29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

破天荒で創造的なクリエイション、対してソニーは…

2019-06-30 14:17:42 | 音盤ノート
書籍 パオロ・ヒューイット『クリエイション・レコーズ物語』伊藤英嗣訳, 太田出版, 2003.
DVD『アップサイド・ダウン:クリエイション・レコーズ・ストーリー』ダニー・オコナー監督, キングレコード, 2012.


  1983年から1999年の間に存続した英国のレコードレーベル"Creation"についてのインタビュー書籍とドキュメンタリー映画。媒体カテゴリとしては「読書ノート」と「映像ノート」に該当する内容だが、音楽ネタなので「音盤ノート」に記すことにする。書籍の原書はAlan McGee & the story of Creation Records : this ecstasy romance cannot last (Mainstream, 2001)、映画の邦題は原題そのままで、英国での公開は2011年、日本での公開は2012年となっている。

  洋楽といっても1980年代から90年代にかけての英国インディーズのマニアックな話なので、映画・書籍ともに基礎知識がないとよくわからない内容だろう。レーベルに所属したJesus & Mary ChainやTeenage Fanclubを知ってますという程度では歯が立たない。パンク以降の英国大衆音楽史や、1990年前後の米国の英国インディーズバンド受容の事情(映画ではSireのセイモア・スタインがインタビューで登場する)、時折言及される固有名詞(Factroyのトニー・ウィルソンの名が時折挙げられる)、これらが分かってやっとCreationの独特の立ち位置を理解できるという代物である。

  そいうわけで万人にはお勧めできないのだが、次のような栄光と挫折の物語としての楽しみ方もできなくもない。「大都会ロンドンに出てきた田舎者アラン・マッギーが、レコード会社を立ち上げてそこそこ成功し、ドラッグとパーティ三昧の日々を送る。しかし、放漫経営のため大手ソニーに身売りし、Oasisが大当たりして会社は持ち直すも、自身はオーバードーズで死にかけ、麻薬を止める。最後には会社経営に情熱を失い、会社の閉鎖を決断する」。なお、Primal Screamのボビー・ギレスピーは、スコットランドに居た頃からのマッギーのお友達だそうで、書籍にも映画にも出てきてインタビューに答えている。

  個人的には10代後半の度真ん中にこのレーベルからの諸作品があったので感慨深い。ただ、日本人として気になったのは、ソニー(SME;Sony Music Entertainment)が悪役としてしばしば言及されている点。1992年に資金繰りの解決のためにマッギーはSMEに会社の権利の半分を売る。書籍でも映画でも、「ソニー」は退屈と官僚主義、商売優先で音楽に理解のない態度の象徴して、たびたび軽蔑される。推測となるが、SMEには、1991年に吸収合併した旧CBSの社員が多く残っていただろうから、日本人が現場を主導していたわけではないだろう。しかし、かつては創造的な企業とされてきたソニーの名が、つまらなさの代名詞として口にのぼるのを見るのは少々悲しいことだった。

  なお今度はマッギーの自伝にもとづいたドラマ映画も製作されるらしい。そこでもソニーは痛めつけられるのだろうか。
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歴史的にみて格差縮小には必ず悲惨な暴力を伴う

2019-06-26 07:27:41 | 読書ノート
ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史:戦争・革命・崩壊・疫病』鬼澤忍, 塩原通緒訳, 東洋経済新報, 2019.

  世界的に見て平等が進展するのは秩序が崩壊したときだけだ、と説く比較歴史学の書。余剰のあるところに富の偏在があるのは通常のことで、経済成長は格差を拡大する。対して、戦争・革命・崩壊・疫病の四現象だけが格差縮小に寄与するという。ただし、その四つうちどれかが起きれば必ず平等に向かうというわけでもなく、さまざまな条件も付随しなければならない。著者はスタンフォード大学の歴史家で、原書はThe great leveler : violence and the history of inequality from the Stone Age to the Twenty-First Century (Princeton Univ Press, 2017.) である。

  平等化を促す「戦争」とは一般民衆を大量動員するような戦争のこと。このような戦争においては、累進的な税制度など富裕層から富を取り上げて再分配する政策が受け入れられやすくなる。同時に、戦時統制が富裕層の経済的利潤を抑制し、また攻撃によって資本は破壊される。こうして国内の格差が縮小に向かう。例としては、二十世紀の二つの世界大戦に関わった多くの国々と、古代ギリシアにおけるアテネが挙げられている。そうでない戦争については、敗者から勝者への富の移転によって格差は拡大しただろうと推測されている。

  革命については、ロシアと中国の共産主義革命が例とされている。政府に煽られた貧困層は土地所有者を追い出して土地を占拠し、さらにたいして資産を持たない自作農までをも標的としてリンチし、あらゆる資産保有者を逃亡や自殺に追い込む。結果として、家畜を飼っていることすらブルジョワ的で危険だと見なされる程度までに、全員の資産が低下する。革命はこのように富を解消し、平等を達成する。一方でフランス革命の土地の再分配は不徹底で、格差縮小をもたらさなかったという。

  国家崩壊については2000年前後のソマリアが挙がっている。収奪的な中央政府がなくなり、地方軍閥が群雄割拠している状態においては、富を少数に集中させるメカニズムが弱まって相対的な格差が縮まるとのことである。ただし、国家崩壊が起こっているのに外国や異民族など他の収奪的な支配者に取って変わられることがない、という事態はまれで、例はそれほど多くない。以上の三つは、富裕層の富が奪われたり、富を集中させる制度が無くなってしまうことによる平等化であった。

  四つめの疫病は、これらと異なり、人口の大きな割合が亡くなってしまったため、資本に対する労働の希少性が高まる、という形で格差縮小に向かうというものだ。中世ヨーロッパのペスト禍が例として挙げられている。しかし、支配層は、労働力の価値上昇を抑え込むべく暴力的な方法を採ることがあり、しかもそれが成功することはある(東欧の農奴など)とのことである。

  このように、歴史的にみられた大きな格差縮小現象というのは、生活水準の低下(レベリングダウン)による平等か、または大量死を伴った労働力の価値の上昇でしか起こることがない。こうした形以外に、平和的に格差縮小が起こることはないのだろうか。「ない、あったとしても小さな縮小に留まる」というのが答えだ。秩序を保ったまま平和的に再分配をしても、効果的に格差縮小することは難しく、またそのような政策は政権と結びついた支配層によって阻止されるので、実行されることはないとされる。現在の世界情勢を考えると、今後も格差は拡大し続けるだろう、と著者は予想する。

  上のような議論を、上位層の富のシェアや推計されたジニ係数など、不平等度を示すデータを使って展開しているところが最近の歴史研究らしい。ただし、データのないケースもかなり多く存在し、そうしたケースでの著者の推論を荒っぽく感じることも多々ある。こうした不備なところは今後の検証待ちとしつつ、仮説を提示することをとりあえず心がけたということなのだろう。

  その読後感は憂鬱なものとなること請け合い。「経済成長を求めつつその果実をできるだけ平等に分配することが望ましい」という穏健な理想は破壊される。戦争で丸山眞男をひっぱたきたいと望んだ赤木智弘は正しかった。暴力革命を唱えたマルクスも正しかった。だが、その平等はレベリングダウンか大量死によるものである(正確には、疫病以外の三つケースにおいては再分配が伴うわけで、貧困層にはメリットがある)。多く人はそれを望まないだろう、今のところは。
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本編は懐かしのA&Mサウンドの再現だがボートラのほうがよい

2019-06-22 10:06:32 | 音盤ノート
Stereo Venus "Close To The Sun" Sudden Hunger Records, 2012.

 「ソフトロック」というのはまだ死語ではないのだろうか。ボサノバおよび1960年代のA&Mレーベルの音である。ボーカルはカレン・カーペンター、トランペットの入り方はバート・バカラック、鍵盤の音はワルター・ワンダレイを思い起こさせる。Stereo Venusは、オルガン奏者のRory Moreと女性歌手のRumerことSarah Joyceによる英国人デュオで、一回限りのプロジェクトらしい。名称からはStereolabの影響があるのかと思いきや、あまり尖ったところはなくて、正統派ソフトロックを真面目にやっている。

  10曲中8曲はBrian O'Shaughnessyなるプロデューサーによる録音で、1曲はYoung Lennyなる人物がプロデューサー、残りの1曲はremixとなっている。本編8曲とおまけの2曲の印象が異なり、少々まとまりがない。発売の経緯をこちらで予想すると「2008年頃にRory More主導で録音した(wikipediaより)が、アルバム化されなかった。2010年にRumerがメジャーデビューして売れたので、便乗してアルバム化されたが、8曲だけだとLPとしてやや短いのでオマケ2曲を加えた」ということなんだろう。

  本編8曲は悪くはない。落ち着いていてさわやかで、メロディセンスもよろしい。だが、あまりにオーソドックスなカーペンターズ継承路線で、もうちょっとサウンド上の冒険がほしい気がする。一方、オマケの2曲は面白い。特にYoung Lennyプロデュースの'June'は素晴らしい。軽いテンポの演奏にエコーをかけたファルセットボーカルを乗せるというもので、「ふわふわ」という形容がぴったりなかわいらしい曲となっている。このプロデューサーで全曲やってよ、と言いたい。

  もう一つのオマケ曲もボーカルに残響を効かせたremixになっており、これらを良いと感じるのはたぶん僕の趣味のせいなんだろう。ボーカルにエコーやリバーブをかけると遠くて匿名的な感覚を生み出すのだが、押しつけがましさが無くなって受け入れやすくなる。なおついでに、Rumerのプロフィールを調べたら、英国人夫婦の間に生まれた浮気の子(実父はパキスタン人)ということで、なかなか壮絶な人生を歩んでいるようで。
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地方自治体の現状についてさまざまな側面から報告・評価

2019-06-19 09:01:37 | 読書ノート
曽我謙悟『日本の地方政府:1700自治体の実態と課題』中公新書, 中央公論, 2019.

  日本の地方自治体の現状と問題点について伝える概説書。新書ではあるが、トピックの範囲が広く、またそれぞれの情報量も多いため、気軽には読めない内容である。著者は京大の政治学者である。

  最初のトピックは地方政治。大選挙区制のため政党が形成されにくく、一貫した政策を採ることができない。一方で首長のプレゼンスが高まっている。二つ目は、行政組織と住民の関係。地方自治体の組織規模は小さいため、職員をスペシャリストとして育成できず、一方でジェネラリストにするには与えられる職務の幅が狭い。このためスキルが低い。この他、住民・民間の行政への関与の話がある。三つ目は、地方経済。生産活動に従事する昼間人口が採りあげられ、大都市と郊外市の関係のように、納税先とサービス受益がずれていることや、無秩序な開発志向が問題とされている。

  四つ目は、地方政府間の関係。大阪都構想を引き起こしたような大都市の問題や、自治体間の過剰な横並び意識(自治体独自の政策が形成されない傾向)が、俎上にのぼっている。五つ目は、国との関係。1990年代から続く地方政府への権限移譲は、今や推進者不明の改革であるとされる。また、経済環境の変化や、国の選挙制度の改正や地方改革のために、国会議員や行政府とのパイプは細くなってきているという。最後の章はまとめで、地方議会の選挙制度を改めて政党が機能するように変革することや、人口単位で自治体規模を測る発想(例えば地方交付税など)を止めることが提言されている。

  以上。優れた内容だが、かなり硬い書きぶりで読み通すのがけっこうしんどかった。含みを持たせたまま、十分語られなかったと感じられる箇所もある。一度通覧しておいて、あとは辞書を引くように使いたい、というタイプの本だろう。そうすると、索引を付けておいて欲しかった。
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熟慮された練習が重要だというはいうものの

2019-06-14 22:22:17 | 読書ノート
アンダース・エリクソン, ロバート・プール『超一流になるのは才能か努力か?』土方奈美訳, 文藝春秋, 2016.

  能力開発の科学。邦題の問いに対する答えは「それは努力だ」というもので、deliberate practiceなる練習を継続すれば必ず能力とスキルを向上させることができると主張する。著者のうちエリクソンは心理学者であり、彼の研究をジャーナリストのプールがわかりやすくまとめたという一般書籍である。原書はPeak : secrets from the new science of expertise (Eamon Dolan/Houghton Mifflin Harcourt, 2016)である。

  超一流になるためには練習あるのみ、才能なんて関係ないというのが本書の結論である。ただし、漫然と練習していては駄目である。その練習時間内での目標を明確にし、集中し、現在できること以上の達成を求め、観察者(コーチなど)からフィードバックを受ける形での練習を行え、と勧められる。このdeliberate practiceを「限界的練習」と邦訳しているのだが、訳語のチョイスはイマイチだ。「限界的」とすると、「血ヘドを吐くまでの猛練習」みたいな体育会系バカ的イメージを避けることができず、"deliberate"がもつ熟慮的なニュアンスを失ってしまっている。

  練習量に関しては曖昧なところがある。その練習がdeliberate practiceならば、時間は短くて良いとされる。一方で、結局一流になれるかどうかは練習量であり練習時間だと強調される。つまり、長期に継続したdeliberate practiceが必要だということなのだろう。まとめれば量も質も重要だということになる。また、有能なコーチにつけというんだが、お金も必要になるよね。

  本書は、体格面を除いた、生まれつきの才能という考えに留保を付けることにはある程度成功しているようには思う。だが、練習を継続する能力の先天性については判断していない。誰にでも才能はあるかもしれないが、誰もが辛い練習をし続ける強い意志を持っているわけではない。でもまあ、読む人に希望をもたらす本ではあるだろう。
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主観的な幸福感は何によって決まるのか

2019-06-10 17:24:55 | 読書ノート
小塩隆士『「幸せ」の決まり方:主観的厚生の経済学』日本経済新聞, 2014.

  幸福感および健康感に影響する様々な要因について探る内容である。レベル的には、回帰分析の結果を示す表が毎章毎節提示される実証研究の書であり、一般向けというにはハードルが高いかもしれない。しかし、専門家を対象に書かれたというわけでもなく、統計手法や手続きについてはコラム化したり端折ったりして記述を手短に留め、読みやすく編集した配慮もある。

  幸福感に影響する要因として扱われているのは、他人と比べた場合の所得額、所得格差の程度に対する認識、家事分担、子ども時代の虐待・いじめ・貧困経験、初職が非正規雇用だったか否か、居住地域への満足度、所得変動、仕事上のストレス、などである。最初の、相対所得の分析結果についてだけここで言及すると、最後に通った学校(大抵の場合は大学)の同性同学年が準拠集団として、その平均所得に対する自分の現在所得がプラスかマイナスかによって幸福感が高まったり下がったりするとのこと。

  著者曰く“主観的厚生は他人との比較によって大きく左右される(中略)。こういう性格が幸福感にあるからこそ、幸せの追求を素晴らしいことだ単純に受け入れにくい面がある。幸せは他人に対する妬みや嫉み、あるいは優越感と裏腹の関係にある”(p.272)。というわけで、幸福についての経済学的な研究でありながら、幸福感を高める政策的な介入に対しては慎重な立場が取られる。とはいえ、幸福感はある程度ならば介入も操作できることを、本書は示唆しているように思える。
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名字を通じて何がわかるかを説く歴史書

2019-06-06 13:49:57 | 読書ノート
奥富敬之『名字の歴史学』講談社学術文庫, 講談社, 2019.

  日本の名字の歴史。初版は2004年の角川選書で、15年の時を経て講談社学術文庫として再刊された。帯に「江戸期の庶民も名字を持っていた?」とあるが、基本的には「隠し名字」なるものが庶民にはあったとのこと。しかし、それを記憶していない者もいて、その場合は村の偉い人が適当に付けたらしい。

  もともと氏と姓は別のもので、後者は天皇から与えられるものだった。しかし、奈良時代にはすでに概念の混乱があったようで、中臣鎌足が藤原という"氏"を天智天皇から授けられたのに、記録には"賜姓"とされているという。平安後期から、貴族または武士どちらか先かはわからないものの、住んでいてる場所または支配地域の名称を氏の下に付けるようになり、それが名字に転換していったとも。その他、官職名がそのまま名字となったケースもあるらしい。

  このように名字に関するトリビアが楽しい。ただ、記録から辿ることのできる名字に話が多く、貴族や武士界隈の話になりがち。僕のような庶民の名字に関する記述は多くない。名字の由来ではなく、名前から感触や生まれ順や出身地などの情報を推定できるようになるなど、あくまでも歴史資料を読むセンスを磨くための書籍だと考えたほうがよい。
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会計導入の攻防史、勝利はまだ遠く

2019-06-02 13:06:19 | 読書ノート
ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』村井章子訳, 文藝春秋, 2015.

  会計の歴史。原書は、The reckoning: financial accountability and the rise and fall of nations(Basic Books, 2014)。著者は米国の大学の先生で、日本の話(江戸時代の大阪商人の複式簿記など)はない。2018年に文庫版が発行されている。

  まずはメソポタミアや古代ギリシアの会計にも触れられるものの、現在まで継承される会計のはじまりはルネサンス期のイタリア都市国家だという。収支を測るために貿易商人や銀行家のあいだで発展し、会計についての著作も残されたとのこと。著者によればキリスト教倫理はプラスにもマイナスにも働いたという。現世の罪を善行によって帳尻を合わせるという意識は会計への感覚を発達させた。一方で、商業を軽視するその教えはメディチ家をも破滅させたとする。

  以降は、フェリペ二世時代のスペイン、独立戦争期のオランダ、ブルボン朝および革命期のフランス、産業革命期のイギリスと舞台を変えてゆく。おおむね赤字で苦しむ国家予算改革の話で、複式簿記の導入や国家予算の公開を試みる新興勢力と、既得権益を持つ守旧派の争いとなる。スペインは改革に失敗するが、フランス革命は一気に、イギリスは徐々に目標を達成したということである。後半の1/4はアメリカの話で、独立革命から鉄道時代、さらにはつい最近のリーマンショックまでカバーする。

  歴史的に会計は財務を健全化させることに貢献し、資本主義経済を発展させてきた。しかし、一方で会計は複雑化してわかり難くなってきており、不正を完全に排除できるものとはなっていない、というのが結論である。複式簿記は重要だとか測定しがたい資産をどう計上するかという話はさらっと出てくるものの、解説がまったくなくて、会計方法について理解は促さない。そのような七面倒臭い話がないので、読みやすくなっていると言われればそうなのだろう。でも、僕はそれに付き合う気があったので、少々物足りない感もあった。
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