29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

容姿は奇怪だが音はそこそこ軽快。聴きこむとやはり奇怪

2016-02-29 08:55:09 | 音盤ノート
Hermeto Paschoal "A Musica Livre De Hermeto Paschoal" Sinter, 1973.

  ブラジル産ジャズ。エルメート・パスコアルはブラジルのマルチ楽器奏者。見た目は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に出てくるイモータン・ジョーみたいである。個人的には1992年発表の『神々の祭り(Festa Dos Deuses)』が初めて聴いた彼のアルバムだが、そのフュージョン的なサウンドが気に入らなくて、長らく食わず嫌いになっていた。本作は彼の二作目のリーダー作で、当時の米国産ジャズにはあまり似ておらず、サンバ系打楽器とエレピが加わった即興の要素もある国籍不明のインスト音楽という趣きである。

  冒頭の'Bebe'はオーケストラをバックにパスコアルがフルートとピアノを弾くというオリジナル曲。収録曲の中では特にわかりやすく美しいメロディを持ち、まるでフランス映画の主題曲のよう。2曲目は'Carinhoso'(カリニョーゾ)というショーロの曲で、ブラジルではよく知られているらしい。この演奏だけがジャズっぽい。3曲目~5曲目は3分から4分程度の短い曲が続くが、一曲の中で歌唱あり、虫や動物の鳴き声を真似る演奏あり、不協和を使った合奏あり、フリー演奏ありで、たびたび表情を変える。最後の14分に及ぶ'Gaio Da Roseira'も本人歌唱で始まり、中盤はビリンバウ、フルート、ドラムのソロが入って、最後は男声のささやき声がテーマを繰り返して終わる。まったく展開が読めない。全体として、細かい仕掛けがあって凝ってはいるが、聴いていて疲れるほどではない。たぶん、フルートによる演奏が中心のため、その音色から軽快な印象がもたらされるからだろう。

  たびたびの脱線を遊び心として楽しめるならばそれなりに親しみやすい作品である。きちんと整理された部分が中心であり、決して混沌一辺倒ではない。でもまあ、遊びすぎというところも無きにしもあらずで、好みが分かれるだろう。なお、このアルバムだけ表記が'Paschoal’で、他の作品では'Pascoal'となっている。誤記なのだろうか(Googleはこの表記のゆれに対応していた)。
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前著と比べると知識の普及よりは生産体制のほうに関心がシフト

2016-02-26 10:35:45 | 読書ノート
ピーター・バーク『知識の社会史2:百科全書からウィキペディアまで』井山弘幸訳, 新曜社, 2015.

  『知識の社会史』の続編で、原著は2012年発行。こちらでは18世紀後半から現代までを扱っている。知識に関する同時代にあったさまざまな事柄を配置し直してみて、知識の歴史の潮流を描いてみせるという内容である。情報量が膨大であるため、一読した後は索引を辿りながら辞書的に用いる本、という印象は前著と同じである。

  全体は三部構成となっている。第一部では、科学の発展と植民地統治の進展によって知識が収集・分析され、それが出版や図書館所蔵や博物館展示や学校教育などによって広まり・使用されたという歴史を描く。第二部では、新しい知識の普及に応じて図書館蔵書の廃棄や事典の改訂という形で古い知識が捨てられ、また学問領域が専門化=断片化するという、進歩の負の側面を描く。第三部では、知識の所有をめぐる科学上の普遍主義とナショナリズムとの対立や、イデオロギーとの関わり、最後にこれまでのまとめが描かれる。読むうえで重要なコンセプトが「拮抗」である。研究の専門化の一方で学際研究が、知識の高度化の一方で大衆化が、知識生産や管理の標準化の一方でカスタムメイド方式が出現してくるという具合である。フーコーにたびたび言及されるが、どっちかと言えばヘーゲル的だろう。

  個人的にきちんとした論理展開がある本が好みなので、膨大なエピソードで大雑把な歴史の流れを掴んでみせるという著者のスタイルはそれほどツボにくるものではなかった。そういうわけで前著を読んだ後、二巻目は読まなくていいだろうと考えていた。しかし、2月1日だったか、出張先で朝のNHKニュースをボケっと見ていたら慶應大の糸賀先生が映り、背後に見えた彼の本棚に本書の背表紙を認めたので、考えをあらためて手にとった次第。
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緩急自在の華やかなブラジル産インスト音楽

2016-02-24 20:16:24 | 音盤ノート
Egberto Gismonti "Circense" EMI/Odeon, 1979.

  ブラジル産ジャズ(と言っていいのか?)。エグベルト・ジスモンチはECMでの諸作で知られるが、もともとはブラジルEMI系レーベルの所属でありそこで多くの録音を残している。全て聴いたわけではないのだが、1980年代のEMI録音ではシンセサイザーを多用しており、あの時代のシンセ音の質感に抵抗がある人にはちょっと入り難いところがある。そうした中で、本作はアコースティック楽器の比重の高いバンド演奏(エレピが少々使われているだけで、ストリングスが入る)で、ECMから流れてきたファンにとっても聴きやすい

  サーカスをコンセプトにしており、高速で展開するアクロバティックな演奏と、静謐でスローな曲が半々という構成。スローな曲もそれなりにクオリティは高いが、本作では高速アクロバット演奏の曲の方が面白い。6曲目の'Equilibrista'を筆頭に、スピードと情報量がもたらす緊張と快楽を堪能できる。2曲目の'Cego Aderaldo'ではゲストのL.Shankar(元Shakti)がヴァイオリンを弾いている。全体として、ECMでの静謐ながら張りつめた演奏と比べると、子どもの声を入れるギミックやサンバ風の打楽器の使用があって、にぎやかで祝祭的である。

  なお、上述の2曲と 'Mágico','Palhaço'はJan GarbarekとCharlie Hadenとのトリオでも採りあげられた曲(参考 1 / 2 / 3)である。あと1969年のデビュー作では歌手をやっていたというのを聞いたことがあるが、このアルバムでも最後の曲でピアノとストリングスをバックに歌っている。Antonio Carlos Jobimとよく似た声質である。
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社会民主主義における正統な経済政策とは

2016-02-22 19:54:47 | 読書ノート
松尾匡『この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案』大月書店, 2016.

  政治経済学の時論。著者は左派の経済学者だが、リフレ政策支持、すなわちアベノミクスを部分的に支持するという立場を採っている。本書でも指摘されているように、ポール・クルーグマン(参考)ほか欧米の左派(=社会民主主義者)も金融緩和と財政支出支持なのだから特に驚くようなことではないのだが、日本の政治論争の文脈においては珍しいスタンスと言える。

  リベラルは景気対策を軽視するな、というのがその基本的な主張である。安倍政権は景気の悪化を手をこまねいて放置しない、だからこそ支持されている。その野望たる憲法改悪を阻止するためにも、リベラル政党は有権者の支持を取り付ける必要がある。そのためにはスジの悪い経済政策、すなわち消費を冷え込ませる増税や緊縮財政、雇用を不安定にする構造改革などの主張を控えるべきだ、というのである。福祉への公共投資の提案、および第三の矢に対する批判も展開されているのだが、金融緩和に関しては安倍政権時代の日銀のこれまでの対応を正当化するものである。

  本書では「国債刷ったら日銀がそれをすぐ買っちゃえ」という提言がなされていて、ちょっと衝撃を受けた。僕のような中途半端な経済学知識しか無い人間は、「財政規律ガー」という紋切型フレーズがすぐに思い浮かんでしまう。そんなことしたら国債の信用なくなるんじゃね、とか心配になるのだが、著者は大丈夫だという。長年、国の借金について話を聞かされてきた世代としては、そんなの日銀が引き受けるから問題なしと言われても狐につままれた気分である。いや、一応リフレ政策支持ではあるのだが、著者ほど楽天的になっていいものか戸惑うところだ。

  しかし、著者が説得しなくてはいけない相手は誰なのか。第一に、反資本主義、反成長を掲げる文化左翼だろう(参考)。彼らは高学歴で資産も所得もあるというイメージがある。彼らの主張のほうが、社会改良主義的な著者の主張よりもラディカルで正統派マルクス主義に近い。著者がマルクス主義を標榜する学者だけに逆に「正統」の問題が発生してしまうのである。第二に、インフレよりデフレが好ましいという層、すなわち貯蓄で暮らしている高齢者や年金生活者だろう。エマニュエル・トッドの著作でも、積極財政を好む若年層と、緊縮財政を好む高齢者層が対比されていた。リベラル派の分断を避けるためか、本書では上のような利害関係には言及されない。けれども、その支持層を考慮すれば、リベラル政党が簡単に政策をひるがえすわけにもいかないだろう。


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ベテラン女性歌手による軽くて高品質なボサノバ、ジャズ要素もふんだん

2016-02-19 11:51:48 | 音盤ノート
Doris Monteiro "Agora" EMI/Odeon, 1976.

  MPB。ドリス・モンテイロは1934年生まれのリオ生まれ、1952年にデビューして1980年代前半まで活動していたという女性歌手である。声質はBebel Gilbertoに近く、低めで少々かすれた声で感情表現を抑えめに歌う。MPB音楽家のなかでは知名度が低いが、Renato CorreaとMilton Mirandaのプロデュースの1970年代の諸作はそれなりの質の高さがある。

  青のモノトーンによる伏し目の長髪女性の顔写真(本人)がジャケットで、Joni Mitchellの"Blue" (Reprise, 1976)を思い起こさせる。とはいえ音は似ていなくて、こちらはストリングスや管楽器が活躍するゴージャスでポップな作品である。ボサノバ~サンバ曲だけでなく、ジャジーでムーディな曲も数曲収録されている。冒頭の'Maita'という曲がまず面白い。ギターのカッティングを導入に使って、舞うようなフルートとギターによるアルペジオの中、早口で軽く歌うというボサノバ曲である。くるくるまわるようで、緩いけれどもちょっとしたスリルがあるという、可愛らしい曲となっている。この他Joao DonatoとGilberto Gil作の‘Lugar Comum’、Jobim / De Moraesの‘Lamento No Morro’なども収録しており、これらを筆頭に全体ではエレピが目立つ。1970年代のアダルトコンテンポラリーと言ってよい音だろう。
  
  洗練されていて高品質だが、聴き手の心の奥底に触れるてくるようなところがない。この点が、Elis ReginaやNara Leaoのような熱心なファンのいるMPB女性歌手に比べていま一つ人気がない原因だろう。その音楽性は高いと思うのだが、何が違うのだろうな、よくわからない。とはいえ高機能で優れた作品である。日本盤にはボーナストラックが4曲付いており、これらがなかなか悪くないので日本盤を聴くのを薦める。
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「シャルリ」が特定地域の住民であるのか、それとも中流層であるのか曖昧

2016-02-17 09:45:21 | 読書ノート
エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か?:人種差別と没落する西欧』堀茂樹訳, 文春新書, 文藝春秋, 2016.

  現代フランス社会の分析。2015年1月にシャルリ・エブド襲撃事件が起き、それに対して対抗デモが催された。本書は、デモ参加者の属性を明らかにしてフランス社会の分裂を描き出すという、フランス人にとってはショッキングな内容である。仏ヴァルス首相が本書を批判したということもニュースになった。細かなデータ分析が続くかなりハードな新書で、インタビューで構成された前著『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる:日本人への警告』(文春新書, 2015)のようには気軽に読めない。

  地図が提示され地名がしばしば言及されるのだが、日本人読者にはよくわからない。その分析を単純化すると、フランスは二つの地域に大別される。一つはパリとマルセイユを中心とする、19世紀には宗教の影響が弱まって世俗化した平等主義志向の地域。もう一つはリヨンなどを含むフランス中部を東西に走るベルト地帯とブルターニュ半島で、20世紀半ばまでカトリックを信じていた権威主義志向の地域とされる。後者は現在、国民戦線などの右派の浸透度が低い、社会党支持のリベラルな地域であり、ユーロ導入で経済的にも潤っている。そうした地域の住民と資本家層が対抗デモの参加者の中心となっていた、と著者はいう(国民戦線支持層である庶民はデモから排除されていたという)。加えて、彼らはイスラム差別主義者だ、と著者は記す。社会問題(若年層の失業)を宗教のせいにしている、加えて緊縮財政を採る政権を支持しているというのがその理由だ。国民戦線を支持する庶民は無力だが、社会党を支持する中産階級らはその間違った経済政策によって現在ある差別構造を再生産するがために危険だ、というわけである。

  曖昧に感じたのは、デモ参加者が旧カトリック地域の住民のことなか、社会党支持の中流層のことなのか、どちらかという点であった。序盤で地域、中盤で階級に話がズレてゆく。両者は重なるということなのだろうか。ひょっとしたらフランス人には腑に落ちる議論なのかもしれないが、外国人読者にはこのあたりの説明がほしいところ。このせいで、著者が示すような線引きがどの程度説得力があるのか疑問が残った。すなわち、地域~階級の線に沿ったフランス社会の分断が過剰に見積もられている感があるのだ。「ゾンビ・カトリック」とレッテル貼りするような大袈裟な表現を使う著者である。また著者は、デモが「平等」を掲げなかった事実から、反ユダヤ主義復活の萌芽をみてしまう。針の穴のような事実でもって、引き出してくる帰結がいちいちトゥーマッチなのである。せっかく国民の一体感が高揚したところに冷水を浴びせかけられたような気分になったのだろう、首相が怒ったのもわかる。

  一方で、こうした分析とは無関係なところに卓見があったりするので、全否定もできない。例えば、若年失業率の高さが移民の若者のイスラム国支持の温床になっているのだから、ユーロを離脱して反緊縮の政策を採るべし、という。また、移民のフランス文化への同化は婚姻を通じて確実に浸透しているが、それには時間がかかるとして、移民のイスラム信仰を許容するよう社会に求める。ただし、あくまでも著者は移民を同化させて国民一体化をはかるべしという発想であり、多文化共存という考え方ではないことは注意したい。以上のように穏当と思える処方箋を提示しており、そこは参考になる。全体としては多分に政治アジっぽいところがあって、好みがわかれるだろう。
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爽やかなブラジル音楽と泥臭い米国南部ブルースとの邂逅

2016-02-15 11:42:29 | 音盤ノート
Seu Jorge "America Brasil O Disco" EMI, 2007.

  MPB。セウ・ジョルジはリオ出身のシンガーソングライター。汚れた太い声が特徴である。俳優でもあるらしい。デビュー作はサンバを採り入れたファンクだったが、その後はヴィオラン(クラシックギター)伴奏を中心に据えたシンプルな編成のアルバムを作っていた。近年の"Musicas Para Churrasco"(「焼肉のための音楽」。2011年にVol.1が、2015年にVol.2が発行)のシリーズは、1970年代から1980年代にかけての米国ブラックコンテンポラリーを思い起こさせる洗練されたサウンドとなっていて、かなり変化している。

  このアルバムはブラコンに移行する直前の録音。都会に出て洗練される前に泥にまみれとくかと、と思ったわけではないだろうが、米国南部スワンプブルースの味がある。しかし、ヴィオランもけっこう活躍していて、それがもたらす爽やかさも多分に残しているため、スワンプ的なねちっこさは抑えられている。デビュー作や"Churrasco"シリーズにはあるホーン隊が参加していないので、演奏はどちらかと言えば派手ではなくシンプルな印象だ。ただし曲に出来不出来があって、アルバム全体としては少々長いと感じられるかもしれない。ベストトラックは、track 3の'Burguesinha'(ブルジョワ娘)と9の'Seu Olhar'(君のまなざし)。前者は、アントニオ・カルロス・ジョビンから続くMPBの良質な伝統を感じさせる、軽いサウダージ感のあるミドルテンポの曲。後者はスローバラードだが、起伏の少ない乾いたメロディラインから突然重力に反して上昇しようとする後半のスキャットがスリリングである。この二曲は聴いてみる価値がある。

  なお、2010年にボーナストラック2曲を加えた盤が発行されており、同年に出た日本盤はさらにもう1曲加えている。その日本盤ボートラ曲'Pessoal Particular'は2009年のシングルで、この時にはもう1980年代前半風のブラコンになっている。悪くはないのだが、この人がわざわざやらなくても、とも思ってしまう。次作「焼肉のための音楽」の"Vol.1"には'Japonesa'という下品な曲が収録されていて、終盤に「焼きそば、鉄火巻、醤油」とアホながらかっこいいコーラスが入るので、ネタとして知っておこう。
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「野菜を食べろ運動しろ」言説を理論的に裏付ける

2016-02-12 10:19:53 | 読書ノート
ダニエル・E.リーバーマン『人体600万年史:科学が明かす進化・健康・疾病』塩原通緒訳, 早川書房, 2015.

  進化生物学的観点から人体について考察する一般書籍。著者はハーバード大学の人間進化生物学部の教授で、裸足で走ることの効用についての研究業績がある。原書はThe Story of the Human Body: Evolution, Health, and Disease (Pantheon, 2013)。邦訳は訳文がこなれていてとても読みやすい。

  全体は三部構成になっている。第一部では、果実や根菜類を探しまわるために暑いサバンナを長距離移動できる生活に初期人類が適応した結果、現在のような人体構造となったと語られる。特に脳の維持に多大なエネルギーが必要なため、食べ物が見つからない時期でも脳が機能するよう脂肪を蓄積するようになったのだという。第二部になると、農業によって可能となった生活様式と狩猟採集生活に適応した人体とのミスマッチが語られる。農業は食事の内容を偏らせ、集住の帰結としての汚物による飲料汚染、家畜からの伝染病、また天候不良などによる飢饉などをもたらしたと低評価である。歴史的に農業化が進むにつれて平均身長も低くなり、すなわち栄養状態も悪くなっていたと推測されている。

  第三部は現代生活と人体のミスマッチの話。はやい話が、体に負荷をかけない生活と消化の容易な高カロリー食品が、肥満および糖尿病、骨粗鬆症などの先進国特有の病気を生み出しているという。こうした病気は、現代的都市生活の結果ではあるが、陥るのは一部の人だけであって進化の必然ではないという。というわけで、もっと政治的に予防措置を張るべきだと著者はアドバイスする。でもどうやって?リバタリアン・パターナリズムすなわち選択アーキテクチャ(参考)によってである。具体的には、甘いものに税金をかける、大学までの各教育段階で体育の授業を義務化する、などの方法が提案されているが、この部分は本筋ではないところだ。

  個人的には最近になって腰痛を患ったために、役に立つ話が無いかどうか探しながら真剣に読んだ。結論は「椅子に座って仕事するスタイルが悪い、運動しろ」ということのようだ。自転車通勤しているのでそれなりに運動しているつもりなのだが、やはり自転車はサバンナでの生活とは無縁の近代の工業製品であり、腰痛の予防方法としては不十分なのだろう。裸足で走って通勤するか。するかあ?
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ストリングスとギターを聴かせるジャズ寄りのMPB

2016-02-10 10:57:28 | 音盤ノート
Toninho Horta "Toninho Horta" EMI/Odeon, 1980.

  MPB。トニーニョ・オルタは、"Clube Da Esquina"にも参加した1948年生まれのブラジル人ミュージシャンで、このアルバムは二作目となる。ボーカルは訥弁(押しが弱いだけで下手ではない)だが、エレクトリックギターによる単線的なソロは流麗かつ鮮やかである。演奏の比重が高くて収録曲10曲中4曲はインストである。

  ミナス系らしく、少々郷愁を感じさせる明るいメロディをスケール感豊かにゆったりと聴かせる。ストリングスもかなり活躍しており、6曲目などの情緒過剰な盛り上げ方はメロドラマ映画のサントラみたいだ。ほとんどの曲において打楽器はリズムを表示するだけで控えめであるが、冒頭1曲目の'Aqui, Oh!'だけサンバ系打楽器隊が大胆に入ってきて盛り上がる。ゲストとして5,10曲目でPat Methenyがギターを弾いている。その10曲目はLo Borgesとのデュエット曲でもある。全体としては、インスト曲はジャズ~イージーリスニング、ボーカル曲はアダルトコンテポラリーという印象である。

  Antonio Carlos Jobimの本人歌唱アルバムと初期Pat Metheny Groupが合体したような作品、と記して伝わるだろうか。演奏はしっかりしている。訥弁ボーカルが美メロを歌いあげる、ということを抵抗なく受けとめられるかどうかで評価が分かれるかもしれない。優れた作品であることは確かだが、ボーカルがMilton Nascimento級だったらもっと良くなっただろうと思わないでもない。
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江戸期の板本の研究は未開拓なところがあるという

2016-02-08 15:43:33 | 読書ノート
中野三敏『書誌学談義 江戸の板本』岩波現代文庫, 岩波書店, 2015.

  江戸時代に木版印刷された本の書誌学。そもそもは1990年前後に書かれた連載記事で、最初に本になったのが1995年、岩波人文書セレクションとして再刊されたのが2010年で、昨年めでたく文庫版になったのを今回僕が読んだ。

  板本とは何かという基本的なところから、装丁、奥付や印の読み方などを丁寧に教えてくれる内容。入門書という認識で書かれており、わかりやすいのは確かなのだけれども、一方でやはり手元に該当する本が無いときちんと理解できた気がしないというのもある。図版は豊富なのだが、本文で言及している例を全て図版としてピックアップしているわけではないという理由もあるだろう。とはいえ、江戸期に発行された板本をそこそこの数保管しているような人または施設にとっては、鑑定などに役立つはずである。索引や文献リスト──2010年代の文献も収録されている──も充実しており、教科書として使える。

  江戸時代には商業出版が盛んになったために大量に出版物が存在するのだが、きちんと整理、読解されないまま放置されている、というのが著者の問題意識である。このため文庫版あとがきで、研究者およびその卵、図書館員や古書業者に向けて著者は書いたと述べる。しかし、こういう知識が必要な図書館ってどれぐらいあるのだろうか。心もとないところである。
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