マイケル・ボーダッシュ『さよならアメリカ、さよならニッポン:戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか』奥田祐士訳, 白夜書房, 2012.
日本の大衆音楽についての論考集。著者は滞日経験のある米国の日本学者。原書は"Sayonara Amerika, Sayonara Nippon: A Geopolitical Prehistory of J-POP" (2012)。著者に従えば終戦直後からJ-POP概念が成立するバブル崩壊期までを対象としている。
この邦訳の売り方には問題があると思う。第一に、邦訳にあたって副題が変えられているが、元の「J-POPの地政学的前史」というわかったようなわからないような題のほうが、本書のカルスタ・ポスコロ的意匠を正しく伝えている。邦訳版の「戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか」では、日本の大衆音楽史を外国人向けに解説した──英米からの影響を(上から目線で)言及し、そして日本人にとってはすでに知ったような邦人音楽家の名前が並ぶ──入門書籍を想像する。実際に僕はそういう本であることを期待して本書を手にとった。けれども、本書の主題は、少数の歌手やミュージシャンを採りあげ、その代表曲や受容の状況を材料にして、日本人アイデンティティの形成を論じるというものである。柄谷行人に謝辞が述べられるような気取りのある本であり、分かりやすい内容とはいえない。
第二に、オビには“「はっぴいえんど」を中心に解析した(後略)”とあるが、バンドはっぴいえんどを扱っているのは全6章のうちの第5章だけで、さらにその章内でも荒井由美とYMOと並置される1/3のネタでしかない。邦訳には解説替わりに音楽評論家の対談が載せられているのだが、そこでも「はっぴいえんど」が連呼される。このバンド名が一般読者にアピールする記号なのかそもそも疑問なのだが、その強調に日本側のいったいどのような事情があるのだろうか。
で、その内容は次のようなものである。笠置シズ子、美空ひばり、坂本九、グループサウンズ、はっぴいえんど他、チャゲ&飛鳥で各一章ずつ割り当てられている。カルスタ本特有の冗長さとわかりにくい言い回しはあるが、それでも前半三章は面白い。敗戦後の米軍占領下で、「ブギの女王」笠置シズ子が米国資本主義+快楽主義の象徴として当時捉えられたこと。そして笠置の影響下に登場した美空ひばりが、音楽的に無国籍でかつジャンル横断的に録音を残しながらも、東アジア圏共通の音階を用いるジャンル「演歌」がなぜか日本的なものとして認識されるようになった時代的文脈において、「演歌の女王」として国民的歌手にまつりあげられるようになった逆説を論じている。つづく、ロカビリー歌手でもあった坂本九が、"Sukiyaki"を巡って米国の音楽・人種の分断線を超えることができずクルーナー歌手として規定されてしまい、また自己規定してゆくという話も興味深い。
後半の三章は微妙な出来。グループサウンズとはっぴいえんど他の二つの章は、日本人がロックのような外来の大衆音楽を演奏することの真正性を問題にしているが、ギターエフェクト、プロダクションの問題、当時の日本人音楽家の思い込みに原因が求められ、アーティスティックな荒井由美の大衆性とYMOの批評性で克服されたかのように描かれており、ちと単純ではないかという気がする。また、最後に俎上にあがるのがチャゲアスで、東アジアにおけるJ-POP受容という完全にマーケット文脈での話になっており、「日本」的な音楽の創造・定義という問題が視野にあった1-5章までから外れている。まあ、最初に書かれたのがこの6章らしいから、著者にもともとスタンダードな日本の大衆音楽史を換骨奪胎しようという意図はなかったのだろう。
何が足りないのかははっきりしている。大瀧詠一である。アメリカンポップスをコラージュして、非演歌的ながらも日本人の耳に馴染むシティポップスを構築してきたその功績に言及しなければ、1980年代後半以降を語ることはできない。彼の影響下に、英米ラウンジ音楽やソフトロックを参照する渋谷系が成立するのだが、それは軽快かつ無国籍(かつ反ロックで白人にとっては安全)で、あらゆるものを記号として節操なく消費する日本の都会人をイメージさせた。YMOとは違ったかたちで、高度資本主義下の日本人に帰るべきルーツなどないということを示したわけだ。一方で、著者が好むという椎名林檎にはグランジの影響だけでなく暗い情念をぶつける演歌的要素(すなわち遡るべき日本の音楽)があるが、その面白さは、大瀧-渋谷系に至る系譜が作った都市的日本人像に対するアンチになっていることにある。
そういうわけで大瀧詠一は、1990年代に至る流れを1970年代からつなぐ重要な結節点なのだが、はっぴいえんどを扱いながら本書ではあまり論じられていない。本書では細野晴臣が重視されており、それはそれで納得のゆくことなのだが、一世一代のYMOでは解散後の展開が続かず記述がブツ切れになる。そして唐突に1990年代初頭のチャゲアスが出てきてしまい、違和感が残る論述の構成となってしまっている。この点で、大衆音楽を通じて日本人アイデンティティを論じるという当初の意図を十分ふくらませることができなかったと評価する他ない。ついでにGSを扱うならば、その継承者でヴィジュアル系の雛形となったBoowyにも言及してほしいよな。一応、バブル崩壊前だし。
以上を考慮すると、「戦後からYMO解散(1983年)までを扱った」日本大衆音楽史と考えれば興味深い指摘の多い書籍だと言える。バブル期まで視野に入れているというのは言い過ぎだろう。1980年代半ば以降も同じテーマの延長線上で書けるはずであり、著者には続編を期待したい。
日本の大衆音楽についての論考集。著者は滞日経験のある米国の日本学者。原書は"Sayonara Amerika, Sayonara Nippon: A Geopolitical Prehistory of J-POP" (2012)。著者に従えば終戦直後からJ-POP概念が成立するバブル崩壊期までを対象としている。
この邦訳の売り方には問題があると思う。第一に、邦訳にあたって副題が変えられているが、元の「J-POPの地政学的前史」というわかったようなわからないような題のほうが、本書のカルスタ・ポスコロ的意匠を正しく伝えている。邦訳版の「戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか」では、日本の大衆音楽史を外国人向けに解説した──英米からの影響を(上から目線で)言及し、そして日本人にとってはすでに知ったような邦人音楽家の名前が並ぶ──入門書籍を想像する。実際に僕はそういう本であることを期待して本書を手にとった。けれども、本書の主題は、少数の歌手やミュージシャンを採りあげ、その代表曲や受容の状況を材料にして、日本人アイデンティティの形成を論じるというものである。柄谷行人に謝辞が述べられるような気取りのある本であり、分かりやすい内容とはいえない。
第二に、オビには“「はっぴいえんど」を中心に解析した(後略)”とあるが、バンドはっぴいえんどを扱っているのは全6章のうちの第5章だけで、さらにその章内でも荒井由美とYMOと並置される1/3のネタでしかない。邦訳には解説替わりに音楽評論家の対談が載せられているのだが、そこでも「はっぴいえんど」が連呼される。このバンド名が一般読者にアピールする記号なのかそもそも疑問なのだが、その強調に日本側のいったいどのような事情があるのだろうか。
で、その内容は次のようなものである。笠置シズ子、美空ひばり、坂本九、グループサウンズ、はっぴいえんど他、チャゲ&飛鳥で各一章ずつ割り当てられている。カルスタ本特有の冗長さとわかりにくい言い回しはあるが、それでも前半三章は面白い。敗戦後の米軍占領下で、「ブギの女王」笠置シズ子が米国資本主義+快楽主義の象徴として当時捉えられたこと。そして笠置の影響下に登場した美空ひばりが、音楽的に無国籍でかつジャンル横断的に録音を残しながらも、東アジア圏共通の音階を用いるジャンル「演歌」がなぜか日本的なものとして認識されるようになった時代的文脈において、「演歌の女王」として国民的歌手にまつりあげられるようになった逆説を論じている。つづく、ロカビリー歌手でもあった坂本九が、"Sukiyaki"を巡って米国の音楽・人種の分断線を超えることができずクルーナー歌手として規定されてしまい、また自己規定してゆくという話も興味深い。
後半の三章は微妙な出来。グループサウンズとはっぴいえんど他の二つの章は、日本人がロックのような外来の大衆音楽を演奏することの真正性を問題にしているが、ギターエフェクト、プロダクションの問題、当時の日本人音楽家の思い込みに原因が求められ、アーティスティックな荒井由美の大衆性とYMOの批評性で克服されたかのように描かれており、ちと単純ではないかという気がする。また、最後に俎上にあがるのがチャゲアスで、東アジアにおけるJ-POP受容という完全にマーケット文脈での話になっており、「日本」的な音楽の創造・定義という問題が視野にあった1-5章までから外れている。まあ、最初に書かれたのがこの6章らしいから、著者にもともとスタンダードな日本の大衆音楽史を換骨奪胎しようという意図はなかったのだろう。
何が足りないのかははっきりしている。大瀧詠一である。アメリカンポップスをコラージュして、非演歌的ながらも日本人の耳に馴染むシティポップスを構築してきたその功績に言及しなければ、1980年代後半以降を語ることはできない。彼の影響下に、英米ラウンジ音楽やソフトロックを参照する渋谷系が成立するのだが、それは軽快かつ無国籍(かつ反ロックで白人にとっては安全)で、あらゆるものを記号として節操なく消費する日本の都会人をイメージさせた。YMOとは違ったかたちで、高度資本主義下の日本人に帰るべきルーツなどないということを示したわけだ。一方で、著者が好むという椎名林檎にはグランジの影響だけでなく暗い情念をぶつける演歌的要素(すなわち遡るべき日本の音楽)があるが、その面白さは、大瀧-渋谷系に至る系譜が作った都市的日本人像に対するアンチになっていることにある。
そういうわけで大瀧詠一は、1990年代に至る流れを1970年代からつなぐ重要な結節点なのだが、はっぴいえんどを扱いながら本書ではあまり論じられていない。本書では細野晴臣が重視されており、それはそれで納得のゆくことなのだが、一世一代のYMOでは解散後の展開が続かず記述がブツ切れになる。そして唐突に1990年代初頭のチャゲアスが出てきてしまい、違和感が残る論述の構成となってしまっている。この点で、大衆音楽を通じて日本人アイデンティティを論じるという当初の意図を十分ふくらませることができなかったと評価する他ない。ついでにGSを扱うならば、その継承者でヴィジュアル系の雛形となったBoowyにも言及してほしいよな。一応、バブル崩壊前だし。
以上を考慮すると、「戦後からYMO解散(1983年)までを扱った」日本大衆音楽史と考えれば興味深い指摘の多い書籍だと言える。バブル期まで視野に入れているというのは言い過ぎだろう。1980年代半ば以降も同じテーマの延長線上で書けるはずであり、著者には続編を期待したい。