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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

新しい「人間と動物の境界」は意識志向水準

2011-10-31 10:41:33 | 読書ノート
ロビン・ダンバー『友達の数は何人?:ダンバー数とつながりの進化心理学』藤井留美訳, インターシフト, 2011.

  進化心理学者による雑学エッセイ。ほとんどの章はスコットランドの新聞に寄せた記事がもとになっており、参考文献のリストは無い。基本的な著者の主張は、主著『ことばの起源』(参考)にまとめられており、これはそこでの議論を拡張した内容である。

  トピックは、ダンバー数や、毛づくろいと言葉の関係など著者の専門領域から、男女の配偶行動の違い、インテリジェント・デザイン論への批判といった、進化論でよく扱われるものまで幅広い。このあたりの小ネタは楽しいものの、現在の進化論研究を受け入れてしまっている読者にはそれほどの驚きはないと思われる。

  しかし、後半1/3のトピックは興味深い。そこでは、自分の心を読んでいる相手の心をさらに読み返すという人間独特の能力から、文化や宗教の起源が考えられる。人間は、普通の人で五次までの意識志向水準──「私がそうだ彼が気づいているのを私は知っていると彼は思っていることを私は分かっている」──まで持つことができるらしい。類人猿は二次で、他の動物はそれ以下である。この線引きが、いまのところ人間と動物の新しい違い、ということになるようである。
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1980年前後のゲームセンターの音を再現

2011-10-28 08:58:15 | 音盤ノート
Wim Mertens [Soft Verdict] "For Amusement Only" Les Disques Du Crépuscule, 1982.

  ベルギーのミニマル・ミュージック系の作曲家、ウィム・メルテンのデビュー録音。後のCDは"Wim Mertens"名義に変更されているが、当初LPで発表された時は"Soft Verdict"というソロ・プロジェクト名義となっていた。

  内容は完全にエレクトニカである。それもチープな電子音の反復で構成されるCluster的(参考)な初期の実験的電子音楽。コンセプトはゲームセンターであり、機械の声が「コインを入れよ」と促す曲から始まり、ピンボールやインベーダーなどのゲームの音を再現する曲が続く。連射音には笑いを覚えるだろう。ライヒ的なずらしのテクニックが使われているのはミニマル音楽の研究家らしい。だが、レーベルがクレプスキュールで1980年代という背景を考慮すると、当時のリスナーはニューウェーブ系の新人だと誤解したと思う。

  そのようなわけで、後年のメルテンの音楽をここからは想像できない。後の代表作の"Maximizing the Audience"(Crépuscule, 1985)で聴けるような、叙情感のある室内楽とはまったく異なっている。アイデアと遊び心だけでつくりあげた作品である。
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米国エリートの養成過程をめぐるあれこれ

2011-10-26 09:14:38 | 読書ノート
佐々木紀彦『米国製エリートは本当にすごいのか?』東洋経済新報, 2011.

  米国のエリート教育に関するエッセイ。著者は東洋経済新報の記者で、休職した後にスタンフォード大学へ留学し、二年間の大学院修士課程を過ごしたそうである。雑獏とした内容で体系的ではないが、鋭い知見が披瀝されているところもあり面白い。

  米国の大学における「講義」は、日本でのそれと同程度のつまらなさらしい。だが、少人数で行うゼミ形式の授業はとても充実しているらしく、毎週本格的な書籍を読んで、レポートを書き、議論する、という過酷なものである。そのような授業を週四つ取ると、学生は年間120冊の本を読むことになるとのこと。この膨大なインプットとアウトプットの体験が、エリートたちの基礎的な知識と論理的思考力、さらには表現技術を高めているようだ。

  そうした少人数の授業で伝授される「教養」は、経済学、歴史、国際政治を例にした戦略的思考、の三つであるという。このあたりの記述は、他の文系分野が、米国大学内でのエリート教育としてどう位置づけられているのか、不明確な点もあって納得しがたい。日本だと「教養」に入ってきそうな、哲学などは軽視されているのだろうか。また、報告に徹しず、著者の見識を開陳する部分も多くて、テーマから逸れる箇所である。とはいえ、上記三つの分野を、国の指導者となる層の必須教養だとみなす米国のセンスは理解できるものである。

  ただ、優れたエリート教育だけで米国指導層に優れた人材が集まるというものでもないだろう。彼らを埋もれさせない、選抜・抜擢のメカニズムが米国にはあり、それは日本とかなり異なるもののはずである。米国の上司は、有能な部下を潰したりしないのだろうか。
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埋もれたシューゲイズ名盤

2011-10-24 09:59:27 | 音盤ノート
All Natural Lemon & Lime Flavors "Turning into Small" Gern Blandsten, 1998.

  ロックのサブカテゴリのうち「シューゲイズ(shoegaze)」に入る音。米New Jersey出身の男五人組のバンドだが、My Bloody Valentineそっくりの男女(?)ツインボーカルを聞かせる。1996年にセルフタイトルのデビュー作を発表し、1998年にセカンドアルバムとして発表されたのがこれ。その後解散し、シングル編集盤"Straight Blue Line"(Gern Blandsten, 2000)を残して、現在メンバーはバラバラになってソロ活動を続けているようだ。

  この作品は、デビュー作にあったギターポップ臭を完全に消し去り、マイブラのように揺れるチェーンソーギターサウンドと、Cocteau Twinsのように荘厳なシンセ音と、Stereolabのような正弦波反復機械音を組み合わせた、複雑で洗練された作品である。ほんとんどの曲で、ボーカルはメロディを辿る以上に、特定の音を一つ一つ囁くことに専念している。おまけに変拍子あり、プログレ風の複雑な曲展開ありで、実験的でわかりやすい作品とは言えない。しかしながら、それでもなんとか「ポップ」の範疇にまとめている。特に女声役の男性ボーカルはマイブラのBilinda Butcherにそっくりの声で歌い、「大人の女性の近づきがたさ」という二重に倒錯した魅力を提供している。

  あまり知られていないバンドだが、この作品は、青臭さを伴わなくてもシューゲイズは成立するということを証明した点で意義が大きい。シューゲイズには、楽器下手な若造が音に厚みを出すべく手を出すジャンルで、技能が向上して表現力が増せば自然に卒業してゆくもの、というのイメージがあった。ところが、このバンドは卓越した演奏力で完成度の高いシューゲイズ・サウンドを奏でる。その点で、"Loveless"以降、このジャンルを一歩進めた瞠目すべき作品だと言えよう。もっと長期に活動していれば、評価されたと思う。
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リベラルな親父はうまくしつけられない、だって

2011-10-21 10:55:07 | 読書ノート
ポー・ブロンソン, アシュリー・メリーマン『間違いだらけの子育て:子育ての常識を変える10の最新ルール』小松淳子訳, インターシフト, 2011.

  育児本だが、ノウハウを伝えることよりも、教育心理学の分野に立ち入って育児常識を検証し、失敗の少ない育児方法を伝えることに主眼がある。著者らはジャーナリスト。副題にあるように10章構成だが、「そんなのわかってるよ」というトピックもあり、新鮮度に関しては玉石混交である。内容は下記。

  最初の章のトピック「子どもはほめられるとかえって失敗を恐れるようになる」という説はすでに別の本のエントリで言及した内容と同じ。

  次に「睡眠時間を削ると脳の発達が促されず、学力・情緒的安定が低下する」。なので学校の始業時間を遅らせろという提言となっているが、親に早く寝かせろとアドバイスした方がいいと思うのだが。

  「異人種を同じ学校に通わせても交流は深まらず、人種的偏見の排除にたいした解決策はない」。解決不能と直接は書いておらず、一見ポジティヴにまとめているが、読み取れることは楽観的ではない。

  「子どもは正直ではないが、親や周囲の大人の対応によって嘘をつくことがさらに助長されてしまったりする」。

  「学力が伸びる時期は子どもによってそれぞれ違う」。この章のタイトルは「IQはうまれつきではない」となっているが、幼児期の知能の発現時期にバラつきがあることを記しているだけで、遺伝を問題にしているわけではない。

  「きょうだいの仲の良さ/悪さは、上の子がすでに持っている友人関係によって培われ、それが下の子の扱いに投影される」。

  「反抗期は成長において意味がある」。反抗期のピークは14-15歳。中学生の頃であって、高校生の頃ではないという指摘は面白かった。

  「我慢強さや自制心のある子の方が、将来幸福になる」。ここでは、有名なマシュマロ実験とは別の切り口で論証している。なんでも、幼児に「心の道具(tools of the mind)」なるカリキュラムを受けさせると、驚くほどの学習効果があるそうなのだが、ポイントはそれによって認知的制御が学ばれるということらしい。読む限りでは、工夫されたごっこ遊びにすぎないのだが…

  「いじめは、社会的スキルに優れた人気者によって行われることが多い」。いじめっ子は単純に「悪を認知できない頭の悪いやつ」なのではなく、周囲の状況を適切に把握し、人を動かすのに長けているという。読んでみると納得。

  「赤ちゃんには、一方的に言葉を聞かせるのではなく、親が発話に反応する(具体的にはスキンシップ)ことで、その言語能力の発達が促される」。

  以上。ところで、原題"NurtureShock"は、ハービー・ハンコックのアルバム"Future Shock"(Columbia, 1983)をもじったものか。

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とりあえず復活を歓迎、新しいスタジオ録音を期待

2011-10-17 08:47:56 | 音盤ノート
Date Course Pentagon Royal Garden "Alter War in Tokyo" Impulse!, 2011.

  1970年代マイルス直系の邦ジャズで、混沌としたファンクネスをそのままに変拍子でグルーヴを創り出すという趣向。1999年から2007年まで活動して、3枚のオリジナルアルバムと数枚の企画物・ライブ盤を残した。ライブ盤"Musical from Chaos"に関しては過去にエントリも記している。

  今回のアルバムは復活第一作という位置づけで、なぜかレーベルがP-VineからImpulse!に。日本盤のラベルは確かにあの名門インパルスだが、その商標を持っているVerveのHPではDCPRGの名を確認できず、国内だけの発売なのだろうか。また、メンバーは大幅に変更されている。残っているのは主幹の菊地成孔、坪口昌恭(keyboard)、津上研太(sax)、大儀見元(Percussion)の四人で、強力だったツインドラムとベースは入れ替わり、鍵盤がもう一人増え、ホーン隊は3人に減った。

  個々のソロは素晴らしい。特に津上研太とヘビメタ風ギタリストの大村孝佳はかなりスリリングで楽しめる。トランペットの類家心平も水準以上。鍵盤を二人にしたのは、キース・ジャレットvs.チック・コリア時代のマイルス・バンドをイメージしたのだろうけど、両者が大胆に絡む機会は無く、十分機能していない印象。最大の問題は、金管部隊が3人という少なさのせいか、ユニゾン部で音の厚みが足りず、パワーに欠けること。次にリズム隊が端正すぎる。ツインドラムなのに役割分担がうまくなっていってないようで、その他打楽器の大儀見一人が混沌感を出すべく踏ん張っている印象。ドラムの音が小さめに処理されているせいか?

  このように、これまでの録音と比べるといくつか問題はある。とはいえ、酷すぎるということもなく、バンドの復活作としてはまあまあといえるだだろう。DCPRG以外の菊地の仕事は上品すぎるという不満をもっていたので、今後の活動を期待したい。
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多摩での全国図書館大会雑感

2011-10-15 11:46:33 | 図書館・情報学
  昨日、東京多摩地区で行われた全国図書館大会に参加してきた。観に行ったのは調布で行われた第3分科会「電子書籍と図書館」で、日本図書館協会の大学図書館部会、出版流通委員会、著作権委員会、障害者サービス委員会の四委員会の合同企画。僕は出版流通委員なのだが、何も仕事がなかった。

  出版社、公共図書館、大学図書館、障害者サービスそれぞれの立場からの報告、そして米国公共図書館の状況についての報告ががなされた。総じて日本の場合、デバイスはあるがコンテンツが無いということと、権利者が安心してコンテンツを流通させることのできる仕組みが無いということが衆目の一致するところである。こういう状況で、図書館は様子見に徹するべきか、それとも積極的に行動してイニシアティヴを採るべきか、というのが意見の分かれるところだった。講演者のうち、立命館の湯浅俊彦さんは後者で、愛知大学の時実象一さんは前者である。

  出版流通委員会としては電子書籍ネタは三回目なので、特に関心があるというわけでもない分野なのに僕はかなり詳しくなってしまった。まったくもって湯浅氏のおかげです。来年島根もこの流れなのかな。ちなみに僕はKindleを使っている。
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静岡書店事情2011

2011-10-12 09:41:01 | チラシの裏
  新静岡の新駅ビル「セノバ」に行ってきた。5Fに丸善&ジュンク堂が入ったからだ。まだオープン6日目だったので非常に混雑しており、書籍を買うのにも長蛇の列を並ばなければならなかった。

  目についたのは陳列方式で、平積み一切なしの、全点書架陳列。すでに駅前葵タワーに入っていた戸田書店は、売場面積850坪で蔵書60万冊。対してこの丸善&ジュンク堂は、売場面積700坪で70万冊(いずれも朝日新聞静岡版朝刊2011/10/4より)である。後者の圧縮陳列ぶりがうかがえよう。売れ筋に頼るのではなく、多品種少量販売すなわちロングテール狙いという戦略なのだろう。まあインターネット書店とも戦わなくてはいけないからね。個人的には大歓迎だけれども、静岡にマニアックな人は少ないから在庫リスクは高いかも。
  
  静岡では大きな書店といっても、人口70万人の都市なので、東京や大阪の店舗と比べると小さい。だが、それでも僕が四年前に来静したときに感じたときの悲しみを思い起こせば、最近の新刊書店の規模がどんどん大きくなってゆくことは喜ばしい事態である。しかしそのあおりくうところもある。数年前まで市内で一番大きかった谷島屋呉服町(400坪40万冊)は、今後どういう手を打つのだろうか。
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「能力に応じた処遇は差別である」は日本独特だという

2011-10-10 18:58:05 | 読書ノート
苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ:学歴主義と平等神話の戦後史』中公新書, 中央公論, 1995.

  日本における大衆的な学歴獲得競争社会の成立について、諸外国と比較しながら考察するもの。かなり硬派な内容だが、学部生時代にこの本を読んでえらく感動した記憶がある。最近になってそこで展開された論理の詳細をさっぱり忘れてしまったので、16年ぶりに読んでみた。

  その問題意識は次のようなものである。出身階層に関わりなく誰でも平等に学歴を獲得でき、社会全体にメリトクラシーが行き渡った社会を「大衆教育社会」とする。このような大衆教育社会は、出身階層によって教育機会に不平等が発生する欧米の教育制度に対する見方とは異なっており、日本独特である。このような社会はどのように成立したのか?

  前半では、出自に関係無く教育機会が開かれていると“一般に思われている”日本の教育制度が、実際は欧米と同程度に出身階層によって機会が異なるシステムであることを明らかにしている。しかし、学歴エリートの文化は大衆文化と連続性をもち、上中層の文化と強い結びつきを持たないがために、日本の制度は一見平等であると誤認されてしまっている。そのため、誰にでも階層を上方移動できるチャンスがあるとみなされ、全ての階層が学歴獲得競争に巻き込まれ、その結果メリトクラシーが社会全体に浸透したという。ちなみに諸外国では、メリトクラシーは労働者階級の価値観ではなく、中流的なそれである。

  後半では、日本の大衆教育社会の成立の原因を、日本独特の平等観の成立に探っている。諸外国では、マイナスイメージのあるカテゴリに属することを持って個人の処遇を決めることを「差別」とするが、個人を能力に応じて処遇することは差別ではない。しかし、日本の学校では、後者は差別と見なされる。能力別学級編成などを行うと、学力が低いとされるクラスに入れられた生徒に劣等感をもたらすので、それは「悪」だということになる。このような見方は、昭和30年代に日教組内の議論において成立した。こうして、現実の不平等が隠ぺいされながら、誰もが平等に学歴獲得競争に参加する社会が誕生したという。

  最後は、1990年代前半までの教育に関する議論への注意喚起である。当時は、画一的な教育を止めて、個性や多様性を軸とした人材育成をしようという議論が流行していた。著者は、個性や多様性といった観点を成績評価に組み込むと、特定の階層が有利になるのではないかと危惧している。

  16年後の現在からみると、著者が危惧したことは起こらず、加熱した受験競争も無くなった。しかしながら、このような時代でも誰もが学歴による評価を避けられないという点で、著者の言う「大衆教育社会」はまだ続いていると言える。その点で現在でも読む価値のある内容である。
  
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瞑想的な反復電子音楽、ギターソロが無ければ完璧だった

2011-10-07 11:09:54 | 音盤ノート
Manuel Gottsching "E2-E4" Inteam, 1984.

  ジャーマン・プログレの流れをくむテクノ。すでにエレクトニカ黎明期の記念碑的作品として評価されており、作品評価の変遷や作者マヌエル・ゴッチングの来歴については省く。

  内容は、1トラック59分弱の、ミディアムテンポで進む電子音のフェーズの反復と微細な変化を聴かせるミニマル的な音楽である。テクノといっても踊れるようなものではなく、かといってアンビエントにもならず、聴き手の気分を高揚も憂鬱にもさせない。情動のさらに奥にある深層心理に響くといったところか。展開も工夫されており、注意して聴いても退屈せずに楽しめる。

  トータルな完成度は高いものの、一つの難点はギターが入ることである。後半になると、電子音のシーケンスの上で、ディストーションをかけない澄んだ音のエレクトリックギターのソロが展開される。アドリブで自由にメロディを紡ぐこのギターソロは、これまでのストイックで抑制された音像に亀裂を入れるもので、あまり評価できない。かえすがえすのも電子音だけで勝負してほしかったと思う。

 「ギターソロさえ無ければ」という感慨は、同じくゴッチングの"Inventions For Electric Guitar"(Kosmische Musik, 1975)にも持った。ギタリストにギターソロ弾くなというのは奇妙な願望かもしれないが。
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