29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

『利己的な遺伝子』以降、進化論分野で最重要の本だとのこと

2015-06-29 09:29:06 | 読書ノート
フランク・ライアン『破壊する創造者:ウイルスがヒトを進化させた』ハヤカワ文庫, 夏目大訳, 早川書房, 2014.

  科学ノンフィクション。原書はVirolution──"ウイルスによる進化"という著者の造語──で2009年刊。副題がサイトによって異なり、Viruses' astonishing role in the evolution of life on earthが表示されるケースと、The most important evolutionary book since Dawkins' Selfish geneとなっているケースとがあるようだ。後者は副題っぽくないが、邦訳のタイトルページ裏は後者を使っている。最初の邦訳は2011年で、それを文庫化したものを今回読んだ。

  その内容は、進化のメカニズムに別の経路を新たに加えるものだ。通説では突然変異だけが生物種を変えることができるとされてきた。しかし、著者は他に二つあるという。そのうちの一つで最も強調されているのがウイルスを原因とするもので、細胞に入り込んだウイルスがそのDNAにまで侵入して配列を変えてしまうというのだ。このウイルス共生説のほうが、突然変異の蓄積よりも、早い時間での進化を合理的に説明できるという。もう一つは異種交配で、自然に起こるケースもあるという。最後の数章はエピジェネティクスであるが、これまで種の進化の話だったのに、突然個体の表現型が環境にどう影響されるかという話になってしまい、読む方は少々混乱する。

  というわけで前半は驚くべき説の披瀝で面白いが、後半は議論を広げ過ぎたという印象である。また、著者は進化生物学の専門家ではあるが、文章はかなりジャーナリスティックで、ドーキンスのように論理を積み上げて説明するのではなく、著者が興味を持った研究者をインタビューし、その会話を再現しながら話を進めるスタイルだ。ただ、研究者らとの会話は特に面白いものではないので、こうした書き方が冗長さを感じさせる。読む方としては、ウイルス共生説についてたくさんの事例を使って紹介すればインパクトのある書物になったと思うのだが。改めてドーキンスは巧い書き手であることを認識した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人を退嬰に導く悪いやさしさあり

2015-06-26 21:01:28 | 音盤ノート
Giovanni Guidi Trio "City of Broken Dreams" ECM, 2013.

  ジャズ。ジョバンニ・グイディによる最初のECM録音。メンバーは次作(参考)と同じ。スイスLuganoの録音でエンジニアがStefano Amerioというのも同じ。曲がスローバラードとフリーインプロの二種類に分けられるところも同じである。全体のクオリティもほぼ一緒である。

  しかし各曲の完成度については本作のほうがばらつきがある気がする。2ヴァージョン収録されたタイトル曲ほか、マイナーコードの曲はとても素晴らしい。これらは美しい旋律を伴い、情熱をかすかに示しながら崩れ落ちてゆくようなタイプの曲で、静かではあるが地味ではない。一方、明るい曲については並という印象である。フリーインプロ系の曲は、ある瞬間は叙情派、ある瞬間はポール・ブレイ風と変化する。これらについてはまあまあかな。

  とはいえ次作とそれほど大きな違いがあるわけではない。ので二作とも揃えて暗い曲だけピックアップして繰り返して聴こう。落ち込んでいる自分の背中を撫でさすってくれるようで、本当はこのままじゃいけないのだけれどこのままでいいんだよと言ってくれるような、悪い優しさがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

護憲派とは異なる「正しいリベラリズム」を解説する

2015-06-24 07:09:18 | 読書ノート
井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください:井上達夫の法哲学入門』毎日新聞出版, 2015.

  タイトルはアレだが、副題に従えば「法哲学」の入門書である。だが、法哲学的な話に辿り着く前段階の、政治哲学の話のほうが多い。中でも特に著者独自のリベラリズム思想を主に扱ったもので、質問応答形式で展開されるインタビュー本である。二部構成になっており、前半では時評を、後半では著者の思想がどのように形成されてきたかを語っている。

  第一部でまず、著者のいうリベラリズムは、自由ではなく正義を重視する思想であり、その正義概念は普遍的なものであって文化相対主義を許容しないものだと定義する。ダブルスタンダードを許さないその立場から、日本の「リベラル」および保守派の主張を斬ってゆく。慰安婦、天皇制、護憲論などが俎上に載せられ、「リベラル」の欺瞞や保守派の不見識が批判される。ただ、その対案はあまり現実的ではない。例えば憲法9条を削除し、徴兵制を敷くなどといった具合だ。また話題の集団的自衛権論においては、二国間での対応よりも国連による安全保障体制の整備を訴える。だが、国連が機能しはじめるまでのタイムラグの間に集団的自衛権を行使できると、国連自身が定めているわけで、そもそも国連重視と集団的自衛権は矛盾しないものだ言いたくなる。

  第二部では思想形成の歩みを語っている。著者は、ロールズが途中で変節したと解釈する立場に立ち、後期になると正義の貫徹をあきらめて不正な体制も許容するような思想に変わったと批判する。一方で、当初コミュニタリアンとして登場したサンデルは近年ますますリベラルになっていると評価する。この他、近年の政治哲学および法哲学の動向を伝えてくれる。ただし、経済をめぐる議論がすっぽり抜け落ちているのはかなり不満なところだ。本書ではグローバル・ジャスティスの構想に従って、先進国から貧困国への援助が肯定される。ならば望ましい経済体制や資本主義観についても披瀝してほしいところだった。主著を読めということか。

  以上。熱烈なナショナリストでもなく市場原理主義でもなくて、おおむね再分配政策を支持するものの、日本の護憲派リベラルほど安全保障や外交分野で理想主義者ではない、という層のニーズにはそこそこ応える内容である。おそらく主に据えたはずの第二部であるが、著者の思想が十分語り尽くされているかというとそうだという気はしない。第一部の時評の方が面白く仕上がっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暗い情念がほとばしるイタリア人ピアニスト

2015-06-22 10:44:59 | 音盤ノート
Giovanni Guidi Trio "This Is The Day" ECM, 2015.

  ジャズ。欧州系叙情派ピアノトリオ、と言ってもいろいろある。ジョバンニ・グイディは、同じくECM系のマルチン・ヴァシレフスキ(参考)と比べるとずっと重く、トルド・グスタフセン(参考)に近い陰鬱な雰囲気を持ち、コリン・バロン(参考)ほどではないが少々の実験精神があるという、イタリア人若手ピアニストである。本作はECMでの二作目の録音。

  メロディアスであるが、暗めで湿度があるというのが特徴。軽快ではなく硬質でもない。一応Thomas Morgan(b)とJoao Labo(d)を従えたピアノトリオである。だが、ベースとドラムがきちんとリズムを刻むのは、2曲目と8曲目の'Quizas quizas quizas'ぐらいである。4,5,6,9曲目はフリーインプロで、これら以外の曲では、リズム隊はピアノに添えるように静かに効果音を繰り出しているだけである。特にドラムは規則無く打っているように聴こえるが、一応メリハリは付けているようだ。全体としてはソロよりも、耽美で情念ほとばしる楽曲の魅力が圧倒的に高い作品である。とりわけ2,3,12曲目はダークな魅惑に満ちたオリジナル曲で、聴く人をピアノの音に耽溺させてくれる。

  というわけで個人的にかなり気に入った。イタリアといっても北部イタリアのイメージで、晩年のルキノ・ヴィスコンティの世界だな。聴く人を駄目にするような感覚が濃厚。メジャーコードの清廉な曲もいくつかあるが、マイナーコードの曲だらけだったらより完璧になっただろうと感じる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元少年Aの手記に対する嫌悪感はどこからか?

2015-06-19 11:04:25 | チラシの裏
  元少年Aの手記『絶歌』のアマゾン・カスタマー・レビュー数をみたら、6/19日10時時点で1,258件もあった。ベストセラーならばたいがい3桁には達するが、4桁というのははじめてみた。4桁のレビューをもらっている商品って他にあるのだろうか。これらレビューを上手く編集すればこれがまた本になるのではないかとも思った。こういうことを考えるの不謹慎かな?

  出版されて早い時期のレビューを数点読んでみた(全部はちょっと無理)。ほとんどはこの本が出版されることに対する嫌悪感の表明である。しかし、たいていは根源的な嫌悪感というのを巧く表現できていない気がする。理由に挙げられているのは「被害者遺族が了承していない」「真摯な反省に見えない」「匿名である」という点である。それではこれらがクリアされているならば、このような手記に胸糞悪さを覚えないのか。覚えないという人もいるかもしれないが、まだ覚えるという人も多くいるはずだ。おそらくその理由は「殺人の経験が商品となってしまう」ことにあるのだと思う。たとえ『絶歌』発行が遺族から了承され、実名で真摯な反省が書かれていても、加害経験をネタにお金を稼いでいるという事実には変わりない。この点が多くの人の倫理感に触れるというのが本当のところではないだろうか。

  そういうわけで「読みもせずに批判するな」という支持者の批判は当たっていない。あの本への嫌悪感は、主題が本人の加害行為であるという以外、書籍の詳細な内容や表現とは関係ないからだ。あくまでも、読まなくても分かる部分の、自身の犯罪をネタに商売しているということが嫌なのだ。『絶歌』に文学的価値があろうが犯罪者心理を描いた資料的価値があろうがこの嫌さには関係ない。

  しかし、探せば犯罪者による自身の犯罪をネタにした手記など他にもあるだろう。レビューが嫌悪感の表明に留まるならば共感できるものだし、そうした心情は馬鹿にされるべきではないとも思う。だが、絶版や販売停止を呼びかける意見に対すると、僕は理性的の方が先に立って「それはちょっと」という気になる。こういう本が出るというのが、表現の自由を持つ資本主義社会なのだと受け入れるほかない。

  図書館学研究者としては、事件当時とある雑誌の少年Aの顔写真掲載問題が図書館界を騒がせたことを思いだす。今回の『絶歌』の所蔵はまた図書館ネタになるだろうか。ただ、永山則夫を所蔵しておいて今さら『絶歌』を拒絶するというのも難しいだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

税金を正当化する論理に詳しく、トレンドもわかる

2015-06-17 10:24:07 | 読書ノート
諸富徹『私たちはなぜ税金を納めるのか:租税の経済思想史』新潮選書, 新潮社, 2013.

  近代社会における税金の思想史。舞台は英、独、米、EUである。日本の話は「あとがき」に記されており、最後まで気を抜けない。

  まず17世紀革命期の英国で消費税と所得税が導入される。ただし、所得の把握は当時の技術では困難で、馬車の保有とか家の窓の数に応じて課税されたらしい。また、英国では税金は国家を運営するための資金として考えられただけで、商業活動に中立的であるべきとされた。これが19世紀のドイツになると、税金は累進課税によって平等を促進したり、特定物品の税を重くしてその消費を抑えたりするよう使用され、「政策手段としての税」という発想が生まれる。この頃には所得を把握する方法も洗練されてきたらしく、申告課税が可能になっている。

  米国では建国当初から関税収入が政府の財源だった。だが、19世紀後半から企業の独占・寡占が進んだことで国民の懸念が引き起こされ、また国内企業の発達で輸入品からの関税収入が減少したこともあって、20世紀初めの法人税および所得税の導入となった。当初は最低税率1%からだったが、両大戦と大恐慌期のニューディールによって税率が引き上げられ、米国政府の主な財源となったという。

  ところが、世紀後半になるとグローバル化が進展し、多国籍企業の売上の把握が困難になった。また金融の国際化で、金融資産が租税回避のため国外に流出するようになり、やはり徴税が困難になっている。各国は資本流出を避けるために所得税額・法人税額を低め、確実な収入として売上税(=消費税)に依存するようになった。こうした状況に対応する方策として著者は国家をまたぐ税、グローバルタックスを提唱する。その萌芽が2013年に制定されたEUの金融取引税に見られるという。

  大まかな流れは以上のようなものだが、実際は各種税金を理論付ける部分の解説が充実しており、非常にためになる。例えば、多国籍企業への課税における居住地原則と源泉地原則等、課税の論理がわかって啓発される。思想史の名に相応しい良書である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かつての前衛音楽家による愉快な高速ジャズファンク

2015-06-15 14:03:31 | 音盤ノート
Ornette Coleman & Prime Time "Virgin Beauty" Portrait, 1988.

  ジャズ。オーネット・コールマンが先日6/11に亡くなったというニュースを知って、久々に聴いてみた。その昔、1998年の"Skies of America"ための来日公演を観に行った記憶があるが、あまり印象に残っていない。暖かみと湿り気のある彼のサックスはマイルド過ぎて、個人的にはそれほど好きな方ではなかった(鋭角的でゴリゴリしているほうが好きなんだよな)。だが、彼がフリーというコンセプトを打ち立てた偉大な音楽クリエイターであることは確かだ。

  今世紀に入ってからはほとんどスタジオ録音を残していないから、本作は相対的に言って晩年の録音ということになる。メンバーは、コールマン以下、息子DenardoとCalvin Westonの二台のドラム、Albert MacDowellとChris Walker二人によるベース、Bern NixとCharles Ellerbieの二台のギターという編成である。曲によってはGrateful DeadのJerry Garciaのギターが聴ける、ただし楽曲に大いに貢献というほどでもない。全体の音は、反復ビートの上でサックスとギターが舞う軽快なジャズファンクという趣きである。速いけれどもリラックスした演奏で、深みはないけれども楽しく聴ける作品である。

  以前『東京大学のアルバート・アイラー』で菊地成孔が“オーネット・コールマンには黒人的リズム感が無い”という指摘(参考)をしていてなるほどと思ったことがあるが、本作がまさにそう。黒人特有のスウィング感やファンクにありがちなねちっこさを欠いている。ドラムのCalvin WestonはJames Blood UlmerやThe Lounge Lizardsのような、カテゴリはジャズだけどと実際の音はロックというグループでやってきた人だしな。こういうドラマーのいる時代のほうがコールマンはやりやすかったはず。息子をドラマーにしたのも、既存のドラマーに満足していなかったからだろう。彼は、1960年代のアコースティックジャズ時代に強い制約を感じていたと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

著者は訓練で自制心を高めるられると強調するけれども

2015-06-12 21:21:08 | 読書ノート
ウォルター・ミシェル『マシュマロ・テスト:成功する子・しない子』柴田裕之訳, 早川書房, 2015.

  自制心の心理学についての一般向け書籍。マシュマロテストとは、幼児の目の前にマシュマロを一つ置き、数分間一人にして食べないで我慢できたらご褒美に倍のマシュマロをもらえるというものだ。その後の追跡調査で、このとき我慢できなかった子は、10代半ばになった頃には成績が低く、生活も荒れていることが多いというのが明らかになった。欲求の実現を先に延ばす我慢強さは、人生を成功させる重要なスキルだというのだ。

  以上は様々な書籍でくどいほど語られている話。本書は実験を設計した本人が、その詳細とその後の研究の展開を詳しく解説するというものである。実験は幼少時の自制心から将来が分かるというものだから、遺伝的能力を測っているように見える。だが、著者はそうではないと繰り返し強調し、自制心は訓練によって鍛えられるという。そして、そのコツについては本書参照というわけだ。

  個人的には、この書き方は誤解を招く、と思った。訓練すれば以前の自分より忍耐強くなれるというのは確かだろう。しかし、自制が利くかどうかはビッグファイヴの勤勉性(sincerity)の要素であり(参考)、遺伝も影響していると考えるのが妥当だ。したがって我慢強さを鍛えるにしても、コストのかかる人とそうでない人がいると推測される。本書では、そういう個人差については言及がまったく無く、終盤はチャータースクールで忍耐強くなった貧困家庭の子どもが勉学で成功しているというエピソードに話が収斂してしまっている。部分的には、以前取り上げたポール・タフ著(参考)とよく似た話だ。うーん、自制心に影響する要因の分析が無いのは片手落ちだという気がする。

  というわけで少々不満。一方で、現在米国の教育トレンドがよく分かるとも言える。20年くらい前は「自尊心」がやたら連呼されていたが、現在は「自制心」というわけだ。しかし、教育制度に自制心育成プログラムが取り入れられ、全米の生徒の自制心が向上してしまえば、チャータースクールのアドバンテージは無くなるだろう。その先はむき出しの能力差競争になるはずで、その頃のトレンドは何だろうと僕は考えてしまうな。

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幻のベーシストによる貴重なリーダー作だが、主役はサックス

2015-06-10 14:42:12 | 音盤ノート
Frank Tusa "Father Time" Enja, 1975.

  ジャズ。フランク・トゥサはDavid Liebman率いるLookout Farm(参考 1 / 2 / 3)のベーシスト。リーダー作は本作と"Reunion Of Old Spirits"(Tuse, 1997)だけのようで、サイドマン参加作品もそんなに多くない。活躍した時期も1970年代に限られ、1980年代初頭にニューヨークからサンフランシスコに引っ越した後は名前を聞かなくなった。音楽活動は続けていたようだが録音機会にめぐまれなかったようだ。

  本作はLookout Farm番外編で、バンドの各部分を取り出してデュオやトリオで演奏するという趣向。全曲トゥサ作である。他のメンバーはおなじみのデイヴ・リーブマン (sax), Richard Beirach (piano), Jeff Williams (drums)の三人、およびBadal Roy (tabla)であるが、全員揃うのは一曲目だけ。そのtrack 1 はゆったりとしたグルーブのファンキーな演奏。続くtrack 2はリーブマンとバイラークとのトリオによるバラード、track 3はロイによるタブラとベースのアルコ弾きのデュオによるサイケデリックな曲、track 4はバイラークとのデュオでフリーインプロっぽい曲、track 5はリーブマンのフルートとのデュオ、track 6はウィリアムズとリーブマンとのトリオによる、オーネット・コールマンのようなユニゾンで始まり後半はリーブマンがコルトレーンのように暴れて終わる曲。以上のような構成である。

  全体としての主役はリーブマンなのだが、まあ小編成で手を変え品を変えだとそうなるわな。男気と刃物のような彼のサックスが入ると異様に盛り上がってしまい、完全に曲を持って行かれる。ドラマーやベーシストがリーダーをするならば、バンド全体を使ってサウンドコンセプトを示したほうがインパクトが残ったはず。しかし、本作は奏者の組み合わせを試みすぎた。トゥサとしては様々なタイプの曲が書けることを示したかったのだろうが、逆にリーダーとしての印象を弱めてしまった。そこそこ才能があって、かつ自己顕示欲の少ない良い人なんだろうな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バズワード「反知性主義」の基本書籍であるが、それなりに古い

2015-06-08 13:37:55 | 読書ノート
リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』田村哲夫訳, みすず書房, 2003.

  近年日本で流行しているらしい概念「反知性主義」。本書はその基本書籍らしいので読んでみた。邦訳は2003年だが、原書は1963年発行のAnti-Intellectualism in American Lifeである。著者によれば、ニューディール時代は知識人重視の風潮だったのに、マッカーシーの赤狩りからアイゼンハワー時代は反知性主義の時代に変わり、ケネディ政権になってまた知識人が評価されるようになった、とのこと。米国でも常に反知性主義が勝っているというわけではないようだ。本書はそうした一潮流の起源と展開を追うものとなっている。

  検討されているのは、宗教、政治、ビジネス、教育領域での反知性主義である。そのベースとしてキリスト教における平等主義とプロテスタントの反ヒエラルヒー志向がある。当時無教養で学のない説教師を抱える宗派がたくさんあったのだが、信者獲得競争において、彼らは同じく無教養な開拓民を自宗に改宗させるために、聖書にもとづかない主張でも民衆に受けるならば堂々と展開し、また受け入れた。彼らは、正しいキリスト教を唱えるグループ──たいていはきちんと組織だった宗派に属し、かつ教育を受けた層──に対して、エリート主義的で差別的とレッテルを張って対抗した。

  政治やビジネスの世界では、叩き上げ志向のマッチョな世界が19世紀末まで幅を利かせていた。この時代は育ちが良いことが成功にとってマイナスの符牒となったという。ただし、20世紀になって米国経済が発展して複雑化すると、企業は官僚制を整えなくてはならなくなる。結果、大卒者を軽視できなくなって、その地位は高まった。セオドア・ルーズベルトの時代はそうした時代の転換だとのことである。教育界は、20世紀になるとジョン・デューイの影響で児童・生徒の内発的欲求を指針とする教育方針に変わってしまい、教師による方向づけやカリキュラム選択を忌避するという方向に展開した。結果、一部で教育が機能しない状況を生み出していると指摘している。

  以上。時代の雰囲気を追いやすい記述でありわかりやすいが、反知性主義の論理と十分対決しているという印象ではない(教育の部だけ例外である)。全体として、インテリ軽視の雰囲気が続いている、あるいは変化しているという歴史的展開の話に終始している。読者としては、各時代の学問の水準を考えれば、「教育を受けた人に対する優位」に対する懐疑というのはわからないでもないというのが本当のところだ。結局、学問の有用性が重要なのだろう。現在の米国は世界各国から俊英をあつめ、知識と才能がもっとも敬意を受けかつ金銭的に報いられやすい国である。経営には科学的知見が導入され、政権ブレーンには必ず学者が混じるという国であって、現在も反知性主義が主となる潮流となっているとは言えないだろう。

  というわけで歴史的名著ではあるものの、これを読んで反知性主義に抗するロジックが身につくというものでも、また現在のアメリカや日本の状況がわかるというものでもない。また、日本人が読むには長すぎるという印象もある。ただ、数多ある反知性主義を主題とした書籍と比べれば、本書が中立的でバランスがとれているというのは確かである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする