29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

権利を相対化しつつも最後には肯定する

2021-11-30 14:41:32 | 読書ノート
笹沢豊『〈権利〉の選択』(ちくま学芸文庫), 筑摩書房, 2021.

  政治哲学。「権利」概念を、明治期の日本における輸入と解釈と、1970s-80sの英米系の政治哲学者を参照しながら掘り下げてゆくという内容。著者は筑波大学名誉教授で、オリジナルは1993年の勁草書房刊である。この文庫本には哲学者の永井均の解説が付ついている。

  権利概念はどのような根拠で正当化できるのか、というのがその問い。冒頭から物理的な力によって支えられなければ存在しえないのではないか、と疑われる。その地点から、福沢諭吉や加藤弘之、ロールズやドウォーキン、センほか古今東西の思想家の議論が検討され、整理されてゆく。結局、権力関係の外部で権利を正当化しようにも、その論拠は「Aが成り立つにはBが必要。ならばB自体はどう正当化できるか。それは背後にCがあるからだ」というように無限後退していってしまうという。では論拠不十分の嫌疑があるため権利概念を捨てるべきなのか。著者は否、と議論を展開させる。

  やや難だが面白く読める内容である。ただし最後で否とする理由についてははっきり述べられておらずそこは不満が残った。まあ、結論ではなく論理展開を味わうべき本なので、そこを高く評価すべきなのだろう。
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エンタメ小説執筆のハウトゥーと1980年前後の米国出版事情が少々

2021-11-23 16:33:35 | 読書ノート
ディーン・R.クーンツ『ベストセラー小説の書き方』 (朝日文庫), 大出健訳, 1996.

  タイトル通りのハウトゥー。この朝日文庫版は1996年だが、最初の邦訳は1983年で講談社から。原書はHow to write best selling fiction (Writers Digest, 1981.)で、それもまたWriting popular fiction(Writers Digest, 1972.)を書き直したものだという。著者のクーンツは有名なエンタメ小説家であるが、僕は読んだことがない。

  純文学作品ではなくて、売れるエンタメ小説をどう書くか。それを教えてあげようというのが著者のねらいである。米国出版市場の変化、ストーリーの組み立て、アクションシーン、主人公の設定、リアリティのある人物描写、動機、物語の舞台設定、文体、ジャンル小説(SFとミステリー)、作家としてどう食べてゆくか、著者推薦本、などが論じられている。このうち最重要だというのがストーリーの組み立てであり、350頁程度の分量なのに100頁以上がその解説のために充てられている。

  ひとつひとつの細かいアドバイスは省くけれども、計量分析を施した『ベストセラーコード』よりは具体的で踏み込んだ指摘がなされている。ただしそれらは主観的なアドバイスであって、正解だという根拠はない。さらに言うと、そうした勇み足の当否は読者が適切に判断すればいいことであって、マイナスポイントというわけでもない。むしろ現役作家の見解として役には立つだろう。(なお日本の漫画家がよく言う「キャラクターが勝手に動き出す」ような作品は、著者に言わせればダメらしい。書き手はストーリーを完全にコントロールすべきだ、と。ここは日本人の価値観と違うところ)。本書のアドバイスに沿って小説を書くならば、伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』のような作品が理想的ということになるだろうか。

  なお個人的には、小説を書きたいからではなく、1970年代後半から80年代初頭の米国出版事情を知りたくて読んだ。3章はまるごとその話に充てられている。著者によれば、その時代、書籍市場が拡大しつつあり、小出版社が大出版社に吸収・系列化され、一つの書籍の宣伝に巨費が投じられるようになったとのこと。「だから、儲かるぞ」と。また、その昔「海外には大衆小説と純文学の違いはない」などという出羽の守言説をどこかで聞いたことがあるのだが、米国でもやはりそういうカテゴリ分けがあって出版関係者がそのことを意識していることがわかる。古い本ではあるが時代の資料として。
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就職における体育会系学生の栄光およびその後の供給過剰

2021-11-18 09:51:43 | 読書ノート
束原文郎『就職と体育会系神話:大学・スポーツ・企業の社会学』青弓社, 2021.

  日本の「体育会系」所属学生の就職および近年の変化について検討する学術書であり、元は博士論文。著者自身も大学時代はサッカー部所属だったという。僕は本書でいうところコテコテの「教養系」学生だったので、体育会系の思考が垣間見られて非常に面白かった。ただ、不満が残るところもある。

  先に不満な点を示すと、肝心の「体育会系神話」が未検証のままとなっていることが挙げられる。1章で先行研究がまとめられているが、体育会系所属が必ずしも非体育会系より就職に有利になっているとは限らないという研究が紹介されている。続いて2章で東証一部上場企業への就職をロジスティック回帰分析するのだが、サンプルを体育会系学生のみで構成している。「就職後に伸びる、だから体育会系を優先して採用する」というのが体育会系神話ならば、非体育会系学生を対照群とした分析をする必要がある。だが、非体育会系学生のデータは扱われていない。このため、体育会系が諸要因を統制してもなお就職に有利であるのか、本当に就職後に伸びるのか、がわからないままである。入手できる適切なデータがなかったということなのだろう。

  では本書でどのような課題が解かれているのかというと、1)「どのような競技の学生が就職に有利か(競技間の比較)」2)「体育会系が持っているものとして評価されるメンタリティはどのようなものか」3)「いつ頃、体育会系を評価する言説がうまれたか」4)「近年の動向と将来の展望」などである。分析手法として、統計分析、インタビュー、文献調査と多彩なアプローチが採用されている。

  まず統計分析の結果だが、いちいち競技名を挙げないけれども、やはり就職に有利不利な競技があるとのこと。ただし、理由はわからない。1990年代に就職したという元体育会系学生へのインタビューの章では、マイナー競技の場合、学生自身がマネジメントや後進の指導をする必要があり、そこでの試行錯誤が評価されるのだろうとしている(ただし、この見立てと先の統計分析の結果とは齟齬がある)。体育会系を評価する言説は、大正~昭和初期に普及したらしい。マルクス主義にかぶれた教養系に対して肯定的なイメージを経営者らに持たれたとのこと。この風潮は、大学生数の増加と同時に体育会系学生が増えたことや、バブル崩壊後の就職の難しさから、変化しつつあるとのことである。

  以上。先に挙げた不満な点を除けば、ありそうでなかったテーマに手を付けた興味深い研究だと言える。特にアメフト経験者に対するインタビューの章は、体育会系のものの見方が分かってためになった。なお、企業名や大学名は伏字になっているが、リクルート社だとか日大とか、はっきりわかるようになっている。
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著者自身は愚民論ではないと宣言する愚民論

2021-11-16 14:07:17 | 読書ノート
綿野恵太『みんな政治でバカになる』晶文社, 2021.

  なぜ政治的言説が冷静さを欠いたものになりがちかになるのかについて考える論考。前著『「差別はいけない」とみんないうけれど』と同様、結論よりも途中にある思考の逡巡を読ませる内容となっている。知らない話と既知の話がそれぞれ出てくるのは前著と同様だが、この本についてはどちらかというと既知の部分が多いという個人的な印象を持った。また、このタイトルかつこの内容で大衆愚民論ではないと主張するのは苦しい。

  人間は二重にバカであるという。なぜなら、合理的な思考を拒む二つの問題があるからだ。一つは、行動経済学や進化心理学によって明らかにされてきた、生まれつき備わったバイアスのせいである。もう一つは、そもそも政治や社会の仕組みをよくわかっていないしかつ学ぶ意欲もないという無知のせいである。この認識をベースに様々な文献を渉猟して、監視社会やらナッジやら「あの話もその話もこの議論に通じるところがある」と展開してゆく。終盤の章では、吉本隆明がどうだとか呉智英がどうという思想家の話になり、最後は政治に対するシニカルな視点を持つことで自らのバカさを相対化できるとする。

  率直に言って、読んでいて途中から議論が前に進んで行かなくなったという印象がある。思想家の話なんかどうでもいいし、処方箋としてのシニシズムの効果についても根拠はない。冒頭で「自由か幸福か」という選択肢を読者に突きつけておきながら、結論として個人の心構えの話に落としてしまっている。投票者は愚民だと言いながら、統治システムの議論にもっていかなかったのは、不満が残るところだ。政治的対話がうまくいかないとしたら、どのような政治制度を設計すべきか(あるいは規制を設けるべきか)という議論に踏み込んでほしい。著者の今後に期待する。
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定価販売の世界で「価格と需要の変動」を想像する

2021-11-12 14:18:39 | 読書ノート
浅井澄子『書籍市場の経済分析』日本評論社, 2019.

  日本の新刊書籍の動向について分析した研究書籍。各章で統計分析が施されているのだが、時系列分析や多変量解析のなかでもややこしい手法やらが用いられており、難解である。しかも税込み8800円で高価だ。気軽に読むのをすすめられる本ではないけれども、大都市の中央図書館ならば所蔵しておいてもいいかもしれない。

  書籍が定価販売されていない諸外国の書籍市場や電子書籍市場を参照し、図書館が与える影響や雑誌の電子化についても考察する。焦点は価格である。明示されてはいないものの、「もし日本の新刊流通システムを買切りの変動価格システムにしたらどうなるか」というのが本書の背景にある関心のようだ。日本の場合、単行本から文庫本への版の変更によって需要の落ちた書籍の価格を調整している。米国の場合、書籍は個人向けのフィクション・一般向け書籍と図書館向けの専門書とに大別できて、前者は安価に、後者はかなり高価に値が付けられる。そして日が経つにつれて両者とも小売価格が下がってゆく。日本においても変動価格にすれば出版社はもっと利益が見込めるのではないか、というわけだがはてさて。

  データが充実していて有難い本ではあるのだが、統計分析の説明があっさりしていて手法の持つ意味が僕には理解できないことがしばしばだった。勉強しろと言われればそれまでなのだが、出版関係者や図書館関係者にも関心を呼ぶ領域なので、分析手法についてかみ砕いた説明があったらなお良かっただろう。本書の内容を基にした新書版が出てくれるとうれしい。
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無駄ながらかわいい日本産娯楽製品の戦後史

2021-11-09 13:54:06 | 読書ノート
マット・アルト『新ジャポニズム産業史 1945-2020』村井章子訳, 日経BP社, 2021.

 「サブカル史」とするとちょっと違う。「海外の消費者を魅了する、玩具・アニメ・漫画・ゲーム・カラオケほか日本産娯楽の戦後史」とするべき内容である。著者は日本在住の米国人で、その種の製品の紹介者でかつ翻訳家であるとのこと。原書はPure invention: how Japan's pop culture conquered the world (Crown, 2020)である。

  始まりはブリキのおもちゃから。終戦後、米軍のジープをかたどった玩具が大ヒットしたという。その後、カラオケの開発と普及、サンリオやソニーの商品開発と展開、任天堂ほかのゲーム産業、たまごっち、米国4chanに模倣された掲示板である2ちゃんねるなど、米国でも普及したさまざまなキャラクターや製品が議論の俎上にのる。アニメや漫画への言及もあるが、あくまでも米国での視点から。例えば、アニメ史ではあまり言及されない作品ながら『ポケモン』は米国中の子どもがハマった作品として本書では重視されている。それぞれビジネスモデルや収益構造にも気を配った記述で、成功要因を気まぐれな流行だけに帰していない。

  昭和生まれの人間としては懐かしい話もあったが、あらためて知ったことも多い。カラオケの発明秘話や通信カラオケの開発、ゲームを作っている企業の出自、とりわけビデオゲームについては後発だった任天堂の思想などは興味深い。商売人としての嗅覚を鍛える本として、サブカル愛好家よりビジネスマンにとって面白いのではないだろうか。
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1970年代にキャンセルされた精神外科医を再評価する

2021-11-06 10:41:31 | 読書ノート
ローン・フランク『闇の脳科学:「完全な人間」をつくる』赤根洋子訳, 文藝春秋, 2020.

  電極を使って脳の深部に電気的な刺激を与える「脳深部刺激療法」のルポ。1950年代から70年代に活動したロバート・ヒースという開拓者の栄光と挫折を話の主軸におき、21世紀の最新研究動向を織り交ぜてゆくという構成となっている。著者はデンマークの科学ジャーナリスト。原書はThe pleasure shock: the rise of deep brain stimulation and Its forgotten inventor (Dutton, 2018.)である。

  ロバート・ヒースは、ニューオーリンズのテュレーン大学医学部で活躍した精神科医兼研究者で、当時悲惨な環境に打ち捨てられていた統合失調症患者や鬱病患者の治療に燃えていたという。脳の一部を切除するロボトミー手術にも批判的だった彼は、理性をつかさどる脳外部ではなく、もっと原始的な脳領域である脳深部を電気刺激するという方法によって治療を成功させる。その刺激は患者に快感を与え、同性愛者が異性愛者になったり、てんかんの症状を改善するという結果をもたらした。しかし、その治療は必ず上手くいくと限らず、またそのメカニズムはなかなか解明されなかった。1970年代になると、いわゆる1960年代的ヒッピー文化が「脳外科手術によって人格を操作するマッドサイエンティスト」として彼をキャンセルし、彼の功績は忘れ去られていったという。以上のようなストーリーに加えて、今世紀になって復活した脳深部刺激療法の動向や、ヒースについての証言者探しや資料探しの困難が語られている。

  現行の脳深部刺激療法も、結果は出るけれどもメカニズムはわからないままとのことで、機器が新しくなってもヒースの頃とそう変わらない状況であるとのこと。本書で直接「キャンセルカルチャー」と表記されるわけではないものの、1970年代にも現在のそれと同じような話があったことがわかって興味深い。ただし、あくまでもルポ中心の記述であり、サイエンス本とするには科学的知識の中身は薄いかもしれない。
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