29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

引越しが決まった

2008-08-30 07:54:22 | チラシの裏
 静岡市内を移動します。今年は、僕の引越し(単身赴任)、妻子の引越しとすでに二度やっているので、今回で三度目。疲れます。
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英国教育事情を伝える本

2008-08-22 13:58:00 | 読書ノート
ジェフ・ウィッティー『教育改革の社会学:市場,公教育,シティズンシップ』堀尾輝久, 久冨義之監訳, 東京大学出版会, 2004.

 イギリスの新自由主義的な教育改革の失敗について報告する書籍はいくつか出版されているが、これもその一つ。1990年代以降の保守党と労働党の教育改革について、イデオロギーと成果の面からアプローチする論文集である。調査に基づく論文(2章)もあるが、ほとんどはレビュー的な内容である。著者はリベラル寄りの立場だが、反対意見も丁寧に検討しており、偏っているとの印象は与えない。

 焦点となっているのは、改革の結果、階級間の格差が開いていることである。著者は、制度改革の結果起こった学力のバラつき、あるいは学校サービスのバラつきを重視している。特に、学校選択が可能になったことで、有利な階級に属する生徒は質の高い教育機関へ、不利な階級に属する生徒は質の低い教育機関へと集中する傾向が見られることを問題視している。

 著者は、社会にすでにある不平等が学校を通じて拡大・強化されることを懸念している。この点は強調しておきたい。日本の教育に関する議論では、市場原理の導入によって平均的な学力が向上するか否かに関心が寄せられている。だが、本書ではそのようなことには関心が無い。

 個人的に面白かったのは第7章。教育によって最低レベルの生徒の能力もアップさせる方策を採ったとする。このような全体的な底上げ政策は、階級間の格差にどう影響するだろうか? “おそらく最も気の滅入る調査結果のひとつは、不利な生徒のたちの絶対的成績が向上したときでさえ、彼らの相対的な成績は変わらないままであるということである”(p.160)。すなわち、特定のグループの能力があがっても、全体のそれも上昇するならば、全体に占めるそのグループの位置も変化することはない。全員が能力を向上させるならば、弱者グループの位置も改善されないのである。

 これに対して、著者は就学前の教育やコミュニティの環境改善などの方法で対処すべきとしている。社会的弱者の児童に対する就学前の教育は、米国で「ヘッドスタート」として知られているらしい。たが、効果については論争があるようで、調べてみたい。
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MBV復活記念盤がこれか?

2008-08-20 14:38:39 | 音盤ノート
Patti Smith & Kevin Shields "The Coral Sea" 2008

 Kevin Shieldsのエフェクトをかけたギターをバックに、Patti Smithが詩を朗読する二枚組みCD。2005年と2006年のロンドンにおけるライブ録音1)。輸入盤のレーベルは不明だが、Patti Smithの私家盤か? 日本盤はP-VINEから発行されているが、残念なことに詩の対訳のみならず歌詞カードもついていない。これは大きな瑕疵だ。英語のネイティヴ以外の者がCDだけで詩の意を汲むことは無理だろう。

 そういうわけで両者どちらかのファン以外には購入をお薦めしない。ただ、Kevin Shieldsのファンならば一聴の価値は高い。1991年のMy Bloody Valentineの"Loveless”以降、ほとんど仕事をしていない彼の、アルバム一枚分の仕事をした唯一の記録だからだ。ただ、2005年の録音はかつてインターネットで無料ダウンロードできたものと同一で、すでに新鮮な印象はないが。

 4月のエントリで、My Bloody Valentineの再結成についてコメントした。再結成ライブは実現した(来日もしたが僕は見に行かなかった)が、編集盤の発売は予想通りボツになった。過去作品のリマスタリング盤の発売も延期を繰り返しており、本当に発売されるのか怪しい。せっかくの再結成というイベントに、CDを間に合わせることのできないこの無能さ!! このバンドの商売の下手さには恐れ入る。

 したがって、この"The Coral Sea"が、今のところMBV復活に間に合った唯一の関連商品となっている。

------
1) 8/20当事に“日本人が詩を聞き取るには明瞭とはいえない録音レベルである。”と書いたが、訂正します。詩は明瞭に聞き取れます。(僕の所有するオーディオ装置の問題でした)。(8/30訂正)
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司書養成科目に関する放言(3)

2008-08-08 11:14:04 | 図書館・情報学
 前回までのエントリであれこれ理屈をこね回した。下記では、僕が考える司書養成のカリキュラムを示したい。

○必修科目

1.図書館概論(半期)
 館種の違い、図書館法、図書館ネットワークの話など。「図書館サービス論」「情報サービス概説」の内容とドッキングさせれば中身が濃くなるはず。

2.資料組織概説(半期)
 現行では長すぎ科目。ここでは、目録の読み方・図書記号・本の並べ方を教えられれば十分。分類・目録の思想・歴史などは深入りしても学部学生には難しいのでパスする。演習ではNDCに時間を取られるので、後半でBSHの演習をやってしまう(90分×4回ぐらいか?)

3.資料組織演習[目録編](半期)
 データベース作成ソフトウェアを使って目録作成の演習

4.資料組織演習[主題編](半期)
 基本件名標目表、日本十進分類法の読み方をマスター

5.情報検索演習(通年)
 現行でやってること+判例・統計・行政文書の情報検索など

6.レファレンス・サービス演習(通年)
 様々なレファレンス・ブックの存在を教え、その引き方をマスターさせる。要求に沿った図書を何点か挙げさせることも練習させる。

7.図書館資料論(半期)
 これも現行では長すぎ科目。ここでは、様々な資料の特徴と選択ツールを教授してお終いで十分だろう。かつて、公共図書館の資料選択の議論について、僕はこの講義で教えていたが、学部生にはやっぱりつらいみたいなのでパス。出版流通の話もパス。替わりにここで、著作権法の話(だいたい90分×3-4回ぐらい)をやってもいいと思う。

8.資料評価演習[基礎編](通年)
 毎週、雑誌論文または書籍など、さまざまな文書スタイルの文献を読ませて要約と書評を書かせる演習。大学の講義ペースを考えると、一年で25点ぐらいは読める(夏休みに分厚い本を何冊か読むのを課してもいい)。講師は毎回添削する。採点が大変なので一クラス30名以上は無理だろう。

9.資料評価演習[応用編](通年)
 同一テーマの本を何冊か読ませて、説得力、客観性、主張の意外性など、いくつかの評価軸を作って序列をつけさせる訓練をする。評価軸は主題毎に変わってもいいかもしれない。三週に一回くらいの頻度ならば、クラス討論も可能なはず。


○選択科目

10.公共図書館論(半期)
 生涯学習、公共図書館の役割、資料選択、弱者サービスに関する様々な議論をここに

11.児童サービス演習(半期)
 児童サービス部門の歴史とか運営の話は割愛すべき。①児童書を読ませてレビュー・スリップを作る。②ブックトーク、ストーリーテリング、読み聞かせの演習。この二つだけを受講生にひたすらやってもらう。

12.専門情報の資料・検索・管理[研究情報編](半期1/2)
13.専門情報の資料・検索・管理[法律・行政文書編](半期1/2)
14.専門情報の資料・検索・管理[裁判・判例編](半期1/2)
15.専門情報の資料・検索・管理[経済・ビジネス文書編](半期1/2)
17.専門情報の資料・検索・管理[古文書編](半期1/2)
18.専門情報の資料・検索・管理[楽譜編](半期1/2)
上の[]内の副題に沿って、DB・RBの紹介と利用法をより詳しく解説。もっと選択肢があってもいいかもしれない。

 以上。半期1コマに換算すると、必修13コマ、選択6コマである。選択科目はこのうち3コマぐらい選べば十分だだろう。コマ数は現行とほぼ同じ。160人の受講生を一度に集めてできる授業(亜細亜大の夏期講習!!)などは少なく、クラス分割の必要性が出てくる。そういうわけで教員の増員も必要になるのではないか?(テキトーな予想ですが)。
 特定の分野に偏らない読書を多くこなしているかどうかは「司書資格」に対する評価に関わってくると思う。そういうわけで「資料評価演習」は、必ず設置すべき。これは短期集中講義ではできない、大学ならではの科目となる。かなりの量の読書をするので受講者は負担だろうけど、2年間をやればそこそこの力がつくと思う。

 以上、再度放言でした。これ以上は止めときます。
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司書養成科目に関する放言(2)

2008-08-07 13:32:43 | 図書館・情報学
昨日のエントリでは「公共図書館にこだわらない司書養成科目」を提唱してみた。続けて、現行の司書養成科目の問題点を指摘したい。

1) スキルの向上に直結しない話が多すぎ。
 「知っておいて損はないけど知っていても役に立つわけではない」という知識が多い。「情報サービス概説」における情報探索行動についての話と、「図書館資料論」における出版流通の話、「図書館サービス論」における利用者別サービスの話など、その他多く。「図書館経営論」は丸ごと。これらは図書館・情報学者にとっては重要な知識かもしれないけど、司書にとっては就業先で覚えれば済む話だったり、管理職にならなければ無意味だったり、アカデミック過ぎて業務と直結しなかったりするものばかりである。
 これらは、資料の組織化にも、文献探索にも、資料の収集・評価にも影響しないので、バッサリ削るべき。著作権法など、どうしても必要な知識は「図書館概論」でやる。公共図書館だけに関係するトピックは、「公共図書館論」という選択科目を作って、必要な受講者に対してだけに覚えさせればいい。

2)アカデミックな情報の探索に偏りすぎ。
 「情報検索演習」では、図書・雑誌・新聞のデータベースの検索方法を教える。ここまではいい。時間に余裕があってオプションとして何を教えるかが問題で、良い大学ほど欧文の論文データベースを扱わせているようだ。別の講義「専門資料論」はアカデミックな情報源の解説である。そこで紹介されるのは、大学図書館または研究所附属の図書館に職を得なければ使用しないデータベースとレファレンス・ブックばかりである。こういうのは選択科目にした方がいい。
 それよりも、統計(総務省統計局)、判例(最高裁)、特許(IPDL)、政府文書(電子政府)、その他灰色文献でオンライン閲覧可能なものなどなど、これら情報源とその検索方法を教える演習を組んだ方が、レファレンスの役に立つだろうし、普通のビジネスにも活かせると思う。そういうわけで、「情報検索演習」を通年にし、後半にこれらのデータベースの検索の演習をさせたい。

3) 必要な能力の水準が不明確
 これが最大の問題なのだが、ちゃんと定義されてこなかったのは、かつてあった(今もある?)現場の図書館員と、司書養成を行う大学との政治的駆け引きのせいだろう。しかし、司書養成が大学教育中心となるのだから、この際だれか定義を挑んでみるべきではないのか?
 僕の考えでは、以下の三つがあれば十分。

①資料組織化能力:目録作成・件名付与・分類を、マニュアルに沿ってできる。
②情報探索能力:回答を得るのに、適切なデータベースまたはレファレンス・ブックを選択でき、また検索できる。または質問に対して必要な文献を揃えることができる。
③資料評価能力:できるだけ短時間で、複数の資料を比較し、目的への適合度に応じて序列づけることができる。

 これだけの能力があれば、学部レベルの司書として十分だと思う。図書館または各部門の運用といったトピックは、司書一般の能力としてはズレている。一方、コミュニケーション能力といったトピックは、他の対面サービスにも共通する話で、一般的過ぎて司書の能力を定義しない。また、米国の大学院卒司書がもつ高度調査能力にあこがれる向きもあるが、日本でやろうとすると大改革になる。上の三つの能力が、国内で簡単に教育可能で、かつ的を射た定義だと勝手に思っているのだけど、どうだろうか?駄目ですかね?

 以上、放言でした。司書養成課程改革のために日々尽力している関係者の皆様、重ねてお詫びします。
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司書養成科目に関する放言(1)

2008-08-06 17:39:50 | 図書館・情報学
 日本図書館協会が司書資格課程の科目の再編を求めている1)。再編といっても、現行科目に科目数を加える方向になっている。司書養成を、公務員相手の講習会から大学教育中心に変えるとのことらしい。その経緯についてはまったく知らないので、以下は放言。

 司書科目だが、座学を削って演習を増やすべきである。現行だと、大学にいて司書資格を取るためには、半期1コマの授業を15コマ程度受けることになるはずである。そのうち11コマは講義系の科目で、スキルが身に付くものではない。講義科目の多さは問題で、さらに、教える立場の僕が言うのもなんだが、退屈である。内容は図書館が関係する事柄の羅列に過ぎず、その多くは体系が無く、疑問が解消するという知的喜びも無い。業務に必要な概念を覚えなくてはならないというのは確かにあるのだが、それにしても11コマは多すぎる。これの半分以下にした方がいい。講義の間で内容が重なることも多いので、整理できるはずである。

 代わりに次のコマを増やしたい。
 
A)情報検索演習とレファレンスサービス演習を通年科目にする。現在レファレンスのスキルを上げることが重要な課題となっている。結局、そのスキルはどれだけ多くのデータベースとレファレンスブックを知っているかに依存する。だから、DBとRBを使わせて覚えさせる時間はたっぷりあった方がいい。これは図書館以外で職を得ても役に立つ知識だろう。

B)あと、文献評価能力を高めるための授業を作る、「資料評価演習」とかいったネーミングで。現行の「図書館資料論」「専門資料論」は、さまざまな資料の特徴の羅列的紹介で、この程度の教育で資料選択なんかできるわけがない。
 司書資格課程を受けにくる学部学生は、他の学生よりも読書家である。けれども、ほとんどは小説しか読んでいない。彼らの頭の中では、その他は「ノンフィクション」という1ジャンルにまとめられてしまう。学術書も、既存の研究成果をまとめた教科書的な本も、報告書も、ルポルタージュも、ちょっと固めのエッセイもみんな一緒くたになっている。だが、世間に存在する文献の大半はノンフィクションであり、違いがわからないと困る。
 そういうわけで、その内容を把握する訓練や、「記述の信頼度」や「主張の明確さ」などを基準に文献を評価させる訓練をする演習があるべきである。こうした能力の育成は司書資格のエアポケットになっており、現場の図書館員による「経験から学べ」式の思想が横行している。こういうのは素人にまかせず、ちゃんとアカデミズムの場で教えておくべきだろう。
 授業時間だが、やはりこれも通年が望ましい。といっても通年二回の二年ぐらいの演習でないと成果がでないかもしれない。僕が講師ならば、最初は様々な記述スタイルの書籍を読ませて要約と書評を書かせる訓練をする。書評も、感想文ではなくて木下是雄提唱の「主題提示文」スタイル2)で書かせる。この書式はレポートやビジネス文書作成に役に立つだろうから。後半になったら、同一のテーマに属する複数のタイトルを読ませて討論させる。この短い期間で受講者が読書通になれるとは思わないが、難しめのノンフィクション作品を読むのに抵抗が無いレベルぐらいにはしたい。

 以上のように演習科目を増やすと、学生への作業が増えるし、講師の採点も大変である。だから、現行よりコマ数が減っても問題は無いはずである。それよりも、現行だと座学ばかり多くて「時間を費やしたわりには何か身に付いた感じがしない」という印象をもたらす。さらにその講義で教授される知識は民間ではあまり役に立たない。図書館への就職も難しいのだから、これでは受講者に徒労感を与えるだけだろう。司書は公共図書館のための資格とはいえ、現状はああなんだから、もっと民間企業でも評価される技能重視にシフトした方がいいと考えている。

 と、放言です。関係者の皆様ごめんなさい。でもまた明日も放言してみます。

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1) 図書館法改正に基づく司書養成の省令科目について http://www.jla.or.jp/kenkai/20080613.pdf
2) 木下是雄『レポートの組み立て方』ちくま学芸文庫, 1994.
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学習者にはプレッシャーが無いほうがいいのか?

2008-08-04 17:26:37 | 読書ノート
苅谷剛彦, 増田ユリヤ『欲ばり過ぎるニッポンの教育』講談社現代新書, 講談社, 2006.

 対談とエッセイで構成されている作品で、全体として苅谷の、日本の教育論争に対する「冷ややか」なトーンが支配している。彼の主張を要約すれば、学校教育で可能なことは限られており、世間が期待するように社会問題の解決まで教育に求めるのはお門違いということである。

 本書後半のフィンランドの教育思想の説明は面白い。フィンランドでは、教育評価において「修得主義」が基本思想となっているという。すなわち、単位を認定する際の学習の到達度が明確であり、学習者が必要な水準まで到達できているかどうかで、可か不可かが決まってくる。単純化すれば「不可ならば落第」ってわけである(実際にはさらなる学習時間を追加されるだけのようだ)。こうした評価法は、正確な意味で「絶対評価」であるという。

 日本での教育はこうではない。分数を理解していなくても中学校は卒業させてくれる。できない生徒は「点数の悪い生徒」として扱われても、「中学卒業資格に値しない生徒」として扱われるわけではない。必要なレベルの知識・技能を修得したかどうかは、卒業資格とあまり関係が無いのである。

 修得主義が、競争無きフィンランドの教育において、学習を動機づけるプレッシャーになっているだろうことは重要である。以前紹介した福田誠治は、その著書で競争批判を繰り返している。だが「プレッシャーの無いほうが、子どもは自発的に学習する」という考えは、理想主義過ぎるように思える。教員が生徒に身に付けさせたいと考えている知識や技能を、生徒が自発的に勉強してくれるなんて、なにかカラクリがあるのだろうと勘ぐるのが普通だ。

 で、フィンランドの教育において、競争は無くとも学習へのプレッシャーはあったわけだ。その時のエントリでは、フィンランドの教員の能力が高いことを、教育の成功の原因として指摘した。これに「修得主義」を追加しなければならないだろう。修得主義無しに学力競争を止めたら、子どもを、「教師が期待するような方向への」学習に動機づけることは困難だろうと思う。
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雇用をめぐる世代間対立

2008-08-03 13:23:40 | 読書ノート
大竹文雄『格差と希望:誰が損をしているのか?』筑摩書房, 2008.

『日本の不平等』(日経新聞社)の著者による、2004年から2007年までの時評集。経済に関するさまざまなトピックが扱われているが、多くは「格差」に関するものである。特に若年層の境遇についての記事が目を引く。現在、日本のマスメディアに接していると、小泉政権時代の規制緩和が格差を拡大させたとする主張によく出くわす。それに対して、著者は「不況期に正規雇用者が守られたことによって、若年層の雇用が控えられ、非正規雇用化した」と反論するものだ。僕は経済学の素人だが、団塊ジュニア世代としてこのトピックについてコメントしてみたい。

 中高年世代の雇用の維持が若年層の雇用を奪ったという議論は、最初に玄田有史が『仕事のなかの曖昧な不安』1)(2001年)で展開したものである。サントリー学芸賞を受け、それなりに注目された議論だったのだが、その後持続的な関心が向けられることが無かったように思う。その理由は、玄田が「日本の雇用システム」ではなく「若者の事情」(ニート!!)の方に興味を向けたことと、小泉純一郎首相就任のセンセーションで、リフレーション派vs.構造改革派の議論が盛り上がってしまったためだろう。

 リフレ派の議論は、まず景気回復を目指すこと、デフレを止めることが先決で、経済後退期に失業を増し需要を減らす「構造改革」などやるべきではない、というものだった。それは景気後退期における正規雇用者の保護を正当化する。一方で、失業者や派遣社員は景気回復期まで待たなければならない。だが、好況になれば彼らの境遇も改善されるという話だった。僕は、素人なりにいくつかの本2)3)を読んで、それが筋の通った納得のいく主張であることを理解した。

 しかし、小泉政権後半の景気回復期に優先的に正規雇用されたのは新規学卒者で、就職氷河期世代ではなかった。その層の中でもより若ければ定職にありつけたが、団塊ジュニアのような30代の年寄りは割りを食った。夏休みに司書資格の講習会をやると、中心はやはり団塊ジュニア世代だ(指定管理者制度のものとでは「公務員でない司書」は派遣かアルバイトである)。知り合いが勤務するある大会社にも、この世代の派遣社員がゴロゴロと滞留しているという(一方で若い派遣は職をみつけて辞めてゆくので、どんどん変わっていく)。

 やはり、現状の雇用システムは問題なのである。不況期のその保守はしようがないとしても、景気回復期にはメスが入れられるべきだった。しかし、現在、サブプライム問題とやらでまた景気後退に直面しようとしている。僕の同世代はまた「待たされる」のだろうか? 素人考えでは、正社員の解雇基準を緩くし、企業が雇用を行うハードルを下げないと若年層の雇用は厳しいように思える。待っていても歳を食うばかりで損失が大きいので、景気とは関係無く早急に雇用システムの改革をやってほしい、というのが団塊ジュニアの本音である。

 大竹のこの本が出てきて「中高年の正規雇用者の保護が若年層の非正規雇用化をもたらした」という議論が、ふたたび脚光を浴びることを歓迎したい。しかし、残念ながら、大竹の提案は教育訓練の充実の必要性を訴える方に傾き、現在の労働市場の改善についての提案が目立たない。教育訓練だけでは、ちょっと「ささやか」すぎるように思える。

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1) 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安:揺れる若年の現在』中央公論社, 2001.
2) ポール・クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』山形浩生訳, メディアワークス, 1998.
3) 竹森俊平『経済論戦は甦る』東洋経済新報, 2002.
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