29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

内容よりも、インド出身・女性・盲目・シク教徒などといった著者の属性に圧倒される

2012-02-29 09:59:52 | 読書ノート
シーナ・アイエンガー『選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義』櫻井祐子訳, 文藝春秋, 2012.

  「選択」に関係する心理学や社会学の諸研究を通覧する一般書籍。ポジティブ心理学のセリグマンや行動経済学のトベルスキーとカーネマンの名前が謝辞に出てくるが、まさにそのあたりの内容である。個人主義的な意思決定に対する文化的違いと満足の差、自分自身による選択が他者に強制されるより必ずしも満足が高いとは限らないこと、選択肢を5-9個に限ったほうがそれ以上の選択肢の場合より選びやすくなること、などなどのトピックが実例を交えて解説されている。

  タメになる知見が披瀝されているし、エピソードも面白い。僕が購入したのは第八刷で、オビも著者の講義がテレビで紹介されることを示すものに変わっている。ベストセラーになっているのだろう。一方で、似たような主題の書籍でバリー・シュワルツの『なぜ選ぶたびに後悔するのか:「選択の自由」の落とし穴』(ランダムハウス, 2004)があったが、現在廃刊のようである。『選択の科学』は近いうちに文庫本になると推測されるが、著者の特異な出自の強調、副題におけるビジネス書としてのアピール、テレビとのタイアップなど、マーケティングの差がこの違いを産んだのだろう。
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全盛期の作品を楽しむにはやや冗長だったりするも変化がわかる

2012-02-27 09:39:12 | 音盤ノート
Burt Bacharach "Magic Moments: The Difinitive Burt Bacharach Collection" Rhino, 2008.

  ポップスまたはソフトロック。バート・バカラックの楽曲を三枚組のCDに75曲詰め込んだ作品。1950年代から1990年代のエルビス・コステロとの共作までの期間の曲、特に全盛期の1960年代から1970年代初頭の時期を中心に、レーベルを超えて様々なアーティストの曲をピックアップしてある。すでに、同じくRhinoから同じく三枚組75曲の"The Look Of Love"が1998年に発表されているが、この"Magic Moments"はそこから曲順の変更と曲の入れ替えを行い、豪華ブックレットを数ページの短いものに差換えた廉価盤という位置づけになるだろう。

  バカラック・サウンドと言えば、テンポはスローまたはミディアム、流麗なオーケストレーション、左右にゆっくり揺れるようなパータンを鳴らすピアノ、優しくかつ暖かく響くフュリーゲルホーン、ペーソスを感じさせるボーカルメロディーということになる。このアルバムも"This Guy's In Love With You"のような典型的なバカラック曲がてんこ盛りであることを期待させるのだが…。けれども、1950年代から1960年代初頭の作品は普通のオールディーズをいう風情で、サウンドは完成されていない。メロディのみに「らしさ」を感じさせるけれども、全体のアレンジは凡庸である。スタン・ゲッツがボサノバを全米に普及させたのが1962から63年。このアルバムでも1963年以降の作品になると、オールディーズを脱した、ボサノバの影響を巧く消化したモダンな和声進行によるアレンジを聴くことができ、ぐっと完成度が上がっている。同じ時期にディオンヌ・ワーウィックのような、ソフトなスタイルの女性歌手の専属になったことも影響しているだろう。

  というわけで、バカラックのキャリアを通覧できることはありがたいものの、熱心なファン以外にこのボリュームは冗長かもしれない。とはいえ、一枚ものであまりいい編集物が無かったりするのも確かである。CD一枚ものだと、"A&M Songs Of Burt Bacharach"が良いと思うのだが、廃盤のようである。
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所属する短大における司書資格の単位付与の方針をめぐって

2012-02-24 11:29:37 | チラシの裏
  上層部の人から、所属する短大での司書資格課程での単位付与に関する方針についてのコメントが付いた。鉛筆による走り書きによる短いコメントで、項目も僕の仕事ぶり全体に対するものなので、以下の解釈が間違っている可能性もあるのだが、僕の心あたりではたぶんそうである。内部事情もあるので文面は記さないことにする。

  コメントからは、僕の厳しめの指導が学生に対する配慮を欠いている、と彼が考えていることがわかる。僕は司書資格課程の学生にかなりの量のレポート課題を出している。そして、その課題をこないせないようならば、資格課程を続けることはあきらめた方がよいということを公言している。スクリーニングに使っているのだ。実際、一年生前期の段階で数人が脱落する。学生が負担に思っていることは授業評価アンケートからも分かる。

  所属する短大にはできるだけ落伍者を出さないという暗黙の方針がある──高校の延長のように親身に指導・管理する──ので、入学させた者をさらにスクリーニングするという発想に違和感があるのはわかる。不可を与えることは教員の怠慢である、と。学力的な問題がある学生でも、時間と労力をかけて指導することで、単位取得水準をクリアできる程度にしろ、というわけである。卒業のかかる単位をめぐっては、そのような了解と、投入できるコストと学生の意欲という現実がぶつかって、学内でもめることはしばしばある。たいていは留年→退学という結果になるのだが。

  しかしながら、僕の考えでは司書資格は異なる。理論的には、個々の学校が与えるものではなく、国家が与えるものである。なので、国が想定する水準の能力と知識を満たさなければ付与できるものではない。乱発すれば、資格の信用が落ちる。司書資格の所有者にとって、あきらかに業務遂行能力の無い者が同じ資格をもつことは迷惑なことだろう。もちろん、現実には司書資格の信用など無いに等しいのだが、僕なりの気概で資格の門番を演じている。

  また、所属する短大において司書資格課程は卒業単位となっていないので、留年には直結しない。なので、学校に直接リスクをもたらさない。完全にオプションの課程なので、あきらめることも容易である。特に短大一年生の間にこの課程の単位を落とすような学生は、他の卒業にかかわる単位も落としている可能性が高い。なので、早めに資格課程をあきらめてもらって、卒業のための単位に時間とエネルギーを投入してもらった方が、学生にとっても合理的なのである。

  あと、学力的な問題のある学生を特別に指導する時間や労力を持つことは、学務などとの関連で現実には無理なことである。教員もまた忙しいので、多くの場合短大の方針は貫徹されない。なので「甘い採点」をすることで、基準を満たしていない学生に単位を与えてしまうことが起こる。世間が学校の出す成績を信用しないわけである。少なくとも、僕が与える司書資格の単位では、そのような印象をもたらさないことを願っている。

  以上のような理由で、現状の指導スタイルは変えないつもりである。ただ、上層部の方々には、機会があったら説明してわかってもらう必要はあるだろう。
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マンガを読まない人間が必要に迫られて手に取ってみたが

2012-02-22 09:57:30 | 読書ノート
夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか:その表現と文法』NHKライブラリー, NHK出版, 1997.

  戦後日本の漫画の表現の分析。漫画の歴史を踏まえつつ、描線、コマ割、オノマトペなどから表現の効果を探っている。似たような主題で、四方田犬彦の『漫画原論』(筑摩書房, 1994)があるが、四方田著の方が扱っているトピックが多く、表現の分析に徹している。夏目著は、漫画表現の重要なポイントと歴史的な展開がわかるところがウリだろう。

  今さらこの古い本を手に取ったのは、仕事のためである。在籍教員のうち相対的に若いという理由だけで、来年度にマンガ研究の授業を持つ(正確にはオムニバス授業で、15回中3回を担当)ことになったからである。実を言うと、僕がマンガを熱心に読んだのは中学生ぐらいまでで、1980年代の作品ぐらいしか当事者として語ることができない。おそらく僕の同世代はマンガに情熱をかけた世代では無く、どちらかと言えばテレビゲームに時間を割いた世代である。強力なサブカルチャーがマンガとロックぐらいしかなかった1950-60年代生まれの世代の方が、マンガについて思い入れたっぷりに語ることができるはずだ。

  仕事なので仕方がないので現在一生懸命予習しているところだが、今やマンガをまったく読まない僕にとって、マンガ表現の洗練など正直どうでもいいという感覚が残ることも確かである。こういうのは文学研究や文化研究によくあることだが、関心を共有していないと「だから何?その技法は期待された通りの効果を生んでいるの?」と天邪鬼な不同意ばかりが頭に浮かぶ。さて、授業をどう面白くしたものか…。
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シンプルな編成でのトラックに、その後の栄光と低迷の時代の音が聴ける

2012-02-20 23:18:48 | 音盤ノート
Joao Gilberto "Joao Gilberto" El, 2012.

  ボサノバ。ジョアン・ジルベルトのデビュー三作目。一作目の"Chega De Saudade"(参考)と二作目"O Amor, O Sorriso E A Flor"(参考)に続く、英国レーベルElからのCD化である。彼の初期の三作品がCDでちゃんとした曲順で聴けるようになることは、ボサノバファンにとって待望だったろう。

  この作品では、前二作をプロデュースしていたアントニオ・カルロス・ジョビンの比重が1/3に減り、代わってワルター・ワンダレイが半分の曲を編曲している(二曲分クレジットが欠けているが)。前者のアレンジではオーケストラがバックに加わる。一方、後者のアレンジでは、ジョアンのギターとボーカルに、薄いパーカッションやトランペットを加えた程度のシンプルの演奏になる。後者の演奏は、米国~メキシコ時代の数々の名作の印象に近く、個人的には好みである。とはいえ全体としては、サウンドに大きな変化はなく、前二作の延長線上でさらに繊細でスタイリッシュなボサノバの聴かせていると言えるだろう。

  無関係者によるボーナストラックに関しては、三作の中でもっともクオリティが高い。聴いているほうが恥ずかしくなるような曲はほとんどなく、ジョアンのオリジナルが終わった後も我慢せずに聴ける。米国のジャズ・ボーカリストJon Hendricksの演奏が8曲収められているが、未確認ながら"¡Salud! João Gilberto"(reprise, 1963)からの収録の模様。ボーカルスタイルは完全にサッチモ系のジャズだが、それがまたなかなかいい。

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ランクを付ける方式以外の領域に社会選択理論のニッチがある

2012-02-17 14:43:36 | 読書ノート
ウィリアム・パウンドストーン『選挙のパラドクス:なぜあの人が選ばれるのか?』青土社, 2008.

  社会選択理論に関する一般向け書籍。どのような選挙の方法が、大多数の投票者にとってもっとも不満が少なくなるのかを考察している。同じ主題の著作として、日本では佐伯胖『「きめ方」の論理:社会的決定理論への招待』(東京大学出版会, 1980)という古典がある。佐伯著は諸学説の論理を丹念に追っており、読者に集中力が要求される。一方、パウンドストーン著は実際の選挙で起こったパラドックスを豊富に使用しており、その点ではわかりやすいと言える(学説を理解するには向いていないが)。

  焦点はケネス・アローの不可能性定理である。関連する選挙方式として、相対多数式、ボルダ式、コンドルセ式、単記移譲式などが挙げられている。これらの方式はすべて、スポイラーの存在によって、選挙結果が望ましい結果から外れてしまう可能性があるという。例えば、日米で一般的な相対多数投票──もっとも得票数の多い者が当選するという方式──では次のようのことが起こりうる。投票者の60%の者が望ましいと考えている政策を主張する二人の候補者がいるとして、どちらの人気も同程度だとすると、その票は30%と30%に割れる。一方で、同じ選挙に立候補した、40%の投票者しか支持しない政策を主張する一人の候補者は当選し、結局は相対多数が支持しない政策が実行されることになる。こうしたパラドクスが他の方式でも起こりうることを、アローの定理は示している。

  問題は、スポイラーをどう排除するかである。スポイラーとは、筆頭の有力候補者から一部の票を奪い、結果的に二番手の候補を利するような、三番手以下の候補者のことである。スポイラーの存在は、合衆国の選挙で歴史的に観察されてきた。アローの定理に従うとこれを解決することは難しい。完璧な選挙などない、とサジを投げるべきか?

  しかし、著者はノーという。アローが扱っている方式は、いずれもすべての候補者をランクづける方式のものばかりである。これでは、候補者の評価が他の候補者との比較に依存してしまい、結果を攪乱する戦略的投票者を排除できない。そうならない方法がある、それは範囲投票である。範囲投票は、他の候補の評価とは無関係に、候補者毎に点数をつけるというもので、もっとも獲得した点数の高い者が当選するという方式である。例えば、アマゾンの書評における星の数がそうである。これにより、戦略的投票者の影響を最小限に抑えることができる。こうした、ランクを付けない選挙方式についてアローの伝統下では十分検討されてこなかったために、社会選択理論の議論自体が視野狭窄に陥っているという。

  以上が本書の内容である。「範囲投票」が十分機能するかどうかはまだ検証が必要だが、説得力はあるように思える。読み物としても、アメリカの選挙事情が冷徹過ぎて驚かされ、またトピックに関わってくる様々な人物も面白く、楽しんで読めるものになっている。
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打楽器が無いことでよくわかるその重要性

2012-02-15 11:47:59 | 音盤ノート
Kenny Wheeler "Long Time Ago" ECM, 1999.

  ジャズ。今のところウィーラーの最後のECM録音で、その後はイタリアのレーベルCAMから多くアルバムを出している。彼は"Angel Song"(ECM, 1997)の頃から、打楽器無しのさまざまな編成でアルバムを録音しているが、この作品もその系統。打楽器無しの英国式ブラスバンド風ジャズとでも表現すべき内容になっている。

  編成は、ウィーラーがフリューゲルホーンを吹くほか、ギターとピアノ、トランペット4人、トロンボーン2人、バストロンボーン2人というもの。コントラバスほかリズムを刻む楽器がまったく無い。その演奏は、この管楽器編成から想像されるようなパワフルでノリの良いものとまったく正反対である。曲は流麗かつ端正で、響きは柔らかく美しい。打楽器の無いこの音世界においては、時間感覚が曖昧になり、聴き手は融解した時間の中に埋没する。冒頭の‘A Long Time Ago Suite’は32分弱の長尺曲であるものの、アレンジもソロも良くてダレずに聴ける。

  しかしながら、その後もゆっくりとした似たような演奏が続き、アルバム全体が一本調子に聴こえ、退屈してくるのも確かである。この印象は打楽器があれば変わったかもしれない。曲に規律をもたらし、かつアクセントを付けるのに、いかに打楽器が重要であるかを再認識させられる作品である。
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公共図書館の資料への介入を拒絶できる根拠

2012-02-13 11:18:40 | 図書館・情報学
  前回「公共図書館と知的自由の結びつき」に否定的なことを書いた(参考)。誤解を招いたかもしれないが、僕が反対しているのは「図書館の自由」の議論全体ではない。日図協による『図書館の自由の宣言』からは、図書館サービスへの外部からの介入を避けるという本筋の議論と、図書館はあらゆる情報要求を即時充足させなければならないという前文から導き出された議論の二つがある(参考)。前者は一定の条件で認められるものだが、後者には根拠がなく政策論として怪しいというのが僕の考えである。

  憲法は政府の行動を制限するものであるという通常の法理解に従えば、政府が言論統制をせず、国民はコストさえかければあらゆる出版物にアクセスできる状態にあるというだけで「知る自由」は達成されていると言えるだろう。もちろん、生存権のように政府支出によって可能となる権利もある。しかし、情報アクセスがそうした権利の一つに入るかどうかは微妙なところだろう。仮に入るとしても、地方公共団体を単位としてアクセス機会を提供するというのは不効率であるように思える。

  ところで、あらゆる情報要求の即時充足という議論の何が問題なのだろうか? なぜ批判するのか?

  それは、そもそもの「図書館の自由」の条件を掘り崩すものだからである。資料に対する外からの介入を拒絶できるのは、資料選択者が専門家だからである。資料選択者が資料の価値を判断でき、公正な選択を行っているという担保があって、外からの介入を不正または不見識として拒絶できる。一方で、利用者の「要求」に従った資料選択はそのような担保を持たない。利用者に資料の価値判断を委ねてしまっているのだから。ならば、別の価値観を持った利用者のクレームもまた正当である可能性があり、図書館として一考せざるを得ないだろう。しかしながら、利用者の要求をベースとするような価値中立的でリベラルな図書館が、対立する価値を裁定できるのかどうかという重大な疑問が残るのである。

  上のようなケースは、知的自由に真面目に従うならば陥る図書館の罠なのだが、そもそもそのような図書館は資料選択すらできないだろう(「収集基準が一方の価値に偏っている!!」という批判がありうる)。実際の図書館は、自身が持つ価値観を隠すか意識しないことによって、資料選択が可能となっている。たいていの図書館は、それぞれの市民の情報要求を公平な目で見ていないのである。付け加えると、それは特に悪いことではない。図書館の目的として、情報要求を満たすことはそもそも間接的なものにすぎないのだから。

  しかしながら、現実の公共図書館の資料選択者が、一般の人より優れた資料選択のエキスパートなのか、という別の疑問は残る。これ無しには、図書館は消極的自由すら主張できないだろう。だが、司書資格の課程で資料間を比較衡量するトレーニングは皆無だし、そうした能力の育成は「現場で」という主張も跋扈している。この問題についてはそのうちに。
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付録のテストの結果に打ちのめされる

2012-02-10 17:47:37 | 読書ノート
サイモン・バロン=コーエン『共感する女脳、システム化する男脳』三宅真砂子訳, NHK出版, 2005.

  男女の思考パターンの差について解説する一般向け書籍。著者はケンブリッジ大学所属で、自閉症を専門とする研究者である。記述は平易で、事例も豊富でかなり読みやすい。嗜好や考え方において男女差があることは気づかれていたことだが、それを「平均的な男脳はシステム化、平均的な女脳は共感」とわかりやすいキーワードで抽象化してみせた点にオリジナリティがあるだろう。極端な男脳になると、共感性が著しく欠如し、自閉症そのものになってしまうとしている。

  すでに同じテーマの本をいくつか読んだことがあるので個人的には驚きはなかった。だが、この本が科学的な性差研究の最重要書籍であることは間違いない。興味を持ったのは、短大の同僚に勧められて、付録に付けられていた「目から心理状態を読み取るテスト」を受けたことからである。写真の人物の表情を見て、その人物がどのような心理状態にあるのかを解釈するテストである。36問中、標準的な正当数は22から30とのこと。女生徒受けのよい別の同僚(♂)は、正当数が30を越えていた。僕はたった15で、ちょっと自信を無くす。かつてズケズケとモノを言い過ぎと言われたことがあったが、人の心の機敏がわからないんだよ。
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長い曲は緩すぎる印象だが、短い二曲は素晴らしい

2012-02-08 09:18:08 | 音盤ノート
Charlie Haden & the Liberation Music Orchestra "Dream Keeper" Blue Note, 1990.

  ジャズ。おおよそ10年に一回働くブラス・アンサンブルであるリべレーション・ミュージック・オーケストラの三作目である。一作目にあった混沌や重たさは無くなり、哀愁と叙情を感じさせる手堅い演奏、という点で二作目(参考)の延長線上にある。

  この頃から、ヘイデンのリーダー作は、優雅で、憂愁とともに暖かみを感じさせるような作品が多くなった。悪く言えば、余裕たっぷりで全力を尽くしていないように聴こえ、緊張感の無い弛緩した演奏に変わったように思える。その点で個人的にはツボを外していることが多いのだが、この作品もそう。16分を超える組曲であるタイトル曲"Dream Keeper"、アフリカ風コーラスを採り入れた"Nkosi Sikelel'i Afrika"、最後を締めくくるゴスペル調のオリジナル曲"Spritual"と、9分を超える長尺曲はいずれも軽くて緩い。

  しかし、短い二曲"Rabo de Nube"(Silvio Rodríguez作)と"Sandino"(Haden作)はかなり聴かせる。その魅力の多くはメロディに負っているが、加えて前者はブラス・アレンジも秀逸。後者はトランペット-トロンボーン-アコースティックギターと続くソロがいずれも冴えている。この二曲だけでも聴く価値があるだろう。
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