29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

亡くなった同僚の思い出など

2013-03-30 17:30:14 | チラシの裏
  先日、同僚が亡くなり通夜に行ってきた。慶応大学院の修士の時は同じ細野公男ゼミに属した人である。僕と同い年だったが、彼は現役合格、僕は浪人経験者なので一年先輩ということになる。ただし、彼の慶応在籍は大学院からで、学部生のときは都内の別の私大に通っていた。彼は、後期博士課程を満期退学したあとすぐに千葉の女子大に専任講師として採用されていた。一方の僕は、静岡の短大に採用されるまで8年も非常勤暮らしをしたので、彼のキャリアを大変うらやましく思ったものだ。

  プライベートな付き合いがなかったので、連絡を頻繁にとっていたわけではなかった。最後に会ったのは、2006年の同ゼミ先生の退職記念パーティだった思う。その後、噂で彼がたびたび体調を崩しているという話は聞いていた。同時期に大学院を過ごした仲間たちは、彼のことをよく心配していた。久しぶりのやりとりがあったのは、僕が勤務校を異動することになって、埼玉の大学の専任になることを彼に伝えた昨年の秋である。その際、お互い近くなるので、春になったら久々に会いましょうという約束を交わした。そして、その春を迎えたのだけれども、僕と再会する前に彼はガンで亡くなってしまった。

  彼の通夜で、残された彼の奥さんと小学生低学年だと思われる男の子の姿を見て痛切な気持ちになった。自分もその子と同じ年頃に父を亡くした人間であるからだ(僕の場合、その後母が再婚して義父ができたが)。その子の年齢では、父を亡くしたことの意味もよくわからないだろう、いずれ父親の立居振舞や声色などもまったく記憶から消え去ってしまうだろう、僕がそうだったように。父親は写真や書き残したことを手掛かりにその姿を想像する存在に変わる。反抗の対象としたりその老いてゆく姿を見る機会ももう無い。その子は、そういう欠落を経験することになる。けれども、その子はちゃんとやっていけるとも思う。そういう境遇にある多くの子どもたちもなんとかやっているのだから。

  人づてに聞いた話では、彼は慶応の大学院に入って「自分より賢い人がたくさんいる」と悩んでいたそうだ。スマートでクールな印象の人だっただけに、僕には意外に思える悩みである。今思えば、僕らに内面をさらけださない、打ち解けない感じがあったのも、そうした疎外感を持っていたからかもしれない。それでも、その中できちんと努力してきたので、周囲から評価され、早くに専任になることができた。昨年には共著の教科書の執筆もしている。惜しい人物である。図書館情報学にとっても、中堅どころの働き盛りの研究者を失ったことになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

短大図書館の図書課長最後の一年を終えて

2013-03-27 23:49:11 | 図書館・情報学
  現勤務校では、教員のかたわら図書館で図書課長なる中間管理職を三年やらせてもらった。それ以前の二年は、館長補佐という何の手当もつかない非公式のポストを与えられて図書館運営に携わっていた。いわゆる事務仕事を課せられていたわけで、他教員からは「面倒くさいことをやらされて可哀そうですね。研究時間も削られるでしょう」的なコメントをもらうこともあった。けれども、小規模とはいえ大学図書館のマネジメントに関与させてもらったことは、僕のような図書館情報学の研究者としては得難い経験になったと思う。この分野では、実務家から研究者になるというキャリア形成のパターンはあるけど、研究者をやってから実務家になるというのは──大学図書館の館長職以外では──あまりないみたいだからだ。とはいえ、何か自慢できることをやったというわけではないのだが。

  ただし、実務といってもカウンターに立ってあれこれ経験したというわけではない。企画・管理と他部署との交渉が主な仕事で、もっと理念的なところでは、限られた人員と予算の中で諸サービス間のトレードオフを見極め、効果的な資源配分となるよう意思決定するというのがその役割だった。大学図書館では、所属教員の研究支援または学生の学習支援となることを重点的に行えば良いという方向性が明確である。その点でその役割が曖昧な公共図書館よりやりやすい。その優先順位は明確で、まず開館してカウンターに必ず人がいるような状態をつくることが第一、次に研究用資料の迅速な発注(遅いと教員からのクレームに直面しやすい)、そのまた次に購入した書籍の装備と配架である。ちなみに、購入書籍の選択は教員がする。予算や人員が減らされれば、図書館がこれまで行ってきた他のこまごまとしたことはできなくなる。

  で、平成24年度は人員が減らされた。平成23年度まで図書館職員3人体制(実質教員である館長・課長の管理職は除く)で、一人専任で二人週5日勤務のアルバイトという人員だった。ウィークデーは毎日3人でまわすことができた。ところが今年度になって、世間の流れと同様に予算を減らされ、専任を置かない三人アルバイト体制とされ、うち二人はフルタイムではなく週4日勤務という人員で図書館をまわすことになった。ウィークデーのうち二日間は二人しか図書館職員がいないことになる。図書館内で毎週16時間分の労働時間が減ったわけである。また、唯一週5日勤務のアルバイトはまったくの新人で、週4日勤務のベテラン図書館員二人は教育係も兼ねることになって負担も増えた。(この他の要因もあって図書館運営は半年の間混乱し、結局昨年10月から一人専任二人週4日勤務アルバイトに変更された。要は年度当初の人員配置は大失敗だったわけだ。)

  そういうわけで、労働時間を上記の優先順位の高いルーティンに集中し、これまで行われてきた追加的なサービスへの労働力の投入をできるだけ避けるという方針で今年度の図書館を運営してきた。そうしたら一部教員がそれに不満を感じていたようで、年度半ばにクレームをつけてきた。具体的にその内容は記さないが、一定額の投資をしたのに今年度十分に使用しなかった返却用設備についてである。僕に言わせれば、彼はサンクコストにこだわり、図書館が投入できる労働量に限界があることがわかっていない素人考えにすぎない。なので、僕の指示で図書館ではそのクレームを無視した。お金がなければサービスの質は落ちるのは当然のこと。文句があるなら予算をつけろということだ(そもそも彼は今年度の図書館の人員構成に関与した人物である)。本日開催された短大運営の各部署の反省会でも、その彼はその不満をぶつけてきたが、ガス抜きの機会なので言わせておいた。僕の後任もまわりからいろいろ小言を言われるだろうが、そういうのに右往左往しないようにしてほしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「しっぺ返し」することではなく、協調することを強調している

2013-03-25 21:11:48 | 読書ノート
R.アクセルロッド『つきあい方の科学:バクテリアから国際関係まで』松田裕之訳, ミネルヴァ書房, 1998.

  ゲーム理論を使って、どのような関係の取り方が利益を最大限に引き出すことができるかについて考察した著作。原著は1984年で、いまやさまざまな本で言及される古典である。

  この書籍は、しっぺ返し(tit for tit)戦略、すなわち「基本は相手と協力するが、裏切られた場合は必ず仕返しする」という振舞い方がもっとも効果的であると示したことで知られている。この場合の「効果的」とは、「繰り返し訪れる囚人のジレンマ状況において、協力/裏切りを決定する様々なパターンのプログラムを競わせるコンテスト」を著者が催した際、しっぺ返し戦略がもっとも点数が高かったことを意味している。それも二回のコンテストでどちらにおいても最高点だった。著者はこの事実から、弱肉強食の生物の世界でも、互恵的な振舞いがかならずしも搾取されるだけの不利な立場ではなく、進化・発展してゆく可能性があると論じている。

  以前言及したケン・ビンモアによる長い批判(参考)によれば、しっぺ返し戦略が有利に展開するかどうかは初期状態に左右されるという。アクセルロッドのコンテストのような群雄割拠の状態でゲームが始まらないケースが多々あるので、一般化できないというわけである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寝るときに耳たぶを掴まれることがなくなって

2013-03-24 20:38:01 | チラシの裏
  昨日新居でネットが開通。それはいいのだけれども、こっちでもまた単身赴任を続けることになり、この週末が新居で初めて家族で過ごす夜となった。静岡では2DKの公団に住んでいたが、新居はやや広くなり、子ども用の部屋を作ることができた。まあ「荷物置き場」と言った方が正確なのだが。しかし、この部屋がちょっとした変化をもたらした。

  静岡では、家族が来ているときは三人で川の字になって寝ていた。僕の娘は、幼いころから親の顔の一部を手で掴まないと寝入らないという変な癖があって、隣に寝ている僕のほっぺたの肉かまたは耳たぶをその小さな指でつまんだものだった。そうすると安心するのか、目を閉じてすやすやと眠りに落ちる。このような習慣がつい最近まで続いていた。

  ところが、初めての自分の部屋──とても狭いのだが──が気に入ったらしく、娘曰く「この部屋で独りで寝る」と。そうだよな、もうすぐ小学三年生だしね。プライバシーとか欲しいよね。でも、夜怖くなったらお父さんとお母さんのところに来てもいいんだよ、と一応告げておいた。けれども、結局娘は自分の部屋で一晩過ごすことができた。子どもの成長を感じたとともに、一抹の寂しさも覚えた一件だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔読んだ本で見かけたニューウェーヴバンド、訳者に無視される

2013-03-18 16:59:14 | 音盤ノート
Talking Heads "Remain in Light" Sire, 1980.

  ロックとファンクとアフリカ音楽を融合させた1980年代のロック名盤として知られているが、個人的にはその姉妹作"Life in the Bush of Ghosts"の方を気に入っている、とかつて書いた(参考)。このアルバムのレビューは大量に存在するので、内容についてはあれこれ述べるまでもないだろう。

  ずいぶん前に読んだスティーブン・ピンカーの『言語を生みだす本能』(NHK出版, 1995)の、その第7章のタイトルはそのものズバリの「トーキング・ヘッズ:文を理解する心的プログラム」である。しかしながら、訳者解説は、本書がローリング・ストーンズなど1960年代のポップミュージックから採ったフレーズを散りばめていることを指摘しているものの、章タイトルにまでなったこのバンドには言及していない。

  言及不要であると判断された、すなわち1980年前後のニューウェーヴ・バンドについて知識は、日本では大衆文化の教養にはなっていないということなのだろうか。それとも訳者の世代のせいだろうか。まあ、前者だろうな。トーキングヘッズって、都会のインテリ向けロックというイメージがあり、大衆的な受容を拒絶しているところがあった。ピンカーを読むような米国のインテリには通じるが、日本の読者にとっては何の含蓄も無い記号ということなんだろう。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読んでみて恥ずかしながら全然分からなかった二冊

2013-03-17 14:44:24 | 読書ノート
ジョン・パスモア『分析哲学を知るための哲学の小さな学校』大島保彦, 高橋久一郎訳, ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 2013.

  入門書だと思って取り組んでみたら、全然歯が立たなかった。分析哲学の分野でいったい何が問題になっているのかちんぷんかんぷんのまま。デリダだのローティだの名前だけは知っている人が出てくるものの、どういう役割を担っていたのかもわからない。たぶん、あらかじめこの分野について基礎知識のある人が、ざっと議論の展開を掴むために読むものなんだろう。


ケン・ビンモア『1冊でわかるゲーム理論』金澤悠介訳, 海野道郎訳, 岩波書店, 2010.

  同じくわかりやすく書かれていると期待して手にとってみたが、全然そんなことなかった。ロジック重視で適用対象についての解説が少なく、その分面白みが少ないという印象。入門書はそれなりに読んできたけど、これはそれに該当しない。中級者向けとしたほうが良いと思う。この著者、山形浩生のサイトにアクセルロッド批判1)が掲載された人と同一人物かな?

--------------------------------

1) Ken Binmore“アクセルロッド『対立と協調の科学』書評:「しっぺ返し」はそんなにすごいものではありません”/ The Official Yamagata Hiroo Page
  http://cruel.org/candybox/axelrodhype.html


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しばらく不定期の更新となります。

2013-03-16 08:09:28 | チラシの裏
家の引越でネットが使えないため、このブログの更新が滞ってしまっていた。新住所における電話回線は引越した当日に開通したのだが、ネットの方は業者によると申込みの日から10営業日かかるという。申込みには新電話番号が必要で、それを確認できたのは引越当日だった。そういうわけで、しばらく家のインターネット回線が使えない。

今もこのエントリはスマホで書いている。慣れない入力方法のため時間がかかる。スマホとパソコンをつなげばいいんじゃないかって?そうなのだが超過料金がかかるのが気になる。請求書は妻のところにゆくからなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

進化論によって基礎づけられた壮大なスケールの戦争論

2013-03-11 06:57:08 | 読書ノート
アザー・ガット『文明と戦争』石津朋之, 永末聡, 山本文史監訳 ; 歴史と戦争研究会訳, 中央公論, 2012.

  四六版で1000ページ弱におよぶ戦争論の大著。著者はイスラエルの人で、政府顧問も務めているそう。全体は三部構成で、狩猟採集段階における戦争、古代から中世にかけての戦争、近代の戦争と分けられている。「人間社会における暴力を生物学的本性に求める」という最初の狩猟採集段階の話はけっこうわかりやすいが、あとの二つは戦争に関する諸学説を検討してゆくというものでかなり論述は複雑である。

  未開社会は暴力に満ちておりとても危険で、ルソーの想定よりはホッブズの自然状態に近い、という第一部の内容は、進化論系の著作をいくつか読んだことのある読者にとっては大して驚きのある話題ではないだろう。今どき、近代社会が未開社会より暴力的であるという1960年代的な神話を信じる者も少ないと思われる。国家による暴力の独占は国内の安全保障において有難いことなのである。進化論と戦争を本書のような巨大なスケールで結びつけたという意義は大きいものの、それはいずれ誰かが行うだろうと予想されてきたこと──E.O.ウィルソンが主張してきたように──の範囲内だという思いも残る。

  むしろ、論理展開が錯綜していてあまりまとまっていない第二部と第三部が興味深いところである。そこでの著者の慧眼をいくつか挙げよう。封建制は西欧と日本で特に発展したが故に「近代への橋渡し的」な位置づけを与えられて評価されたりすることがあるが、著者によれば単なる中央集権化の遅れであって近代化の必要条件ではないとのこと。また、ナショナリズムが近代になって創られた虚構だとする説に著者は反駁し、エスニック・アイデンティティはむしろルーツが古く血縁上の根拠があるために強力なのだとする。全体として、武器などの技術発展以上に国の経済力や軍事に動員できる人的・物的な資源の量を著者は重視している。

  特に印象深いのは、軍事力の裏付けとなる国力と政治体制との関係についての考察である。著者によれば、第二次世界大戦におけるドイツや日本の全体主義体制は、戦争への動員の面でかなり効率的であり、米国の参戦が無ければ勝敗の帰趨は不確実だったという。第二次大戦の米国において、たまたま世界最大の国力と自由民主主義体制が結びついた。しかしながら、こうした関係は英国の凋落から推定する限り必然ではなく、中国のような非民主主義的でありながら経済的に繁栄する体制が覇権を握る可能性は排除できないという。自由主義的な国家の軍事力の優位に楽観的になるべきではないことをほのめかしている。

  以上のように狩猟採集民から911のテロまで含む内容で、読みこなすには近現代も含めた世界史の知識がそれなりに必要である。戦争をめぐるさまざまな説を知っていたらもっと面白く読めるのだろうが、日本ではそういった議論が平板なままであるため、読者の予備知識は不十分であるかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暗闇の中から小動物の鳴き声が聞こえて

2013-03-08 17:08:36 | チラシの裏
  昨日、引越しのために家の荷物を片付けたのだが、夜独りで部屋にいるとなにやら動物の鳴き声が聞こえてきた。周波数の高い鳴き音だったため、昆虫か小動物のようだったが、何かはわからない。最初、ねずみだろうと思って天井を眺めていたが、ねずみならば聞こえるはずの足音が聞こえない。音を辿ってゆくと、窓の方からだった。窓に懐中電灯を当てたら鳴き声が止んでしまったが、どうやらコウモリだったようである。

  現在居住している地区は、静岡市街からたった4キロメートルほど北に進んだあたりで、田舎というほとではないけれども、山がせり出してきており緑が近い。近所で見られるハトは、小ぶりで赤茶けた山バトばかりである。回覧板に「イノシシに気をつけてください」というチラシが挟まれていたり、通勤途中にタヌキに遭遇したりする。そういう所なので、コウモリもさもありなんである。

  と勝手に納得していたら、ここよりずっと緑が少ない愛知県小牧市西部──田畑はあったが、見渡す限り平地で人工的な風景である──で、夜に自転車に乗っていたらコウモリを跳ねて即死させた経験を思い出した)。わざわざぶつかってくるのである。それも二度あった。団地の最上階の階段とかにいるんだよね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リズムに明朗さが感じられる強迫的反復電子音(ただし音数少なめ)

2013-03-06 08:36:14 | 音盤ノート
Ricardo Villalobos "Dependent and Happy" Perlon, 2012.

  エレクトロニカ。前作"Vasco"(Perlon, 2008)がまあまあの出来で、かつその後のリミックス盤(参考)がいまひとつの出来だったのであまり期待していなかったけれども、今作はけっこう良い。

  ほとんど打楽器音だけで淡々と曲を進行させ、わずかな変化で曲を展開させてゆくのはいつも通り。けれども、サンプリング音の絡ませ方や曲の変化の付け方は洗練されてきており飽きさせない。また、これまでのアルバムで聴ける鬱々としたリズム感と変わって、全体に跳ねるような感覚があり、明るい。一曲一曲も短くて、全11曲中10分を越えるのは二曲しかない(ただしLP盤収録版だと演奏時間は長くなるようだ)。2007年のリミックス盤"Fabric 36"(参考)に近い。

  ヴィラロボスの他作品と比較すると、相対的に聴きやすい作品である。なんといっても、単調なビートを耐えことによってのみ体験できる「時間感覚の揺らぎ」みたいなものを、音に身を任せているだけでアクセス可能にしたようなところがある。もう我慢しなくていい。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする