29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

暗黒音楽研究・その4

2010-02-26 10:15:10 | 音盤ノート
Marianne Faithfull "A Secret Life" Island、1995

  低いしわがれた声で歌う女性歌手。基本的に暗い音楽である。彼女の代表作はエレポップ風味の"Broken English"(Island, 1979)や暗黒AOR"Strange Weather"(Island, 1985)であり、このアルバムはあまり評価されていないようだ。

  このアルバムでバックを支えるのはデビッド・リンチとのコンビで知られるAngelo Badalamenti。根暗×根暗ですごい重い作品になるのかと思いきや、オーケストラ+ストリングス風シンセ音が舞うバックのおかげで優雅にボーカルを聴かせる。その分だけ気魄せまる感覚が薄らいだ印象だが、聴きやすくなっているとも言えるだろう。
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カリスマ教師に技術あり

2010-02-24 21:12:37 | チラシの裏
  今更ながら、夜回り先生と伏見工ラグビー部先生のドキュメンタリを見た。どちらもテレビ作品を収めたDVDであり、NHKで放送済み。二つとも僕が積極的に見るタイプの作品ではないのだが、同僚が勧めるので観てみた。僕の教師としての力量が疑われているのだろうか?

  夜回り先生・水谷修と伏見工業ラグビー部顧問・山口良治。どちらも名前ぐらいは知っていたが、あらためてこのドキュメンタリでその業績と人となりを知ると、その凄さがわかった。前者は講演での映像が中心の編集、後者は『プロジェクトX』の中の一回である。

  まず夜回り先生。しゃべりが上手い。多彩なエピソードに、緩急をつけた話術。話の中にぐいぐい引き込まれる。しかも話の上手い人にありがちな軽妙洒脱な印象はいっさいなく、真摯な人柄がかもしだすシリアスな雰囲気を前面に押し出しながら、重い話に耳を傾けさせる。これはかなりすごい技術である。おそらく対生徒でも優れたコミュニケーション能力の持ち主なのだろう。

  伏見工ラグビー部先生。映像では人柄が強調されていたために省かれていたが、弱小チームを数年で全国制覇できるチームに変貌させる指導力の方に興味がわく。僕はラグビーについて詳しくは分からないが、人柄とともに「ラグビーの指導者」として優れた力量があったことは疑いえないだろう。チームの強化法や戦術に対する深い知識があったのだと推定される。

  こういう技術や技能無しに、優れた教師になろうっていうのは無理な相談。生徒に対する愛情だけでは結果は出ず、生徒も教師についてこないだろう。カリスマ教師というのはそういう点で凄いのだなと実感した。自信を失うばかりである。

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DVD『夜回り先生・水谷修のメッセージ』NHKエンタープライズ, 2005.
DVD『ツッパリ生徒と泣き虫先生:プロジェクトX』NHKソフトウェア, 2001.
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女性を労働市場に留めておくには?

2010-02-22 20:51:35 | 読書ノート
川口章『ジェンダー経済格差:なぜ格差が生まれるのか、克服の手がかりはどこにあるのか』勁草書房, 2008.

  純然たる研究書で、使用されている統計分析の詳細なロジックについて僕にはわからない部分もあった。まあ、回帰分析をやっていると考えて読み進めれば数値の意味は理解できなくもない。

  著者によれば、日本では次のような三角関係が成立しているという。第一に、日本企業による雇用は転勤・休日出勤・多大な残業を要求するものであり、家庭生活と両立し難い。そのために、第二に、出産などを境に女性は職場を離れてゆき、性別役割分業が実態として進行する。第三に、性別役割分業を実践する世帯が多数を占めるようになったために、第一の問題を矯正するようなワークライフバランス政策が政治的に支持されなくなる。こうして、労働市場での男女間の格差が維持されてしまう、と。

  解決策は意外にもささやかなである。企業の有給休暇の取得率など、広い意味での労働条件の情報開示をすることで、情報の不完全性に対処するというもの。背景には女性が働きやすい企業は効率的な経営が行われているという実証結果があるためで、有能な女性労働者が労働市場から退出してしまわないような環境を整備することで、格差に対処できるというわけである。アファーマティヴより世間の抵抗が少なく、導入しやすい政策だと思われるが、どうなんだろうか?
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静岡の運転者は優しい

2010-02-19 17:29:21 | チラシの裏
  静岡のドライバーは、歩行者が道路を横切ろうと構えているのを見るとけっこう止まってくれるのでありがたい。僕の実家のある名古屋圏は自動車を優先する雰囲気があって、こういう優しさはない。なぜか? 濃尾平野にある道は大きくて死角が少なく、車にとって走りやすいことが多い。一方、静岡市内の道は細々としており、運転には神経を使う。こういう条件の差が、ドライバーの気質の違いを生んでいるのかもしれない。
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大量の余計なボーナストラックをつけて待望の再発

2010-02-17 22:17:56 | 音盤ノート
Joao Gilberto "Chega De Saudade" El, 2010

  オリジナルはブラジルOdeonから1959年に発表。ボサノバ誕生を記録する記念碑的作品だが、永らくCD化されなてこなかった。正確には、EMIが編集した初期音源集"The Legendary Joao Gilberto"(1990)に全曲収録されてCD化されたが、曲順や編集方法などでJoao本人とEMIがもめて廃盤となり、中古で高値がつく状態になっていた。

  今回再発したのは英国のEl。1984年に設立された英国インディーズ・レーベルで、ネオアコファンなら聞いたことがあるだろう。このレーベルに出資しているのが、これまた英国インディーズ大手のCherry Red。非ロック的、反マッチョイズムの軟弱ギターポップがカタログとなったようなレーベルである。そういうわけでボサノバに手を出すのもまあ理解できる。

  ただ、待望されたこの再発盤にも二つの問題がある。第一に、リマスタリングがなされていないようだ。そもそも親会社のCherry Redがリイシューに際してリマスタリングすることの少ないレーベルなので、Elでも同様なのだろう。といっても、録音状態がひどいというわけではないので、一応聴ける。

  第二に、ボーナストラックのほとんどが、Joao本人が録音に関わっていないものである。このような余計な音源を収録することに本人はOKしたのだろうか?

  ボーナストラックのほとんどは、タメを利かせた・情緒過多な・もったいぶったスタイルか、能天気すぎるスタイルのどちらかで演奏されている。正直言って古臭いか馬鹿臭いかのどちらかである。それに対してオリジナル部分は軽快かつスマート、洗練された印象を与える。Joaoの抑え気味の表現がいかに革命的だったかは、JobimとMoraesによる名曲"Chega de Saudade"の三つのバージョン──コーラスグループによる最初の録音(1957)、女声による二つ目の録音でJoaoがギターで参加したもの(1958)、本人の録音(1958)──を聴き比べれば、はっきりわかる。このようにボーナストラックは、当時におけるボサノバの革新性を理解する比較材料として使えるかもしれない。楽しんで聴くには辛いが。
 
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踏み絵としての小泉時代

2010-02-15 20:24:07 | 読書ノート
菅原琢『世論の曲解:なぜ自民党は大敗したのか』光文社新書, 光文社, 2009.

  ここ十数年の国政選挙に関するデータを使って、2009年の衆議院議員選挙で起きた自民党敗北の理由を探る内容。著者の態度はかなり論争的である。

  マスメディアにおいては「小泉政権時代の構造改革によって格差が拡大し、それに対する懸念が国民の間に拡大した。そのために自民党は敗北した」という言説がまかりとおっている。しかし、著者の分析によればそれは間違いで、構造改革路線を貫徹できなかったことが自民党の敗因だという。郵政造反組の党復帰に見られるような、安倍政権以降の「古い自民党」の揺り戻しが、票を握る都市住民に嫌悪された。都市住民の支持を獲得しない限り、自民党の政権復帰は難しいが、現在の陣容では無理だろうと予想されている。

  著者の議論は説得力がある。現在では民主党からも自民党からも非難されている小泉時代だが、事業仕分けのような公共事業の見直しなどをやると熱狂的な支持が集まるように──民主党がぶちあげた再分配的な政策に対する有権者の冷やかさと対照的だ──、いまだ支持者は多いように思える。その意味で、自民党の反省はますます政権を遠のかせるだろう。ただ、同じように民主党も誤解しているわけである。こういう層の受け皿が出来れば、強力な政党になると考えられるけど…みんなの党?
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宿泊研修をめぐってあれこれ

2010-02-12 23:36:45 | チラシの裏
  会議において宿泊研修をするメリット・デメリットについて激論になった。たいていの場合、研修で行う内容は、それぞれの組織が持つ施設(例えば学校や会社のビル)でも実施できるものである。普通ならば、特に泊まり込んで説明を受ける必要は無く、プログラムを数日に分ければ自宅から施設に通って説明を受ることが可能である。

  というわけで、宿泊研修の意義はその伝達内容から要請されるものではなく、それとは別の焦点があると考えた方がよい。そこで思いつくことは二つ。一つは、「宿泊」という非日常性・イベント性が、研修で伝達する内容の印象度を高め、参加者のよりよい理解を促すというもの。もう一つは、参加者同士が四六時中顔を突き合わせることによる、コミュニケーションが深化することへの期待である。

  で、まず第一の点だが、これはあるかもしれない。ただ宿泊施設によってその効果は変わるのかどうか知りたいところ。特別印象深い施設の方がいいのか、それとも安宿でも何でも「宿泊」ならば同じ程度の効果が得られるのか。結局、費用対効果の問題になるのだろう。もし「理解」をなんらかの指標を使って計量できるならば、まったく同じ研修プログラムを使い、a.宿泊無し / b.宿泊有り(環境悪) / c.宿泊有り(環境良)の、それぞれの費用当たりの点数を比較することで結論が得られると思う。

  続いて第二の点。この場合、同じように費用対効果の問題が出てくるが、その前に二つの前提条件があると思う。組織の業務が構成員の間の深い相互理解や連帯感を要請するものなのか、それとも表面的な対人理解で十分こなすことができるものなのかという点。前者ならば宿泊が効果的なのかもしれないというのが一つ。しかし、そうだとしても、組織で長期に顔を突き合わせていれば構成員の間の意思疎通は進むもである。したがって、人間関係が「短期」に構築される必要がある場合に宿泊が必要とされるだろうというのが二つ目。

  あれこれ考えてしまうのは、新入生を対象とした宿泊研修を、最近はどこの学校もおこなっているようだからだ。スタート時点での人間関係に不安が無ければ学校での勉学もうまくゆくだろうというのは、たぶんそうなんだろう。しかし、最近は人間関係の構築が下手な若い人もいて、宿泊が多大なストレスになったり、周囲が仲良くなる中で独りだけ人間関係を上手く構築できなくて逆に孤独感を強めたりするケースがある。最悪の場合、入学早々に雰囲気が合わないからと学校を辞めたりすることもあるそうだ。宿泊によって、平均的な学生は早く人間関係に対する不安を取り除くことができるが、そうでない学生は逆に疎外感を強めるのである。

  学校としては、宿泊によって「普通」の学生の満足度を高めることを狙っている。だが、彼らはたとえ宿泊しなくても、時間をかけることによって学校での人間関係を円滑に構築できると予想される。けれども、平均的でない学生は宿泊によって早い段階からダメージを受け、学校への不満を高めるかもしれない。教育サービスとして、どちらに照準を合わせるかはそれぞれの学校の価値観の問題である。宿泊によって平均的な学生の学業が向上を見せても、平均的でない学生の環境を悪化させるならば、それを避けるべきと考える学校があってもいいかもしれない。

  上の第二点における二つ目の前提条件を否定する考え方もありうる。人間関係は個々の学生に合ったペースで造りあげればよいので、学校がそのような場を設ける必要が無い、と。あるいは、もし短期の人間関係の構築が必要だとしても、宿泊という一部の人にはストレスフルな方法ではなく、日中に終わる企画で代替できる可能性も模索してもいいかもしれない。宿泊研修のデメリットも感じられるようになってきたので考察してみた。尻切れトンボながら、ここまでで。
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情動をまったく感じさせない声

2010-02-10 19:20:28 | 音盤ノート
Astrud Gilberto "The Astrud Gilberto Album" Verve, 1965.

 ボサノバ・スタンダード集。一曲を除いてAntonio Carlos Jobim作曲。Marty Paich編曲の美しいストリングスの上に、控え目で透明感のある女性ボーカルが乗る。アメリカ録音のため、ボサノバながら英語詩の曲が半分以上を占める。

 このアルバムで聴かせる、NHK教育の将棋解説で「30秒ー、1・2・3…、5四銀」と読み上げるウグイス嬢のような、とことん感情表現を抑えたボーカルスタイルは、一つの表現の極致としてかなり魅力的である。このような、存在するのに存在を感じさせないような表現というのも、なかなか難しいのではないだろうか?

 しかし残念ながら、彼女はアーティストとしてあまり評価されていない印象がある。その理由は、悪く言えば平板な印象を与えるボーカルスタイルのせいだろうが、それだけでなく、大した努力も無くデビューしてしまった経緯もあるだろう、苦心してボサノバを開発した聖人Joaoと別れてまで。
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公費を使って文化支援をする困難

2010-02-08 09:07:50 | 読書ノート
  『超大国アメリカの文化力』の補足。

  米国の公共図書館の多くはその運営資金の一部を寄付金で賄っている、という話は僕の分野ではよく知られた事実なのだが、そのロジックについてはまともに解説できたことが無かった。日本人だからわかり難いのかと思いきや、フランス人にもそうだったようで、やはり米国の文化生産のシステムは特殊である。そのあたりを、マルテル著の登場でようやく「理解できた」という感覚を持てた。

  米国では、多文化主義を標榜するがゆえに、政府が公費を使って特定の文化を支援することを嫌う。公的助成があったとしても、その資金が芸術団体の活動資金の中心になってしまわないように、ようは団体が公費に依存しないように、助成金と同程度の額を民間から集めてくるよう団体に求める(マッチング・ファンド)。価値判断が求められる、政府の直接の支援はこのようにして抑えられている。一方で、文化活動への寄付は税制面で控除され、大金持ちによる支援を促す。寄付の思想自体はピューリタニズムにも支えられている。

  図書館の世界では、1990年代、公共図書館が購入した性的表現を含む著作や同性愛者による著作を、キリスト教保守派が採りあげて問題視するということがあった。その背景も『超大国アメリカの文化力』を読めばわかる。メイプルソープが撮ったヌード写真の展覧会が、連邦政府の助成を受けていたことがわかり、保守系の連邦議員が騒ぎ立てたらしい。これは確かに微妙な問題である。個々の作品を享受する者はごく一部にすぎない。そうした作品に公費を使うことを正当化するのはけっこう難しい。
  
  マルテルは、明確には述べていないが、文章の節々から芸術の公的支援──もっと細かく言えば「審美的」な基準に基づいた文化支援──に寛大な立場であることがわかる。そこはヨーロッパ人なのだろう。一方、日本も米国に近い価値相対主義な世界だろうと思うのだが、日本の文化支援システムはどうなっているのだろうか?
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知られざる静岡料理・煮込みハンバーグ

2010-02-06 20:48:58 | チラシの裏
  名古屋の喫茶店のメニューには「スパゲティ・イタリアン」なるものが必ずある。鉄板の上にとき卵が敷いてあり、その上にナポリタンがのっかているという料理である。これが名古屋ではどこでも見かけるスタンダード・メニューだったので、関東に出てきて、皿にのったパスタが標準であることを知ったときは驚いたものだ。

  同様に、静岡市内でこじゃれた洋食屋に入ると、かなりの確率で「煮込みハンバーグ」なるメニューに出会う。その名のとおり、グラタン皿でハンバーグとブラウンソースを煮込んだものだ。関東でも愛知でもあまり見たことが無い。率直に言って、他県出身の僕には特に美味ともおもえないのだが、静岡市民には支持されているのだろう。当然甘口である。
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