29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

2016年度の三田図書館・情報学会研究大会に参加して

2016-10-31 12:23:23 | 図書館・情報学
  先日29日、三田図書館・情報学会の研究大会のために慶應義塾大学に行ってきた。ただし、聴くだけの立場であり、お気楽な参加者にすぎない。今年の研究発表のうち、特に午後の最初のセッションの三つの発表はとても面白かったので、順に紹介しようと思う。

  まず薬袋秀樹先生の「公共図書館の貸出が図書の販売に与える影響に関する議論の特徴」。パワポなしの原稿読み上げによる発表だったが、予稿に十分な記述があったのでよくわかった。出版社側の図書館批判をよく検討してみると、その主張の範囲はエンターテイメント小説の貸出に限られているという。しかしながら、図書館関係者側──松岡要、常与田良、田井郁久雄の三人が俎上に載せられている──による反論は問題を書籍一般に拡大しており、回答にズレがある。そして、小説に限れば、諸調査は「図書館による売上への影響を小さく見積もってもよい」という考えを必ずしも肯定するものではないことを示唆している、と。なるほど、これについては僕も挙げられた三氏と似たような現状認識(処方箋は別として)だったので、提起された問題をきちんと受け止めたい。

  その次が安形輝先生ほかの「日本の公立図書館におけるマンガの所蔵状況」(これは焼肉図書館研究会案件ではない。念のため)。これはマンガは図書館に所蔵されているか、また所蔵されているのはどのようなマンガなのかについて、日本全国の図書館所蔵を調べた研究である。出版点数に比してマンガはあまり所蔵されていないという結果は予想できたことだが、「所蔵されているマンガは判型A5判の大人を対象としたものが多い」というのは意外だった。特に、ストーリーものではなく、小林よしのりや西原理恵子といったエッセイ系が相対的に多く所蔵されているとのこと。手塚治虫ではなかったのか。ちなみにもっとも多く所蔵されていた著者は"バラエティアートワークス"だという。知ってる?名著を漫画化した文庫版「まんがで読破シリーズ」のプロダクションといった方がよくわかるかもしれない。

  三組めが上田修一先生の「大人も本をよまなくなったのか:1979年の2016年の調査の比較」。2016年のオリジナルの調査と、1979年の内閣府による調査を比較して、20歳以上の大人も読書しなくなっているのかについて検討している。読書冊数や読書の中身にはこだわらず、読者/不読者数をカウントして比較しているが、意外にも2016年において読者の割合は減っていないという結果となった。1979年の年齢階層別のデータは、年齢が上がるにつれて不読者となる傾向があることを示している。だが、2016年のデータでは50歳以下の各グループは軒並み読者率40%を示しており、以前にあった傾向は見られないという。「昔の大人がよく読んでいた」という一般に流布したそもそものイメージが幻想ではないか、という会場からの指摘も含めてなかなか啓発的だった。

  以上。なお、同じセッションの最後の発表、筑波大の大学院生・松山麻珠氏の「表示媒体とインタラクションの組み合わせが誤りを探す読みに与える影響」はベストプレゼンテーション賞に選ばれている。あと、西川和先生が論文「英米における西洋古典籍の総合目録の作成規則の変遷とその理由」を理由に学会賞を受賞しているのだが、所属大学の営業がてら彼の所属を「慶應義塾大学大学院」ではなく敢えて文教大学非常勤講師と記したい。
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EUの現状と未来についての冷静な分析

2016-10-29 09:16:36 | 読書ノート
遠藤乾『欧州複合危機:苦悶するEU、揺れる世界』中公新書, 中央公論, 2016.

  EUの現状および今後の分析。前半では、ユーロ危機、難民問題、安全保障問題(ウクライナの内戦からフランスでのテロ)、英国のEU離脱を扱っている。後半では、ヨーロッパ統合がそもそも何を克服しようとしてきたのかについて歴史を遡り、現在に至って何を克服できていないのかを探っている。

  前半は現状報告だが、ギリシア危機やシリアからの難民問題など、問題があったときには報道されるがその後どうなったのかあまり積極的に伝えられることのない事件についての、EUの対処がわかってためになる。後半はEUの問題の分析。そもそもヨーロッパ統合を「第二次世界大戦の反省」によって評価するのは一面的で、ドイツにある資源(石炭)を復興に用いたかったフランスと、国際社会への復帰を狙ったドイツの思惑の一致という、短期的な利害が統合の端緒であるという。その他、ナショナリズムとヨーロッパ・アイデンティティのずれ、統合が利益となる階級と不利益となる階級の存在、それでも統一通貨ユーロには大きなメリットがあることなどが論じられている。著者は、緊縮策を加盟国に強制するドイツの姿勢に対して、その事情を理解しつつも批判的である。

  論点が複数あって単純な見通しを述べる本ではないが、それでもかなり整理された議論になっている。EUの礼賛でもなくかといって悲観論でもない、EUの強さと弱さを客観的に見極めようと試みた好著だろう。
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ギターバンドであることを止めてシンセポップに

2016-10-26 23:31:46 | 音盤ノート
The Radio Dept. "Running Out of Love" Labrador, 2016.

  スウェーデンのロックバンドの6年ぶりの新作。前作は端正ながらガレージ感があるという作品で、わざわざ音を悪くして作っているような感があった。本作では、前作までは目立っていたシューゲイズ的要素がかなり消えてしまい、シンセポップ寄りになっている。すなわちディストーションギターがほとんど登場しない。それどころか、前々作で印象的だったキュアー風のギターサウンドまであまり目立たないものになっている。

  ならば電子音でギター音の不足を補うことができているのかと言えばそうではなく、相変わらずスカスカのサウンドなのである。かつては三人組だったはずだが、鍵盤奏者が抜けて、ギター兼ボーカルと、ギタリストの二人組になっている。そのせいで「打ち込み熱烈勉強中、ギターはおざなり」という結果になってしまったのかもしれない。Track 1のみギターが目立つ曲で期待させるが、その後の4曲ではいまひとつ洗練されない打ち込みトラックが連続する。特にシンセ音の選択に関しては、プリセット音そのままなのか1980年代っぽいところがあり、頭を抱えてしまう。

  しかしながら、ポップな出来映えのtrack 6以降はかなり立て直す。Track 7は抜けた鍵盤奏者がゲストで参加し繊細なキーボードを聴かせる。Track 8は本作のベストトラックで、ダンスミュージックという新機軸と、単音をつまびく流麗なギター、探るように展開しつつ最後には開放感をもたらすメロディとをうまく混ぜ合わせた曲となっている。Track 9はスローなインスト曲で、途中から入るギターのアルペジオが美しい。Track 10は、メンバー以外のプロデュースによる彼らにしては珍しい曲で、打ち込みの質が他よりほんの少しだけ高いと思う。

  親しみやすい優男ボーカルとメロディセンスは相変わらずなので、これを活かせるサウンドプロダクションが欲しいところなのだが、このアルバムの前半のバックトラックでは物足りないというのが率直なところ。セルフプロデュースへのこだわりが邪魔をしているのだと思う。まあでも後半はそこそこの出来栄えであり、満足すべきところなのだろう。ただし、初めて聴くという人には前々作の"Pet Grief"(Labrador, 2006)を勧めたい。
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1970年代日本の地下ロック史だが、現代音楽と前衛ジャズも少々

2016-10-24 08:18:29 | 読書ノート
ジュリアン・コープ 『ジャップロック・サンプラー:戦後、日本人がどのようにして独自の音楽を模索してきたか』奥田祐士訳, 白夜書房, 2008.

  1960年代後半から70年代半ばまでの日本のロックシーンを外国人向けに綴ったもの。グループサウンズを前史として、東京ロッカーズまではいかない、パンクの影響を受ける以前までに時代が限られている。また、日本のロック史では、はっぴいえんどの系統のソフトな日本語ロックが「正統」とされており、実際にその影響は大きい。本書はこの系譜から外れた、忘れられたハードロックバンドやプログレバンドを発掘する試みである。原書はJaprocksampler: How the post-war Japanese blew their minds on rock 'n' roll (Bloomsbury, 2007)である。

  著者はリバプールの亀仙人ジュリアン・コープ。1970年代後半から現在まで活動している現役のロック・ミュージシャンだが、全盛期は1980年代だろう。1987年の"Saint Julian"(Island)は『ミュージックマガジン』誌で年間ベストアルバムとなっていた記憶がある(うろ覚え)。彼は本も書くのか。先行する著作にドイツのロックを扱ったKrautrocksampler (Head Heritage, 1995)なるものがあるらしいが、英国ニューウェーブへの影響の大きさを考えればこの選択はよくわかる。しかしながら、なぜ日本なのか?

  これは読んでみてなんとなく分かった。特別に章を立ててフィーチュアしているのが、内田裕也率いるフラワー・トラベリン・バンド、喜多郎が所属したファー・イースト・ファミリー・バンド、裸のラリーズで、これらは妥当なところだろう(スピード・グルー&シンキなる初めて聞く名前のバンドも大きく扱われている。一方でフライド・エッグはなし)。上記以外では、現代音楽の小杉武久、佐藤允彦の実験的ジャズ、寺山修二のために劇伴音楽を書いたJ.A.シーザーが紹介されており、これらはロックの範疇を大きく外れている。電気的に増幅された、ロック要素とエキゾチズムの混淆、カオス、トリップ感というのが評価ポイントのようで、サイケデリック音楽好きならば理解できなくもない。

  そういう次第で、ジャップロックと銘打ってはいるが、1960年代の現代音楽シーンやジャズシーンにも目配りのある記述となっている。現在の日本人にすらよく知られていない領域について、これを世界に紹介し、かつその歴史と解釈の指針を与えた点は高く評価できる。しかしながら、事実関係の間違いが多すぎる。頁をめくるたびに、邦訳版の編集者が付した、本文中の記載事項の否定・訂正を示す脚注が大量に入っている。出版社も間違いの多さに困惑したのか、オビには「奇書」だと断っているほど。面白いのにもったいないというべきか、こういううさん臭さが面白いというべきか。

  僕も邦訳が出版されたときから本書の存在を知っていたが、当初から奇書扱いのマーケティングがなされていたので買うことはせず、近所の図書館に置かれることがあったら借りて読もうと思っていた。ところが、マニアックなテーマで間違いばかりの書籍などやはり図書館は所蔵しない。このため現物を見つけられないままとなってしまい、いつの間にか絶版になっていたのだが、数日前にディスクユニオンで古書を見かけたので購入することができた。たばこの臭いがついているしプレミア価格だしで、こういうのはさっさと手に入れておくべきだったと反省。
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「カラフル」と「ケバい」の間の微妙な境界線上にある電子音楽

2016-10-21 20:36:04 | 音盤ノート
Oval "Popp" Uovoo, 2016.

  エレクトロニカ。コラボ作品を除けば、2010年の"O"以来のオヴァルの新作である。前作は短い曲ばかりで、音楽的快楽を持続させないまま曲が目まぐるしく変わっていってしまい、習作集を聴かされているような印象だった。今作の収録曲はすべて4分前後で、ポップミュージックのフォーマットに収めている(ニカ曲としては短いほうだろうが)。

  1990年代半ばにはあったアンビエントな雰囲気がまるでなく、音数が多くてきらびやかになっているのが大きな変化である。とてもポップだ。ただし、リズミカルではあるがクラブで使用されるようなノリや音圧は無く、あくまで室内でのリスニング用となっている。基本、音色の重なりの複雑さを注意して楽しむような楽曲ばかりだ。いくつかの曲でボーカロイド風の歌声が挿入される(トーキング・モジュレーター?)のだが、ここは好みが分かれるところだろう。あの歌声はR&Bでよく使われたせいもあって、残念ながら僕には安っぽく聴こえる。リスナーが落ち着いて天国的な響きに耳を傾けているところに、けばけばしいヤンキーが闖入してきたみたいな場違いさを感じる。まあ、一部の曲の話であって、すべての曲がそうというわけではないし、その一部の曲でもそれによって完成度が大きく損なわれているというものでもないので、気にしないでいることもできる。

  うーん、Ovalにはもうちょい抑制的でミニマリスティックであることを期待したいが、このままこういう方向にいくんだろうか。作風を広げてつまらなくなったPhotekのようにならないことを望みたい。このアルバムは派手にやっているけれども、ギリギリ踏みとどまっている、という作品だろう。
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米国図書館史リヴィジョニスト系の訳本その2

2016-10-19 21:12:54 | 読書ノート
ローズマリー・R.ドゥモント『改革と反応:アメリカの生活における大都市公立図書館』川崎良孝, 久野和子訳, 京都図書館情報学研究会, 2014.

  図書館史。原書は1979年で、Reform and reaction : The big city library in American life (Greenwood Press)。訳者解説によれば、ギャリソンの『文化の使徒』と同じくリヴィジョニスト本とのことである。ただし、19世紀から20世紀の公共図書館の主導者の思想に関心があったギャリソンとは異なり、ドゥモントは公共図書館を取り巻く時代や社会といった環境要因を重視している。中産階級的な「改良主義」を動機として公共図書館の設置・サービスが進展したが、それは利用者個人を現状の社会への適応に導くような改善でしかなく、社会全体の改革にはつながらいものだった。また、図書館は一般大衆の十分な利用を喚起できなかったために、非利用者層を取り込むさまざまなサービスを考案したが、結果として社会改良主義的な目的達成を薄めることになった、と。

  19世紀の図書館の設立と民主主義思想との密接な結びつきというのは欺瞞で、公共図書館とは出自からして階級的な機関なのだ、というのが本書も含めたリヴィジョニストの指摘である。米国1970年代の公共図書館には、リベラルな論者のこのような議論と、受益者負担原則に基づく課金論という経済学系論者の批判があった時代である。1980年代以降、米国図書館協会は、表現の自由に深くコミットする、より純度の高いリベラリズムを目指すようになったように見える。それは1970年代のこうした批判に対する回答だったのだろう。「社会の改善」という旗を降ろし、「個人の権利を保障する機関である」という目標に変更することで、図書館は生き残ろうとしたわけである。だが、そもそもその目標変更に説得力があったおかげで現在まで図書館は生き残れたのか、というのは疑問に思うところだ。資金を出す人々の期待は別のところにあったかもしれない。このあたりは検証すべきことだが、本書の内容を超える話だな。
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ボブ・ディランのノーベル賞受賞を祝って(こじつけ)

2016-10-17 13:55:25 | 音盤ノート
Dire Straits "Brothers in Arms" Vertigo, 1985.

  ノーベル財団はボブ・ディランと連絡がとれたのだろうか、などと考えながら思いだしたのがこのバンド。パンク全盛時代の英国になぜか登場した、ボブ・ディランのフォロワーである。オーソドックスなカントリー、ロカビリー、フォーク・ロックに、巧くて渋いギターソロとディラン風のボーカルがのるというスタイル。ギターとボーカルがMark Knopflerというこれまたおっさん風のルックスの持ち主で、全然かっこ良くなくて、「30歳以下お断り」のような音楽である。

  しかしながら、確か1980年代末ぐらいまでは、このアルバムが「英国でもっとも売れたアルバム」だったはず(今は異なる)。MTVを批判した'Money for Nothing'が米国でもヒットして──皮肉なことに、アニメーションを用いたビデオクリップの出来がよかったため──、日本でもこのアルバムの時だけ収録曲がラジオでかかっていた。しかし、売れてはいたが時代の主流のスタイルとかけ離れており(というか時代遅れだった)、評価されることの少ないグループである。

  1990年代に、失業した男たちがプライドをかなぐりすてて全裸ダンサーになるために奮闘する『フル・モンティ』という英国映画があった。劇中、興奮してしまった登場人物を鎮めるために周囲いる一人が「何か退屈なものを考えろ」とアドバイスするシーンがある。その際に、周囲にいた全員が一致して「ダイアー・ストレイツ!!」と答えるのには笑った。まあ、あちらではそういうイメージなんだろう。

  でも当時のパンク/ニューウェーヴ至上主義を離れて聴いてみれば、決して悪い作品ではない。曲のバラエティは広いし、意外とシンセイザーを効果的に使っているし、スローな曲でも少ない音のギターソロで緊張感を高められる技術がある。数枚ある他のアルバムも完成度が高く、このような優れたフォロワーを持ったディランの偉大さも分かるだろう。歌詞については知らないが、音楽性はディランより高いと思う。

  注意すべきは、このアルバムはCDとLPの代わり目の時代の発行されたために余計な実験をしており、CDとLPの収録分数が異なっている。CDは数曲でフェイドインとフェイドアウトが長めにとられたロングバージョンとなっているが、その部分に工夫があるわけでもなく、いかにも冗長である。LP盤のほうが密度が高く、こっちが標準だったら後世の評価は変わったかもしれない。いや、変わらないか。
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国際情勢に合わせて集団的自衛権の解釈は変わる、と

2016-10-14 21:48:53 | 読書ノート
篠田英朗『集団的自衛権の思想史:憲法九条と日米安保』風行社, 2016.

  タイトル通り。今年7月に発行されていた本だが、書評をいくつか目にしたので読んでみた。著者は国際政治学者で、憲法の理念である国際協調主義を重視している。このため、日本の憲法学者に批判的な記述となっている。

  大雑把に言って二つのトピックがある。一つは、戦後の日本で集団的自衛権がどのように解釈されてきたのかについての歴史である。その解釈は、憲法九条だけでなく、日米安保の状態とそれを取り巻く世界情勢次第で変化してきた、というものである。安保闘争の頃には、政府は米軍と同盟すること自体が集団的自衛権の行使であると国会で答弁していた。だが、沖縄返還の頃になると、不人気なベトナム戦争が距離を置くために、米軍の沖縄にある基地の使用は集団的自衛権の行使ではない、と政府は解釈を変更している。すなわち、その解釈は変わるし、実際に変わっている、と。

  もう一つは、東大憲法学に対する理論的な疑義である。日本国憲法は米国の占領下で制定されたものであるのに、憲法学者はそこに存在しない大陸法的「国家」概念を持ち込んでいるとされる。すなわち、これによって国の主権と国民主権が分割されてしまい、政府を通じた国民の幸福・安全の追及が制限されることになっている。ということのようだが、率直に言ってこの指摘が言わんとすることについては僕はよくわからなかった。九条というコンセプトだけではなく、日本の憲法学の特殊性が集団的自衛権解釈を掣肘しているというのだが、もう少し説明がほしい。

  日本の安全保障論議の不毛さへの著者の苛立ちはよくわかった。政策の効果以前に合憲か否かで話が止まってしまう。実のところ、悪魔的に描かれる現政権もまた、護憲派の反応を予測しての微に入り細をうがつ対応しかできていないのが実情である。憲法解釈はそういう不毛なレベルでの整合性を目指すものではないだろう、というのが著者の言いたいことなのだろう。
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学長選挙があるらしいが、何を期待できるのか

2016-10-12 21:46:13 | チラシの裏
  勤務する文教大学で「学長選挙」なるものが行われるという。前任校では創立者の親族が理事会に君臨していて、学長も理事会の指名で決まっていた。勤務先を変えてみて、この世には自分の上司を選べる世界が存在するのか、と感動している。とはいえ文教大学の経営が上手くいっているわけではなくて、足立区に購入した土地の使い方をめぐって学内はけっこう荒れている。理事長や学部長が任期半ばで辞めているのだ。

  学長選挙には三人立候補するようだ。すでに僕も対立する二派から説得工作を受けた。だが、そもそも学長の権限はそんなに強くなさそうである。強いのは学部の権限である。学部としては合理的かもしれないが、学園全体にはメリットのない馬鹿げた案が、学部教授会で決定されたということで理事会を通ってしまうというのを経験している。そして、そのために教員から事務まで疲弊する。トップの権限が弱い、典型的な日本的組織なのだろう。
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公共図書館は誤った目標を掲げて発展しやがては現実に服従した、と

2016-10-10 17:04:06 | 読書ノート
ディー・ギャリソン『文化の使徒:公共図書館・女性・アメリカ社会,1876-1920年』田口瑛子訳, 1996.

  米国の公共図書館史で、サブタイトルにあるように1900年前後の動きを扱っている。原書はApostles of culture : The public librarian and American society, 1876-1920 (The Free Press, 1979)である。全体は4部構成で、第一部は黎明期の図書館指導者、第二部はフィクション論争、第三部メルヴィル・デューイの伝記、第四部は公共図書館における女性職員について扱っている。

  第一部から第三部を大雑把にまとめると次のようになる。黎明期の図書館指導者は同時に古典学者だったが、19世紀後半にはデューイを筆頭にした世代が前世代と入れ替わる。後者は、労働者階級を図書館利用者にしようと尽力したが、その目的は社会的安定あって、利用者を中産階級的な秩序に取り込まれるべき「教化の対象」としてみなしていた。こうした態度は、図書館の目的に同意する社会の支配層からの寄付金を図書館に呼び寄せたが、実際の利用とはギャップがあった。いざ普及してみると、公共図書館は中産階級的な道徳と衝突するようなベストセラー本の提供機関として利用者をひきつけた。関係者からの反発はあったが、結局は現状を認める方向で落ち着いた。

  第四部は、女性の職場として図書館が発展したことの影響である。図書館員の給与は低かったので、教育ある男性が参入してこなかった。代わりに、教養がありながら就業機会が限られていた女性たちが図書館職員となった。彼女らはヴィクトリア朝道徳によってしつけられた淑女たちで、保守的であり、前段で示したような教条主義的な図書館の役割観を支持していた。結婚はできなかったし、結婚した者は図書館から離れた。このような献身があったのに女性は館長職から排除されていた。女性が図書館職員の多くを占めたことは、当時の性規範において「女性の仕事」が一段低く見られていたために、専門職としての図書館員の価値を低めた。

  1970年代の図書館史「リヴィジョニズム本」ということでいいのだろうか。簡単にまとめれば、公共図書館は「支配的道徳への利用者の服従」という誤った目的を掲げて発展し、女性労働者を搾取し、現実に復讐されて単なるベストセラー本提供機関になりました、という話だ。おまけに、図書館界の功労者であるデューイはかなり人格的に問題のある人物だよ、とも加える。図書館に肯定的な記述がないわけではないが、申し訳程度の量である。まあ、こういう見方もあるだろう。
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