29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

詳細を究める米国プラグマティズム思想の成立史

2014-06-30 12:43:22 | 読書ノート
ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ:米国の100年の精神史』野口良平, 那須耕介, 石井素子訳, みすず書房, 2011.

  19世紀から20世紀初頭にかけての米国思想史。南北戦争前夜から、ウィリアム・ジェームズ、チャールズ・サンダース・パース、ジョン・デューイに至る、プラグマティズムの成立の歴史を追っている。上下二段で500頁ほどある大著で、上記思想家の名前をあらかじめ知っていないと読み進められないレベルの内容である。

  著者の見立てでは、プラグマティズム思想は南北戦争における経験を端緒とする。この戦争はイデオロギー対立を暴力によって解決しようとするものだった。南北戦争は世界最初の総力戦と言われるだけあって、結果として多数の犠牲者をもたらした。北軍に従軍した後の連邦最高裁判事オリヴァー・ウェンデル・ホームズ(阿川尚之の『『憲法で読むアメリカ史(全)』にも出てくる)はこの戦争に強い衝撃を受けた。彼を導きの糸にして、プラグマティズムの思想形成の紆余曲折をたどっている。19世紀後半に概念化されるまでの影響関係や、思想家間の異同を詳細に記した点が、この本の魅力だろう。

  プラグマティズムは、南北戦争の悲劇を克服しようとして、形而上学やイデオロギーを嫌い、寛容な世界を目指す。この点は20世紀的なリベラル思想に大きな影響を与えたところだろう。ただし、著者も指摘するように、間違った意見に対してまでも寛容であることは、不正とみなしうる現実を変える力を持たない。この点で、プラグマティズムは20世紀後半に影響力を失っていたのだが、米国では最近再評価されつつあるという。こうした潮流は、米国の外交における迷走に何か関係があるだろうか。
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パーティ嫌いで踊ったりしない人のための傍流ハウス音楽

2014-06-27 22:01:59 | 音盤ノート
Saint Etienne "Foxbase Alpha" Heavenly, 1991.

  ハウス・ミュージック傍流。グループは男二人に女性ボーカルという編成。ハウス的なのはボーカル曲の合間に挟まれるインスト曲だけで、全体としてはむしろエレポップとしたほうがいいかもしれない。打ち込み部分はハウスを基調としているものの、その特徴である匿名性には甘んじず、陰影のある"アーティスティック"な音を指向している(ちなみに反ロック的文脈からみればこの点は後退と写るだろう)。

  女性ボーカルを取り入れ、フロアではなく大衆受けを狙ったハウス・ミュージックと言えば、かつてテイ・トウワが在籍したDeee-Liteを思い出す。パーティ向きで「モンド」的だったDeee-Liteに対して、このSaint Etienneはリスニング向きで「ラウンジ」的である。落ち着いた雰囲気の曲を、フルートやヴィブラフォン、ストリングスなどの音で装飾するのである。Sarah Cracknellのボーカルは、悲しみを湛えることはあるけれどもそれほど感情的にはならず、ウィスパーから高音まで柔らかい。「癒し系」という語で僕が思い浮かべるのは彼女の声である。二曲目のNeil Youngのカバー曲だけ別人が歌っている。ボーカル曲は粒ぞろいで本当に飽きない。

  英国出身なのに1990年代の一時期は「渋谷系」の仲間扱いされるほど日本で人気があった。けれど、2009年に二枚組リマスタリング盤としてこのアルバムが再発された際は全然話題になっていなかったな。もうとっくに解散したと思っていたけど、まだ活動してたみたいだ。
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「オルタナ」と言われて音がイメージできる人向け

2014-06-25 10:33:29 | 読書ノート
南田勝也『オルタナティブロックの社会学』花伝社, 2014.

  『ロックミュージックの社会学』の続編。本書では前著で十分論じられなかった1990年代以降のロックミュージックの動きを分析している。話の都合上Nirvanaのカート・コバーンの自殺を画期(1994年)としているが、変化の底流としては1980年代後半から続くものである。

  本書の冒頭で、1980年代後半、ヒップホップやハウス、ワールドミュージックの登場によって、カウンターカルチャーとして特権的な地位にあったロックは「白人男性によるギターを主としたサブジャンル」に転落したとされる。黒人を排除した保守的なジャンルとみなされたわけである。しかし、一方で「白人」かつ「男性」という優位を背負いながら(というかそれを負ってしまったからこそ)進学や就職の面で不利になった低所得者白人層も同時期のアメリカ社会で目立ってきた。グランジを代表とするオルタナティヴロックはそうした層を引きつけるものとして現れたという。

  で、それはどのような形をとったのか。詞の面では、社会へのプロテストをせず、内向的で自傷的になった。サウンド面では、各楽器とボーカルが明瞭に分離して聞こえるアンサンブルを否定して、それぞれの音を相互に打ち消しあうようなノイジーで渦のようなサウンドを指向する。加えて、スポーツ化や野外ライブなどの拡大の傾向を挙げて、参加型のイベントとして消費されるものに変化してきた。総合すれば「耳で聴く」ものではなく「体で浴びる」ものになった、ということである。このほか、日本への影響や、音楽のダウンロード販売に対するミュージシャン側の反応についても論じられており、「オルタナ影響下」の音楽シーンをかいつまんで通覧できるすぐれた書物となっている。

  個人的には非常に興味深い内容だったが、1990年代以降のオルタナという、日本ではかなりマイナーなジャンルを聴いていないとまったく何を言っているのかわからないかもしれない。そういう音楽になってしまったロックの「今を」淡々と受け入れる、そういう書物である。
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「ロックをダサいものに変えた」ということになっているヒップホップ名作

2014-06-23 21:42:26 | 音盤ノート
Public Enemy "It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back" Def Jam, 1988.

  ラップ/ヒップホップ。この分野についてあまり詳しくないし正直好きでもないのだが、パブリック・エネミーの初期四作は10代後半に無理して聴いていた。購読していたロック誌で高い評価を受けていたからである。前回エントリの南田著が記しているように、登場したばかりのヒップホップは、「ロックバンドは保守的でヒップホップは革新的」だという像を造り上げ、加えて黒人というアウトサイド性によって聖化された「新たなロック」だった。本作はそうしたイメージを打ち立てた代表的作品である。

  グループの基本的な枠組みは1970年代初頭のJames Brown組から取られている。機械による反復ビートが繰り返す中、Brown系のしわがれ声のFlavor Flavをサイドに、Bobby Byrd系の太い声のChuck Dをメインに据えて、煽るようにラップする。これらに薄いサンプリングおよびパニック的なサイレン音を織り交ぜ緊張感を高めている。ビートの骨格が丸出しの無骨な音作りで、サウンドメイキングにおける芸が少ない分、ラップのパワーに頼ってアルバム全体を聴かせる趣向となっている。

  久々に聴いてみたが、正面切って早口で英語をまくしたてられるようで、殺伐としており攻撃的な気分になる。機能としてはグランジものを通して聴くのとよく似ているだろう。英語もわからないのに60分弱も聴いていると疲れも感じるのも確かだ。三作目と四作目は音的に洗練されて多少聴きやすくなるのだが、一方でラップのテンションが落ちていった印象がある。結局、個人的にヒップホップを聴く習慣は続かなかった。ロックバンドならば今でも聴くのだが。
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ロック研究、よくジョン・ロックの研究だと間違われたと著者は書く

2014-06-20 14:11:18 | 読書ノート
南田勝也『ロックミュージックの社会学』青弓社ライブラリー, 青弓社, 2001.

  ロックミュージックのカルチュラル・スタディーズ。前半に概念を紹介して英米ロックを簡単に分析してみせ、後半で日本の「ロック」概念の変遷について詳説するという構成。「社会学」とタイトルにあるが、統計調査があるわけではなく、フーコーやブルデューの影響下にある、概念の変遷を時代の文脈において解釈するフランス系の「社会学」である。いずれにせよ、「オールド」ロックのファンなら十分楽しめる。

  まず分析概念として三つの指標、アウトサイド、アート、エンタテイメントが定義される。すなわち、社会のヒエラルヒーにおいて低い階層からの出自ほど優位な記号となり、革新的で多様な解釈を許す創造的音楽ほど高い評価を受け、なおかつ商業的成功も求められる、ということである。その適正なバランスは時代や解釈される「場」によって異なる。1980年代になり、ロックはエンタテイメント重視のメジャーとアート重視のマイナーに完全に分離し、こうした状況に対して三指標それぞれにおいて卓越するヒップホップが、拡張した「ロック」概念の中で優位に立つようになったという。

  後半は日本のロック史では、1960年代から70年代にかけて、アウトサイド指向+アート指向で売れないロックと、商業的に成功したフォークロック/ニューミュージックという対立があり、矢沢永吉率いるキャロルという例外があり、1980年前後に東京ロッカーズがあり、1980年代に「イカすバンド天国」などのテレビ番組の浸透でロックが大衆化し、アウトサイド指向などの意味が失われた、と展開する。この流れ自体は既知のことかもしれないが、その意味付けは鮮やかで興味深いものだった。

  ただ、面白いと感じられるかどうかはジャンルそのものへの思い入れも関係するかもしれない。本書で描かれたロックに対する過剰な意味づけを、今どきの若者ならば年寄りの妄想だとか馬鹿げたものとみなすだろう。本書に従えば、僕と同じ団塊ジュニア世代は、もうすでにロックを単なる快楽供給する文化装置の一つとして聴いていた。ところが、若いころの僕は「インディーズ」を過剰な意味とともに受けとめた遅れた人間だった。そういうわけでアート指向で商業的には成功していないマイナーミュージシャンを好んで聴いていた。本書はこのようなロック幻想をきれいに整理してみせ、当時の「痛い」自分を眼前に突き付けるようで複雑な気分になる。
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前半と後半で楽曲のクオリティに差がある

2014-06-18 08:05:26 | 音盤ノート
Jan Garbarek "Paths, Prints" ECM, 1982.

  北欧ジャズ。1980年前後からECMの録音に参加し始めた米国人ギタリストBill Frisellをサイドに抜擢した作品。ベースとドラムはECM常連のEberhard WeberとJon Christensen。'Footprints'なる曲名もあるがWayne Shorterとは無関係、全曲ガルバレクのオリジナルである。

  フリゼルのキャリアでは最初期の録音ということになるが、そのスタイルはすでに完成されている。ガルバレクのサックスの後ろで、晴天の空で顕れては消える雲のような音が鳴っているのがそれだ。慣れていない人にはシンセサイザー音のように聞こえるだろうが、れっきしたエレクトリックギターである。全体としては、緊張感の無い、茫漠とした緩くて暖かい楽曲が続き、退屈スレスレの内容である。実際、LPのB面(CDだとtrack.5-8)は気が抜けたような印象だが、LPのA面(CDだとtrack.1-4)ではバンドが上手く噛み合って天国的な音楽を奏でている。

  個人的に所有しているのは日本盤LP。発売時の邦題は『ムーヴ』となっていた。A面だけ繰り返し聴いている。
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「知識を得る場」から「知識もついでに得られる快適な広場」を目指して

2014-06-16 12:21:00 | 読書ノート
アントネッラ・アンニョリ『知の広場:図書館と自由』萱野有美訳, みすず書房, 2011.

  イタリアの図書館改革レポート。昨年、著者が来日している。最初の方で「教養の衰退は現代の危機」だの「クリエイティヴクラスで街が発展する」だのの話があるが、残りのほとんどは図書館のアメニティや都市における位置など、具体的な使い勝手の話である。そう思って読めば、古い建築を改造して心地良い図書館にする数々のアイデアは面白いし、ヨーロッパの図書館の様子を伝えるいくつかの写真も美麗である。

  ただ、アメニティなどの話を冒頭の問題意識に対する回答であるかのように提示されるのは違和感がある。図書館の外観が壮麗だから労働者階級が来館しないとか、そういう認識は違うんじゃないか、と。たとえを使えわせてもらえば「精進料理の専門店が、客が減ってきたこともあって出店位置を変えたり、内装を大胆に変えてみました」という印象。読者としては、メニューにそもそも限界があるのでは、と突っ込みたくなる。残念ながら、蔵書についての十分な考察は本書にはない。おそらく、「教養」や「知」という看板はそう簡単に降ろせないということで、図書館改良の方向がアメニティや都市空間上の配置になってしまうのだろう。

  イタリアの図書館事情を伝える日本語書籍はほとんどないと思われるので、そういう点での意義はある。けれども、日本の読者にとっては、元千代田区図書館長だった柳与志夫による解説の方が日本の図書館の問題を伝えておりためになると思う。
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想像のつく音だが、ありそうでなかった組み合わせというだけで聴かせる

2014-06-13 20:24:53 | 音盤ノート
Marc Copland, John Abercrombie, Kenny Wheeler "That's for Sure" Challenge, 2001.

  ピアノ、ギター、トランペットによる室内楽的ジャズ。Challengeはオランダの新興レーベルで、Enrico Pieranunziなどの録音がある。このトリオの続編"Brand New"(2004)も同レーベルである。

  収録曲は、アバクロとウィーラーがそれぞれ3曲ずつ、コープランド2曲、スタンダード1曲という構成。打楽器が無いぶん躍動感に欠けるのだが、それは狙ったものなのだろう。音の隙間と弱い音色がもたらす間延びした感覚と、かすかに感じられる微妙な緊張感。この挟間を、三者が淡々と絡みあって進行する。静かめでメロディアスな演奏であるものの、決して甘い方向には流れてはいかない。「硬質叙情派」とでもいうべき音楽となっている。前半は静謐だが、後半のtrack6,7あたりはほんの少し熱のこもった演奏となる。

  音はメンツを見て予想される音そのままで、その意味で驚きは少ない。だが、ベテランだけあって手堅く、外すところの無いクオリティである。あとは、個人的には組み合わせの妙だけで楽しめる。コープランドとウィーラーというのは、方向性も同じでうまく調和しそうなのだが、これまであまり共演が無かったから。
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ロングテール経済に適応できなかった企業がどうなったかが気になる

2014-06-11 11:41:47 | 読書ノート
クリス・アンダーソン『ロングテール:「売れない商品」を宝の山に変える新戦略』ハヤカワ文庫, 篠森ゆりこ, 早川書房, 2014.

  タイトル通りのロングテール論。すでに耳たこ概念となっているが、個人的に2006年の邦訳を読んでいなかった手前、文庫化のあかつきに今さらながら手にとってみた。著者は執筆当時WIRED誌の編集者。ちなみ文庫版の原書は2008年のアップデート版で、すでに2009年にハヤカワ新書juiceシリーズの一つとして発行されている。

  巷間で言われている内容にここで付け加えることはない。多くの事例を挙げて、インターネットは、店舗形式の商売ならば必ず存在する物理的制約──需要の少ない商品に棚を与えることは利益の妨げとなる──を取り払い、マイナーでニッチな商品の需要を掘り起こすことができるうえ、かつその販売によって利益を得ることができるようにしているという。ただし、推薦機能などを使ってニーズと商品をマッチさせることができればの話だが。また、ロングテール経済が登場しても、多少頭を低くすることになるだろうけれども、ブロックバスターを頂点とするショートヘッドの世界は決して滅ぶことはないとも強調している。

  個人的には「その後」が気になる。小規模な在庫しか持たない個人でもロングテール経済に気軽に参入できるとはいえ、たいした稼ぎにはならないはずである。十分な利益を挙げているのはAmazonやYahooなど、マッチングの場を提供する企業ばかり。このような現状はよく知られているところである。近年の「マイルドヤンキー」への注目は、こうしたロングテール経済にうまく適応できなかった企業による揺り戻しだという気がする。テールの中に嗜好を分散させる都市住民よりも、テレビ広告などで操作しやすい(とマーケッターが考える)地方居住者をターゲットにして、ショートヘッドの消費世界を狙い続けるという。穿ちすぎだろうか。
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プロデューサー主導のジャズファンク、リーダーは客演同然

2014-06-07 13:30:37 | 音盤ノート
Donald Byrd "Black Byrd" Blue Note, 1973.

  ファンク色の強いフュージョン。ドナルド・バードは1950年代のハードバップ期に登場したトランぺッターで、ブルーノートに大量の録音を残している。1960年代末のジャズ低迷期になると、ギター、エレピ、二人の打楽器隊に、厚めの管楽器隊という編成で、電化ジャズの波に乗ろうとした。"Fancy Free"(Blue Note, 1970)以降、試行錯誤の末"Ethiopian Knights"(Blue Note, 1972)がそれなりの完成度となったが、本人は満足しなかった(売れなかった?)ようで、もっと大きなスタイルの変更を試みる。

  その結果が本作。自作曲を演じず、当時若手のマイゼル(Mizell)兄弟に作曲もプロデュースも託す。反復ベースと打楽器隊が作り出すグルーヴに、ブラスとエレピとシンセが絡む心地よいジャズ・ファンクとなった。演奏は、サイドマンのソロのスペースを大幅に削り(フルートだけ特別扱い)、平均5~6分前後の、長くて8分ほどの時間にまとめている。バードのソロも、全体の演奏に埋没するかのように地味に奏でられ、以前のように前面に出てきて高らかに吹きあげるという風ではない。ボーカルやコーラスもあり、ジャズというよりR&B風味である。Marvin Gayeの"I Want You"(Motown, 1976)から流麗なストリングスを抜いた感じだと言えばわかるだろうか。わからないだろうな。あるいは大野雄二の「ルパン三世」のテーマとか。そもそも、本作がそうしたスタイルの起源なのだろう。

  しかし、レアグルーブ名盤として高い評価を受けているのに、1992年にCD化されたきり放っておかれているのはなぜなのか。リマスタリングだ紙ジャケだと手を変え品を変え、同じ作品を何度も購入させるのがジャズレーベルの商道。ブルーノート社内ではあまり評価されていないのだろうか。ちなみに、ファンキージャズとジャズファンクは違うからね。
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