29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

よくわかる人間関係の切れ目の数々

2016-12-31 20:45:51 | 読書ノート
速水健朗, 円堂都司昭, 栗原裕一郎, 大山くまお, 成松哲『バンド臨終図巻:ビートルズからSMAPまで』文春文庫, 文藝春秋, 2016.

  洋楽邦楽問わず大衆音楽領域のグループやデュオの解散理由についてのアンソロジー。オリジナルは河出書房社から2010年に刊行されている。この文庫版では加筆およびSMAPなど項の追加とがなされ、一方でオリジナルにはあったコラムが削られている。中身は、各執筆者による憶測交じりのエッセイ的な内容かと思いきや、報道記事やインタビュー記事をきちんと検証しての論述であり、予想されるよりも手堅い。

  副題は「ビートルズから」となっているが、冒頭はクレイジーキャッツである。前半は洋楽グループが多く、後半は邦楽グループが増える。邦楽グループの場合、「音楽性の違い」という紋切型の理由や、マンネリ化した(=飽きた)からという理由もけっこうあり、こういうケースは真相に迫り切れていない印象があって、あまり面白くない。この種の本ならもっとゴシップ的でもいいだろう、と下世話ながら思う。洋楽だが、二人の男性メンバーが女性メンバーを獲りあったと言われているGalaxie 500やThrobbing Gristleは入れるべきだった。フロントマンを追い出したら売れてしまったBauhaus / Love & Rocketsとかも。

  全体としては、やはりメンバー間の感情のもつれが最大の原因のよう。その要因として、音楽性の違いや、対等だったメンバーの中で売れるうちに一人(たいていはボーカル)が目立つようになってしまったというケースもある。日本特有だが、事務所とグルーブの思惑のズレというのもある。金銭絡みだと、自殺者が二人も出たBadfingerが悲惨だった。これから何かユニットを組もうという若者にはたぶんタメになるだろう。
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リスナーの期待と本人たちがやりたいことにズレ

2016-12-28 21:31:30 | 音盤ノート
Tom & Joy "Antigua" Yellow Productions, 2005.

  ボサノバ要素のあるフランス産アシッドジャズ。このデュオは、一作目の名義がTom & Joyce、次の編集盤の名義がTom & Joyce Hoze、オリジナル二作目となる本作の名義はTom & Joyとなっていて、ややこしい。なお日本盤にはボーナストラックとして、アルバムタイトル曲のリミックスと、デビュー曲'Vai Minha Tristeza'の日本語ヴァージョンが収録されている。後者は日本語云々以上にアコースティックなアレンジが聴かせる。

  収録曲はアコギが活躍する爽やかな曲と、ファンキーな曲の二つに分離している。冒頭1曲目こそAntonio Carlos Jobimの名曲'Meditation'で一作目のボサノバ路線を踏襲しているものの、続く2-3曲目はブラス隊が活躍するアシッドジャズである。どうだろう、大半のリスナーは、このアルバムの洗練されたジャケットやデュオ名からボサノバのほうを期待して聴いているのではないだろうか。全体としてはバラードやボサノバ系統のゆったりした曲のほうが多いのだが、数曲あるファンキーな曲がアクセントというには目立過ぎてしまっており、アルバム全体の統一感を損ねている気がする。それらを飛ばして聴けばなかなか佳曲揃いの作品といえるだろう。

  これが彼らの最後のアルバムで、調べてみるとThomas Naimの方は現在もソロで活動しているよう(ジャズロック?)だが、Joyce Hozeの方は何をやっているのか不明だった。一作目ほど話題にならなかったので、たぶん売れなかったのだろう。また、本作でファンキーな曲にチャレンジしているように、本人たちもボサノバよりもジャズのほうに関心が向いていたという事情もあると推測する。
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科学技術立国というのは画餅。早急に対策せよ。

2016-12-26 22:02:59 | 読書ノート
山口栄一『イノベーションはなぜ途絶えたか: 科学立国日本の危機』ちくま新書, 筑摩書房, 2016.

  日本における研究開発の衰退や、科学的知識が十分に普及しないことを論じた書籍。著者は同志社大の教授で、物理の博士号を持ち、NTTの研究所に勤務し(すでに退職)、ベンチャー企業支援などを行ってきたという経歴の持ち主である。誤解を恐れずに要約すれば、科学に無知な人間が日本企業で要職に就いているため、先端技術を支援するための企画が単なる中小企業支援対策に堕し、予見できた事故に有効な対策を打てないままとなっているという。

  対案として、理系出身者を官僚や経営者に入れろ、大学では文系に科学をもう少し教えろということになる。ただし、もう少し微妙なニュアンスもある。というのは、科学にも二種類あって、パラダイムに則ってパズルのピースを埋めてゆくようなものと、パラダイム自体を問い直すようなものとである。現在日本に不足しているのは既存のパラダイムを問い直すような後者の科学であり、積極的に採用すべき人材はそうした志向を持つはずの領域横断的な理系科学者であるという。

  前半は研究開発と企業および公的支援の話だったのに、後半は社会で科学知識が不足していることの問題の話となってしまい、大風呂敷の感はある。しかし、シャープや、福島の原発事故、福知山線の脱線事故など、具体的事例の分析は興味深い。究極的には、成果があるかどうかわからない研究活動に社会はいくら金を出せるのか、という問題となる。だが、その前段階である科学知識の普及度が日本では不十分に見え、正しく研究活動を評価できない可能性が高いというのがまずもっての本書の危機感なのだろう。
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グローバル化は今やメリットよりも害悪をもたらしている、と

2016-12-23 21:48:53 | 読書ノート
ダニ・ロドリック『グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道』柴山桂太,大川良文訳, 白水社, 2014.

  反グローバル化を訴える経済学啓蒙書。グローバル化の歴史的な経緯から説き起こして(帝国主義がそのはじまり)、それに対抗して一般民衆の雇用を重視する現在の国民国家ができたという話が続き、さらに1970年代以降になると世界経済の再度の統合が進んで再び世界中で雇用が不安定化するようになったという。この問題を克服するために9章で「世界経済のトリレンマ」というコンセプトを示して将来を指南する。原書は2011年発行。

  世界経済のトリレンマというのは、「グローバル化」「国民国家」「民主主義」の三つは鼎立しないというアイデアで、そのうち二つを採ることは一つを捨てることになるという。その基本には、円滑な経済運営には統治制度が必要という考えがある。グローバル化を徹底しつつ経済の安定を両立させるためには、国民国家を捨てて民主主義的な世界政府を樹立することが必要である。これは非現実的だ。一方、国内の一部の(あるいは大半の)階層の利益を無視することのできる非民主的な体制ならば、グローバル化と国民国家を両立させることができる。しかしこれはのぞましくない。というわけで、国民国家と民主主義を維持して、グローバル化を捨てるのが望ましいと著者はいう。ただし、鎖国や保護貿易を支持しているわけではなく、資本移動や移民労働力などのマイルドな規制を求めているだけで、グローバル化から完全撤退することを主張しているわけではない。現状すでにグローバル化しているので、この段階からさらに貿易規制を撤廃しても1-3%程度の利益しかない、とも。

  本書では、安定した経済成長をもたらした制度として、たびたび1950年代から60年代のブレトンウッズ体制が理想化されているが、固定相場制および為替変動という面からのアプローチが無いのが気になったところ。また、問題提起のわりには挙げられた処方箋がぬるい気がするのだが、経済の不安定化に対抗するのに有効なんだろうか。結局、グローバル化は程度の問題なんだろうけれども、ではどこまでが適正なのかという点については明解ではない。論証よりはあくまでも問題提起を重視した書なんだろう。
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中年リスナーの胃にもたれない薄くて軽い味付けの作品

2016-12-21 23:12:04 | 音盤ノート
Everything but the Girl "Amplified Heart" Blanco Y Negro, 1994.

  打ち込みを使ったフォーク。EBTGは英国の夫婦デュオで1982年から2000年まで活動していた。オリジナル・アルバムも10枚発表している。時期によって音の変化があり、"Eden"(1984)と"Love Not Money"(1985)の初期の二枚は、ギターのアルペジオやコードストロークで曲が装飾され、いかにもネオアコな音で、若いころの僕は気に入っていた。その後アダルト・コンテンポラリー化して4枚ほどアルバムを作り、続いてアコースティックな音を追求した後、最後にはハウス化して活動停止する。

  本作はアコースティック期とハウス期の間の過渡期のアルバムとされる。ヴァン・モリソンの"Astral Weeks"のようなウッドベースを加えたフォーク・サウンドと、打ち込みドラムにアコギと女声ボーカルをのせる曲とが収録されている。とはいえ両者のとりあわせにはあまり違和感がなく、どちらかと言えばアコースティック色が強くて、「エレクトロニクスによる音が少々を顔を出すフォーク・ロック」という作品として聴ける。特にミドルテンポの曲が続く前半はとても心地良い。

  歳をとってから聴くと、EBTGの作品の中では比較的地味な本作が一番しっくりくる。感情表現を抑えているだろう。いつものTracey Thornは、溢れんばかりの悲しみを抑え込んでいるような歌い方をする。決して情緒過多ではないのだけれども、気安く聞き流せないところがあって、聴く側の気分が合わない時は少々疲れてしまう。アダルトコンテンポラリー期のバラード曲なんかは特にそうした傾向が強い。けれども、本作ではわりとすっきり歌っており落ち着いて聴ける。

  なお、Edsel社から2012年に、同時期のライブ音源やシングル'Missing'のリミックスなどを収録した豪華2枚組盤が発行されている。シングルB面やアルバム曲のデモ版なんかを聴いてみると、完全に前作"Acoustic"(1992)の路線であり、後に採り入れるDrum'n’Bassなどこのとき頭に無かったことがわかる。その後の路線変更は、収録曲だった'Missing'のTodd Terryリミックスがたまたまヒットしてしまったがため。あのヒットさえ無ければ、本作と同じようなアルバムがもう一つぐらい生み出されたのだろうか。
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個人の自由に任せていては駄目な結果に落ち着くこともあると

2016-12-19 21:25:16 | 読書ノート
トーマス・シェリング『ミクロ動機とマクロ行動』村井章子訳, 勁草書房, 2016.

  ゲーム理論。集団内のメンバーの一部のちょっとした行動が、集団の状態に大きな変動をもたらすということを論じる内容。原書初版はMicromotives and Macrobehavior (Norton, 1978)で、邦訳はノーベル賞受賞講演を追加した2006年の新装版を元としている。翻訳は経済学系統の訳を多く手掛けている村井章子によるもので、『紛争の戦略』に比べればずっとこなれた日本語にはなっている。だが、それでも内容は高度で気軽に読めるようなものでもない。

  例として白人と黒人の混住が挙げられている。白黒まだら模様で住むのが「政治的に正しい」としても、前後および隣りに異人種が住むのを嫌がる家庭が数軒でもあり、その家庭が引っ越していってしまうと、残された家庭が異人種の家に周囲を囲まれる確率はあがってしまう。残された側に強烈な差別意識がないとしても、彼らのちょっとした居心地の悪さは高まる。こうして次に、残された家庭のうち、異人種への許容度が最初の脱出組より少しだけ高い層が出てゆく。そうすると、その地域は転入などから異人種の人口密度が高まり(異人種側にとっては過ごしやすい地域になりつつあるため)、残された側で異人種への許容度がかなり高い層であっても、結局はそこを脱出せざるをえなくなる。すなわち、他のメンバーの行動が変化すると、それに影響されて別のメンバーが許容できる状況の閾値も変わってしまい、最終的には予想できない結果がもたらされるというのである。

  ただし、本書に結論らしきものがあるわけではなく、いくつかモデルを挙げながらこんなパターンやあんなパターンもあると思考実験してゆくというのが主旨である。こうした思考実験から何らかの示唆を得られる読み手か、あるいはそうでないかで本書の価値は変わってくる。僕はきちんと主張を論証してくれるタイプの本が好きで、相性は良くないほうだな。なおシェリングは今月13日に亡くなっている。名前が有名なわりにはこれが邦訳の二つ目である。
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フレンチボサ・デュオのこれまでと異なる路線での編集盤

2016-12-16 20:42:20 | 音盤ノート
Tom & Joyce Hoze "Reworks" Yellow Productions, 2003.

  クラブ・ジャズ。フランス人デュオTom & Joyceが改名しての編集盤。売りであったボサノバ要素をほとんど見せず、1970年代のジャズ・ファンク~フュージョン系の音が展開されている。Donald Byrdとか大野雄二とかあの辺りを思い浮かべてもらえればよい。

  内容は実質的に片割れのThomas Naimによるリミックスおよびカバー集であり、Joyceの声は全12曲中5曲で聴けるにすぎない。オリジナル曲もあるが、英国人ソウル歌手のJulie Dexterに歌わせていたりする。1stアルバムが日本でうけたからだろう、日本人ミュージシャンが四組み採りあげられている──Silent Poets, Mondo Grosso, Fried Pride, 唐沢美帆。ベストトラックはRae & Christianの"Vai Viver A Vida"のリミックスで、オリジナルからブラジル人ジャズ歌手のTania Mariaのスキャットを引いてきて、後ろの伴奏をジャズファンクに変えている。1970年代の刑事ドラマのテーマ曲のようで、なかなかスリリングである。

  三枚ある彼らのアルバムの中で、この編集盤がもっとも良くできていると思える。それならばボサノバにこだわらず、この路線を追及していたら彼らはもっと成功しただろうか。うーむ、そうするとあまり個性を出せずにUKソウル勢の中に埋没したかもしれない。またユニット名のインパクトも無くなっただろう。なかなか位置取りは難しい。
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あくまで漫画業界のスキャンダルを描いたゴシップ本として

2016-12-14 22:33:55 | 読書ノート
赤田祐一, ばるぼら『定本消されたマンガ』彩図社, 2016.

  いったんは発行されたにも関わらず、クレームなどの外的要因によって絶版あるいは書き直しなどによって日の目を見ないままになっている漫画を採りあげ、その存在を紹介するというもの。60本の作品がおよそ3~6ページ程度で俎上に載せられている。なお、あくまでも文字による報告であって、挙げられた漫画自体を読むことはできない(ただし一部ページまたはカットが載せられている)。今年発行されたこの文庫版は、2013年の鉄人社刊の内容に増補改訂を施したものである。

  再発行できなくなる表現にはパターンがあって、おおよそ猥褻表現か、ポリティカル・コレクトネス絡みか、著作権トラブルかのどれかである。公による「弾圧」によって「消される」のは猥褻表現ぐらいだ。大半は、民間団体による作者への抗議が直接の原因だったり、抗議を見越した出版社側の自主規制が原因である。民間からの抗議の場合、裁判まで争われるケースはあまりなく、作者かまたは出版社が折れてしまって作品が抹殺されてしまう。

  こういうマンガの存在を知って「表現の自由‼」と力みたくなる読者もいるだろうが、多くは政府の弾圧なんかではなく、民間による決定であることは重要である。また、マンガが消されることによって、その後の言論や表現に対して、社会的にデメリットを与えるような酷い制約がかかったというよう感じでもない。むしろ、エロ表現は少年誌と異なった領域に棲み分けられ、ステレオタイプ的な差別表現に当事者が直面する機会が減ったという「改善」もあるのではないだろうか(行き過ぎたポリコレへの懸念もあるのだけれども)。

  とはいえ本書はそのようなことを真剣に考えるような内容ではなく、あくまでもゴシップ目線で読むべきものである。
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来日して演奏する予定の曲がこのテヒリームなのだが…

2016-12-12 21:48:15 | 音盤ノート
Steve Reich "Tehillim / Three Movements" Elektra Nonesuch, 1994.

  現代音楽。声楽曲とオーケストラ曲のカップリングで、'Three Movements’はこれが初録音となる。'Tehillim'は二度目である。ライヒ自身が関わったアルバムのなかでこれは目立たない作品だろう。ちなみに後者を演奏するため来年3月に、ライヒが何度目かの来日をするそうで。

  'Tehillim'は初出となるECMでの録音と大して変わらない。敢えて言えば、このNonesuch録音のほうが少々メリハリがあり、かつ湿り気があって柔和である。ECM録音のほうは音が乾いていて、打楽器も刺さるようなサウンドである。後者のほうがほんの少しだけ生命の神々しさを感じる。一方、このNonesuch盤が持つのは昇天していくような美である。ただし、あまり違いはないのだが。演奏は、Reinbert de Leeuwの指揮で、シェーンベルグ・アンサンブルとThe Hagueという打楽器集団によるもの。

  'Three Movements'は'Desert Music'で使用されたパルス音のアイデアを拡張してオーケストラ曲に仕立て上げたもの。速い-遅い-速いの三部構成で15分ほどの演奏である。演奏はMichael Tilson Thomas指揮のロンドン交響楽団。それなりに変化はあるが、ミニマルミュージックが基本にあるので、大きく盛り上げるような展開はない。

  全体としての地味な印象は、特に優れているわけでもない再録曲と、彼のオーケストラ代表曲の延長線上にある曲、この二つのカップリングというところから来るのだろう。新機軸があるわけでもなく、彼の他の作品を聴きつくしてから耳にすればよいアルバムだろう。
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日本型雇用の肯定論。問題は就職弱者と中小企業のマッチング

2016-12-09 21:18:50 | 読書ノート
海老原嗣生『お祈りメール来た、日本死ね:「日本型新卒一括採用」を考える』文春新書, 文藝春秋, 2016.

  日本型労働者採用方式を再評価する論考。大学卒業者の一括大量採用という慣行は大正時代から始まっており、これが無くならないのはメリットがあるからだ。という調子ではじまり、その後は欧米の雇用の残酷な面と、日本型雇用の問題点を論じている。

  欧米では職務別採用のため、日本企業のような人事異動が一般的でなく、空いたポストに対していちいち募集をかけなければならない面倒臭さがあるという。また、少数の優秀な学生は幹部候補生としての職にありつくことができるけれども、そうでない学生はたまたま就いた職務内容に一生を縛られてしまう。後者の場合、給与の伸びも低い。米国では、だからこそ社会人経験者が大学に戻って勉強し、キャリアをリセットしようとする。一方、欧州の場合は中等教育から高等教育段階でたびたび能力別の選別があり、将来に就ける仕事を振り分けられてゆく。加えて、フランスの例が挙げられているが、あちらの若者は一年近いインターンシップで雇用をチラつかされながら、タダ働きをさせられるという。

  それらに比べれば、経験なしに採用され、企業内のさまざまな仕事を経験でき、中年までは給与や地位の上昇を期待できる日本の雇用制度を、特別悲惨で不幸だということはできないという。日本の問題とは、大企業と中小企業によってキャリア形成機会に差があることであり、中小企業は十分な機会を被雇用者に提供できず、それが人材のミスマッチの原因となっている。さらに、これまで行われてきたような就職問題への対応によって得するのは、結局エリート学生に過ぎないと喝破する。というわけで、非エリート学生が中小企業を複数社経験できるような長期のインターンシップを、著者は提案している。もう一つの問題として、日本型メンバーシップ採用が長時間労働をもたらしていることがあるが、言及されてはいるものの十分な解決策は示されていない。

  おおむねそうなんだろうとは思う。日本ならば仕事に就いてある程度の年数が経てば誰でもそこそこ大きな仕事ができるようになるというような描かれ方がなされている。けれども、日本企業の人材育成はそんなに上手くいっているのだろうか。大企業の採用に対しては何の分析も提案もないところに疑問に残った。もちろん日本型採用を止めるべきだとは思わないが、大企業の採用が本当にうまくいっているか少しばかり考察してもいいはずだと思う。
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