29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

引越し見積りサービス評

2008-05-29 12:46:04 | チラシの裏
 引越しが必要なので、インターネットの見積もりサイトを利用してみた。正直言ってイマイチだ。

 使い方は簡単だ。おおよその荷物の量を入力して(ほとんどはチェックボックス)して、そのデータが複数の引越し業者に送られる。氏名と電話番号を業者に明かすのはしようがないかもしれないが、女性の単身者ならばちょっと気にかかるところかもしれない。

 最大の問題は、メールで見積もり価格について告げてくれるのかと思いきや、半数近くの業者が価格を伝えず、「正確な見積もりのために訪問させてください」と返してくること。価格を告げないくせに、仕事中に電話で売込みをかけてくる面倒くさい業者もあった。客にしてみれば「正確な見積もりが必要なことはわかっとるわい。入力したデータからわかるおおよその価格をさっさと出せ」と言いたくなる。

 データから見積もりができない業者は、そもそもこのサービスに参加すべきではない。ちゃんと価格を提示してくれるところもあるので、まったく使えないサイトというわけではないが、印象はあまり良くない。
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図書館の設置理由の記述

2008-05-27 10:51:45 | 図書館・情報学
 図書館概論の教科書で何が良いか簡単に比較したみた限りでは、樹村房のもの(2005年の改訂版)がもっともいいと思う。公共図書館の目的に関する最新の議論──公共経済学やステークホルダー論など──が反映されているからだ。他出版社のものは、古いせいもあるが、公共図書館の設置目的について、現代的な説明責任の水準に耐えうる記述が少ない。けれども、僕は樹村房の記述に納得しているわけではない。それでも、上の課題への取り組みは評価できる。

 今回、いくつか概論教科書を検討してみて思った。図書館の設置理由についての記述がほとんど公共図書館のそれに偏ってしまうのはどうなんだろうか? 公共図書館をモデルに理由を述べると、どうも言論の自由とか民主主義といった話になる傾向になる。だが、それらとは関係の無い図書館もたくさん存在する。そのような図書館はなぜ設置されているのか?

 さまざまな館種に共通する、図書館を設置する最大の理由は「文書・資料の共同管理は経済的であること」以外に無い。これ以外の理由があったら教えてほしい。公共図書館だって、言論の自由のために本が必要というのなら、本を税金で買って必要な個人に配ればいい。そうしないのは経済的に不合理だからだろう。図書館の必要を説くのに情報アクセスの重要性をまくらにしても、まともに考えればアクセスを可能にする選択肢はいっぱいあるので、恣意的だと思われるだけだ。情報と図書館を結びつける際に、金の話を避けようとすると、説得力は落ちるのである。

 司書が公立図書館に限定されない資格を目指すならば、概論で「資料の共同管理の経済性」をもっと強調すべきだと思う。逆に言えば「資料の不経済な共同管理部門はいらない」のである。当たり前のことなんだけど、公共図書館に関する議論では忘れ去られる。
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個人主義の重要性?

2008-05-26 17:53:57 | 読書ノート
アラン・マクファーレン『イギリス個人主義の起源』酒田利夫訳, 南風社, 1997.

「個人主義」は、第二次大戦後から現在まで、日本社会の特徴を描き出すためによく使用される概念だ。日本はムラ社会・集団主義で、西洋は個人主義というわけである。どちらを持ち上げるかは時代によって異なっている。

 僕はリースマンの『孤独な群集』を読んでこの概念を理解した。そこでは、集団主義=前近代、個人主義=近代という図式が示されていた。遡ればドイツの社会学にゆきつくのだろう。それによれば、個人主義の成立は、資本主義社会成立の要件であり、先行していなければならない。ウェーバーは個人主義の成立をプロテスタンティズムに求めた。マクルーハンは「印刷本の普及による個人化」という、よりわかりやすい歴史解釈で個人主義の成立を説いていた。

 もっと実証的な歴史研究の世界では、個人主義は結婚や家族構成の面からアプローチされている。家庭内の資源配分をめぐって、個人と他の家族とは理論上争うことになる。このとき、家族への配分を小さくし、自己への配分を大きくすることは"個人主義"的な振る舞いとなる。もっと言えば、そのような個人は、世帯構成自体を相対的に小さくしようとするだろう。(十分な蓄えを得るまで子どもをつくらず、子ども数は少なく、子が労働可能年齢になったらすぐ独立させるという方法で)。こうして、人口が抑えられかつ経済が発展すれば、その国の資本蓄積は進むわけだ。

 マクファーレンによれば、イギリスは宗教改革以前から、遅い結婚年齢と多数の独身者などを理由に少ない人口を維持してきたらしい。だが、なんというか、ここでの個人主義は、日本における個人主義の支持者が語るような、独立や自律のイメージではなく、経済環境が強制する、選択できない生き方である。

 著者は、別の著書1)で、江戸時代の日本も世帯構成を少なく保った稀有な例だとして、英国と比較している。集団主義の国が個人主義の本家と似ているなんて!! つまり、近代社会の成立にとって、「自律した個人」以上に、資本を蓄積できる程度に子どもの少ない社会がより重要である、そういことなんだろう。

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1)アラン・マクファーレン『イギリスと日本』船曳建夫監訳, 新曜社, 2001.
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図書館史ノート

2008-05-22 09:03:38 | 図書館・情報学
 石井敦の図書館史観が現在でもスタンダードなのか? と前回疑問を投げかけたけど、調べてみたらそんなことは無かった。

『図書及び図書館史』のいくつかの教科書をざっと読んだ印象では、ほとんどはよく言えば堅実、悪く言えば無味感想であって、石井のような筋の通ったストーリーを提供しているわけではなかった。

 1977年の『図書館概論』(椎名六郎・岩猿敏生著,雄山閣)でも、次のような記述があった。

19世紀半ばにおける英米両国における申し合わせたような近代公共図書館設置の運動には、さまざまな要求が含まれていたが、いずれも民衆じたいの直接的な要求に基づくものではなかった。(p58)


 このように、石井史観に釘をさす主張が、ほぼ同時期に登場している。

 そういうわけで、現在でも主流という話には疑問である。ただ、エリート層ではなく、一般大衆の要求を重視したという点では影響力を持ったのかもしれないが・・・。

 はっきりしないので継続調査。
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またもダラダラと・・・

2008-05-20 15:21:10 | 音盤ノート
Nils Petter Molvaer "Re-vision" Sula, 2008.

 ノルウェーのジャズ・トランペッター、ニルス・ペッター・モルヴェルの新作が出たので聴いてみた。映画に提供した楽曲集という触れ込みだが、短い曲があるだけで、何かいつもと変わっていることをしているわけではない。毎度おなじみのモルヴェル節の連続である。

 モルヴェル節の特徴は、アドリブで山場を作らず、かわりにエフェクトを駆使してトランペットの音色を変化させる点。キレのあるソロよりも、音のなめらかな変化を聞かせようとする。ただ、ソロパートがよく構成されているようには思えないため、曲によってはダラダラとソロが続くような印象を与える。

 上のような、ソリストとしての不利な特徴が、エレクトロニクスを大々的に導入したサウンドを選択させることになったのだと思う。上手くないからこそのアイデア勝負だったのだろう。だが、"NP3"(Emercy)、"ER"(Emercy)といった最近の録音では、ソロだけで無く、バックバンドの演奏までアブストラクトになってきており、かなりダルい演奏となるときがある。

 この新作も同様の流れにある。"Solid Ether"(ECM)で聴かせたような、輪郭のはっきりしたバック演奏を知る者を、満足させない内容だろう。正直に告白すると「もとビキビキ電子音を高速で聞かせろ!!」という下衆な要求をしたいだけですが・・・いけませんかね。
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デジタル・デバイド論の反省

2008-05-19 10:07:58 | 読書ノート
大竹文雄『日本の不平等』日本経済新聞, 2005.

 1990年代後半、インターネットの登場にともなって、「コンピュータへのアクセスの差が社会的格差を維持する、または拡大する」という事態が真剣に懸念された。いわゆる「デジタル・デバイド論」である。これを理由に、米国の公共図書館にはコンピュータ接続のための予算もついた。だが、2008年の現在では省みられることの無い議論となってしまった。

 デジタル・デバイド論が消えたことに理由をつけるのは容易である1)。身近な反証があるからだ。情報機器へのアクセスの有無が格差を媒介するのならば、インターネット・アクセスや携帯電話の普及は平等を促進するか、または最悪でも格差の現状維持をもたらすはずである。ところが、それらが普及した現在でも、日本の格差は拡大していると考えられている。その上、コンピュータを利用できるインターネットカフェで寝泊りするような層が日本では最貧層だと思われているのである。

 上の反証は印象に基づくもので、厳密なものではない。一方、この本の「第7章 ITは賃金格差を拡大するか」は、情報技術と賃金の関係を実証的に分析している。

 デジタル・デバイド論への早くからの疑問は「そもそも社会的の地位の違いが情報機器へのアクセスの差を形作っているのではないか?」というものだった。因果関係が逆なのではないか、と。したがって、情報スキルを独立変数とした格差拡大のモデルが成立するかどうか分析されなけれならない。

 著者は、転職経験者725人のコンピュータ・スキルを、学歴や年齢などの他の属性をともに重回帰分析にかけ、どの因子が賃金の変化をよく説明できるかどうかを調べた2)。結果は、特定のグループ以外のすべてで、コンピュータ・スキルの影響は小さいかほとんど無いことを示すものだった3)。また、コンピュータ使用のためのトレーニングは賃金の上昇にはつながっていないという。総合的に見れば、コンピュータを利用できるかどうかは賃金格差の原因ではなく、技術革新に対応できる能力や、情報技術を補完するような業務遂行能力(たとえば情報分析力)の方が賃金格差を産む可能性が高いとしている。

 つまりこういうことだ。賃金の格差が情報機器を利用できるかどうかによって大きく影響されることはない。重要なのはスキルではなく、情報を活用する能力である。したがって、デジタル・デバイドに対する有効な対策は、インフラを整備して情報機器へのアクセスを高めることではなく、ホワイトカラーの業務を支える一般的な能力を高めることである。

 というわけで、社会的格差対策として特定の能力を高めることが必要ということになり、「それでは教育で」という話になるのだろう。ただ、この結論は、公共図書館の目標に関する議論に微妙に影響を与えるものだと思う。なぜなら、情報へのアクセスを開放しても、社会的格差をコントロールできないのではないかという疑問を呼び起こすからである。この疑問については別の機会にもっと深めたい。

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1) この議論が消えた最大の理由は、日本で再び貧困が問題にされるような時代になったためだろう。
2) ただし、1990年代後半の研究であり、結果に時代的制約がある可能性も示唆している。
3) 学歴が高い35歳未満の男性正社員においてはコンピュータの使用経験は賃金を高めるという。理由は不明。
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公共図書館史における戦後民主主義

2008-05-15 10:20:18 | 読書ノート
石井敦, 前川恒雄『図書館の発見:市民の新しい権利』NHKブックス, NHK出版, 1973.

 既に新版が刊行されているが、ここでコメントするのは旧版のほう。二人の著者の正確な分担は明らかではないが、刊行当時の図書館の状況について述べた一・二・六章は前川の担当、日本の図書館史について述べた三~五章は石井の担当だろう。

 2008年に著作を読み返してみて引っかかることが多いのは、日本の図書館史の記述の方。そのトーンは、「一般民衆は自由に読書する機会を求めていたが、常に政府の図書館政策は不十分でかつ歪められていたため、これに応えることができなかった」というもの。明治から昭和にかけて、民衆は民間で読書クラブなどを作って図書館への需要を示していたが、一方で公共図書館は、蔵書が不十分で閉架式で課金があるうえに、思想善導などに利用されて、非常に駄目な機関だった、というストーリーになっている。

 この本は、現代の視点から過去の図書館を一刀両断し、当時の書籍の価値も考慮せず、また当時の図書館人にとってどういう選択肢があったのかも検討しない。この姿勢には、ちょっと鼻白む感もあるけど、これが1973年に書かれたことを考えればしようがないのかもしれない。そういう時代だったらしいから。

 ただ、民衆の需要を根拠に公共図書館の必要性を語ることはやっぱり説得力を欠く。そんな需要が強く存在するならば、普通の商品と同様に、貸本屋や読書クラブなどの民間の読書機関がそれに応えればいい。で、実際当時それらは存在した。その屋上に、またなぜ公共図書館を重ねる必要があるのか?

 そこで民主主義や真理への希求だのが出てくるのだが、いやだからそのような需要が本当に存在するなら民間が応えるでしょうということ。貸本屋は資本主義に毒されているので、公共図書館で行うべきなのか? しかしながら、この本では戦前の公共図書館はより悲惨だったかのように記述されている。だったら、非営利の読書クラブが活躍しただろうし、それらを図書館運営の理想像として提示すべきだった。読書クラブは公共図書館の前史扱いだが、この本の史観に従えば、役所が余計な介入をする公共図書館なんかよりもずっと理想的なものである。

 僕の考えでは、図書館が公共事業になるのは、民衆の需要が無かったからこそ。正確には、「当時での書籍の価格──貸本の料金や読書クラブの会費も含める──では、近代社会を形成するのに十分ではない(と政府が判断した)量の読書需要しか喚起できなかった。そのため、政府は、より安価に──究極には無料で──書籍へのアクセスを提供することを、公共事業としなければならなかった。」というもの。このほうが政府が乗り出す理由を説明できる。

 戦後民主主義史観の影響下にあるこの本では、「上からの改革」「下からの改革」にこだわり、英米の公共図書館が後者に属するかのようにほのめかされているが、やはりこれは史実に反する。英米でも公共図書館は支配階級が大衆の教化のために計画した施策であって、日本と大きく異なっているとは言えない。日本の公共図書館の遅れは民主主義といった理念の遅れではなくて、投入する予算も含めた、図書館の運営技術の問題に過ぎないように思える。

 以上、いろいろ考えさせてもらった。そのうちに新版についてもコメントしたい。ところで石井の史観は現在の図書館史でもスタンダードだと聞いたんだけど、本当なんだろうか?最近の「図書及び図書館史」教科書の記述がどうだったか覚えていないので、また読み返してみます。
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公立図書館における所有の利益と利用の利益(5)

2008-05-14 09:51:40 | 図書館・情報学
「図書館の所有者としての利益」について論じる文献をざっと探してみたけど、利用者の利益と十分に分離にして論じているものは無かった。

 かつて公共経済学系の議論を検討したことがある。
 市場の失敗の概念のうち、公共財、不完全情報、自然独占の三つは、生産されるサービスまたは財から直接消費者が受けるメリットを基に議論が組み立てられている。外部性はちょっと違って、財やサービスの直接の受益者以外の人々も巻き込む議論となっている。公共図書館の所有のメリットを論じる場合、正の外部性の範疇の中に座りがいい。

 ただ、公共図書館の実証評価となると、手法が利用者を焦点とするものに偏りがちで、外部性に取り組もうとするものが見られない。公共経済学者の井堀利宏も、公共図書館の評価にトラベルコスト法(『公共事業の正しい考え方』中公新書 p.174)を勧めている。外部性を数値で検証するのには困難が伴うから、次善の策ではあるだろう。けれども、公共事業があることの、直接の受益とマクロ経済の安定への影響は分離して考えるべきことだから、評価に混乱を招く。

 経済や教育上の統計から図書館分の影響を取り出してみせることができないならば、直接に「図書館を使わない人」にアンケートをして、図書館が存在することについてのメリットをどう考えているのか聞いてみるのは安易かな? いきなり「利用者の視点ではなく所有者の視点で評価してください」と言われても難しいか。
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公共図書館についてちょっと触れている本

2008-05-13 10:59:37 | 読書ノート
J.ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』日経ビジネス人文庫, 香西泰訳, 日本経済新聞, 2003.

 市場の倫理と統治の倫理の違いを、仮想の6人の人物による討論形式で追求する。著者のJane Jacobsは都市問題のジャーナリストとしてその筋の方々には有名だそう。2006年に逝去している。

 1998年の最初の邦訳がでたときけっこう評判になった著作なので、全体の内容について知りたい方は他を当たられたい。僕の興味を引いたのは、第13章の、図書館の話が出てくる「公益が私利に従属する危険」という節(p392以下)。といっても、ほんのちょっと触れられるだけ。登場人物の一人が、ボランティアで公共図書館の諮問委員会を担当しており、その様子について他の登場人物に伝えるくだりがある。

諮問委員会で反対意見を出した一番最近の案件は、実は職員からの提案だった。図書館の理事会は──諮問委員会はこの理事会に付設されているのだが──児童部に漫画課を付け加えるかどうかで意見が分かれていた。賛成論は統計に基づいていた。図書館入館者を増やし、年次報告の見栄えが良くなるってわけだ。諮問委員会は、資金の不適切流用だとしてその案に反対意見を出した。機構拡大や昇進狙いの資金流用だとでも言っておけば、もっと相手をやっつけられただろうがね。(p394-5)


 この文章は、個人は商業と公共の業務の二つを同時にこなすことができ、なおかつ二つの倫理を区別することができることを例示する文脈で使われており、語られているエピソード自体は瑣末なことに属する。

 しかしながら、漫画のような「大衆的な表現」を使って図書館入館者数を増やすことがポジティヴに考えられていないこと、さらに諮問委員会が統計の提示を受けても納得しなかったことは、僕の目を引いた。

 上の話がどれだけ米国の公共図書館の実態を反映しているか不明だし、漫画に対する単純な割り切りも古色蒼然と思える。ただ、市場と公共事業の違いを峻別しようとするこの著作全体を読むと、利用数を多くするという目標設定が公共機関にふさわしくないということについては納得させられる。「多く利用されることを望むのは市場に期待すべき領域だ」というのがこの著作を読んで引き出される結論だ。

 では「統治の倫理」で公共図書館の目標を解釈すると、という話は・・・まだ考えてないです。
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日米の教育法の違いから

2008-05-07 10:11:07 | 読書ノート
渡辺雅子『納得の構造:日米初等教育に見る思考表現のスタイル』東洋館, 2004.

 日米の小学校の、授業スタイルの観察や採点基準の比較を通じて、「納得する」という感覚の違いを明らかにしようとした研究書である。ただし、米国の小学校はいわゆる中上流層の子弟の通う学校であり、平均的ではないが学校的価値観の中では模範的であるような学校が比較の対象とされている。

 米国の教育では「Why?(なぜ)」が常に教師から生徒に向けて発せられ続け、生徒は物事を因果関係の枠で解釈しなければならない。そこで目指されるのは、情報の価値を序列付け、取捨選択してゆく能力をつけることである。複数の要因が複雑に絡みあうような事象を観察して、複数の要因の中からもっとも大きな影響を与えるものを取り出すよう訓練される。

 一方、日本の授業では、「How?(どのように)」が重視される。歴史教育においては、事件を起こった順序通りに提示するスタイルが好まれ、因果関係の枠に押し込めない。しかしながら、そこには情報を取捨選択する過程がなく、重要度を序列づけることもない。納得とは、単に物事にかかわった人の気持ちになることである。時系列の情報提示と共感によって、理解が促されるとされる。

 著者は、教育方法において日米どちらが優れているかを判断しない。本書の最終章で、教育法の輸入・移植について言及しているけれども、どちらかと言えば、それぞれの文化の文脈の中で納得の構造に違いがあるのだ、という文化相対主義的な視点が強調されている。

 しかしながら、教育は公費を投入する国家プロジェクトであり、その成果と効率は問われなければならない。社会の変化によっては、教育的価値の体系を変える必要が生まれる。日本の教育における1990年代からのスローガン、「情報リテラシー」やら「生きる力」という話はそういう変化の現れだろう。

 本書を読んだ限りでは、「情報リテラシー」の育成のためのちゃんとした教育プログラムを組んでいるのは米国の方だ。なにせ、日本の教育では、様々な情報を価値付け、序列付けるという局面がまったく無い。取捨選択するという訓練が無いのである。これでは学校教育で得られる「生きる力」はわずかなものになるだろう。

 とはいえ、これは米国の模範校の話。各種国際調査を見る限り、米国の教育は決して理想とはいえない。米国の平均的な学校とはまた違うということは、本書でも繰り返し注意されている。また、「友情」などの本来利他的な面を持つ概念を、模範校の生徒たちが利己的に解釈するエピソードを読まされると、寒々しい思いもする。

 これらを考慮しても、因果関係の枠組みの中で情報を取捨選択する訓練をどこか──初等教育段階と言わず中等教育段階で──でやっておく必要はあるだろう。みんな大学に来て、この種の「因果関係モデル」にのっとった思考法に面食らうからね(僕もそうだった)。日本企業もそういう思考が出来る人材を欲しいんでしょ? 違うの? 全員じゃなくて数名だけ?



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