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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

レイヤー系ギターを加味した北欧電化即興演奏デュオ

2013-01-30 09:35:07 | 音盤ノート
Food "Mercurial Balm" ECM, 2013

  北欧系ジャズ。Thomas Strønen (percussion, electronics)とIain Ballamy (sax, electronics)によるデュオ、FoodのECM二作目。シンセパッドに打楽器とサックスが自由に絡むという基本パターンは前作(参考)を踏襲している。今作は、前作以上にゲストにスペースを与えて自己主張させているのが特徴だろう。と言っても、少しだけの変化なのだが。

  Track 1-6, 10では、前作から引き続きエレクトロニカ系のギタリストFenneszがゲスト参加している。レイヤー仕事中心で目立つものではないが、注意して聴くと繊細な電子音を巧みに操っているのがわかる。ただしtrack4,5ではノイジーなギターを聴かせて曲を盛り上げる。Track 6ではさらにNils Petter Molvaer(tp)がソロを吹いている。ストローネンが反復リズムを刻むtrack 2も面白い。かわってtrack 7-9では、Eivind Aarsetとインド人ボーカリスト兼スライドギタリストのPrakash Sontakkeの二人が参加する。このうちtrack 7は曲者で、Sontakkeの民族音楽的な節回しが強烈すぎてFoodがバックバンドになってしまい、主従が逆転してしまう。Ballamyがもうちょっと絡むようにプレイしてくれればいいのだが、そういうタイプでは無いようだ。Aarsetのギターは地味すぎてもったいない。

  静かすぎた前作に比べれば、アグレッシブな演奏である。マンネリ気味の基本パターンにエレクトリックギターを加えて新しい展開を試みた作品だといえる。が、清廉でクセの少ない演奏をする人たちなので、アクの強いゲストが絡むと音をもっていかれてしまうということもわかった。このあたりが限界なのだろうか。
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昔の日本人は緑を大切にしてはいなかった

2013-01-28 09:39:22 | 読書ノート
太田猛彦『森林飽和:国土の変貌を考える』NHKブックス, NHK出版, 2012.

  日本の森林について、その歴史と災害との関係について考察した書籍。著者は日本森林学会会長。江戸時代ははげ山だらけだったとか、森が増えて流出土砂が減り結果砂浜が侵食されるようになったとか、興味深い指摘がなされている。

  江戸時代の日本は、今ほど緑に覆われてはいなかったという。なぜなら、燃料として多くの木々を伐採していたからである。禿山だらけで保水力が無いため、あちこちで水害がおこっていた。また、川から流出した土砂が海浜に留まり、大きな砂浜を形成して、海辺の飛砂被害が酷かったという。現在海岸線に見られる松林は、飛砂被害を減らすために人工的に植えられたものだそうだ。日本に森が増え始めるのは、化石燃料を大量に使えるようになった1960年代からである。同時期、国産木材の価格が輸入材に比べて上昇したために、伐採が進まなくなり、現在に至っているという。その結果、山からの流出土砂が減って、砂浜が侵食される現象がみられるようになったとも。その他、土砂災害のパターンについても詳しい解説がある。

  昔、安部公房の『砂の女』を読んだとき「砂で家屋が埋まるなんてどこの国の話だ」と思ったものだ。また、1950年代の日本の風景写真を見たとき、はげ山ばかりだなと感じたことを思い出した。けれども、そのときはまさか、当時の日本の国土が今と違ったものだったとは思い至らなかった。こうして書籍で示されて初めて、そういうことだったのかと腑に落ちた次第。
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関西地下音楽界発の幸福感の詰まったインスト音楽

2013-01-25 12:26:29 | 音盤ノート
山本精一 "Crown of Fuzzy Groove" P-Vine, 2006.

  ポストロック。在籍するROVO(参考)から攻撃的な面を取り除いたような、カラフルかつパーカッシヴなインスト音楽である。ミニマル・ミュージックやアンビエントの要素もある。エレクロニカ系だが、Four Tetや竹村延和に近い感覚と言えばわかるだろうか。

  曲は、打楽器音とシンセによる明るめの和音(メジャーばかり!!)の取り合わせを基本とし、さらにそれをギターや電子音で味付けするというパターンである。8トラック収録されているが、そのうち演奏時間が10分を超える4曲はいずれも素晴らしい。特にtrack 4の‘Whity’なんかはもっと尺が長くてもいいぐらいである。ただ、各曲ともイントロからテーマが出てくるまでの間が冗長に感じられるのが難点。全体としては、柔和で幸福感を漂わせるアルバムとなっている。

  美しい作品であるが、インパクトは強いものではない。ボアダムスや想い出波止場といった奇怪なバンドを渡り歩いてきた山本精一のキャリアを思い出しながら聴くと、やっと味わい深いものとなる。
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「体制側」は音楽をどのように利用しようとしたか

2013-01-23 10:06:47 | 読書ノート
上田誠二『音楽はいかに現代社会をデザインしたか:教育と音楽の大衆社会史』新曜社, 2010.

  1920年代から50年代までの日本の、音楽を通じた国民統合の諸相を扱った学術論文。北原白秋を代表とする芸術音楽と、中山晋平を代表とする大衆音楽の対立。前者を支持する音楽教師団体と、後者も取り込もうとする国家官僚。地方における文化教育の実態。これらについて、行ったり来たりしながら描かれる。

  内容は錯綜しており、わかりやすいとは言えないのだが、次のようにまとめられるだろう。1920年代、『赤い鳥』系の童心主義を反映した音楽教育が、音楽教師たちの間で理想とされるようになる。それ以前の唱歌は教条主義的な歌詞を持っており、退屈でつまらなく、子どもらはそれから離れて低劣な俗謡に染まってしまっている。対して、子どもの興味・心情を反映した歌詞を持つ「新しい童謡」を音楽教育に採り入れることで、彼らに正統な芸術文化の魅力を伝え、「正しい」美的センスを育もうというわけである。

  このために音楽教師らは団体を作って国にはたらきかける。ところが、国はそもそも音楽教育の有用性を認めておらず、予算をつけようとしない。これに対し、音楽教師の団体は、音楽教育の意義を「国民統合」に求めて説得しようとした。そこで重視されたのが、複数の声が融合して一体的な美を創り上げる斉唱・合唱である。それを使った教育は、集団に貢献するメンタリティを育てるという。この説得はある程度成功し、予算を獲得できた。けれども、合唱・斉唱を採り入れても、大衆音楽の魅力に打ち勝つことができなかった。

  大衆音楽作曲家もまた、社会貢献に対して独自の理論を持っていた。その代表が「東京音頭」を書いた中山晋平で、彼は土着的なメロディを用いて生活に疲れた一般大衆を慰撫することできると考えていた。音楽教師らに「亡国的」と考えられた彼の曲は、国家官僚によって大衆を動員するために利用される。それが1940年に発表された、中山作曲による「建国音頭」である。さらに戦時下になると、爆撃機のエンジン音から機体をわりだすという目的のために、音楽教育において絶対音感の教育が求められた。

  敗戦によって、大衆音楽との妥協や美的センスの育成の放棄が迫られた時代が終わり、再び音楽教師らがその理想を追求する時代が来る。再び、斉唱と合唱が重視されるようになるのである。それは、ファシズム体制への統合を目指した戦前とは異なるけれども、新しい「文化国家」日本への調和と統合を目指す点て、その構造は変わっていないという。

  以上がその流れだが、間に音楽教師間の意見の細かい相違や神奈川県大磯町の教育を検証したりしており、大部となっている。率直に言って、もっと記述を絞り込んだほうがわかりやすい書籍になっただろう。全体としては、この時代の文化を国家統制対アンチという図式で描くよくあるパターンを避けて、それぞれの文化が国家に貢献しようと競争し、また同時に自律性を獲得しようとしていた、というアンビバレンスな状況を伝えている。こうした様子を描くことについては、広い領域を対象としたことで成功しており、面白い。
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厚くて太いのに朴訥さの残るブラジル風フュージョン

2013-01-21 09:29:34 | 音盤ノート
Joao Donato "A Bad Donato" Blue Thum, 1970.

  MBP。インストものなのでブラジル風フュージョンというべきか。といっても、爽やかなものでなく、ゴリゴリのファンクものである。エレクトリックベースと打楽器隊が作る反復パターンに、カッティング系のギターと厚めのブラス隊が絡み、その上にドナートのオルガンがのる。アレンジはEumir Deodatoで、録音もLAである。

  レアグルーヴものとして再評価されているようだが、それにしても厚くて太い。軟派で軽妙な音を聞かせてきたドナートにとっては異色作ということになるだろう。けれでも、この主の音楽にしてはシャープさが無く、また聴いているほうのテンションを大きく高めるかというとそうでもない。ドナートらしい、どこか抜けた微笑ましい感覚が残っている。

  僕が持っているCDはDubas Musicaなるブラジルのレーベルの2004年の再発ものだが、2006年にはBombaから紙ジャケ日本盤が発行されている。
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福祉国家が保護する「国民」の境界をめぐって

2013-01-18 10:49:34 | 読書ノート
水島治郎『反転する福祉国家:オランダモデルの光と影』岩波書店, 2012.

  1990年代以降、オランダがワークシェアリングと移民の「排除」の二つを同時に進めてきたことを報告した書籍。政策が変更される過程を詳しく分析している。ただし、ここで言う「排除」とは、単純に移民を追い出すということではなく、多文化主義を止めて彼らをオランダのリベラルな文化に同化させること、を意味している。政策のターゲットとなっているのはイスラム系移民など、反リベラリズム的なエスニック・アイデンティティを持つ移民である。

  ワークシェアリングは、主に女性労働者が利用しているらしい。フレキシブルな労働時間で働きたいのは家庭を持つ女性の方であり、多くの男性はやはりフルタイム就労を選択しているとのこと。つまりこの政策は「時期によって育児等に関与する女性のフルタイム就労は難しい」ということに対応したものとなっているという。すなわち、家族単位で福祉政策を考える大陸型福祉国家(エスピン=アンデルセン)の政策であり、スウェーデンなど個人単位で社会保障を敷く北欧型とは違うとのことだ。

  しかし、ワークシェアの輪の中に入ること、すなわち制度的な保護のある仕事に就くことは、オランダ語の話せない移民にとっては簡単なことではないという。1990年代、人口1600万のこの国に、毎年4万人程度の移民がやってきたそうだ。だが2000年代には、彼らの失業、それを原因とする治安の悪化などもあって移住の要件が厳しくなり、また自由主義的・平等主義的な考え方に同化するよう求められる──単純な保守主義ではないことに注意、というかリベラリズムこそがオランダの伝統なのだ──方向に移民政策が転換しているとのこと。そのあたりの紆余曲折も詳しい。

  個人的な感想だが、これはパラドクスなのかと言えば、そうでもないという気がする。多大な公共支出を伴う福祉国家が、保護の対象を絞らざるをえず、それを「国民」に限るというのはまったく合理的である。「国民」をどう定義するのかという問題は残るけれども。キムリッカ(参考)もナショナリズムと福祉国家の関係を認めていた。一方で、コスモポリタン的な国家が福祉国家としてやってゆくことは難しく、そんな国にはわざわざ失業者になるために移民がやってくる。まさに1990年代までのオランダがそれだったわけだ。

  とはいえ、それは福祉国家の矛盾ではないにしても、リベラル思想が持つ普遍主義のパラドクスを露わにはしているだろう。当然のこととはいえ、国家運営と政治哲学の間にもまた緊張があるのだという思いを強くした次第。
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ほとんど知られていない映画の優れたサウンドトラック

2013-01-16 08:56:24 | 音盤ノート
Simon Fisher Turner "アンモナイトのささやきを聞いた" UPLINK, 1992.

  1992年の日本映画のサウンドトラック。サイモン・ターナーは英国ニューウェーヴ系の出自だが、デレク・ジャーマンの映画音楽を手掛けるようになってから、テープ・コラージュによるインスト曲を多く作るようになった。これもその系統の作品。

  簡単に言えば、ミニマル・ミュージックの要素のあるアンビエント音楽である。哀切たる旋律を弦楽四重奏(バラネスク・カルテットによる)が奏でるというのが演奏の中心であり、それにコラージュ音やシンセサイザー、アコギが加えられる。これらの音の絡ませ方がとても巧みで、深いエコーの中を非常に美的に響かせている。前作の"The Garden"(参考)のように暗く歪むようなことはほとんどなく、ただひたすら霊妙かつ清廉である。ただし、4トラックあるうちの最後の曲だけはいただけない。そこでターナーのニューウェーヴ魂があらわになってしまい、打ち込み+軟弱男性ボーカルが登場してしまう。雰囲気ぶち壊しである。とはいえ、それまでの38分間は完璧な詩情を聴かせてくれるのでよしとしよう。

  これは彼の全盛期の作品でありかなり出来が良いといえる。だが、映画は有名じゃないし、日本盤しか出ていないしで流通数は少ないだろう。もったいない。
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徹底して小学生向けの科学館るくるに行く

2013-01-14 23:44:10 | チラシの裏
  連休中、我が子と従姉とその弟を静岡市の科学館「るくる」に連れて行った。科学館をいくつかまわった経験では、横浜はテレビゲーム的な展示が目立ち子供向け、岐阜は展示中心で地味、名古屋はショー中心で全年代OKだが、大きすぎて回るのに疲れる、という印象だった(岐阜瑞浪の科学館は展示を廃して工作・体験を中心にしており良いです。)。

  この「るくる」は、科学のうち天体・宇宙というテーマを外した物理系アトラクションが中心。小学生向けで大人には向かないが、その年代の子どもにはかなり楽しいものになっている。駅前のビルの三フロアを使った規模の小さい科学館なのだが、子どもたちは4時間も遊びまわった。僕は待合室で控えていただけだが、子どもたちに付いて回った母親二人はへとへとになっていた。

  しかし、科学館というのは子どもの遊び場にしか見えないのだが、あれで科学の理解が深まるのかな。それとも興味を持たせることができれば成功なのか。まあ、利用させてもらっているので設置者には感謝しているけど、その効用やコンセプトは学者として気になるところである。
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パラグラフ・ライティングの基本を新書で解説

2013-01-11 11:12:49 | 読書ノート
倉島保美『論理が伝わる世界標準の「書く技術:パラグラフ・ライティング入門』ブルーバックス, 講談社、2012.

  文章を論理的に構成する方法についてのハウツーもの。報告書など多様な解釈を許さない実用的な文書を対象にし、一つの文ではなく文書全体の構成の洗練を目指しているのがポイントである。ちょっとくどいと思える部分もあるが、著者は「誤解を招かないよう多少くどくなってもよい」とする立場である。読み手の方がそういう部分は読み飛ばせということだ。

  副題にあるように、基本の型はパラグラフ・ライティングである。パラグラフの最初を、そのパラグラフの内容を要約したトピック・センテンスとする形式である。章や節などパラグラフ以外の上位の階層にもまたその内容を抽象化した総論部分を置き、文書全体もまた同様な構成にする。そうすると、読み手の理解が促されるという。執筆する側は、筆の流れに身を任せず、最初から全体の構成のプランを立てて書くべきだとする。パラグラフ・ライティングの本は英作文分野でいくつかあるようだけど、新書になった意義は大きいだろう。

  良い教科書である。同時に、本書を読んで独習しなければならない日本のビジネスマンは大変だという思いも強くする。読んですぐ書けるようになるわけではないので、何回かの練習が必要となるのだが、彼らには添削してくれる先生もいないだろう。個人的に、中等教育段階、せめて大学の初年次教育段階で実用的な文書の書き方を教えるべきだというのを常々感じている。
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楽譜が読める人による音楽の聴き方論

2013-01-09 15:50:18 | 読書ノート
岡田暁生『西洋音楽史:「クラシック」の黄昏』中公新書, 中央公論, 2005.
岡田暁生『音楽の聴き方: 聴く型と趣味を語る言葉』中公新書, 中央公論, 2009.

  クラシック音楽の研究者・岡田暁生による新書二冊。『西洋音楽史』はクラシック音楽の成立と受容の歴史をコンパクトにまとめた通史。『音楽の聴き方』は聴取についてのエッセイである。クラシック音楽に疎い僕が読んでも、どちらも興味深い著作だった。

  『西洋音楽史』は、芸術音楽の条件を「楽譜に書かれている」こととして、その発展と衰退を辿ったもの。グレゴリオ聖歌から、ストラヴィンスキーとシェーンベルクが活躍する第一次大戦までを範囲として、鮮やかにその系譜をまとめている。20世紀後半以降については簡単な言及があるものの、「クラシック音楽の優位」の自明性が崩れたとして、20世紀前半と無理に接続することを避けている。ドイツのナショナリズムや、教会から王侯貴族へ、さらにはブルジョワ市民へと変化する聴衆についても言及があり、音楽様式と受容環境との関連もうかがえて教養になる。

  『音楽の聴き方』は、音楽の聴き方、および音楽を言葉で表現することについてあれこれ思弁している。著者は楽譜が読める人で、音の感触ではなく、曲の構造も理解するという聴き方をしており、またその点を優位に考えているようだ。この点は著者の射程の限界でもある。というのは、音の感触こそが重要であるポップ・ミュージックをまったく扱えていない。「大衆音楽の多くも形式で言えばロマン派の亜種である」という把握なのだが、これではビートルズ以降の音楽の魅力を分析できないだろう。細川周平のいう「サウンド」概念以前、というかそもそもサウンド聴取一辺倒を本書で批判しているのだが、当たっているようには思えない。20世紀後半のポップミュージックが、西洋芸術音楽では表現することのできない音を出してきたという事実は厳然としてある。著者の聴き方だと、1950年代から60年代のジャズの一側面を評価できるというのが、大衆音楽への最大の接近である。

  とはいえ音楽の聴き方についてあれこれ考えさせる二著で、一読の価値ありである。『音楽の聴き方』の限界から感じた課題は、「サウンド」を語る表現の開発ということになるだろうか。いや、すでに開発されているのだが、アカデミズムが採用していないというだけの話なのかもしれない。
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