29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

公共財の新たな(?)定義

2008-12-25 12:50:01 | 読書ノート
八田達夫『ミクロ経済学Ⅰ:市場の失敗と政府の失敗への対策』東洋経済新報, 2008.

 日本人の書いた経済学の教科書は数式中心であっさりした記述の薄い本が多いが、これは例外。二巻組みで(II巻は現時点で未刊行:以下はI巻を読んだ感想)、ほとんどの説明を色つきグラフでやってしまう。扱われている事例も日本のものが多く、とっつきやすい。他の教科書と比較するほどの知識は無いけど、たぶんわかりやすいのだと思う。僕は公共部門の経済学的な理解に関心があったので、副題の方に引かれて読んでみた。

 個人的に興味深かった点は、公共財の定義が“無料で提供されている非競合財を、公共財 public goodsと呼ぶ”(p.351)とされていること。以前別の教科書で覚えた定義では、非競合性に加えて「排除不可能性」が強調されていた。だが、著者に従えば政府部門においては後者をあまり重要する必要は無いようだ。それよりも、たとえ排除可能であろうとも、政府が提供する非競合財は、多くの人に使用してもらった方が社会全体の便益を最大化するので、無料にしたほうがいいという。

 排除不可能性を重視する定義だと、公共図書館は公共財ではない。しかし、上の定義だと公共図書館は公共財である。ただし、混雑時には競合的になるので著者は“準”公共財として扱っている(p.369)。この準公共財の定義の場合も、排除可能か不可能かを視野に入れる他の教科書とは異なり、競合性の有無だけで処理している。(一応、この教科書でも「排除不可能性」を扱っているが、提供される財が民間の場合のみにその基準が重視される)。

 どのように財を提供したら便益を大きくするかを重視して分析しているからこのような定義になるのだろう。伝統的な「公共財」の基準を満たしていない政府の提供するサービスなんてたくさんあるので、これまで僕は、それらはすべて民間に任せるべきなのかどうか、よく分からなかった。あらためてこの本を読むと、排除不可能性の位置が分かる。

 もう一つ気づいたのは、この本の定義でも伝統的な定義でも、政府が提供すべき財が何かは、公共財であるかどうかではなく別のロジックで決まるということである。例えば、混んでいない映画館の無料開放も社会全体の便益を高めるのだが、その費用を税金でまかなおうとは普通考えない。一方、図書館ならばOKだ。この理由は、著作権や教育機会の均等などの違いということになるのだろう。

 図書館屋としはてこの教科書からいろいろ汲み取れることがあったのだが、きちんとまとまっていないので次回に。
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説明は分かりやすく問題は手ごわい

2008-12-23 11:19:52 | 読書ノート
野矢茂樹『論理トレーニング:新版』産業図書, 2006.

 次年度の新入生用の教科(スタディスキルみたいなの)の教材を探していて手に取った。論理学の本だが、特殊な記号を使わず、例文に簡単な目印をつけることで論理展開を分析する。大学での授業用に編集された初版とは異なり、新版では解答も付されており、独習もできる。

 説明は平易だ。だが練習問題は手ごわい。僕も解いてみたが、けっこう難しくてまいる。一つの章は15ページも無い長さなのだが、問題を解くのに1時間ぐらいかかってしまうこともあった。大学で論理学を受講していた時分、AとEが反対になった記号などを操るのに苦労した覚えは無いのだが。

 出来がよくないのは、年齢のせいで頭が固くなっているからなのかもしれない。若い時のように柔軟に頭が働かないのだろう。あと、内容を捨象して記号だけで提示されるのと、文章で提示されるのと大きく違うからという理由も考えられる。記号だけの方が処理が楽だ。文章だと細かいニュアンスなどを考えすぎてしまう。そのせいで頭がこんがらがる。

 このままでは新入生に教えられない。なのでもう少し独習を続けます。
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久しぶりの生演奏

2008-12-22 01:06:35 | 音盤ノート
 以前のエントリで、渋さ知らズ(のミニ版)の静岡公演を聴きに行くかどうか迷っていることを書いたが、結局行くことにした。で、昨日がその日だった。

 演目は“本多工務店のテーマ”“股旅”“渚の男”“火男”“Little Wing”で、一時間強の演奏時間。七人編成で、ベースの不破大輔以外は、僕の知っている2004年頃までのメンバーと異なっていた。小編成のこのバンドでは、オーケストラのときのように力まかせに聴衆を巻き込むのではなく、一曲の中でリズムやベースのパターンを変え、アレンジの妙を聞かせていた。

 会場は静岡市内のブルーノート1988。ロックフェスティバルで彼らを知ったようなファンが何人か来ていたようで、椅子も机もある狭い会場でぴょんぴょん飛び跳ねていた。いつもとは異なる編成とアレンジだったようだが、いつものように楽しんだ人達もいるわけだ。

 個人的には、生演奏を聴きに行くのが4年ぶりとなるので、それなりの感慨があった。ただ、演奏時間が短く、その点で消化不良だった感が無いでもない(前座は無くてもいいから2セットぐらいやってよ、と言いたい)。

 この日、知人(♂)も呼んだのだが、新婚の故か彼の奥さんも付いて来た。これってデート? ということは僕はお邪魔虫なのか? 会場にいる間、微妙な居心地だった。
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甘党帝国

2008-12-19 13:39:43 | チラシの裏
 静岡の食べ物といえば海産物だが、甘いものもなかなか充実している。お茶の生産地だけあって、お茶にあわせるためなんだろう。個人的には、豆豊商店のメープル・カシューナッツが気に入っている。これは、客人に勧めても軒並み高評価だった。

 困るのは、市内に外食に行っても、多くの場合料理の味付けが甘い・またはスパイスが全然効いていないこと。僕は自他共に認める甘党だけれども、それでもこっちにいると辛い刺激的な味付けの食事が恋しくなる。
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水道修理工による超大作

2008-12-18 12:49:39 | 音盤ノート
Philip Glass "Music in Twelve Parts" Nonesuch, 1996

 Philip Glassの録音は大量に発表されているけど、深入りするつもりが無いならば、この曲かまたは"Einstein on the Beach"を聴いておけば十分だろう。それぞれ、3枚組以上のCDのセットになるので、気安くは聴けないが(ただ、CD一枚で済む作品に自信を持って進められるものは無い)。

 また、どちらにも1970年代の作曲時に録音されたものと、1990年代に米Nonesuchレーベルに録音された新録がある。"Music in Twelve Parts" には、さらにOrange Mountain Musicなるレーベルで2006年に録音された版がある。すべてGlass自身のアンサンブルによる演奏である。

 ここではNonesuch盤の"Music in Twelve Parts"を採り上げる。1970年代の最初の録音を聴いたことは無いのだが、評判に従えば、Nonesuch盤は初演盤と比べて粗さが消えてより洗練された──機械的になったとのことらしい。より新しいOrange Mountain Music盤では楽器の各パートがクリアになっている(高音がよく聞こえる)が、この録音ではウィンド類の音が混然としており、全パートが一体化してうねるように聴こえてくる。

 内容は典型的なミニマル・ミュージック。アンサンブルは、鍵盤三人+サックス・フルート三人+女声という編成で、ひたすらアルペジオを奏でる。同じアルペジオでも、最後に一音以上の音の足し引きがなされ、アルペジオのフレーズが伸縮するのがGlassの特徴だ。このようなアルペジオ「だけ」の曲が、12曲3時間半延々と続くのがこのアルバムである。

 Glassの作品は、同じくミニマル系作曲家である1960年代のRileyや1970年代のReichと比べて、気分を高揚させるような感覚、あるいは瞑想的な感覚が乏しい。それよりも、渦に巻き込まれるような、あるいはめまいをもたらすような感覚を強く感じさせる。この不規則な水の流れを感じさせるようなうねりは、彼が水道修理工で収入を得ていた時代──1970年代までは作曲+演奏だけでは食べていけなかったらしい──の後の作品には無くなってしまった。
 

 
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短い論考ながら専門用語が多く難しめ

2008-12-15 12:33:43 | 読書ノート
藤垣裕子『専門知と公共性:科学技術社会論の構築へ向けて』東京大学出版会, 2003.

「科学技術社会論」なる新たな領域の本。科学者が保証する専門知識と、薬品や食品における規制や自然を改変するような公共事業などに必要とされる知識に乖離があり、問題を生じさせているという。本書が提示する科学技術社会論は、科学者よりは社会のニーズの方に重きを置いて、両者を調整する議論である。まず、科学者共同体が持つ知識と社会が要求する知識がなぜ齟齬をきたすのかを分析し、次に、社会のニーズを最大限反映しつつもある程度の科学的知見も取り入れた合理的意思決定システムについてスケッチしている。

 科学的に不確定で、確実な知見が得られるのを待っていられない、短期の解決が要求される問題に直面したとき、どのような意思決定が必要となるだろうか? 本書では、当事者も参加させる意思決定システムが提案されている。このようなシステムは、非専門家に優しいように見える。専門家でない当事者が、意思決定を行う議論に参加して発言権を持つ。彼らが、現場の適切な情報(ローカル・ノレッジ)を提供できるならば、より妥当な決定が行われるかもしれない。

 ただし、その決定が誤りである可能性もあるわけで、その場合の責任も非専門家が一部持つのだろうか? このようなシステムは合意を取り付けるのに合理的であることは認めるが、責任の面で非専門家に厳しいことを要求しているようにも見える。似たような例として、今後の裁判員制度の推移は参考になるかもしれない。

 興味深い本である。しかし、ページ数は四六版で224ページと短いが、専門用語が多く一般の人には難しめだ。価格もこの量で3400円と高い。同様の内容を一般人(せめて学生)に説くレベルの書籍が上梓されることが期待される。
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愛車を廃車に

2008-12-12 13:49:49 | チラシの裏
 自転車通勤をしているのだが、チェーンがよくはずれる。そもそも、もらい物の中古品で、ブレーキなど安全に乗れるように修理するのに一万円かかった。それが半年前だ。最近、チェーンの軋み音がひどくなってきたので、油を挿した。そうしたら、ギアを変えると、一番軽い段でチェーンがはずれるようになった。くれた人の名前をとって「カツヨシ2号」と名付け、愛用していたのだが、もう寿命なのだろう。半年間よく働いてくれた。
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図書館一般についての議論だが関係者限定

2008-12-09 11:02:52 | 読書ノート
ジョン・E.ブッシュマン『民主的な公共圏としての図書館:新公共哲学の時代に司書職を位置づけ持続させる』川崎良孝訳, 京都大学図書館情報学研究会, 2007.

 タイトルが示すとおり、ハバーマスの概念“公共圏”を援用して図書館と結びつけ、米国図書館界に普及した“新公共哲学”すなわち市場志向・新自由主義的な思想を批判する内容である。ここ20年間ほどの米国図書館の雰囲気を伝えている点で、貴重な情報源である。ただし、この本の読者となるのは図書館員かまたは図書館学者ぐらいで、一般向けではない。この点は、後述するように議論の説得力を弱めている。全体として議論は荒っぽいのだが、個々の指摘で納得できる点は多い。

 まず問題点を挙げる。

 第一に「公共圏」と図書館の関係について十分な考察が無い。新公共哲学が図書館サービスを私的なものに変えてゆくことが批判されている。ならば、新公共哲学が支配的になる以前の図書館はどうだったのか? それもまた別の意味で特定の階級を向いた私的なサービスではなかったのか? このような疑問が当然起こる。しかし、「図書館は公共圏を構成する」ということを前提として議論がすすめられているだけで、こうした疑問に対する反論が用意されていない。
 このように図書館サービスにおける公共圏と私的利害の関係については不十分にしか考察されていないので、“公共圏”はとってつけたような印象しかもたらさない。この概念によって具体的に図書館がどうなるのかも不明だ。最終章で「議論があることが大事」という腰砕けの結論を提示して終わっているだけである。

 第二に、経済学と経営学を混同し、まとめて批判していることである。このため、現代の図書館政策を議論するのに必要な土台まで無視するという、たらいの水と一緒に赤子を流すような議論となってしまっている。(こうした「経済に関わる思考は何でも拒否」という論者はどこにでもいるようだ)。
 経営学概念が公共サービスの運営にすんなりと適用できるかどうかについての批判には同意できる点が多い。しかし、同時に「経済学」的な議論まで捨ててしまうのは不当だろう。個々の図書館を効率的に運営するにはどうしたらよいかという議論と、社会の効率改善のために図書館がどのような役割を果たすべきかについての議論は別のものである。経済全体の中で図書館がどのような位置を占めるのかという議論を欠いて、説得力ある図書館の役割論が構築できるとは思えない。
 市場の失敗の議論を用いれば、これに取り組んだ論者によって力点に差異はあるものの、図書館は正当な位置づけを獲得することが(条件付だが)可能である。こうした努力を市場主義の名の下に廃棄するならば、それこそ図書館の役割について図書館関係者以外の者とのコンセンサスを得る機会が失われる。

 第三に、最初の章で「司書職の防衛の必要性」を訴えて議論を始めているが、その論拠がイデオロギー的な説明に留まっている。このために、全体が部外者の参加を排除した議論、悪く言えばレント・シーキングのための議論であるような印象を残す。
 公共図書館や司書について公平に考える時、論理的に正当ならば「図書館はもう必要無い」という結論も受け入れるというのが誠実な態度である。少なくとも、公共機関が、本来の公共目的のためでなく、既得権益のために存続しているかのような印象をもたらす議論は一般の支持を得ないだろう。
 本書のような論の運びでは、図書館員の生き残りという目標があらかじめあって、「公共圏」なる概念は都合良く採用されたかのようだ。例えば、第四章では「新公共哲学」の導入をもってしても図書館の予算が不十分なままであることが皮肉な筆致で描かれている。しかしこれでは、それに反対する理由は予算獲得に効果が無かったからだと言っているに等しい。このような議論はすでに「公共」的ではない。
 もちろん、これは関係者に向けた内輪の議論だからという正当化は成り立つ。ただ、図書館がどう機能するべきか・実際どう機能しているか、それぞれについて「図書館は公共圏だ」という以上の解説があるわけではない。このため、司書の必要性を一般にも納得させる形で正当化することには失敗しているように思われる。

 上に挙げた問題点は、著者が提示している解決策の説得力を損なうもので看過できないものである。しかし、批判の方向性について納得させるところもあり、傾聴に値する点がないわけではない。

 著者は、公的役割を果たすべき図書館が、図書館利用者を「顧客」と読み換えて私的な満足のためにサービスする風潮を疑問視する。この本では、そうした風潮を象徴する様々な事象──ビジネス上の概念、テクノロジー、価値相対主義──についての、図書館関係者の言説を採り上げて検討している。
 僕も1990年代に図書館・情報学専攻で大学院生をしていたとき、図書館に経営学を導入しなければならないとした英語文献をたくさん目にした。確かに組織効率の改善が必要であることは分かる。会社は生き残るために組織効率の改善をすすめる。しかし、図書館は公共政策の一環なので、会社が生き残るように、「組織としての」図書館が生き残ればいいというものでもないだろう。サービスが金銭で評価されるわけではない図書館では、経営学の提供するインセンティヴ観や効率観を単純に適用できるのか、僕は疑問だった。ただし、まだ経営学の適用の仕方が発展途上というという面もあり、早急な断罪よりも、議論を見守っていてもいいと思う。
 この著者もこうした疑問を共有しており、この点で同意できるものになっている。以前のエントリ“公共図書館についてちょっと触れている本”も参照。日本では経営学を導入すべしという議論と貸出は重要だという議論は別々に展開されているが、米国では同じ背景を持つ議論として扱われている。このように議論が整理されている点も参考になる。
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「その日は図書館に逝ってました」

2008-12-08 00:24:18 | 図書館・情報学
 千葉県東金市で今年9月に起きた幼女死体遺棄事件の容疑者が捕まった。幼い娘を持つ父としては考えただけでゾッとする事件だ。その報道の中で、容疑者が当日のアリバイとして「図書館に行っていた」と述べていたのは気になった。

 日本の図書館が作る日本図書館協会では『図書館の自由に関する宣言』なるアナウンスを出して、図書館利用者のプライバシーを守ることを宣言している。協会に所属する図書館は、利用者の貸出記録と入館の有無について外部に漏らさないよう行動しなければならない(令状がある場合を除く)のだ。ただし、これを破ったからといってペナルティがあるわけではない。

 日本図書館協会:図書館の自由に関する宣言 http://wwwsoc.nii.ac.jp/jla/ziyuu.htm

 僕が最初に容疑者のインタビュー映像を見たとき、「もし協会の『宣言』を知っていて図書館利用をアリバイとして主張したならば、なかなか図書館を知っている奴だな」という感想を持った。だが、その後の報道を見る限り、そのような計算をするようなタイプではなさそうだ。

 しかし、図書館に居たというアリバイは、本人に立証責任がある場合には証明が面倒である。本人に教えるのは当然である。ただ、主体的に開示請求を出さなければならない。一方、第三者に尋ねられただけなら、図書館職員はYesともNoとも答えられず、疑惑だけが残る。本当に図書館にいた場合も保証してくれないのである。(そもそも貸出記録以外に個人を特定する記録なんて無いのが普通だ)。

 知人から聞いた話がある。夫の浮気を疑った妻が、ある図書館を訪れ、夫が妻に話したとおりにある日のある時間にその図書館に来ていたどうかを尋ねたという。その時、尋ねられた図書館員は「居た」とも「居なかった」とも答え無かったらしい。夫が本当に図書館に来ていたならば、妻の疑惑を晴らせないもどかしさが残る。(この時は妻は一人で訪ねてきたか、二人で来たとしても証拠なんか残っていなかったのだろう)。果たしてその夫婦はその後も上手くいったのだろうか?

 利用者のプライバシーの保護は、疑惑を持った側に立証責任がある場合に限って、嘘つきに“薄い”アリバイを提供する優しい制度となるわけだ。
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明るく健全な地下音楽

2008-12-06 01:27:43 | 音盤ノート
ROVO "MON" First Aid Network, 2004

 このバンドで、初めて聴いたアルバムは"Sai"(2001)だった思う。この種のアンダーグラウンドな音楽家にありがちな、屈折感、暗さ、気負い、一般聴衆を拒絶するようなクセ、そういうものが皆無なことが印象に残っている。曲はメジャーコードばかり。手数が多くシャープなリズムに、地味に電子音が添えられ、ギターと電気ヴァイオリンは突き抜けるように明るく響く。大都市圏のみに生息する、前衛音楽を愛好する一部の者“だけ”の音楽にはとても聴こえなかった。適切なジャンルさえあれば、もっと多くの認知を獲得できるはずである。しかし、彼らを上手くカテゴライズする適切なジャンル自体が無いのだが。

 "Flage"(2002)に続くこのスタジオ録音"MON"でもその印象は同様だ。前作にわずかに残っていた攻撃的な感覚が後退し、暖かく包み込むような演奏を聴かせている。二人による打楽器も祝祭的に響き、勝井のヴァイオリンもマイルドで、親しみやすい作品といえるだろう。ただし、"Flage"で聴けるロック的なダイナミズムも捨てがたい魅力だったのだが、"MON"ではそれが減り、好みの分かれるところだ。

 ファンの間では「ライブの方が素晴らしい」とのことだが、僕は見たことが無い。ライブ録音の"Tonic 2001"(2002)と" LIVE at 日比谷野音 2003.05.05"(2003)を聴いた限りでは、その演奏は荒々しく凶暴だ。嫌いではないが、「アンダーグラウンドな音楽集団だ」と言われたら「さもありなん」と思わせる音になってしまっている。スタジオ盤でのクリアで整理された演奏も評価されていい。

<2008・12・07改訂+追記>
 改訂前のエントリで、“人口70万人ほどの都市のCDショップでは、ROVO程度の知名度のバンドのCDは置かないのだろうか? 僕の探し方が悪いのかもしれないが、静岡市内で彼らの作品は見つかっていない”と書いた。やっぱり僕の探し方が悪かったようで、市内の大手輸入盤店二店で何枚か見つかった。
 しかし、陳列してある棚のジャンルは共に「Japanese Club Music」。この音楽がクラブでかかるのだろうか?行ったことがないからわかりません。リズムをキープする打ち込みによる曲とは違って、リズムが伸縮する踊りにくい曲ばかりなので、フロア向けとは思えない。「人力トランス」という売り込み文句を真に受けすぎたカテゴライズだろう。
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