実しているだけでなく、読書も盛んに行われているようだ。

 以前紹介した『ヤバい経済学』は「読書なんて関係ない。遺伝は大きいよ」という考えだった。フィンランドの2003年PISA調査での読解力の成績は世界一である。国によって成績が違うということは、訓練によってある程度読解力は向上するとことを示しているのではないか(願望!!)? フィンランド人が遺伝的に「読書によって読解力を伸ばしやすい」傾向を持つという可能性もあるけれども。いや、これにはもう少し細かい議論が必要だな。
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公立図書館における所有の利益と利用の利益(4)

2008-04-19 17:24:39 | 図書館・情報学
 これまでの主張をまとめると、次のようになる。

 住民が、公立図書館を所有するメリットと、利用するメリットは分けて考えるべきである。
なぜなら、
1.株式会社でも公共機関でも、機関の所有者としての受益と、消費者としての受益が一致しないことは普通である。
2.利用者としての受益が強調されると、利用頻度や蔵書における不平等がクローズアップされてしまう。

 以上。
 特に2の影響として、平等を求めるあまり、戦略的・集中的な資源配分を難しくし、どのような層にとっても不満足な図書館を生み出すと考えられる。貸出かレファレンスかという論争も、関係者の議論の中では後者が優勢だが、関係者以外の人々にどの程度アピールするものかは不明だ。サービスの利用者数で判定するとしたら、貸出に比べてレファレンスは圧倒的に不利だろう。

 で、どうしたらいいのか?残念ながら、革命的なアイデアというものを提出することはできないが、次のような議論を蓄積しておくべきだと思う。

 公立図書館を持つことで、マクロ経済へプラスの影響があること。誤解を招くかもしれないけれど、これはお金儲けの話をしろを言ってるわけじゃない。政治の運営あるいは企業統治における洗練、教育レベル、治安、もっと抽象的に住民の生活における満足だとか倫理の向上、言論の自由への貢献とかでもいいけれど、サービスによって直接得られる満足とは別のレベルで、図書館があることのメリットについて議論の筋道をつけておく必要がある。
 理想としては、数値で因果関係が証明できればいいが、それは難しいことかもしれない。それでも「図書館を持つことの利益」は、考えておくべきことである。
 これまで、その難しさ故に、カウント可能な「消費者としての利益」を図書館の存在理由として使用してきたのかもしれない。ただ、公共事業の政治経済学的分析が発展し、実際に政策的に採用される中で、「貸出かレファレンスか、どっちが住民の支持が多いか」を競っても、「そんなの市場にまかせて判定してもらえよ」と答えが返ってくるのがオチだ。サービスに対する支持に対して、税金の投入が決まるわけではないからだ。公立図書館は市場で提供できないサービスをすることが大前提としてある。
 レファレンスか貸出かの問題は、少数の利用しかないけれども社会的に重要であるサービスに資源配分することと、大多数にサービスするけれどもあまり生産的に見えない資源配分と、どっちがマクロ経済に影響するか、という形に議論を整理するべきだろう。もっと言えば、生産的な層に重点的に資源配分するか、全体の平均を上げるか、という議論になるだろう。別に二者択一でなくてもいい。それぞれのサービスをどのような比率で提供していくかどうか、を議論するがより好ましい。

 ところで、上で述べてきた議論はこれまでなされてこかったのか?この後、この点について検討してみたい。
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その後

2008-04-18 12:06:06 | チラシの裏
 水曜日朝に職場のそばにある病院にいった。二階建ての屋上に零戦の原寸大レプリカが飾ってるある病院で、入り口にも「零戦愛好会会員」との立て看板がある。一方で、入り口にあるべき「診療科名(内科とか小児科とか)」「診察時間」の情報が表示されていなくて、かなり異様な雰囲気だ。

 事前に電話をかけて内科があることを確かめ、恐る恐る訪れたのだが、待ち時間ゼロで、お医者さんも看護婦さんもフレンドリーで(大病院にありがちな「大量の患者を診なければならないゆえのサバサバ感」が無い)、なかなかいい病院だった。点滴を受けてから、午後の講義に出撃したよ。
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シックハウス?

2008-04-16 08:30:56 | チラシの裏
気管支炎になった。たぶん疲れのせいと、家の空気が悪いせい。職場ではひどくないんだけど、帰って寝るときゼーゼー言い出して死にそう。大通り沿いなので排ガスが原因なんだろうか?それとも横浜でしばらく使ってなかった布団のせい?。まだ引っ越して間もないので、夜間診療とかどこでやってるのかもわからない。そういうわけで、眠れてない。今から病院逝って来ます。
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