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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

メロディアスながら実験精神に溢れた辛口の耽美系ピアノジャズ

2015-07-31 21:08:54 | 音盤ノート
Colin Vallon Trio "Le Vent" ECM, 2014.

  ジャズ。スイス出身のピアニストによるECMでの二作目。Patrice Moret(bass), Julian Sartorius(drums)によるトリオである。ゆったりめの反復パターンあるいは螺旋状のメロディに徐々に音を加えてゆくという構造の曲が多い。スローまたはミドルテンポの曲ばかりなので、ミニマル音楽的な感覚があるわけでもない。徐々に曲を盛り上げるのだが、かといって終盤にカタルシスがあるわけではないという、非常にツボをつかみにくい曲構造である。

  全編を通じて美しいメロディが紡ぎ出されるももの、その感触は硬質で甘く流れたりしない。プリペアードピアノなど奏法上の実験なども行われているが、それでも音の表情にも乏しく、最初から最後までずっと渋面のままという感じである。しかも不遇なのに周囲には絶対弱さを覗かせないというような佇まいである。こうした孤独感はメロディ中心の単線的な演奏のためだろうか、耽美系でも独特の和音で聴き手を溺れさせるタイプがいるが、このトリオはそうではない。

  うーん、好きなタイプの音ではあるのだが、とことんハマれないという印象である。曲のレベルは高く手抜きがない一方でアルバムのメリハリが無く、リスナーにも厳しさを要求してくるところがあって疲れる。個人的には浸るように聴ける和音系耽美派の方が好きだという事情もあるが。
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ニーズを政治哲学的に肯定し、相対主義を退ける

2015-07-29 10:52:44 | 読書ノート
L.ドイヨル, I.ゴフ『必要の理論』馬嶋裕, 山森亮監訳 ; 遠藤環, 神島裕子訳, 勁草書房, 2014.

  福祉国家による給付は「必要(Need)」によって正当化される。では「必要」はどのように定義されるのか。これを政治哲学的に検討してみようというのが本書の内容である。原書はA Theory of human need (Mcmillan, 1991)で、全四部構成のうち前半二部のみを訳出したのがこの邦訳である。

  第一部は「客観的に測定可能な必要概念など存在せず、それは個人や文化によってバラバラなのだ」などという「必要」を相対化してしまう思想──経済学からマルクス主義、文化帝国主義など──の批判的検討である。批判者の言うとおりならば、必要への対応とは国家による弱者への特定の価値の押しつけとなる。これに対し、「必要」が社会的構築物であるとしても、それは普遍的に合意可能な目標であるとして肯定できるものだと著者らは言う。

  第二部は、必要概念を理論的構築するという試みである。まず身体的生存と人格的自律という基礎的な必要が存在することを確認し、残りでどのような理論が必要充足を最適化するかが論じられる。肯定的に採りあげられるのはハーバマスとロールズである。

  以上。難解な本であるため、第一部は納得の議論だったが、第二部は正直に言ってうまくいっているのかどうかよくわからなかった。必要を満たす基本財(ロールズ)がある、ということは第一部に反発を覚えない人ならばそれほど異論はないんじゃないだろうか。それよりも、基本財に何が含まれるのか、また給付のかたち──現金か現物か──といったところで意見が割れそうなので、そこを論じてほしいと感じた。訳されなかった後半はどうなっているのだろうか。
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渋谷を舞台にした西遊記風登場人物によるスターウォーズ

2015-07-27 09:38:32 | 映像ノート
映画『バケモノの子』スタジオ地図, 2015.

  昨日「お父さんは『北斗の拳』を読んで育った人間なので義理がある」という理由で『マッドマックス:怒りのデス・ロード』を目当て映画館に向かったのだが、最終的に家族の間で折り合いがつかず『バケモノの子』を観ることになった。

  事前情報を何も仕入れておらず、細田守についても流行りのアニメ映画の監督であるということ以外何も知らなかったので、「けっ、どうせ山犬に育てられたもののけ姫が成人してエスパー能力を身につけ、その力を使って小学校時代のいじめっ子たちに残酷な復讐をしたあげく、日本全土を焼野原にするんだけど、アシタカの愛にほだされて海か月に帰っていくんだろ。楽しみだなあ」と勝手にストーリーを想像していたのだが、全然違った。

  ストーリーを『スターウォーズ』シリーズを使って簡単に説明すると、千と千尋の湯屋街で無頼派の剣豪三船敏郎に育てられた孤児ルーク・スカイウォーカー(ただしその性格は『Zガンダム』のカミーユ・ビダンのごとく無礼で面倒くさい)と、きちんとオビ=ワン・ケノービから英才教育を受けたのにもかかわらずフォースの暗黒面に落ちてしまったアナキン・スカイウォーカーが、三船vs.ケノービの決闘の遺恨を巡って渋谷の街を舞台に激突するというものである。

  基本は主人公ルークの成長物語であるが、青春ラブストーリー的な側面もあり、図書館においてルークが女子高生にメルヴィル『白鯨』の中の「鯨」という漢字の読みを尋ねるところからその交流が始まる。こんなことを現実にやったら気持ち悪がられるだけなので、若い男性は絶対真似をするなと言いたい。

  そうしたストーリー以上に、舞台となる渋谷の街の再現ぶりには驚かされた。かなり忠実である。Qフロントが出来る以前の渋谷の交差点が再現されているシーンもあり、まだ渋谷に「小奇麗な格好をした若者の街」というカラーがあった1990年代前半が思い出された。その後、渋谷はチーマーやらガングロやらで頭が悪くて野蛮な雰囲気に変わり、街の面白さの面では秋葉原に敗れて凋落した。今でも渋谷は人が多いけれども、かつての色を失い、ごちゃごちゃしているだけになった。などなど、映像を見ながら年寄りの感慨にふけってしまった。

  個人的には、ここ数年映画館で観たのはジブリと『ドラえもん』か『クレヨンしんちゃん』のシリーズ映画だけなので、久々に新しい作家の作品に接することができることが少々喜ばしかった。『マッドマックス』は一人で見るか。
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煩悩の業火に身を焼かれるメタル系ギターインスト作品

2015-07-24 16:29:46 | 音盤ノート
Steve Tibbetts "Exploded View" ECM, 1986.

  スティーヴ・ティベッツの五作目。前作は硬軟バランスの取れた作品だったが、このアルバムは祝祭的に打ちなられされる打楽器とメタル系ギターが暴走するというハードな内容となっている。ECMというレーベル・イメージから想像される静かで上品な音世界とかけ離れた珍品で、異教徒に囲まれて火あぶりの刑の処されているような印象だ。

  ディストーションの効いたギターがとにかく邪悪。打楽器二台とベースのほか、絶叫気味にヴォカリーズする女性コーラスも曲によっては加わり、音を祝祭的に盛り上げる。一応、アコギもカリンバも鳴っているのだが、エレキの歪んだ音にその印象をかき消されてしまう。アンビエントな雰囲気で始まった曲でも途中からメタリックなギターが登場してすべてを破壊し、静かに瞑想する機会を与えない。

  "Northern Song"の恨みはらさでおくべきか、というわけか。個人的にはティベッツの攻撃的な一面を堪能できて面白かったが、パーカッシブな仏教系メタルギターインスト作品と言われても戸惑う人が多いだろう。ファン向け。
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ダンス重視の歌謡曲という埋もれた系譜を発掘する

2015-07-22 08:58:13 | 読書ノート
輪島裕介『踊る昭和歌謡:リズムからみる大衆音楽』NHK出版新書, NHK出版, 2015.

  踊りを軸に展開する昭和流行歌史。占領期のジャズから、1950年代後半から1960年代前半にかけての、マンボなどカリブ海産のラテンのリズムを採り入れた「ニューリズム」(レコード会社がそう煽った)の時代、1970年代後半のディスコとピンクレディー、1990年前後のユーロビートとAvex、と話は展開してゆく。記述の中心はニューリズムの時代で、ロックが覇権を握る以前に、出自の多様な音楽ジャンルが共存した国際的な音楽シーンが存在したことがわかって面白い。

  ただなあ、一周まわっていわゆる「売れ筋」が評価されるだけか、という感慨もある。本書は、鑑賞性の優位に対して、これまで下世話だと考えられてきた「踊り」を対置することによって、これまでの音楽観の相対化を試みるというものだ。鑑賞を優位に置く芸術音楽には、クラシックだけでなく、レコードに高い完成度を求めるような、後期ビートルズを筆頭としたロック音楽もまた入る。この種の二項対立論には、演奏者と聴衆の分離を問題視して、座席に縛られた聴衆を開放する参加型音楽を止揚するというパターンがある。このパターンは1970年代にパンクが登場したときにも、1990年代にクラブミュージックが流行ったときにも使われた。パンクのときもクラブ音楽のときも新しい音楽に出会えたからまだいい。だが、本書では氣志團とかAKB48だ。ちょっと盛り上がらない。

  この図式に対して疑問に思うのは「大衆音楽の世界で「正統」はそんなに強力なのか」という点だ。鑑賞優位の音楽など、洋楽の中のそのまたごく一部であって、セールス的にはまったく大したことはないだろう。それは目の敵にするような抑圧的な存在ではなく、世間ではオタクと馬鹿にされるようなマイナーな趣味の世界にすぎない。こういう貧弱で支配力も無い「正統」に変えて、より売れ筋のヒット作品を持ち上げたところで、日本の音楽は豊かになるのだろうかと感じるところだ。混乱の中で正統を創りだそうとする労苦のほうが僕は評価に値すると思うのだが。

  良い本だし知らないことばかりで勉強になったのだが、著者の相対主義があまり生産的でないように思えたもので。前著では、「伝統的だと考えられている演歌は実は1960年代後半に誕生した」というフーコー風の転倒が目から鱗だった。本書にはそういう驚きはない。僕は、この種の音楽本に対しては、新しい音楽の紹介かまたはすでに知っている音楽の新しい聴き方の教示を期待してしまう。このような僕の期待に問題があるのかもしれない。
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カリンバが美しい宅録ミニマル音楽、たまにメタルギター炸裂

2015-07-20 13:45:37 | 音盤ノート
Steve Tibbetts "Safe Journey" ECM, 1984.

  スティーヴ・ティベッツの四作目。前作のアンビエントな雰囲気を踏襲しつつも、"Yr"にあったロック色も交えた作品である。彼の音楽の幅がバランスよく開示された代表作であり、ティベッツ初心者がまず最初に接すべき作品として薦めたいが、残念ながら現在廃盤のようだ。

  録音はティベッツ以下"Yr"と同じ編成の打楽器隊+ベースによる。このバンドの他に、曲中ずっと持続するドローン音──シンセ音だったりエレクトリックギターだったりする──を加え、音の厚みを増している。本作はカリンバを主にした曲が素晴らしく、国籍不明の民族音楽風ミニマル音楽となっていて美しい(特にtrack 7は名曲)。このほかtrack 1, 6に登場するヘヴィメタル系のエレクトリックギターも聞き物で、静かな瞑想の場に刃物を持った暴漢が現われたかのような混乱ぶりで楽しい。

  なお一応プロデューサーとしてECM総帥のアイヒャーがクレジットされているが、ミネソタ州での長期の録音に付き合うわけがないので、ミュンヘンの彼の元に送られてきたテープから曲の選択や編集をしたというところだろう。したがってティベッツは自由に音楽を構築できたはず。宅録音楽家の面目躍如となる傑作と言いたい。
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個々の子どもは努力させつつ、教育制度にはあまり期待するな、と

2015-07-17 11:29:09 | 読書ノート
中室牧子『「学力」の経済学』Discover21, 2015.

  さまざまな教育方法の効果を統計を使って検証した入門者向けの書籍。データを根拠とした、エビデンスに基づいた教育政策を主張するもので、その背景には「思い込み」に基づいた教育言説によって日本の教育政策が振り回されることへの著者の危惧がある。ただし、紹介される検証結果の多くは、米国で行われた実験によるものである。

  まず第1章で因果関係の解釈について説明し、そのあとの第2章と第3章は家庭でできそうなことの話である。ご褒美で釣って勉強させても問題ない、努力をほめよ、子どもの勉強には親も付き合え、悪友を避けるには引越を厭うな、テレビやゲームに悪い影響はない、幼児教育に投資したほうが効果的、自制心や最後までやりぬく力が重要、などと説得される。ここは、この分野に関心を持っている人ならばすでに聞いたことのある話がほとんどだろう。

  続く第4章と第5章は政策的な話で、少人数教育には学力向上に対する大きな効果はない(けれども貧困家庭の子どもだけは別)、学力は遺伝的能力や家庭環境によってかなり決まってしまうものなのでそもそも教育政策の効果を過大に見積もってはいけない、ただし個々の教師の力量は遺伝や家庭がもたらす格差を覆すものでその学力への影響は大きい、しかしながら教師間競争を煽ったり研修を受けさせたりしても力量は向上しないと説かれる。最後の補論はランダム化比較実験の説明である。

  以上。近年の動向をコンパクトにまとめた良書で、「教育経済学」への興味とは無関係に、効果のある教育方法や政策について興味がある向きを満足させる内容だろう。きちんと参考文献リストも付されている。

  個人的には、本書の内容に従うと、マクロとミクロでは異なる態度を採らなければならなくなるという点は気になった。教育政策によって学力差を大きくコントロールすることは難しいということを認識する──すなわち教育への多大な投資は社会的に見て効率的ではない可能性もあることを認識すべきという──一方で、個々の子どもに対しては生まれによってではなく努力によって人生が決まるのだと諭して勉強させる必要があるということだ。これが親や教師に求められる芸当なのか。ちょっと難しいよな。
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引出の半分だけを見せた他人行儀な音

2015-07-15 09:04:08 | 音盤ノート
Steve Tibbetts "Northern Song" ECM, 1982.

  スティーヴ・ティベッツの三作目。ECMでの最初の録音で、レコードだとA面に5曲、B面に1曲という構成である。打楽器のMarc Andersonとのデュオ作品で、ティベッツはアコギとカリンバだけを扱い、エレクトリックギターは使わない。シンセ音は最後に少しだけでてくる。彼の引出の半分だけを見せたという作品である。

  全体は、癒し系アコギ音楽としてまとめられている。磁気テープも使われているが、ギターでミニマル音楽風のループを作るためで、よくあるミュージック・コンクレート風の使い方ではない。打楽器は主に効果音的な使われ方で、リズムを奏でるときも遠くで木魚が鳴っているような感じである。全編アコギソロ、たまにカリンバだ。前作にあったサイケデリック感は大幅に後退した一方、瞑想的な感覚は増した。

  アコギの音が清涼で気持ちの良い作品ではあるが、地味である。A面はいいのだが、B面の21分にわたる長尺曲は少々退屈。この他人行儀な音は、オスロのECMのスタジオでたった三日で録ったというのも影響しているのかもしれない。ミネソタ州セントポールの自宅スタジオで数か月にわたって録り溜めた曲をアルバムにするといういつものパターンから外れている。次作はもっと彼らしくなる。
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社会の格差の原因についての不吉な知らせ

2015-07-13 08:32:08 | 読書ノート
グレゴリー・クラーク『格差の世界経済史』久保恵美子訳, 日経BP社, 2015.

  格差論。原題はThe Son Also Rises (2014)。邦題では「経済史」となっているが歴史書というわけではない。内容は19世紀から今日までの間、経済体制や社会制度のどのような変化があろうと、各国で親から子へと社会的地位の継承は続いており、それは通常考えられている以上に高い確率で相続されていると主張するものである。

  財産を基準にして親世代と子世代の相関度を測ると、国よってばらつきはあるけれども、だいたい0.4ぐらいになるそうだ。この値が低いほど開かれた社会ということになる。しかし、焦点を財産ではなく社会的地位に充てるならば、どこの国でも世代間の相関度はおおよそ0.7~0.8の間に収まるという。生まれによって、最終的にその人が獲得できるおおまかな社会的地位は予想できるのである。

  その論証のために「希少な姓」が用いられる。貴族出自や農民出自であることがはっきりしている姓を採りあげ、人口中にそれが出現する割合と、医者・弁護士・エリート大学などの名簿に出現する確率を比較するのである。前者の割合より後者の割合が高いということはその姓がエリート層にあるということだ。日本の場合は華族・士族の姓(具体的な名字は挙げられていない)、中国の章では科挙試験合格者の姓が使われている。分析の結果、格差大国の米国と平等重視のスウェーデンの世代間相関度は大して変わらないことが明らかにされる。日英中ほかでもどの国でも同じ程度らしい。

  一方でまた、非常にゆっくりとではあるが、世代を経るにつれて、かつてのエリート層が社会的地位を下降させて平均に近づいてゆく傾向が見られることも確かだという。その理由は、社会が開かれるにつれてさまざまな社会階層間の婚姻が促進され、その子世代の能力が平均化されるからである。同様に、かつての非エリート層には平均に向かう上昇プロセスが観察される。ただし、カーストのあるインドでは、カースト内で婚姻を繰り返すために、国民の平均へ向かったエリート層の地位下降が起こらないという。

  どういうことかというと、社会的地位として継承されているように見えるものの実体は、遺伝的能力であると、著者はいうのだ。結局、地位達成には能力(はっきり書かれているわけではないが、「能力」に我慢強さや人当りなどが含まれていることは明白である)的な要素が大きく、19世紀も20世紀もこの点で大してかわらない。このため、社会保障を充実させようが文化大革命などでエリート層の多くが放逐されようが、社会的地位の世代間相関度は大きな変化を受けないのだ。社会の流動性は政策的にコントロールできないということになる。

  この結果を踏まえた著者の提案は次のようなものだ。スウェーデンの社会的流動性の低さを見て、機会均等のための投資、特に教育への投資の費用対効果は高くないとする。これはヘックマンへの反論にもなっている。かわりに、結果の平等のための単純な再分配で十分ではないかというのだ。また、個人に対しては、能力主義的な配偶者選択──配偶者候補が実際に達成した地位とは異なる基盤的能力を、親族の平均的地位から見極めよというやや複雑なアドバイス──を推薦している。

  正直に言って、個人的には実に嫌な書籍だった。我が一族のような家柄など無い下層庶民を憂鬱にさせる内容である。フォントのわりにはデカいし(A5版サイズだが四六版でいけたはず)。あれこれ難癖をつけたいところだが、長くなったのでここまで。
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小牧市新図書館建設計画に対する雑感

2015-07-10 18:48:01 | チラシの裏
  僕の実家のある愛知県小牧市において新図書館が建設される計画がある1)2)。小牧市といってもあの辺りで暮らしていなければイメージがわかないだろう。県外では「小牧・長久手の戦いで家康が本陣を構えた小牧山がある」という情報を知っている人にたまに出会う。が、史跡がウリという街ではまったくない。重要な点は、東名・名神・中央の三つの高速道路が交わる交通の要地であり、工場とトラックターミナルがたくさんある街だということである。これら法人事業所のおかげで裕福な自治体である。

  現図書館は小牧山のすぐ東にあるが、1969年に建てられたもので古く、その老朽化と狭隘化が懸念されている。というわけで、新図書館という話になったようだが、予定されている敷地は現図書館よりももっと東の名鉄小牧駅前である。この用地選定には紆余曲折があったようだ3)。そして指定管理者になるのがTRCと、CCCすなわちTSUTAYA。この取り合わせって他の図書館にあるのだろうか?TRCはもうすでに図書館の取引業者だから、市のほうが敢えてCCCを加えたかったということだろう。モデルとしているのは武雄市図書館だという。

  僕は武雄市図書館に対して否定的ではない(参考1 / 2)のだが、それをそのまま小牧に持ってくることにはついてはコンセプト面での疑問がある。第一に、武雄では町興しの目玉として図書館が使われたのだが、モノレール事業に失敗(今も廃墟が残っている)しても健全財政である小牧市にそもそも町興しが必要なのだろうかという点。まあ図書館にお金をかけてくれるということに図書館学関係者として喜ばしい気持ちもあるのだが。第二に、武雄の場合は市街地から外れた場所に図書館があったので問題無かったが、駅前にカフェ付の滞在型図書館を作るのは座席取りを激化させないだろうかという点。滞在型は現在の流行となっているとはいえ、駅前ならば回転率を高めるレイアウトにしたほうがよくない?だって名古屋圏なんだから小牧の人はカフェが大好き(参考)、朝から粘るよ。

  とはいえ僕に対案があるわけではないし、出来たら出来たで帰省するたびに訪問しそうだな。カフェ付設ならば、スタバよりもコメダのようなモーニングセットの付くところを望みたい。ああ、また無責任なことを書いてしまった。

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1) 小牧市 / 新図書館の建設
  http://www.city.komaki.aichi.jp/shogaigakushu/library/010859.html

2) 小牧市 / 新小牧市立図書館建設基本計画について
  http://www.library.komaki.aichi.jp/f-topics18.html

3) 当初は「ラピオ」という駅前の商業施設に入る予定だった。なおラピオにはすでに市の児童図書館がある。
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