「1971Mの死」の添削をお願いします

「かみつく」という季刊誌を出版する決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いすることにしました。短編小説「1971Mの死」の漢字の間違いや表現がおかしいと思う箇所の指摘をお願いします。
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1971Mの死 1


学生運動やら演劇クラブでの酒と論争の日々を過ごしたせいで、私は多くの単位を落としていた。R大学の国文学科に入学して五年が経過していたが今年も卒業の見込みがなかった。
一九七一年六月一七日、五年次の私は三年次の学生と一緒に中世文学の講義を受けていた。古典に全然興味のない私だったが卒業するためには必修科目の中世文学を受けないわけにはいかなかった。窓際に座り、教授の講義を念仏のように聞きながら、青空と白い雲の下の慶良間諸島や遥か遠くに見える読谷飛行場の像のオリをぼんやりと眺めているうちに講義の終了のベルは鳴った。五年次の私には講義が終わってから話し合う相手はいなかったので、講義が終わるとすぐに講義室を出た。生協の食堂でカレーライスを食べ、それから崖道を下って、トタン屋根の我が演劇クラブ室にでも行こうかと思いながら廊下を歩いていると、背後から、
「先輩」
聞き覚えのある声がした。振り向くと一年後輩の礼子だった。
「先輩、明日、与儀公園で県民大会があるけど、参加できないですか」 
礼子は私を県民大会に誘った。学生運動と距離を置くようになっていた私は県民大会に参加したくなかった。
「県民大会かあ。ううん、どうしよう」
私が県民大会に行くのを渋っていると、
「なにか用事があるのですか」
と、礼子は訊いた。
国文学科委員長をしていた頃は私が礼子を政治集会に熱心に誘ったし、一緒に学生集会や県民大会などに参加した。礼子は運動音痴で弱虫であったが、デモの時に機動隊にジュラルミンの盾でこずかれて怪我をしたり、一部の学生が火炎瓶を投げつけたために機動隊に襲われる怖い体験をしても学生運動に参加し続けていた。礼子とは違い、学科委員長を辞めてからの私は次第に学生運動に距離を置くようになり学生集会や県民大会などに参加しなくなっていた。
「明日は家庭教師の仕事があるんだ」
「無理ですか」
「無理かもしれない」
「できたら参加して欲しいです」
いつになく礼子はしつこく私を県民大会に誘った。今までも数回政治集会に誘われたが私はヤボ用があるといって断った。その時は、「じや、次は参加してください」といって礼子は私を誘うのをあきらめた。しかし、今日の礼子はすぐにはあきらめなかった。家庭教師をする家はどこですかと聞いたり、家庭教師の曜日を変更できませんかと聞いたりした。礼子は来年卒業する。就職活動もあるし政治集会に参加するのをそろそろ終えようと思っているのだろう。だから、私を県民大会に誘っているのかもしれない。礼子と話しているうちに、私は礼子の誘いを断るわけにはいかないと思った。
家庭教師をやる家は那覇市の立法院の近くにあった。立法院前から市内線のバスに乗れば開南を通って与儀公園まで直行で行ける。家庭教師を早く終わらせれば県民大会に間に合わせることができるだろう。
「家庭教師を早く切り上げれば県民大会に間に合うかもしれない」
礼子はほっとしたように微笑んだ。
「そうですか。よかった。それでは、明日の県民大会で」
と言って、礼子は去って行った。

一九七一年六月一八日、私は家庭教師の仕事を早めに終わって、スーツに革靴のまま与儀公園に行った。その日の県民大会は、宇宙中継によって東京とワシントンで結ばれた「沖縄返還協定」に抗議する県民大会であった。日米政府による「沖縄返還協定」締結によって、来年の一九七二年五月一五日午前0時に沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになる。 
バスを降り、与儀公園に入った私は、公園に並んでいる団体の中にR大学自治会の学生集団を探したが、見つけることができなかった。変に思いながら公園内を見渡すと、大会場の後ろの方に白いヘルメットの集団が見えた。近づいていくと、R大学の自治会長がハンドスピーカーを握り、県民大会の議事進行を無視して、公園の芝生に座っている学生たちに向かってがなり立てているのが見えた。私は学生集団の中に礼子たちを探した。手を上げている女性が目に入った。見ると礼子だった。私は後輩の学科委員長に「よっ」と挨拶をしてから礼子のいる集団に混じった。
礼子たちは四年次であり来年は卒業するので、私たちの雑談は卒業の話になった。
「卒業したらなんの仕事をするんだ」
「中学校の先生よ」
「え、弱虫のお前が中学校の先生になるのか。いじめられて泣かされるぞう」
と、私がからかうと、
「仕方ないでしょ。他にいい仕事がないもの。先輩は今度卒業できるの」
と、礼子は反撃してきた。痛いところを突かれて、私が返答に困っていると、
「ほら、先輩は卒業できないのでしょう。他人のことをとやかく言わないで自分のことを心配したほうがいいわ」
「他人のことをとやかく言って悪かったな」などと雑談していると、学生運動のリーダーたちから立ち上がるように指示された。
「県民大会はまだ終わっていないよ。どうするのだろう」
「さあ、知らないわ」
R大学の学生集団は立ち上がり、ジグザグデモを始めた。そして、革新政党や労働組合の代表が居並んでいる会場の前に出ると、演壇をぐるぐる回り始めた。デモ隊の中から数人のヘルメットを被った学生が出てきて、演壇に駆け上がり、演説している労組の代表者と進行係を排除して演壇を占拠した。学生たちは演壇の中央で日の丸と星条旗を交錯させるとふたつの旗に火をつけた。灯油を染み込ませた日の丸と星条旗は勢いよく燃え、演壇の回りをジグザグデモしている学生たちの意気は上がり、シュプレヒコールは大きくなった。
私は、日の丸と星条旗が燃え終わると、デモ隊は意気揚々と元の場所に戻るだろうと予想しながら演壇の周囲をデモっていた。すると、労働者の集団がデモ隊に近づいてきた。私はその集団はデモ隊への抗議の集団であり、デモを指揮しているリーダーたちと押し問答が起こるだろうと思っていたが、労働者の集団がデモ隊に接近すると、デモ隊の一角が悲鳴を上げて一斉に逃げ始めた。労働者の集団は抗議をするためではなく、学生のデモ隊を実力で排除するためにやってきたのだった。県民大会の演壇を占拠し、日の丸と星条旗を燃やしたのは横暴な行為であり許されるものではない。しかし、だからといって労働者集団が学生のデモ隊を問答無用に襲撃するのは私には信じられないことだった。唖然とした私は、逃げ惑う学生たちの流れに押されて走った。走っている途中で、前日の雨でぬかるんでいる泥土に足を取られ、片方の革靴が抜けてしまった。私は革靴を取ろうとして立ち止まろうとしたが、逃げ惑う群の圧力は強く、私は群れに押し流されて与儀公園の外に出た。
片方の革靴を失った私は困った。スーツと革靴は上流家庭の家庭教師をしている学生には必需品であり、貧乏学生の私は高価である革靴をそのまま捨てるわけにはいかなかった。はぐれてしまった礼子たちのことが気になったが、それよりも革靴の方が私には切実な問題だった。会場が落ち着いてから与儀公園に戻ろうと、私はバス停留所に向かう学生たちの群れから離れて道路の端に立ち、与儀公園の様子を見ていた。すると、照屋さんが近寄って来て、
「どうしたの」
と私に訊いた。照屋さんは情報収集を専門に活動している学生運動家だった。

私が学科委員長をやっていた時、照屋さんと私は那覇警察署の様子を探るために那覇署の近くのバス停留所で張り込みをしたことがあった。私と照屋さんは那覇署が見えるバス停留所のベンチに座っていたが、なんの飾り気もない服を着ている男女がバス停留所に長時間座っているのを逆に警官に怪しまれて私と照屋さんは那覇警察署に連れて行かれた。私と照屋さんの服装や表情を見て、私たちが学生運動家であることが警官にはすぐに分かっただろう。私は数人の警官に囲まれて素性を聞かれたが私は無言を貫いた。私の態度を生意気だと思った背の低い警官が私の腹を突いた。ぐっと私が腹を固めて我慢したので、お、こいつ腹を固めたぞ、結構腹が固いなと言いながら一発目より強く突いた。私はカーっと頭にきた。もし、あと一、二発腹を突かれたら私は警官に殴りかかる積もりになっていた。私の気持ちは顔にも表れたので、警官は真顔になり、なんだお前は、やる積もりかと私を睨んだ。私は睨み返した。その時、隣の警官が、「やめとけ、比嘉。大人げないぞ」と比嘉という警官を制した。我に返った比嘉という警官は苦笑いしながら去って行った。黙秘を通したので留置場に入れられるのを私は覚悟したが、暫くして私と照屋さんは解放された。

私は照屋さんに革靴を演壇の近くのぬかるみに取られたことを話した。すると照屋さんは、暫くの間会場の様子を見てから与儀公園に戻る予定だと言い、
「私が革靴を探してあげるから、あなたは自治会室で待っていて」
と言った。学生運動から離れている私は自治会室には行きたくなかったので、自分で革靴を探すと言った。すると、照屋さんは顔を曇らせて、「男は危険だから」と言った。
「主催者側となにかトラブっているのか」
と、私が訊くと、照屋さんは頷いた。照屋さんの話では、県民大会の主催者側とR大学自治会は険悪な関係になっていて、R大学の県民大会への参加は認められていなかったという。

日本は沖縄の祖国であり、母なる祖国に復帰するのが沖縄の悲願であると主張している祖国復帰運動にとって、日の丸は祖国日本の象徴であり崇高な存在であった。ところが、その頃のR大学の学生集団は、崇高なる日の丸を、こともあろうに祖国復帰運動家たちが目の敵にして最も嫌っているアメリカの象徴である星条旗と交錯させて一緒に燃やす行為を繰り返していた。星条旗と一緒に日の丸を焼却するR大の学生集団の行為は、日の丸を祖国復帰運動の象徴にしている運動家たちを嘲笑し侮辱しているようなものであった。だから、与儀公園の県民大会の主催者はR大学を嫌悪し、参加を許可しなかったし、演壇で日の丸と星条旗を燃やしたR大学の学生集団を実力で排除したのだろう。
R大学のデモ隊が労働者集団に襲われた事情は知ったが、だからといって私が労働者集団に襲われるのは考えられないことであった。私は自分で革靴を探すと言った。しかし、照屋さんは、私の顔は彼らに覚えられているかも知れないから危険だと言い張った。私は学生運動でそんなに派手なことをやっていなかったし一年近く学生運動から離れている。労働者集団に私の顔を覚えられていることはないと思ったが、照屋さんは私の身を心配してくれて私が与儀公園に戻ることに反対しているし、照屋さんと押し問答を続けると照屋さんの活動を邪魔してしまう。私は仕方なく照屋さんに革靴のことを頼み、R大学の自治会室に向かった。
首里にあるR大学に到着した私は自治会室に居たくなかったので、照屋さんが来たらキャンパスに居ると伝えてくれるように顔見知りの学生に頼んで自治会室を出た。むさくるしい自治会室を出ると、満点の空には星が煌めいていた。
木々が林立しているキャンパスは闇に覆われ、所々に立っている外灯の周囲は白っぽい空間を作っていた。自治会室の開けっ放しの出入り口や窓から漏れている蛍光灯の光を背にして、私は芝生を踏みながら歩き、腰を下ろすのにほどよい場所を探した。薄闇の中を進むとガジュマルの木が植わっている場所があり、私はガジュマルの木の根に腰を下ろした。
那覇市で一番空に近いR大学のキャンパスには初夏の涼しい風が吹き、頭上のガジュマルの枝葉をざわつかせていた。
・・・・・県民大会に行かなければよかった。県民大会に行かなければ、今頃は間借り部屋でのんびりとラーメンを食べていた・・・・・私はガジュマルの幹に背を持たせながら、県民大会に行ったことを後悔していた。
 礼子たちのことが気になった。国文学科は女性が多い。このような襲撃で被害を被るのは女性たちだ。私が学科委員長になった頃からR大学の学生運動は急に過激な行動が増えていき機動隊に襲われることが多くなった。礼子と一緒のデモで最初に機動隊に襲撃されたのは開南交番所の焼き討ち事件だった。
国際通りから与儀公園に向かう途中の開南交番所に来た時、リーダーたちの指示でデモ隊は交番所の周りをぐるぐる回り始めた。デモの予定コースや行動については学科委員長である私に前もって知らされるが、交番所の周りをぐるぐる回るのを私は知らされていなかった。顔見知りのリーダー格のNがデモ隊の中から出てきて交番所の前に立つと、隠し持っていた火炎瓶を交番所の窓に投げつけた。一発目は燃えなかった。二発目を投げると交番所の中から炎が燃え上がった。デモ隊は威勢が上がったが、私の周囲にいる女性たちは恐怖で顔をひきつらせていた。暫くすると後ろのほうで悲鳴が聞こえた。機動隊が襲ってきたのだ。パニック状態になっている礼子たちはどうしていいか分からないで戸惑っていた。「逃げろ」私は礼子たちに逃げるように指示した。見る見るうちに機動隊は近づいてきた。交番所を焼かれた機動隊の勢いはいつもより激しかった。
「早く逃げるんだ」
私は激しく迫ってくる機動隊を見ながら叫んだ。礼子たちは平和通りのほうに逃げた。私はゆっくり走りながら礼子たちが去っていくのを見守っていたが、機動隊のひとりが私を狙って追ってきた。私は礼子たちとは逆方向の与儀公園の方に向かって逃げた。機動隊はしつこく私を追いかけてきたので私は路地に逃げたが、路地は崖になっていて行き止まりになっていた。私は数メートルの崖下に飛んだ。着地したところは家の庭だった。機動隊からは逃げ切れたが、飛び降りた時に私は足に怪我をした。
 あの時の礼子は逃げる時に転んで手足に軽い怪我をしていた。今日は日の丸と星条旗を県民大会で焼却したために労働者集団に襲撃されたが、革靴をぬかるみに取られた私は立ち止まったりしたので礼子たちより逃げるのが遅れた。後ろから走った私は礼子や他の国文学科の学生を見なかったから今日は転ばないで無事に逃げただろう。

ソ連、中国、モンゴル、北朝鮮、北ベトナムなどアジア大陸のほとんどの国が日本やアメリカと対立する社会主義国家であり、アジアの社会主義圏は拡大しつつあった。ベトナム戦争は敗北の色が濃くなり、南ベトナムが北ベトナムに併合されて社会主義国家になるのは時間の問題だった。米軍が駐留していなければ北朝鮮に侵略される可能性が高い韓国、中国侵略に脅かされ続けている台湾、フィリピンの共産ゲリラの不気味な存在。カンボジアなどの東南アジアの毛沢東主義派の武力攻勢など、アジアは共産主義勢力がますます拡大し、日米政府にとってますます沖縄の軍事基地は重要な存在になっていた。
ベトナム戦争で莫大な国家予算を使って経済危機に陥ったアメリカは沖縄のアメリカ軍基地を維持するのが困難になり、経済力のある日本の援助が必要となっていた。そこで、日米両政府は沖縄を日本に返還することによって、沖縄の米軍事基地の維持費を日本政府が肩代わりする方法を考えだした。
沖縄が日本の一部となれば米軍基地を強化・維持するための費用を国家予算として日本政府は合法的に決めることができる。米軍基地の維持費を日本政府が肩代わりするための沖縄施政権返還計画は着々と進み、1971年6月17日の今日、宇宙中継によって東京では外相愛知揆一が、ワシントンではロジャーズ米国務長官が沖縄返還協定にそれぞれサインした。これで「沖縄返還協定」が1972年5月15日午前0時をもって発効し、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになった。
日米政府による沖縄施政権返還協定に反発したのが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」と日米政府が全然考えていない非現実的な祖国復帰を自分勝手に妄想し続けていた沖縄の祖国復帰運動家たちであった。妄想は妄想であり現実ではない。妄想が実現することはありえないことである。
沖縄を施政権返還すれば沖縄の米軍基地の維持費を日本政府は堂々と国家予算に組み入れることができる。泥沼化したベトナム戦争のために莫大な戦費を使い果たし財政的に苦しくなっていたアメリカを日本政府が合法的に経済援助するのが沖縄の施政権返還の目的であった。それが祖国復帰の内実であった。ところが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」という妄想を吹聴し続けた祖国復帰運動家たちは、祖国復帰が実現するのは祖国復帰運動が日米政府を動かしたから実現したのだと自賛しながらも、施政権返還の内容が自分たちの要求とは違うといって反発をした。妄想の中から一歩も飛び出すことができない祖国復帰運動家たちは祖国・日本に裏切られたなどと文句をいい、日米政府が100%受け入れることがない非現実的な「無条件返還」の要求運動を展開した。
ソ連・中国等の社会主義圏とアメリカ・西ヨーロッパ諸国の民主主義圏との緊迫した世界的な対立やアジアの政治情勢やベトナム戦争の劣勢を考えれば、沖縄の米軍基地を再編強化するための本土復帰であるのは歴然としたものであった。世界やアジアの政治情勢を無視して、自分勝手に描いた妄想でしかない祖国復帰論が日米政府に通用するはずがなかった。

R大学の自治会は、沖縄の施政権返還は日本政府とアメリカ政府の共謀によって沖縄の米軍基地を強化維持するのが目的であることを世間にアピールするために日の丸と星条旗を交錯させて燃やし続けていた。私はその行為は理解できたし賛同もできた。しかし、県民大会の議事進行を邪魔し、演壇を占拠して日の丸と星条旗を燃やすのは横暴な行為だ。許されることではない。あのような横暴なことをやるから一般学生は離れていくのだ。横暴で過激な行為は学生運動を衰退させてしまうだけである。
明日になれば、私が学科委員長だった頃と同じように、それぞれの学科委員長はそれぞれの学科集会を開き、県民大会の演壇で日の丸と星条旗を燃やした意義を学生たちに説明するだろう。しかし、県民大会の議事進行を中断させて、演壇を占拠したことに正当性があるかどうかという問題はなおざりにするだろうし、日の丸と星条旗を燃やしただけで、R大自治会の主張が県民大会に集まった人たちに理解されたかどうかの問題もなおざりにしてしまうだろう。私は過激化していく学生運動にため息をついた。

自治会室から漏れてくる光が暗くなった。誰かが私の居る場所に近づいてきたためだ。照屋さんが来るには早いなと思いながら私は振り向いた。影の正体は女性ではなく男性であった。男は明るい場所から木々が植わっているキャンパスのうす暗い場所に入ったために、私を見つけることができないようだった。
「マタヨシ」
男は私の名を呼んだ。声を聞いて男の正体が分かった。私の名を呼んだ男はMだった。
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「1971Mの死」の添削をお願いします

「かみつく」という季刊誌を出版する決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いすることにしました。短編小説「1971Mの死」の漢字の間違いや表現がおかしいと思う箇所の指摘をお願いします。
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1971Mの死 2



私がMと出会ったのは三年前だ。演劇クラブはフランスの作家ジャン・ジュネ作の「黒ん坊たち」を大学祭で上演することになったが、役者が不足していたのでテイが彼と同じ電気学科の後輩であるMを連れてきた。Mは高校時代の先輩であるテイが役者をやってくれと頼むと、役者の経験はなかったのに承知したという。
Mの役は老いてもうろくした元将軍だった。元将軍は四六時中居眠りをしていて、たまに目が覚めると、意味不明の、「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」というセリフを吐いた。元将軍を演ずることになったMは読み合わせの時から全力で、「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」と叫び、セリフを言うたびに唾を飛ばした。読み合わせだから、大声を出す必要はないと注意すると、「はい」と頷いたが、Mの叫びは直らなかった。Mが唾を吐いて叫ぶたびに、私たちは大笑いしたものだ。Mはくそ真面目で不器用な男だった。
夏休みに、演劇クラブは伊平屋島で合宿をすることになった。演劇クラブ室で酒宴を開いている時に、男子寮の裏にある円鑑池で、夜になると「モー、モー」と牛のように鳴く正体不明の動物がいる話になった時、シゲがあれは食用ガエルであると教えた。私がなんとかして食用ガエルを捕まえて食べたいものだと言うと、伊平屋島出身のシゲは、伊平屋島の田んぼには食用かえるがたくさん棲んでいて、簡単に捕まえることができると言った。それに、伊平屋島には野生のヤギもいて、ヤギを捕まえて食することもできると言った。それじゃあ恒例の演劇クラブの夏休み合宿は伊平屋島にしようということになった。オブザーバーであるMも伊平屋島の合宿に参加した。
伊平屋島に到着し、わくわくしながら田んぼに行くと、稲刈り時期の田んぼは干上がり、食用カエルはいなかった。私たちはがっかりした。どうしても食用かえるが食べたい私たちは、合宿している小学校の教室の裏の小さな池に棲んでいる食用カエルを捕まえて食べた。
伊平屋島の裏海岸には年中涸れることのない水溜りのある不思議な岩があるといい、シゲは岩に私たちを案内した。この岩に時々ヤギがやってきて水を飲むとシゲは話した。山羊は水を飲まないはずだと私が言うと、シゲは、いやヤギは水を飲むと言い張って私とシゲは言い争った。ささいなことでもどちらが正しいかを真剣に言い争うのが私たちの青春だった。
私たちは岩から離れ、合宿している小学校に向かって砂浜を歩いた。すると浜を歩いている野生のヤギを見つけた。私はヤギを捕まえようと追いかけた。ヤギは崖の方に逃げた。私がなおも追いかけるとヤギは崖を登り始めた。私はしめたと思った。崖登りなら人間の方が早いはずである。ヤギを追って私は崖を登った。ところが崖登りは私よりも数倍ヤギの方が上手だった。ヤギは時々立ち止まって私を振り向きながらゆうゆうと崖を登ると野原に去って行った。見物していた演劇クラブの仲間は大笑いした。
「食用ガエルは田んぼにいないし、ヤギを捕まえることはできないし、シゲはうそつきだ」
と私がシゲを責めると、シゲはヤギを絶対捕まえてみせると意地を張った。シゲはヤギを捕まえる相棒にMを指名した。Mは素直にシゲの指名に従った。
「お前たちは先に学校に帰れ。俺とMでヤギを捕まえるから」
とシゲは言った。
日が暮れて、回りが闇に覆われた頃、シゲとMは内臓と首のない子ヤギを自転車の前に括り付けて帰ってきた。女性たちは悲鳴を上げた。男たちは酒を飲みながらヤギ肉を食した。
浜辺の貝を食したり、魚を釣ったり、島のあちらこちらを冒険したり、ヘビが寝床に侵入して大騒ぎになったり、私たち若者は演劇の練習はそっちのけで伊平屋島の夏を楽しんだ。夏休みが明けて暫くすると、「黒ん坊たち」は頓挫し、Mは演劇クラブ室に来なくなった。
三年次になった時に、Mと私は学科委員長になり、学生運動の場で顔を合わせるようになった。しかし、Mは無口であり顔を合わせると黙礼をするくらいで、私とMが親しく話をすることはなかった。私が学科委員長を辞めてからはMと顔を合わせることはほとんどなくなった。先刻、私が自治会室に入った時、Mは自治会室に居た。久しぶりに会った私とMは黙礼をしただけで、言葉は交わさなかった。そのMがなぜ私と会おうとしているのか。
革靴を失って憂鬱な私はMと話す気がなく黙っていた。闇の中の私を見つけることができないMが、私を探すのをあきらめて去って行くのを期待していたが、
「マタヨシ」
と、Mは再び私の名を呼んだ。私は仕方なく、「ああ」と、私の居場所を知らせる声を発した。Mは私の声を聞き、私の居る場所に近づいてきた。私は自治会室の明かりを背にして近づいてきたMを黙って見ていた。Mは私の側に立つと、
「元気か」
と言った。
「ああ」
私は生返事をした。Mは、
「ちょっといいか」
と言った。断りたかったが、私は、
「ああ」
と答えた。Mは私の側に座った。
「マタヨシはまだ演劇をやっているのか」
とMは訊いた。Mの質問に私はむっとした。
私が入学した年の四月に、演劇クラブはベケットの「勝負の終わり」を上演し、その年の秋の大学祭に「闘う男」を上演した。しかし、リーダーのゼンジが大学を中退すると、翌年に「黒ん坊たち」が頓挫し、それ以後演劇クラブは四年間も上演しない状態が続いていた。
このままだと演劇クラブは廃部になりクラブ室を明け渡さなくてはならない恐れがあった。私は歴史のある演劇クラブを廃部にした人間にはなりたくなかった。部員が私を含めて四人だけになってしまった状況で、私は三人だけ登場する「いちにち」という戯曲を書き上げ、役者の経験がない新人部員の三人を一から鍛えながら練習を続けていた。三人の中の一人でも退部すれば上演はできない。上演に辿りつけるかどうか不安を抱えながら私は演劇クラブを運営していた。
私の苦しい状況を知らない無神経なMの質問にむっとした私は、
「ああ」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「そうか」
と言ったMに、私は無意識にソッポを向いていた。
私の側に座ったMは、「そうか」と言った後、次の言葉がなかなか出なかった。私はMと話す気はなかったし、話す材料もなかったので黙っていた。Mは黙り、私も黙っていた。暫くして、
「シゲはどうしているか」
私たちを伊平屋島に案内し、Mと子ヤギを捕まえたシゲは私と同じ国文学科の学生で私より一期先輩だった。ジャン・ジュネの「黒ん坊たち」を持ち込んだのがシゲであったが、シゲはすでに中退していた。
「中退したよ」
「そうか、中退したのか。・・・・ケンはどうした。ケンは卒業したのか」
ケンは私より二年先輩で「勝負の終わり」でハムを演じた学生だった。彼は演出の能力がなく、三年前にアラバールの不条理劇「ファンドとリス」の上演を目指したが頓挫した。
「卒業した」
「就職したのか」
「ああ」
「なんの仕事をしているのか」
「黒真珠のセールスをしている」
「そうか」
と言ったMは黙った。
Mは演劇クラブの近況を聞くために私の所に来たのではないだろう。Mがなにを私と話したいか知らないが、私は、演劇の話にしろ、政治の話にしろ、Mと話し合う気にはならなかった。
「みんな、もう居ないか」
Mはしみじみと言った。
Mが演劇クラブに居た頃の学生は、私以外は誰も居なかった。シゲ、トシ、タカヤス、ナエは中退して演劇クラブを去った。ケン、テイ、ショウゴ、キシャバ、ミチヨ、アッチャンは卒業して演劇クラブを去った。私だけが中退も卒業もしないでまだ演劇クラブに残っていた。Mは演劇クラブを懐かしんでいたが、私にとって演劇クラブは孤独で厳しい闘いを強いられている現実であった。演劇クラブを懐かしんでいるMに私は苛ついた。
Mと話したくない私は黙っていたが、
「そうか。みんな居なくなったか。居なくなって当たり前だな」
と、Mは独り言を言った。そして、黙った。私も黙っていた。
暫くして、Mが、
「マタヨシは家族闘争をやったか」
と言った。唐突な話題の転換であった。Mが私のところにやって来た目的は「家族闘争」について話し合いたかったからだと私は知った。しかし、私にとって、「家族闘争」は時代遅れの話題でしかなかったから拍子抜けした。私は思わず、
「はあ」
と言った。

「家族闘争」というのは、家族に学生運動をやっていることを打ち明け、家族と話し合い、自分たちがやっている学生運動を家族に理解させ、家族に学生運動を応援させる運動のことであった。
一九六六年にフランスのストラスブール大学で民主化要求の学生運動が始まり、それが一九六八年にはソルボンヌ大学の学生の民主化運動へと発展し、その年の五月二十一日にはパリで学生と労働者のゼネストを行った。そして、労働者の団結権や学生による自治権、教育制度の民主化を大幅に拡大することに成功した。それをフランスの五月革命と呼んだ。フランスの五月革命は学生が原動力となった革命として世界中に有名になった。
大学の民主化を目指して闘ったフランスの学生たちは、自分たちの運動の意義を理解させるために家族と話し合った。学生の民主化運動を理解した家族は学生を応援し、家族を巻き込んだ民主化運動は次第に学生運動から大衆運動へと発展していった。
五月革命が成功した原因のひとつに学生たちが家族の説得に成功したことをあげ、それを家族闘争と呼び、学生運動のリーダーたちは私たちに家族闘争をやるように指示したのだった。
フランスの五月革命のように大学の自治や民主化を目指した運動であったなら、私は家族の理解を得るために喜んで話していただろう。しかし、R大学の学生運動は五月革命のような民主化運動とは性格が異なっていた。
R大学の学生運動はアメリカ軍事基地撤去、ベトナム戦争反対などを掲げていたが、反戦平和運動の域に止まるものではなかった。沖縄最大の大衆運動である祖国復帰運動を批判し、民主主義国家であるアメリカを帝国主義呼ばわりし、ソ連をスターリン官僚主義と批判して反帝国主義反スターリン主義を掲げた学生運動であった。本土の学生運動と系列化していったR大学の学生運動は急速に過激になっていった。ヘルメットを被ってジクザグデモをやり、ゲバ棒で機動隊と衝突したり、火炎瓶を投げたりした。
R大学の学生運動を、古い沖縄の因習を信じている私の親が理解し、納得し、応援するのは不可能であった。民主主義社会を目指した運動であったなら私は熱心に両親を説得していたはずである。しかし、民主主義国家アメリカを帝国主義呼ばわりし、将来のプロレタリア革命を目指しているR大学の学生運動を家族に理解させるのは不可能であった。上からの指示であったが、私は「家族闘争」はやらないことに決めた。
それに、大統領や国会議員だけでなく県知事や地方議員までが国民の選挙で選ばれるアメリカや日本の民主主義国家で労働者階級が政治の実権を握るために暴力革命を起こすというのはむしろ社会が後退するのではないかという疑問が私にはあった。国民の代表である大統領や議員が国民の一部である労働者階級の暴力によって滅ぼされるのはおかしい。プロレタリア革命の後は国民の選挙が行われないとすれば民主主義国家での暴力革命は目指してはいけないのではないかと私は疑問に思っていた。民主主義とプロレタリア革命の狭間で私自身が悩める若者であったから家族闘争どころではなかった。
学生運動のリーダーたちは「親の理解を得ない限り、真の闘いとは言えない」と、フランスの五月革命を例にして、「家族闘争」をすることを指示したが、多くの学生は親の理解は得られないことを予想していたから、私と同じように「家族闘争」を避けていた。リーダーの指示を素直に受けて、「家族闘争」をやった殊勝な学生も居たが、彼らの多くは、親に説得されて学生運動から離れたり、親に勘当されたり、親子喧嘩になって家出をしたり、強引に休学をさせられて大学に来なくなったりした。
私は「家族闘争」をしないということで私なりに「家族闘争」を処理したのだが、私とMが「家族闘争」をやるように指示されたのは二年以上も前のことであった。激しく変動する時代を生きている若者にとって二年前ははるか昔である。私にとって「家族闘争」は時代遅れの四字熟語であった。「マタヨシは家族闘争をやったか」という時代遅れのMの質問に、私はあきれて、興味のない質問に答える気もなく、黙っていた。
・・・Mよ。俺は与儀公園で革靴を失って苛々しているし、久しぶりに参加した県民大会で肉体はひどく疲れている。お前と古臭い「家族闘争」の話なんかしたくないから、さっさとここから立ち去ってくれ。俺を独りにしてくれ・・・
というのが、その時の私の正直な気持ちだった。私の沈黙に、感のいい人間なら、話をしたくない私の気持ちを察知して、その場から去っていっただろう。しかし、Mは感のいい人間ではなかった。Mは私の側に座り続けた。
私がなにも言わないのでMは困惑したようだったが、質問の内容が唐突なので、私が返事をするのに苦労していると思ったのか、
「マタヨシの親はなんの仕事をしているんだ」
と、Mは私への質問の内容を変えてきた。私は予想していなかった質問に戸惑い、
「え」
と言い、Mを見た。
Mは私をではなく正面の闇を見つめていた。Mはまるで正面の暗闇と話しているようだった。Mは相手と目を合わせて話すことが苦手で、会話をする時には目を合わすことを避けて話す癖があったことを思い出した。
私は、親の話なんかやりたくないという意を込めて、
「農民だ」
と、ぶっきらぼうに言った。
「そうか、農民か」
と言った後に、Mは暫く黙っていた。Mはじっと動かないで闇を見つめていたが、
「僕の親はコザ市のゴヤで洋服店をやっている」
と、自分の親の仕事のことを話した。
「客の多くは嘉手納空軍基地のアメリカ人だ」
と言い、ため息をついた。
コザ市はアメリカ軍人や彼らの家族を客としている商売が多く、アメリカ人を客にして繁盛していた。Mの親もそのひとりだった。
Mの話に興味のない私は黙っていた。私の言葉を待っているMだったが、私がなにも言わないので、暫くすると、
「マタヨシは妹が居るか」
と訊いた。え、それで親の話は終わりかよ、と私は苦笑し、Mが話下手だったことを思い出した。演劇クラブ室でのクラブ員どうしの会話や酒宴の場での会話でMから話すことはなかった。質問されたら質問にだけ答える一問一答の対話しかMはやらなかった。Mとの対話はすぐに途絶えるのが普通だった。
Mの質問に、私は、
「居る」
と、一言の返事をした。Mは、
「そうか」
と言い、暫く黙っていたが、
「僕も妹がいる」
と闇を見つめながら言った。Mの声は暗く重かった。
「僕の妹は専門学校に通っている。来年は卒業だ」
Mは言葉を止めた。そして、
「しかし」
と言った後、ため息をつき、それから、
「僕が学生運動をしていることが世間に知れたら、妹の就職に悪い影響を与えるかもしれない」
と、また、ため息をつき、
「マタヨシの妹は仕事をしているのか」
と私に訊いた。
「している」
「どんな仕事をしているのか」
「さあ、知らない」
「知らないのか」
Mは驚いて訊き返した。私の妹はある建設会社の事務員をしていたが、妹の話をしたくない私は、「さあ、知らない」と答えた。
「弟は居るのか」
と、Mは訊いた。
「居る」
と私が答えると、
「そうか、弟も居るのか」
とMは言い、Mに弟が居るとも居ないとも言わないで、Mは黙った。暫くして、
「マタヨシの親はマタヨシが学生運動をやっているのを知っているのか」
弟ではなく親の話に変わった。
「いや、知らない」
私が言うと、
「そうか」
と言い、Mは少しの間黙ってから、
「マタヨシの親は保守系なのかそれとも革新系なのか」
と、また、質問の内容を変えた。
琉球政府の主席公選の時、貧しい私の父母は区の有力者に恩納村にある山田温泉に招待された。母は初めて行った山田温泉に喜び、有力者に感謝した。そして、有力者の指示に従い、保守系の候補者に投票した。つまり、私の父母は買収されたのだ。しかし、私の父母には買収されたという自覚はなかったし、罪悪感もなかった。私の父母は保守か革新かではなく、昔からのしきたり通りに地域の有力者に従うだけの人間であった。有力者が保守系だったから私の父母も保守系ということになる。
「保守系だ」
と、私が言うと、
「そうか、保守系か。僕の父も保守系だ」
と言った。Mは暫く黙っていたが、
「マタヨシは親に学生運動をやっていることを話すつもりはないのか」
と訊いた。私は学生運動のことは一切親には話さないと決めていたし話さなかった。それに今は学生運動から離れたのだから家族に話す必要も隠す必要もなかった。私は一年近く自治会室に行ったことはなかったし、学生集会に参加したこともなかった。だから私が学生運動から離れていることに普通なら気付くはずである。しかし、Mは私が学生運動にまだ参加していると思っているようだった。学生運動から離れていることをMに話せば、その理由を説明しなければならないだろう。それもMが納得するように説明しなければならない。それは面倒くさいので私は学生運動から離れていることをMに話さなかった。私は苦笑しながら、
「話すつもりはない」
と言うと、
「どうして話さないんだ」
と、Mは真面目な顔をして言った。私はMにあきれた。
「俺たちの政治思想を話しても、俺たちの親が理解できるはずがない」
私は両親に話さない理由を説明した。Mは、
「そうだな。そうかも知れないな」
と言い、ため息をついた。
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「1971Mの死」の添削をお願いします

「かみつく」という季刊誌を出版する決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いすることにしました。短編小説「1971Mの死」の漢字の間違いや表現がおかしいと思う箇所の指摘をお願いします。
・・・・・・・・・・

1971Mの死 3


Mが「家族闘争」に悩んでいることは分かったが、私はMに同情はしなかったし、家族闘争を「頑張れ」と励ます気にもならなかった。私とMは同い年であり、二人は五年次になっていた。学生としては古参である。古参であるMが「家族闘争」に悩んでいるのはむしろ滑稽に思えた。Mは真面目であり、真剣に「家族闘争」をやろうとして悩んでいるかも知れないが、「家族闘争」はすでにそれぞれの学生がそれぞれのやり方で「処理」しているはずのものであった。Mは学科委員長をやった経験もあるのだから、「家族闘争」はすでに「処理」し、解決しているのが当然であった。
「マタヨシはこれからも家族闘争をやらない積もりなのか」
とMは訊いた。
「親にどんな風に話せばいいのだ」
学生運動のことを親に理解させるのは不可能であると言う意味で私は言った積もりだったが、Mは勘違いして、
「そうなんだよな。どのように話せばいいのか、それが非常に難しいんだよな」
と言い、
「親にどのように説明すればいいか。分からなくて困っている」
と嘆いた。
親に理解させる可能性がゼロではないと信じているMに私は苦笑した。
「家族闘争」の可能性を信じているMは、真面目で純真であると言えば聞こえはいいが、親たちが沖縄の古い因習に縛られていることを認識する能力がMは欠けているのだ。私は、「家族闘争なんかできるはずがない。止めろ」とMに言いたかったが、「家族闘争」に真剣に悩んでいるMが私の忠告を素直に聞き入れるはずはない。それに私は学生運動から離れた身である。いまさら「家族闘争」という重たい問題に首を突っ込む気持ちがなかったから、私は忠告するのを止めて黙っていた。
Mは体躯がよく姿勢もよかった。座っているときも背筋をまっすぐに伸ばしていた。演劇クラブ室で車座になって酒を飲んで酔ったときも、Mは背筋をピンと伸ばしていたので、「Mはまるで軍人みたいだ」と揶揄したことがあった。Mは三年前と同じように背筋を伸ばして、真正面の闇を見つめ、身じろぎもしないで座っていた。暫くしてMは、
「マタヨシは兄さんが居るか」
と訊いた。興味のない質問だったが、
「いや、居ない」
と答えた。Mは暫く黙ってから、
「マタヨシは長男か」
と訊いた。
「ああ」
と私が答えると、Mは、
「そうか。長男か」
と言い、
「僕も長男だ」
と言った。そして、
「学生運動をしていることを父に話すと、父は確実に怒るだろう。頑固な父だから、長男である僕でも勘当するかもしれない」
と言って、ため息をついた。
「勘当されるのか」
私は訊き返した。
「されるだろうな」
と言ったMの声は沈んでいた。
 私は親に勘当されたかった。しかし、長男である私を親が勘当することはあり得ないことだった。
家に束縛されないで自由に生きたい私は、「弟は俺よりしっかりしているから、弟が家を継いだほうがいい。弟が家を継ぐなら俺は家の財産は一銭ももらわなくていい」と母親に話したことがあった。母親は私の話にすごくショックを受け、嘆き悲しんだ。母親を嘆き悲しませてまで自由になる勇気のない私は主張を引っ込めざるをえなかった。
大学を休学して、一年くらい東京に住んでみたいと私が言った時も、母親は私が東京に行ったら一生帰ってこないという被害妄想に陥り、姉に私の東京行きを引き止めるように頼んだ。九歳年上の姉に、長男としての義務と責任についてこんこんと説教された私は東京行きを断念した。
長男が仏壇と家を継ぎ、親の面倒を看るのは絶対に守らなければならないと信じている親であったから、私が学生運動をやっていると親に告白しても親が私を勘当することは絶対にあり得ないことだった。私を勘当するのではなく、私が就職できるだろうかと心配し、御先祖様に申しわけないとか、世間に白い目で見られる弟や妹の将来が心配であるとか、村の人や親戚に恥ずかしくて顔を合わすことができないなどと嘆き悲しみ、私に学生運動を止めてくれと必死に頼んだだろう。母は精神的にまいって病気になったかもしれない。だから、私は親に学生運動をやっていると告白することはできなかった。もし、私の親が気丈な人間で、Mの親のように長男であろうと勘当するのなら、私は学生運動をやっていることを喜んで親に告白していただろう。
私にとって勘当されるということは歓迎することであったから、
「勘当されればいいじゃないか。親に頼らなくても俺たちは生きていける」
とMに言った。するとMは困惑し、
「いや、それはまずい」
と言った。
「なにがまずいんだ。勘当されれば、親の束縛から解放されて、自由に生きることができていいじゃないのか」
と私が言うと、
「いや、僕は長男だし、妹が居るし・・・」
とMは言葉を濁した。
「そんなのは関係ないよ」
と、私が言うと、
「いや、僕は長男だから将来は家を継いで親の面倒を看なければならない。それに、兄として妹のことも考えてあげないとな」
Mは長男しての義務を認める言い方をした。
「家か。親の面倒か」
私は、Mに失望しながら呟いた。
私が長男の呪縛から解放されたくても解放されないジレンマに悩んでいるのに、Mは長男の呪縛を自分から受け入れていた。私は学生運動をしている学生は沖縄の古い因習を批判し、家督相続思想を否定していると思っていた。しかし、現実は違っていた。私と同じ世代であり、私と同じ長男であり、私と同じ思想の学生運動をしているMが、長男の家督相続思想を受け入れていた。隣に座っているMが沖縄の古い因習を受け入れているのを知り、私は滅入っていった。
「親を説得する方法はないのかな」
とMが言った時に、私はカーっと頭にきて、
「ない」
と、激しい口調で言った。Mは私の突き放した言葉にショックを受けたようだった。Mは黙った。私も黙った。二人の間に沈黙が続いた。頭上のガジュマルの枝葉に風が吹いている音が聞こえ、Mの重いため息が左の耳に聞こえた。
 
演劇上演ができるかどうかの不安、卒業ができるかどうかの不安、親と絶縁して自由に生きる勇気のないジレンマ、社会に出たらどのように生きていけばいいのかなどなど、私も深刻な悩みを抱えている若者の一人であった。Mが学生運動と家族愛の板ばさみに深刻に悩んでいるのを理解はしても、私は私の悩みでいっぱいいっぱいであり、自分の悩みを横に置いて、Mの悩みの相談相手になることは私には無理だった。 

Mは、私と話す言葉を探しているようだった。しかし、見つけることができないまま、沈黙の時間が二人の間に流れていった。キャンパスに、急に突風が吹いて、木々が騒ぎ出し、頭上のガジュマルの枝葉は激しく揺れた。暫くして風が止み、キャンパスが静かになった時、
「マタヨシさん」
と、私の名を呼ぶ声がした。その声は、照屋さんが帰ってきたら、私のことを照屋さんに伝えてくれるように頼んだ学生の声だった。
「こっちだ」
私は返事をした。
「照屋さんが帰ってきた。自治会室に来てほしいって」
と、学生は言った。
「そうか、分かった」
私は立ち上がり、自治会室に向かった。Mも私の後ろからついてきた。
 照屋さんは数人の学生運動家と深刻な顔で話し合っていたが、私が自治会室に入ると、私を振り向いた。
「俺の革靴は見つかったのか」
「ごめん。見つからなかったわ」
革靴が見つからなかったと聞いて私はがっかりした。照屋さんは足元に置いてあった古い運動靴を取り、
「この靴を履いて」
と言った。
「誰の靴なのか」
と私が訊くと、
「知らない。自治会室にあったわ」
と言った。照屋さんの持っている運動靴は萎びていて臭そうだった。他人の汚れた靴を履くのは気持ち悪いし、足がむず痒くなりそうだ。私は裸足で帰ることにした。
「いいよ」
と私が言うと、照屋さんは、
「裸足はいけないわ」
と言い、自治会室の奥の方からゴム草履を探してきて、
「これを履いて」
とゴム草履を私に渡した。私はゴム草履を履き、自治会室を出た。
「マタヨシ」
背後からMの声が聞こえた。振り返ると、Mが近づいてきた。
「寮に帰るのか」
Mは訊いた。私は男子寮に住んでいなかった。なぜ、Mが「寮に帰るのか」と言ったのか理解できなかった。
「俺は寮には住んでいないよ」
と私は言った。
「住んでいないのか」
「ああ」
「そうなのか」
Mはがっかりした様子だった。
「寮に行って話をしないか」
Mは私を誘った。
間借り部屋に帰り、ラーメンを食べる以外に予定はなかったが、Mと話すということは、Mが抱えている「家族闘争」について話すということである。私はMと「家族闘争」のことを話し合う気にならなかったから、
「いや。用事があるから」
と嘘をついて断った。
「そうか」
Mは残念そうであった。話を続けたそうにしているMに、
「じゃな」
と言って、私はMから離れた。
構内の中央通りを横切り、図書館の左端にある小さな下り階段に向かって歩きながら振り向くと、自治会室から漏れている蛍光灯の白い光をバックにして、Mは名残り惜しそうに立っていた。


 赤平町の間借りに帰った私はラーメンを食べ、仮眠をした後にシャワーを浴びようと男子寮に行った。私は風呂代を節約するために男子寮のシャワー室を利用していた。私が男子寮に住んでいるとMが勘違いしたのはシャワー室を利用している私を時々見かけたからかもしれない。
ハイビスカスの垣根を曲がって男子寮に入ろうとした私の足が止まった。玄関に居る数人の学生の様子が変であったからだ。寮内ではみんな軽装であるのに彼らの服装はデモをする時のような厚着であったし、あたりを見回しながら落ち着きがなく歩き回っていた。彼らは確実に寮生ではなかった。異様さに気づいた私は玄関を離れ、男子寮の裏に回った。裏から入ると見知っている学生がいたので彼から話を聞いた。彼は男子寮が襲撃されたといい、自治会の学生たちは大学構内に逃げたと話した。私は大学の自治会室に急いで行った。
自治会室に集まっている学生たちはみんな恐怖で緊張していた。彼らの様子を見れば襲撃の激しさが想像できた。知り合いの学生が私を見ると、Mが重傷を負って病院に運ばれたと言った。M以外に早稲田大学から来た学生が負傷して病院に運ばれたらしい。Mが重傷であると聞いた私はMの様子を知りたかったのでそのまま大学構内に残った。

Mが死んだ。
夜明け前に病院から帰ってきた照屋さんがそう報告した。
私はMの死を全然予想していなかった。いつまで入院するのかを照屋さんが報告するのだろうと私は予想していた。しかし、私が全然想像できなかったMの死を照屋さんは話した。私は頭が真っ白になった
「家族闘争」さえできない純朴なMが死ななければならない理由はどこにもないという妙な思いが私にはあり、Mの死が信じられなかった。しかし、Mは死んだ。すすり泣きがあちらこちらから聞こえてきた。
 
沖縄の激しい政治の季節に、R大学の学生であったがゆえに学生運動に走ったM。沖縄に生まれたがゆえに沖縄の古い因習を受け入れていたM。家族を愛していたがゆえに学生運動に参加していることを打ち明けることができないで深刻に悩んでいた純朴な若者M。
Mは、革命へ突き進もうとする学生運動に参加しながらも、古い沖縄の因習を受け入れている若者の一人であった。革命思想と古い因習を同時に内包していたM。そんな矛盾を抱えている一人の若者が革命とは関係のない争いで命を失った。
Mの死のなにもかもが沖縄が内包している矛盾そのものであるように私には思われた。
Mの死に、私は、怒りや悲しみではなく、体中がいいようのない虚無感に包まれ、「なぜ・・・なぜ・・・」と、答えを出すことができない自問を繰り返していた。

あの日から、もう、四十年が過ぎた。

トタン屋根の古い木造の演劇クラブ室で、
「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」
と、くそ真面目な顔で、口から唾を飛ばして叫んでいたMの顔を思い浮かべると、今でも、苦笑してしまう。

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「太田昌秀さんにかみつく」の添削をお願い

今度「かみつく」という季刊誌を出す決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。しかし、資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いします。

太田昌秀さんにかみつく1

  太田昌秀さんにかみつくための本を探す
 
無名の人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやい方法である。私は有名人になりたい無名な人間である。無名な私は有名人になりたいから有名人にかみつくことにした。最初に誰にかみつくかあれこれと考えた。考えた末に最初にかみつくのを太田昌秀さんに決めた。なにしろ太田昌秀さんは元琉大教授であり、元沖縄県知事であり、元国会議員である。沖縄では超がつくほどの有名な人だ。太田昌秀さんにかみついて、うまくいけば私は有名になれるだろう。こんな私の思いつきを、安直な考えだと笑う者がいるだろう。笑いたい者は笑えばいい。なんと身の程知らずの人間だとあきれる者がいるだろう。身の程知らずで悪かったな。万が一有名人になれたら最高じゃないか。えげつないやり方だと軽蔑する者もいるだろう。軽蔑するならけっこうけだらけ、ファックユーだぜ。勇気のある人間だと感心する人間がいるかどうかは知らないが、とにかく、無名な人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやいのは確かなのだ。

さて、かみつくにはどうすればいいか。
その方法は決まっている。太田昌秀さんの書いた本を買って読むことだ。そして、本の中からかみつくことができそうな文章を探すのだ。
 さて、大田さんの書いた本はどんな本があるのだろうか。私はネットで大田さんの本を調べた。調べるとなんと大田さんの書いた本は70冊以上もある。こんなにたくさんの本を書いていたのかと私は驚いた。

沖縄健児隊(共)、血であがなったもの、沖縄の民衆意識、現代の差別と偏見(共) 、近代沖縄の政治構造、伊波普猷―人と思想(共)、伊波普猷の思想とその時代、沖縄崩壊、沖縄人とは何か、日高六郎編「軍備は民衆を守りうるか」、憲法改悪反対運動入門(共)、沖縄―戦争と平和、人間が人間でなくなるときジェノサイド、留魂の碑―鉄血勤皇師範隊はいかに戦塵をくぐったか、沖縄の決断、沖縄差別と平和憲法―日本国憲法が死ねば、戦後日本も死ぬ、死者たちは、未だ眠れ・・・・・・・・・
ううん、みんな難しそうな本だ。どの本を買えばいいのか私は困った。どの本がかみつきやすいのかは本の題名を見ただけではわからない。全部の本を読めばどの本がかみつきやすいか分かるのだが、70冊もの本を読むなんて読書嫌いの私には無理な話だ。それに70冊もの本を買うと本代が10万円は超すだろう。貧乏人の私にとって10万円は大金だ。とてもじゃないが70冊もの本を買うのは無理だ。お金がもったいない。私が買うのは一冊にしよう。三、四冊も買うと読むのが大変だからな。

「こんな沖縄に誰がした」と「こんな女に誰がした」

どの本を買うか。私は考えた。私は悩んだ。本の題名を見比べてもどれがかみつきやすい本か見当がつかない。悩んだ末に私が決断したのは一番新しい本を買うことだった。一番新しい本を買うことに特に理由はない。
 一番新しい本の題名は「こんな沖縄に誰がした」だった。え、どこかで聞いたような題名だ。ああ、わかった。日本の歌謡曲に「こんな女に誰がした」という歌があった。いや違う。「こんな女に誰がした」は歌の題名ではなく、歌詞だ。歌の題名は「星の流れに」だ。ずい分昔の歌であるがなかなかいい歌なので私はスナックのカラオケで時々歌っている。

星の流れに
作詞:清水みのる 作曲:利根一郎

星の流れに 身を占って
どこをねぐらの 今日の宿
すさむ心で いるのじゃないが
泣いて涙も枯れはてた
こんな女に 誰がした

煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の わびしさよ
こんな女に 誰がした

飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に 誰がした

私が生まれる一年前の歌だ。ぐっとくる歌詞だねえ。それに7775777575と定型詩になっていて締りのある言葉の流れが最高だ。昭和の名曲「星の流れに」は、菊池章子という歌手が歌って大ヒットした。
この歌は戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、生き抜くために身を落とした女性の手記(新聞への投書)を見た「清水みのる」が、そのやるせなさを思い作詞したそうだ。最初にこの曲を貰った歌手は、「こんな娼婦の歌など唄えない」と断ったのを、菊池章子さんが引き受けて歌ったといういきさつがある。とWEBに載っていた。
娼婦の女と沖縄をひっかけて「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にした大田昌秀さんもなかなか味なことをやるじゃないか。私は感心したね。戦争に翻弄された女性が娼婦に身を落としたように、戦争に翻弄された沖縄も娼婦の女のように身を落としたと大田さんは言いたいわけだ。娼婦と沖縄か。意味深な題名だな。かみつきがいがあるというものだ。
「こんな沖縄に誰がした」にかみつくことにした私は、嘉手納の水釜にあるネーブルカデナの宮脇書店に行って「こんな沖縄に誰がした」を買ってきた。私が沖縄関係の本を買うなんて何年ぶりだろう。30年以上になるのではないか。いや、もっと前かもしれない。たしか、大浜方栄さんという大浜病院の院長が書いた「教師は学力低下の最大責任者」という本を買って以来である。あの頃の私は学習塾をやっていたが、学習塾を始めた時に、沖縄の生徒の学力のあまりの低さにたまげたものだ。学力の低い最大の原因は学校の先生が復習をしないことだった。一度教えたものは100%マスターするのが子供の義務あると学校の先生は決めつけていたのだろう。だから復習をしなかったというわけだ。学校の授業は教科書に敷いたレールを前へ前へとどんどん進んだ。だから、どんどん落ちこぼれが出た。人間は忘れる動物だからな。復習をして前に習ったところを思い出させてあげないと落ちこぼれる生徒が出るのは当たり前だのクロッカーだ。それを学校の先生たちは無視していた。
小学二年生の時に掛け算九九を覚えたとしても、三年生になると部分的に忘れてしまう生徒がかなりいる。だから二桁三桁の掛け算を教える前に掛け算九九の復習をやるべきである。ところが学校では復習をやらない。だから落ちこぼれる生徒がどんどん出てくる。学習塾で掛け算九九の復習をやるだけで成績がぐんぐん上がったものだ。子供の成績を上げるのは簡単だった。
学習塾をやって生徒の学力が低い原因は先生たちのいい加減な教え方が原因であるとわかってきたから、大浜方栄さんの「教師は学力低下の最大責任者」という主張に「そうだそうだ」と私は大いに賛成した。たから「教師は学力低下の最大責任者」の本を買った。沖縄の本を買うのはあれ以来だ。

「こんな沖縄に誰がした」の表紙は全体が朱色だ。琉球王朝の色だな。
真ん中には白い円を描いている。
黄色の字で元沖縄県知事と書いてあり、黒字で太田昌秀著と書いてある。
文字の上には黄色の沖縄本島の図がある。そして、黒字で大きく「こんな沖縄に誰がした」と書いてある。
「こんな沖縄に誰がした」の題名を見た瞬間に「お前がしたのじゃないのか」とからかいの言葉が脳裏にひらめいた。すぐ相手をケチつけようとする私の悪いくせだ。
私は冷蔵庫から2リットルのおーいお茶のボトルを出しコップについだ。居間に行き、一年中居間に居座っている電気炬燵にコップを置いて「こんな沖縄に誰がした」を開いた。耳には昼ドラの声が聞こえる。テレビはあまり見ないが見ていなくてもテレビはつけたままだ。独り暮らしだから、テレビを消すと家中が静かになり独り暮らしのわびしさを感じる。わびしさを感じないためにテレビは一日中かけっぱなしだ。
本を開いた。
朱色の紙があり、それをめくると、「こんな沖縄に誰がした」と大文字で書いてあり、その下に沖縄本島の地図、さらにその下に大田昌秀著と書かれてある。ページをめくった。すると「まえがき」という太文字が右上に小さく申し訳なさそうに立っている。私はまえがきを読んだとたんに、「え」と驚きの声を発した。

まえがき
「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」
うわ、なんてことだ。私の予想とは違いすぎる書き出しだ。
「それはないよ、太田さん」
私は思わずつぶやいていた。
「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にしたのなら娼婦に身を挺した「こんな女に誰がした」の深い悲しみと沖縄の悲しみを重ね合わせた本でなければならないはずだ。題名と本の内容はおおよそ一致するというのが常識ではないか。それが題名というものだ。表紙カバーにでかでかと「こんな沖縄に誰がした」と書いてあるのに本を開いた途端に「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」と題名を否定するような書き出しになっている。なんじゃこりゃ。期待を裏切られた私は戸惑ってしまった。「こんな沖縄に誰がした」という題名と「こんな女に誰がした」を重ね合わせて興味を持ったために本を買った人もいるはずだ。それなのに「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」とは・・・これじゃあサギまがいだ。
大田さんは戦争に翻弄された女性の悲しみを冷たくつっぱねて昭和の名曲「星の流れに」をあっさりと切り捨てた。

飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん

大陸から帰って来た女性はまだ家族にも会えていない。妹は飢えてはいないだろうか、お母さんに一目会いたい。必死に生きながら妹や母親の無事を願っている。敗戦が原因で娼婦に身を落としながらも妹や母の身の上を心配している女性。
そんな女性は戦後の日本にたくさん居ただろう。
悲惨な戦後の真っただ中を生きている女性の心情を大田さんは「泣き言」と冷たく突き放した。大田さんは県知事になったお人だ。知事というものは県民の生活に関心を持ち、県民の生活を向上させていくのが使命だと私は思うのだが、戦後の名曲「星の流れに」を冷たく突き放した大田さんは貧しい県民のことを考える知事ではなかったかもしれない。と、まえがきの「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」を読んだ瞬間に私は直感したね。

菊池章子が歌った昭和の名曲「星の流れに」は多くの歌手に愛された。
藤圭子、戸川純、倍賞千恵子、島倉千代子、美空ひばり、ちあきなおみ、石川さゆり、秋吉久美子、小柳ルミ子など多くの歌手がカバーしている。なんと美輪明宏もカバー曲を出している。歌手たちの「星の流れに」への思い入れは強く、それぞれがオリジナルな歌い方をしていて、それぞれの歌が個性豊かで感動させる。
ユーチューブに掲載されている「星の流れに」のファンのコメントを紹介しよう。

菊池章子の歌声は当時の世情そのものである。ちあきなおみの歌声は高度成長期に聞く戦後のイメージである。倍賞千恵子の歌声はその清純さのイメージとかけ離れた落差が大きいゆえに別な何かを醸し出す。藤圭子は不幸をキャッチフレーズに売り出した人なのでこの歌を聴くとなんか空々しい。

戦後の疲弊した世の中で否応なく身を持ち崩す女の心情を吐露するような曲ではあるが、そんな女にも会いたい母の面影を追う気持ちを知らされる。当然と言えば当然すぎる人間の心。菊池章子が歌ったものとは違った味が賠償千恵子の清純な声から窺える。まさか賠償千恵子が唄うとは思ってもいませんでした。

はい、チョコレート色の国電(こんにちのJR中央線)の中で白装¬束の傷痍兵さんが松葉杖をつきながらコッツコッツ歩いていたのを覚えております。

最近の日本はあまり元気がないようですが、人生と同じく山あり谷ありです。ころんだら、這い上がって、立ち上がって。長い歴史を振り返ってもこれの繰り返しですよね。これらの写真を見てつくづく日本人は立派だと思いました。がんばれニッポン

「星の流れに」ファンのコメントを読めば「星の流れに」が多くの人々に深く愛されていることがわかる。「星の流れに」を「こんな女に誰がした」もどきの泣き言と冷たく突き放す大田さんの気持ちが分からない。所詮大田さんは庶民の気持ちが分からない上の人間かもしれない。
大田さんは、
「私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい」
と述べているが、なにか白々しく感じる。大田さんの愛する沖縄とはどんな沖縄なのだろう。日本国憲法の理念と沖縄の現状が違うのを問題にしているが、日本国憲法の理念といっても憲法は文字に書かれたものであるし、憲法の解釈はひとつではない。それぞれの人間によって解釈が違う。いくつもの解釈がある。自民党と共産党、社民党では憲法の解釈が大きく違う。憲法の理念をひとつにすることは不可能だ。大田さんのいう憲法の理念はつきつめていけば大田さん個人の憲法理念である。憲法を調べては沖縄を見て憲法の文章と沖縄を照らし合わせる。また、憲法を調べては沖縄を見て憲法の文章と沖縄を照らし合わせる。こんな繰り返しで沖縄の現実を正確に見ることができるのだろうか。
世界情勢も国内情勢も変化し続けているのに60年以上も前に作られた憲法を理念にして憲法通りの世の中にしようとするのはおかしいではないか。憲法は神がつくったものではない。人間がつくったものだ。憲法にも欠点はある。欠点を見つければ訂正していくべきである。憲法は固定させるものではない。国民の手によって現実に沿って改定されていくべきものだ。
60,年以上も前につくった憲法を理念に置いて、その理念を実現するという考えは時代の変化に遅れた改革しかできない。現実に生きている私たちは私たちの理念をつくり上げ、私たちの理念を実現するために憲法を改定し、私たちの理念を実現するために現実を変えていくのが普通だ。ただ、日本は戦争に負け、天皇崇拝・富国強兵の帝国主義憲法から180度転換した民主主義の日本国憲法になったために国民のほうが憲法の理念に追いつけない状態が続いた歴史がある。しかし、憲法を絶対視して憲法の理念を実現すればいいと考えるのは世の中の変化を無視し、思想や理念の変化を無視し、現実に生きている人々のことを無視してしまう。現実に生きている人たちの幸せが一番大事な問題であって、憲法の理念に合っているかいないかが大事ではない。
戦前は天皇崇拝者だった大田さんは戦後になって憲法崇拝者に変わったようだ。大田さんにとって戦前は天皇が絶対的存在だったものが戦後は憲法が絶縦的な存在になったというわけだ。戦前の支配者や軍隊が自分たちの都合のいいように天皇制を解釈したように、大田さんは憲法を自分の都合のいいように解釈しているのだろう。

 昭和の名曲「星の流れに」は戦争で苦労した戦前生まれの人たちだけでなく、私のような多くの戦後生まれの人たちにも愛されている歌だ。そんな「星の流れに」を単なる女の泣き言と切り捨てる大田さんの精神を疑う。この人に人間の情というものはあるのだろうかと思いながら私は本を読み進めていった。
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「大田昌秀さんにかみつく」の添削をお願い2

今度「かみつく」という季刊誌を出す決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。しかし、資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いします。

「大田昌秀さんにかみつく」の2



一週間後。一応「こんな沖縄に誰がした」を読み終わった。

 読後の感想は「まいったな」である。かみつくところを見つけるところがなくて困ったという意味で「まいったな」ではない。むしろ逆だ。かみつくところがあまりにも多すぎる。最初のページから最後までみんなかみつくことができそうだ。こんなにかみつきやすい本でいいのかと私は戸惑ってしまったし、かみつくところが多いと書く量が増えて難儀だ。それで「まいったな」と思ったわけである。
元琉球大学教授で、県知事になり、国会議員までなったお人だ。そんなお人が書いた本を私のような社会の底辺で生きてきた人間が簡単にかみつくことはできないだろうと思っていた。かみつくことができなくても無理やりかみつこうと思っていたのに、意外や意外である。いたるところ噛みつくことができるのだ。こんなでたらめなことをよくも書けたものだと妙な感心をしたくらいだ。本当にこのお人は県知事になった人物なのか。信じられないなあ。

私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい。
                         「こんな沖縄に誰がした」より

と、かっこいいことを述べているが、「星の流れに」から見える戦後の日本の悲惨な現実を見ることができないお人がさ、「沖縄の現状」を正しく見ることができるのだろうか。どうしても疑問が湧いてくるよ。大田さんは憲法という上から目線で沖縄を見ているが、上から目線では沖縄の足の裏までは見ることはできない。

 さて、かみつくとするか。この本を買った目的は有名人の大田昌秀さんにかみついて私が有名人になるのが目的だからな。噛みついて噛みついて噛みついてやろうではないか。

あ、そうだ。大田昌秀さんの略歴を記しておこう。WEBのウィキペティアから転載する。

1945年(昭和20年)- 沖縄師範学校本科2年時、学徒隊の鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦に参戦
1946年(昭和21年)- 沖縄文教学校卒業
1948年(昭和23年)- 沖縄外国語学校本科卒業
1954年(昭和29年)- 早稲田大学教育学部英文学科卒業
1956年(昭和31年)- 米シラキューズ大学大学院修了(社会学専攻)、琉球大学財団に勤務。
1963年(昭和38年)- 東京大学新聞研究所にて研究
1968年(昭和43年)- 琉球大学法文学部教授就任
1978年(昭和53年)- フルブライト訪問教授として米アリゾナ州立大学教授就任
1990年(平成2年)- 琉球大学辞職。11月18日の第6回沖縄県知事選挙に出馬、現職西銘順治を破り当選。石垣空港建設反対を公約にしていた。
1994年(平成6年)- 11月20日、任期満了に伴う第7回沖縄県知事選挙で当選(2期)。
1998年(平成10年)- 11月15日、任期満了に伴う第8回沖縄県知事選挙で稲嶺惠一に敗れ落選。
2001年(平成13年)- 7月29日、第19回参議院議員通常選挙(比例区・社会民主党)当選。
2007年(平成19年)- 7月29日、第21回参議院議員選挙に出馬せず政界を引退。
現在大田平和研究所主宰

大田氏の信じられない経済論=妄想経済論

 最初にかみつくところを117ページに決めた。117ページに書いてある題名は「基地返還前後の経済変動」だ。大田さんが経済変動の具体例にしているのがハンビータウンだ。ハンビータウンはハンビー飛行場の頃から私は知っている。ハンビー飛行場に駐機しているヘリコプターを見たことがあるし、貨物船が停泊していたのも那覇行きのバスの中から何度も見た。ハンビー飛行場がハンビータウンになってからも遊びや買い物に何回もいったことがある。ハンビータウンのことはよく知っているから、まずはここからかみつくことにしよう。

 大田さんは、ハンビータウンがヘリコプター基地だった頃の雇用は100人そこそこであったが、1981年に返還されてからは若者の街に変貌して、ヘリコプター基地だったころよりも経済発展し、雇用は数千人から一万人にも及んでいると述べている。うん、それはそうだろう。ヘリコプター基地だった頃はだだっ広いだけで、人の姿はみえなかった。たまにヘリコプターを見るくらいだった。返還されてハンビータウンになると次々と新しい建物が建ち、大きな商業街になった。大田さんのいう通りハンビータウンは急激に賑やかな街になり、めざましい経済発展をして雇用が増えたのはわかる。
大田さんは地元自治体に入る固定資産税は約257万円から1億9507万円に及んでいると述べている。以上の統計の事実を根拠にして大田氏は、ハンビータウンだけでなくすべての軍事基地が軍事基地であるよりも民間に開放されたほうが経済発展をするのだと主張している。
なるほど、そうだろうなあと言いたいところだが、そうはいかないよ大田さん。
大田さんはハンビータウンの経済発展イコール県の経済発展であると考えているが、ハンビータウンは小売店の街だ。ハンビータウンの経済発展をそう単純に県の経済発展であると判断できるものではない。北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながるのなら大いに喜ばしいことであるが、北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながらないということになれば県にとって喜ばしいこととはいえない。

 沖縄市の園田にモッズというライブハウスがあった。国道331号線沿いにあり、モッズでは民謡からジャズまで多くのミュージシャンがライブをし、沖縄では有名なライブハウスだった。しかし、モッズは新しい街ハンビータウンができると園田より集客力がいいハンビータウンに引っ越した。当然のことながらモッズの客は沖縄市から北谷町に流れた。北谷の客は増えたが沖縄市の客は減ったということになる。
 ハンビータウンの隣の美浜タウンにグッドウィルという新しいパソコン専門店ができた。すると沖縄市のコリンザの一階にあったパソコン専門店は閉店に追い込まれた。コリンザのパソコン店のほうがグッドウィルより数倍大きい店であったが、元々ぎりぎりの経営状態だったので、グッドウィルに北谷町や嘉手納町の客が流れたことが影響したために赤字経営に転落したのが原因だと考えられる。コリンザのパソコン店が閉店すれば美浜のパソコン店に客は流れる。パソコン関係のコリンザの客はゼロになる。
 モッズのように沖縄市から北谷町のハンビータウン・美浜に移転した店舗がいくつもあり、多くの客がハンビー・美浜に流れた。
 客がハンビー・美浜に流れたためにコリンザのパソコン店のように閉店した沖縄市や宜野湾市の店は多い。つまりハンビー・美浜のお客は他の市町村から流れた人たちであり、他の市場から客を奪うことによって北谷町のハンビー・美浜は繁盛した。沖縄市、嘉手納町、宜野湾市などの店はハンビー・美浜に客を奪われたのだ。
 県全体から見ればハンビー・美浜の客は他の市町村から移動したのだからプラスマイナスゼロである。
 県知事だった大田さんがハンビータウンの経済発展をまるで県全体の経済発展だと錯覚して手放しで喜ぶとは信じられないことである。元県知事なら沖縄市、嘉手納町、宜野湾市などの店からどれほどの客がハンビー・美浜の店に流れて売り上げが落ちたかを調査して、ハンビー・美浜が県全体に及ぼすメリットとデメリットについて分析するべきだ。そのような市場調査をしないで、ハンビータウンの経済成長を県全体の経済成長だと喜ぶ大田氏はめでたいお人である。

 沖縄市の南側にある泡瀬ゴルフ場跡には大型店舗のイオンモールができる。沖縄市の商店経営者たちはイオンモールが開店すると壊滅的な打撃を受けるだろうと心配している。しかし、大田さんなら返還された泡瀬ゴルフ場跡にイオンモールができて経済が発展すると手放しで喜ぶだろうな。

一方が繁栄すれば一方は廃れる。それがサービス業の経済法則だ。例えば、大型スーパーが繁栄することによって個人商店やスーパーは廃れた。コンビニエンスが繁盛することによって個人商店、書店、弁当屋、パーラーなどが廃れた。新しい商業地が繁栄している裏には古い商業地が廃れていくのが現実だ。そこにはプラスとマイナスの関係がある。ハンビー・美浜が栄えた分だけ他の商業地の売り上げは落ちたのであり、県経済の全体が成長したとは言えない。こんな簡単な経済法則さえ知らない大田さんが県知事だったのだ。ため息がでてしまう。

大田さんの妄想はまだ続く

現在返還問題で揺れている普天間飛行場は、このハンビー飛行場の11倍の大きさにも関わらず、二〇〇九年三月末現在で二〇七人しか雇用していない。
                         「こんな沖縄に誰がした」より

普天間飛行場とハンビー・美浜は車で5、6分の距離である。大田さんは11倍も広い普天間飛行場跡にハンビー・美浜と同じような若者向けの商店街ができたら客はハンビー・美浜の11倍に増え繁盛すると考えている。普天間飛行場跡は繁盛するかもしれない。しかし、ハンビー・美浜の客は普天間飛行場跡に流れるに決まっている。ハンビー・美浜の客は激減し、沖縄市のように閉店する店が増え、ゴーストタウンになってしまうだろう。
米軍基地が全て返還され、跡地にハンビー・美浜のような小売店街ができたら、限られた客の奪い合いで多くの商店街はゴーストタウンになるだろう。沖縄経済の破綻である。
返還跡地にハンビー・美浜のような小売店街だけをつくったら沖縄経済が破綻する理由がもうひとつある。
普天間飛行場の軍用地料金は年間60億円である。軍用地料は日本政府から沖縄県内に入ってきて県内で流通するお金になる。そのお金が沖縄に入ってこないから県の収入は60億円のマイナスになる。一方ハンビー・美浜の小売店は本土から商品を仕入れる。商品が売れれば売れるほど商品の原価の分だけ本土にお金が出ていく。県内のお金を減らすのがハンビー・美浜の経済である。
 もし、すべての軍用地が返還され、軍用地返還跡にはハンビー・美浜のような小売店の商業街ができると仮定すると、県内に入ってくる米軍基地関係の3000億円の県内への流入は絶たれてしまい、そのかわり県外から商品を買う商店が増えるから、県外へお金が出ていくシステムが増えるようになる。県外からお金が入ってくるお金が減り、県外に出ていくお金が増えれば県全体のお金が減り続けることになる。そうなると県民のお金は減り続けるから、商品を買うお金が減り店の商品は売れなくなる。倒産する店がどんどん増えていく。経済が悪循環して県内の仕事は減り、失業者が増える。
復帰前は戦前の農業中心経済から基地経済になって人口は増え続けた。復帰後は基地経済に加えて政府からの高額交付金による公共工事によって経済が成長し人口が増えた。それに観光業やコールセンターなどやヘンチャー企業の成長が経済発展を助長した。しかし、米軍基地の撤去や海兵隊の減少は沖縄経済を下降させる。それに従って経済がマイナスに転じるだろう。
 そう、ならないためには県外からお金が入ってくる新しい企業が増えることである。コールセンターやベンチャー企業が増えているし、農産物の輸出に情熱を燃やす企業も現われている。しかし、企業が急激に増えるということはない。亀の歩みのように少しずつ増えていくしかない。沖縄の企業が新たに3000億円の収入を増やすには長い時間がかかる。米軍基地は中国の民主化に連動させてゆっくりと減少させて県経済に悪影響を与えないようにするのがいい。急激な基地経済の減少は沖縄経済に悪影響を与えて倒産が増えるだろう。

 普天間飛行場跡地の利用を考える専門家の中で大田さんのようにハンビー・美浜の複製街を普天間飛行場跡につくろうと考えている人はいない。今提案されているのは国が土地を買って大きな公園をつくることだ。国が土地を買い取ることで地主に大金が入ってくる。地主は普天間飛行場が返還されても土地が売れるから一安心というわけだ。しかし、普天間飛行場の基地経済に匹敵する経済効果案はまだ提案されていない。というより、案がないといったほうがいい。
泡瀬ゴルフ場跡にはイオンモールができる。七月には宜野湾市の西海岸に大店舗サンエーコンベンションシティー店が開店した。ドンキーも進出する予定だ。ハンビー・美浜、泡瀬ゴルフ場跡、宜野湾市西海岸、ズケラン部隊、普天間飛行場は車で十分もあれば行ける場所である。こんな場所にハンビー・美浜のように小売店街をつくれば供給過剰になる。倒産する店が増加してゴーストタウンになる場所も出てくるだろう。大田さんは、全ての米軍基地が返還されればすべての跡地にハンビー・美浜のような街ができて経済発展すると妄想しているのだ。おめでたいお人である。

大田さんの妄想はまだまだ続く

. 嘉手納基地は成田空港の二倍の広さがある。しかし、2734人しか雇っていない。それに比べ、民間空港の成田は4万人以上が雇用されている。
このように軍事基地が返還され、その跡地が、民間に利活用されるようになると、雇用が10倍にふえるという試算がなされているが、それはあながち誇張ではない。
                  「こんな沖縄に誰がした」より

 それは誇張ではない。誇張をはるかに超えた妄想だ。
嘉手納基地が返還されて、民間空港になったら、嘉手納空港は成田なみに4万人の雇用ができると妄想をすることがなぜできるのだろうか。とても不思議である。大田さんは嘉手納基地について述べる前に成田空港の旅客数と那覇空港の旅客数を調査比較しただろうか。もし、嘉手納空港が成田空港のような民間空港になると想定したら、成田空港と那覇空港の旅客数について調査するのは常識である。
成田空港の年間旅客数は約二八〇六万人(二〇一一年)である。それに比べて、那覇空港の平成二一年度の旅客数は一四〇六二万人である。那覇空港の旅客数は成田空港の約半分である。
大田さんは、嘉手納飛行場は成田空港の二倍の広さがあるから、嘉手納飛行場が返還されれば成田空港の二倍の旅客が嘉手納飛行場を利用すると想定している。実に那覇空港の四倍の旅客数だ。どうして、嘉手納飛行場が成田空港の二倍だから旅客数も二倍になるというのだ。こんなことは絶対に起こらないことである。
沖縄県の観光業界は観光客を増やすためにあの手この手を使って苦労している。飛行場の広さを二倍にすれば観光客も二倍になるのなら、どんどん飛行場を拡張すればいい。しかし、こんな簡単に観光客や旅客数が増えるわけがない。
もし、嘉手納飛行場が民間空港になったら、那覇空港と旅客の奪い合いになり、それぞれの空港の旅客数は半分ずつになり、二つの空港が莫大な赤字経営をすることになる。
 県知事体験者ならば沖縄県の経済発展を真剣に追及するはずであるが、大田さんは経済破綻をさせてしまう経済論を展開している。不思議な人である。
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「大田昌秀さんにかみつく」の添削をお願い3

今度「かみつく」という季刊誌を出す決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。しかし、資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いします。

「大田昌秀さんにかみつく」の3


大田さんはどうして見え見えの嘘をつく

 大田さんの経済論はあまりにもひどい経済論であるが、歴史観もひどい。大田さんは「こんな沖縄に誰がした」で「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」などと仰っている。私は沖縄の歴史をあまり知らない。そんな私でも尚巴志が三山を統一したのは知っている。三山を統一したということは武力で制圧したことである。話し合いで三山を統一したなんて話は聞いたことがない。私は歴史を調べるために「ジュニア版 琉球・沖縄史」を買った。大人用の歴史書となると字が小さくなり内容が詳しく字数の量が多い。読むのに大変だ。だから、字が大きく字数の少ないジュニア版を買った。家に帰って、テレビをつけっぱなしの居間でコーヒーを飲みながら歴史を調べてみた。

1187年頃 舜天、中山(沖縄本島中部)王に即位。
1406年 尚思紹父子、武寧を滅ぼして、尚思紹が中山王になる。
1416年 尚巴志、北山を滅ぼす
1429年 尚巴志王、南山を滅ぼして全島を統一する。
1500年 八重山のオヤケ・アカハチの乱を平定。
1571年 尚元王、奄美大島を征服。
1609年 薩摩の島津家久が琉球に侵攻し、尚寧王を連行する。

1453年五代王・尚金福がなくなると後継争いは激しくなった。争いとは口喧嘩ではない。武力による争いであり、戦争である。後継争いの戦火で首里城は焼け、後継争いをした二人も死んだ。護佐丸・阿痲和利の乱もある。金丸が尚円になったときも武力によるクーデターだったと言われている。王位継承争いの解決方法は話し合いではなく武力争いであった。
武寧を滅ぼす、北山を滅ぼす、南山を滅ぼすというのは武力で滅ぼすということだ。つまり琉球王朝は軍隊を持ち、戦争をしていたということであり、太田さんのいう「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」という歴史的な事実はどこにもない。それがまっかな嘘であるということが中学・高校生用の歴史本でわかる。元大学教授であった大田さんが中学程度の歴史を知らないのだ。信じられないことである。
琉球王朝は八重山や奄美大島も武力で制圧して、植民地にしている。「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」というのは間違っている。むしろ暴力で解決したというのが正しい。
琉球人が乱暴であり、中国に嫌われたことを「ジュニア版 琉球・沖縄史」には書いてある。

琉球は明国への朝貢がゆるされると、毎年、中国へ行って貿易をおこなうようになりました、しかし、そうほうの間に何の問題もなく、平穏に朝貢貿易がつづけられていたのではありませんでした。琉球人の中には、不法行為によって厳しく処罰される者もおり、信頼を損なう事件も起こっていました。
 1475年には中国皇帝から尚円王に対し、「琉球使者の中に、殺人、放火によって強盗を働いた者がいる。犯人をつかまえて処罰せよ」と命令がありペナルティーとして「今後、中国への朝貢は2年に1貢とする」ことが言い渡された。琉球王府は、この事件に琉球人がかかわっていないことを報告し、従来通り1年1貢にもどすように嘆願を繰り返したが、1時期は1年1貢にもどったことがあったが、1年1貢は許されなかった。理由は使節にしたがってやってきた琉球人が、違法な取引をしたり、不法滞在で地元住民とのあいだでトラブルをおこしたりしていたからである。
                   「ジュニア版 琉球・沖縄史」より

琉球人が暴力を用いずに話し合いで解決したというのは嘘である。中国で暴力をふるってトラブルを起こしていた事実が歴史にちゃんと残っている。
学者である太田さんがなぜこんなみえみえの嘘をつくのか不思議でならない。

大田さんは沖縄の貧困には目を向けない

 再び「星の流れに」に話を戻す。沖縄の歴史を調べて驚くべき沖縄の貧困の事実を知ったからだ。

18世紀にはいると、台風や干ばつなど異常気象があいつぎ、困窮した農村はそのたびに飢きんと疫病にみまわれ、多くの餓死者をだしていました。
 農村がこのような自然環境の変化に大きく左右されたのは過重な税負担と、地方役人による不当な取り立てが原因でした。その為、予測される災害にすら対応がままならず、まったくの無防備な状態で災害にみまわれるありさまでした。
 こうした社会にはそれを回復させる余力など残っておらず、大量の餓死者をだしていったのです。その上飢きんにみまわれた年でも、農民の租税免除はその場限りで、ほとんどの農村が翌年にはようしゃなく年貢を取り立てられました。
 農村はますます貧しくなり、借金のかたに土地を質入れしたり、身売りしたりする農民があとを絶ちませんでした。
 身売りとは、年貢をおさめるために借り入れた米やお金を返せなくなった農民が、貸主のもとで一定年限、下男下女としてつとめることです。これによって家族が崩壊することを家内倒れといい、これと連動して、上納の責任単位である与(組)がくずれてしまう与倒れの現象も起こりました。身売り農民のひきうけもとは、地元の有力者か間切りや村役人などの特権階層でした。農村はしだいに、ウェーキと呼ばれる富農層と、ヒンスーと呼ばれる貧農層とに二極分解していきました。
                     「ジュニア版琉球・沖縄史」

薩摩藩に支配されていた琉球王府は、

年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚

以上の品々を薩摩藩に毎年献納しなければならなかった。その負担は琉球王府が負うのではない。琉球王府は支配者として贅沢三昧の生活をしていた。薩摩藩への莫大な献納を負わされるのは農民である。薩摩に支配された琉球の農民は重税に苦しんだ。
吉屋チルーのように遊郭に売られていく子供は後を絶たなかった。

しかし、驚いたことに、沖縄の貧困は琉球王朝時代で終わらなかった。四民平等になったはずの明治から昭和の戦争直前まで沖縄の農民の貧困は変わらなかったのである。
その歴史的事実が中・高校生用の本に載っている。中・高校生用の本にだよ。「ジュニア版 琉球・沖縄史」から引用する。

 当時の沖縄の人口は約60万人ほどで、その7割が農民でした。しかも、多くは零細農家で、サトウキビを主作物とする農家をいとなんでいました。
 廃藩置県後、沖縄では換金作物としてサトウキビを栽培する農家が増え、サツマイモ畑や水田までもキビ畑にかえていました。砂糖生産中心のこの生活形態は、自然環境や経済変動の影響をうけやすく、ことあれば、すぐさま食糧不足と経済危機にみまわれるという弱さを持っていました。それが最悪の形であらわれたのが、大正末期から昭和初期にかけておこったソテツ地獄でした。
 沖縄の輸出品は、砂糖のほかに、泡盛・パナマ帽子・畳表・鰹節・漆器などがありましたが、その8割を砂糖が占めていたので、国際的な糖価の暴落は県経済に深刻な影響を与えました。国税の滞納額も、1921(大正10)年以後は40%台を推移し、銀行などの金融機関にも大きな打撃を与えました。それにおいうちをかけるように、台風や旱ばつがおそい、農村は文字どおりソテツを食べて、飢えをしのばなければならない状態にまでおいつめられていきました。
 多額の借金をかかえ、生活がどうにも立ちゆかない農家では、最後の手段として身売りが公然とおこなわれました。男性は漁業に従事する糸満へ、女性は遊女として辻の遊郭へ売られました。また、海外移住や本土へ出稼ぎとして沖縄を出ていく人びともふえていきました。
                     「ジュニア版 琉球・沖縄史」

 昭和の名曲「星の流れに」は、戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、敗戦後の荒廃した日本で生き抜くために身を落とした女性の歌であることを説明した。しかし、沖縄では戦争に翻弄される以前から「星の流れに」のような娼婦に身を落とす女性が多かった。戦前の沖縄では、身売りされるのは女性だけでなく男性も多くいた。いわゆる女性の辻売りと男性の糸満売りである。

 子供の頃、母親から聞いた話だが、戦前は男の子供が駄々をこねて泣くと、「糸満に売り飛ばすぞ」と脅したそうである。すると子供は泣くのをぴたりとやめた。糸満の漁師に売られた子供は漁師として徹底的に鍛えられる。泳げない子供でも縄で縛って海に放り込んだそうだ。溺れて死にそうになってもなかなか引き上げない。もし、訓練中に死んだとしても事故として片づけられる。糸満に売られたら殺されても文句が言えないということである。まさに子供にとって死ぬかもしれない過酷な運命に放り投げられるのが糸満売りであった。
 辻売りや糸満売りは琉球王朝時代の話ではない。戦前の話なのだ。私の家の前に三〇〇坪ほどの空き地があり、その空き地を借りて畑をやっていたじいさんがいたが、彼は与那国出身で、糸満売りで沖縄にやってきたと話していた。
 戦前までは辻売りや糸満売りが公然と行われていたが、その原因は沖縄の貧しさであった。大正末期から昭和にかけて沖縄ではソテツ地獄があった。昭和時代になってまで沖縄はソテツ地獄と呼ばれる飢餓があったのである。
明治以後は人身売買は法律で禁じられていたが沖縄では公然と人身売買が行われていたという。

 「星の流れに」の女性の貧困は日本の敗戦が原因であるが、沖縄の場合は敗戦以前に貧困問題があった。
大田さんは、昔の琉球は平和主義であり「命どぅ宝」を合い言葉に他者と有効的共生の生き方をして沖縄は豊かであったような印象を与えているが、とんでもないことである。豊かであったのは少数の士族階級の人間たちであり、多くの農民は貧困生活を強いられていた。
明治以降も同じであった。明治時代になり表面上は四民平等になったが実際は富む士族階級と貧しき農民階級の関係は続いていた。明治政府は人材不足であり沖縄に派遣できる人材は少なく沖縄県の政治は統治能力のある沖縄の士族層に任せた。そのためにほとんどの役人は士族出身者が占め、財産のある士族層が経済界も支配していた。沖縄の内実は琉球王朝時代と大差はなかった。
戦前の沖縄の産業は寄留商人と呼ばれる本土出身者と政府の手厚い保護でえた不動産や資金をもとに、貿易・金融・開墾・鉱業開発・新聞社などを経営した尚家が支配していて、人口の70%以上を占めていた小作農民は貧困生活を強いられていた。沖縄社会の70%を占める農民の生活を無視しては沖縄を語ったことにはならない。ところが大田さんは農民を無視して沖縄を語るのである。
沖縄の長い歴史の中で農民や庶民が人間らしい人権や自由を得たのは戦後である。戦前は士族階層と本土の寄留商人が政治と経済を牛耳っていて、農民は差別され、貧困にあえいでいた。土地のない農民は小作人となり低賃金で本土資本の製糖工場のさとうきび畑で働かされていた。戦後になり、米民政府によって寄留商人は沖縄から排除された。士族階層の特権は剥奪され、土地は小作人に分け与えられた。そして、商売が誰でも自由にやれるようになった。平和通り商店街の発展が戦後の沖縄を象徴している。戦後の沖縄ではアメリカ通りと呼ばれていた商店街が至るところにあり一坪くらいの小さな店がいっぱい並んで活況を呈していた。少ない資金でも商売ができるのが平和通りやアメリカ通りであった。店を営んでいたのはウチナー女性たちであった。女性が自由に商売できるようになったのも戦後である。
米民政府は琉球銀行を設立して商売や起業を一般の人でもやりやすくした。外国資本の参入も自由にしたので外国の資本が沖縄に流入した。それをやったのは沖縄の政治家ではなく米民政府であった。戦後の沖縄経済が活発になっていったのは米民政府がアメリカ流の市場開放政策を行ったからである。
アメリカは沖縄を統治し続けたが、アメリカは中国などの社会主義国家の拡大を抑止する軍事目的で沖縄を統治したのであり、沖縄を搾取するためではなかった。そもそも世界一の経済大国であるアメリカが貧乏な沖縄を搾取するはずがない。米民政府はアメリカ流政治を沖縄に適用して沖縄社会内の差別を徹底してなくし市民が自由に活動できるようにした。米民政府は薩摩藩のように沖縄を搾取することもなく、琉球王府のように農民を搾取することもなく、多くの沖縄人を軍作業員して雇用し、アメリカ兵やその家族は沖縄の店で買い物をして多額の金を沖縄に落とした。米民政府は市場を自由にし、沖縄の産業を育成して沖縄経済を活性化させていった。
戦前の沖縄社会と戦後の沖縄社会を比較すれば戦後の沖縄社会は自由であり経済は何倍も発展していて庶民の生活も向上していることが分かる。

大田さんは琉球王朝時代、戦前、戦後の市民レベルでの人権、自由、経済、生活を言及していない。大田さんは支配者同士の駆け引きを問題にしていて、沖縄が身分制度のある封建社会であるのかそれとも民主主義社会であるかを問題にしていない。
江戸幕府時代に日米修好通商条約をアメリカと結んだように外交問題は日本国内が封建社会であるか民主主義社会であるかは関係がない。大田さんの追及している米軍と沖縄、日本政府と沖縄の問題は日米修好通商条約と似た外交問題であり、沖縄社会の人々の自由、平等、生活には関係がない。大田さんは沖縄が他国から干渉されない独立国であるなら沖縄の民は幸せになれるという考えであるようだが、それはとんでもない錯覚である。沖縄が独立していた琉球王朝時代は士族階級の支配する不平等社会であった。農民は不自由で貧しい生活を強いられた。戦後、アメリカが沖縄を統治することによって琉球王朝時代から延々と続いていた士族階級の支配から解放されたのである。本当の四民平等は戦後の米民政府によって実現したといえる。もし、アメリカが統治しなかったら戦前の不平等社会が戦後も続いていただろう。
安保条約や基地問題が沖縄問題の中核ではない。沖縄の人たちの生活のありようが沖縄問題の中核である。大田さんの「こんな沖縄に誰がした」は沖縄の貧困、労働、失業、福祉、人権、学力など沖縄の深刻な問題をなおざりにし、中核から外れた問題だけに終始している。「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」がそれを象徴している。
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日本は首相公選にしなければ駄目だ


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ロシアのメドベージェフ首相は5日、自らの北方領土・国後島訪問に日本政府が「極めて遺憾だ」などと反応したことについて「日本の反応は全くどうでもいいことだ」と一蹴した。滞在先の極東カムチャツカ地方でインタファクス通信などロシアメディアの質問に答えた。
首相は「日本と何を議論しなければならないのか。ロシアの首相がロシアの領土にいることを議論するのか」と話し、あらためて北方領土はロシアの領土と強調。次回の訪問では全ての希望者を連れて行くとし「あそこには国の指導者、政府のメンバー、記者もみんな行かなければならない」と述べて、さらなる北方領土訪問の可能性を示した。(共同)
・・・・・・・・・・
韓国の李明博(イミョンバク)大統領は13日、大統領府での姜昌煕(カンチャンヒ)国会議長らとの昼食会で、10日に竹島上陸を強行した背景に、いわゆる従軍慰安婦問題で進展が見られないことがあったと説明した。
大統領府によると、李大統領は議長らに対し、昨年12月の日韓首脳会談で、日本側が、慰安婦問題解決を訴える韓国の市民団体がソウルの日本大使館前に建てた少女像の撤去を求めたなどと述べ、会談では「1時間以上、(慰安婦問題解決を)説得した」と語った。その上で、「日本のような大国が心を決めれば解決できるのに、国内の政治問題のせいで(政府が)消極的な態度を取っており、行動で(我々の不満を)見せる必要がある」と考えたことが、竹島行きの動機になったと説明した。
大統領は、竹島に行くこと自体は「3年前から準備してきた」とも明かし、「週末に行って1泊するつもりだったが、天候の関係で日帰りした」と語った。また「日本側の反応は予想していた」とも述べた。
大統領は、「国際社会での日本の影響力も以前ほどではない」とも語ったという
警官、保安庁、自衛隊、米軍が日本の平和を守っている。

・・・・・・・・・・・・
香港の活動家らが沖縄・尖閣諸島の魚釣島に上陸などした事件で、逮捕された14人のうち上陸した5人は、4つの警察署に移送され、別々に取り調べが行われている。
16日午前、逮捕された14人のうち上陸した5人の身柄は、4つの警察署に移され、本格的な取り調べが行われている。
沖縄県警の調べに対し、5人は「ここはわれわれの国であり、不法上陸ではない。中国の領土なのでパスポートは要らず、逮捕されるのは間違いだ」などと、容疑を否認しているという。
また、このうち2人の身柄が置かれている沖縄県の那覇警察署には、中国大使館員が訪れ、1時間余りにわたって、2人とそれぞれ接見したことがわかった。
一方、5人が上陸した船に乗っていた9人は、これまで船上での調べに対し、「尖閣は中国の領土であり、不法入国にはあたらない」などと容疑を否認しているという。
・・・・・・・・・・・・・

日本は首相公選にしなければ駄目だ



ロシアのメドベージェフ首相は北方領土に行って、
「日本と何を議論しなければならないのか。ロシアの首相がロシアの領土にいることを議論するのか」
と堂々と国後島はロシアの領土だと宣言した。
それに対して日本政府は、「遺憾である」というだけで
なんの対抗策も示すことができない。

李明博(イミョンバク)大統領は竹島に行き、
ロシアの首相と同じように竹島は日本の領土であると宣言した。
それに対しても日本政府はなにもできない。

そして、仕上げが中国活動家の尖閣諸島の魚釣島への上陸だ。
ロシアは日本の漁船がロシアの領海に入っただけで威嚇射撃をし、
有無を言わさずに逮捕し、高額な罰金を要求する。
それなのに日本政府は中国人活動家の乗った船が日本領海に入っても、
威嚇射撃をしないし、
逮捕もしない。
魚釣島へ上陸して初めて何十名もの警官で活動家を逮捕した。
これは税金の無駄遣いだ。
領海に侵入した時に、警告し、警告しなければ威嚇射撃をして、
それでも侵入し続ければ逮捕すればいいのだ。
これが普通のやり方だし、他の国では普通にやっていることだ。
上陸するまで逮捕しないのは異常だ。

日本は韓国、中国に侵略し植民地支配したという過去がある。
そのことについては日本は贖罪しなければならない。
しかし、
それが中国の活動家が領海に侵入しても逮捕しない理由にはならない。
領海に侵入するということは犯罪である。
法治国家であれば相手が中国の人間であろうと別の国の人間であろうと
法にのっとって逮捕するべきだ。

それができないのが日本政府だ。
なぜ、日本は外交で毅然とした態度をとれないのか。
理由は色々あるだろうが。
根本的な原因は内閣がコロコロ変わることにある。
内閣がコロコロ変わる根本原因はなにか。
それは首相を国民が直接選ばないことにある。

今の制度では、国会の過半数の政党から首相が選ばれるが、
過半数の政党の過半数を握れば政党の代表になって首相になれる。
極端にいえば、
衆議院議員の四分の一以上を取り込めば首相になれるのだ。
だから、誰も彼も首相になりたがって、現首相を引き下ろすことしか考えない。
日本の首相がコロコロ変わるのは衆議院議員が首相を選ぶことにある。
首相公選にしない限り首相はコロコロ変わり、
日本の政治は堕落しつづけるだろう。

世論調査では国会解散に賛成が過半数を超えているが、
国会解散すれば新しい展望が開けるなんてあり得ない。
政権が自民党に移っても日本の政治はなにも変わらない。
国会の四分の一以上の議員を確保すれば首相になれるという魅力にかられ、
首相の仲間以外の議員は
野党であれ与党であれ首相をこき下ろすことしか考えない。
そして、首相はコロコロ変わる。
こんなシステムで日本の政治がよくなるはずはない。

むしろ、衆議院は解散しないで野田首相が次の衆議院選挙まで続行したほうが
日本の政治にとってはいい結果が出るだろう。

オスプレイは離島輸送機として最高


オスプレイはヘリコプターと同じだから滑走路が必要ない。
だから滑走路をつくれない小さな離島にも離発着ができる。
オスプレイには翼がありプロペラ飛行機と同じだから
ヘリコプターより早いし大量の物資を運ぶことができる。
離島の多い沖縄にとって理想の飛行機といえる。

離島は人口減で、航空便の減少・廃止が続いている。
オスプレイが民間機として使用できるようになれば、
離島の航空便の減少・廃止問題を解消することができる。
将来、オスプレイは離島の救世主になれる。

左系のオスプレイ配備反対する連中はこんな発想を全然しないだろうな。
戦後の経済発展の足をひっぱり続けている連中だからな。

エジプト大統領が新憲法令 軍政トップの国防相解任


エジプト大統領府によると、モルシ大統領は12日、軍政トップのタンタウィ軍最高評議会議長を国防相から解任した。さらに、軍評議会に広範な権限を付与した改正憲法令を撤廃し、これに代わる新たな憲法令を発布した。新憲法制定の主導権を軍評議会から大統領に移すものとしている。国営テレビなどが伝えた。
 エジプトでは、イスラム勢力出身のモルシ大統領と、軍の権限争いが続いてきた。大統領には、タンタウィ氏を国防相から解任することで軍の影響力を封じる狙いがあるとみられ、新憲法起草の扱いをめぐって大統領と軍との対立激化につながる可能性もある。
モルシ大統領は6月末の大統領就任以来、軍に握られてきた多くの権限を奪回した形で、大統領を支持するイスラム勢力や革命を主導した若者勢力は、真の民政移管につながると歓迎している。
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エジフムトが本当の民主主義国家になるにはエジプト軍をシビリアンコントロールできることが大きな課題だ。モルシ大統領が軍政トップのタンタウィ軍最高評議会議長を国防相から解任したのは大きな前進だ。
タイは軍が強くて、政権が気に入らなければクーデターを起こして政権をひっくり返す。タイは軍をシビリアンコントロールしていないからまだ民主主義国家とはいえない。ミャンマーも軍がまだまだ強い。
アジア・中近東情勢からみるとエジプトの軍政トップを解任したことの政治価値はとても大きい。
エジプトは民主主義国家へ一歩全身した。

首相離脱で政権内部崩壊へ シリア 高官離反続き権力弱体化


シリアのヒジャブ首相が6日、アサド政権から離反し、反体制派の陣営に加わることを表明した。昨年シリアで反体制抗議行動が始まって以降、政権内で最高位の人物の離反となる。
ここへ来て同国の政権内では、アサド大統領を見限る幹部らの動きが加速しており、今回のヒジャブ首相の離反はアサド政権にさらに大きな打撃を与えるとみられる。この1カ月間に、アサド大統領の親友だったタラス准将や在英代理大使など、政府高官による離反が相次いでいる。
この状況に米ホワイトハウスのカーニー広報官は5日、高官レベルの離反者が続出していること自体、アサド氏の権力が弱体化している兆候だと指摘。「政府の高官がアサド大統領の指示のもとで行われている国民への虐殺行為を拒否したという事実は、アサド政権が内部から崩壊しつつある証拠にほかならない」と強調した。
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一日も早い民主主義革命が成功することを祈りながら、シリアの情勢については毎日マスコミ報道に注目している。民主主義革命に命をかけて戦っている戦士たちに敬意を表する。

ヨーロッパやアメリカの軍事援助のないシリアの反政府市民は
圧倒的な政府軍の軍事力によって弾圧され、
民主主義運動は失敗すると思っていた。
しかし、圧倒的な不利の状況で何万人もの市民が殺害されても
シリアの民主主義の戦いはひるまなかった。
死を覚悟で戦っているシリアの市民はすごいと思う。
シリアやリビアの独裁者をみれば、
独裁者が自分の利益のためには
平気で市民を弾圧、殺害することを知ることができる。
琉球王朝や戦前の士族階層もそうであったこたを認識するべきだ。
シリアは沖縄から遠く離れているが、シリアで起こっていることを認識し、それを沖縄の変革の参考にすることはできる。
戦争被害と基地被害は雲泥の差がある。シリアでは殺し合いが行われ毎日何十人何百人という市民が殺されている。
しかし、米軍基地があるからといって沖縄では一人も米軍に殺されていない。
米軍は沖縄人に向かって銃を発砲しないし、
沖縄人を弾圧したり殺したりはしない。
米軍は独裁者ではないし沖縄を搾取していない。

米軍基地があったから戦後67年間も沖縄は平和であったし、
中国の侵略もなかったことを私たちは認識するべきだ。
むしろ、米軍が駐留し、米民政府が沖縄の民主化をすすめたから、
シリアのような独裁社会にはならなかった。
戦前は元武士階層や内地の商人が沖縄を実質的に支配し、
沖縄の民は貧困生活を強いられていた。
もし、米軍がいなかったら、
戦後の沖縄は戦前の差別社会がますますひどくなっていっただろう。

基地被害をなくす努力は必要であるが、
米軍基地があるから戦争に巻き込まれるとか、
基地被害をまるで戦争被害のように誇張するのはやめるべきである。


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税金を県民大会に使う那覇市の実態



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映像を見て驚いた。県民大会に税金が使われ、勤務時間内に公務員が県民大会の準備をしているのである。この映像を見れば県民大会には税金が使われている事実がはっきりわかる。
県民大会といっても政治集会である。公的な行事ではない。那覇市長や議員がオスプレイ配備に反対するといっても、県民大会は政治主張をする大衆の大会にしかすぎないのだから税金を使うのは間違っている。これでは税金の私物化だ。

税金を使って動員するのなら20万人以上集まって県民大会として成立するといえる。5万人なら県民大会として成立しない。

沖縄の政治はめちゃくちゃだ。


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中国活動家の尖閣上陸でわかる米軍基地がなければ平和になれるという嘘



尖閣諸島(中国名・釣魚島)に7人の中国人活動家が上陸した。
なぜ彼らが上陸することができたか。
日本の警察が彼らの上陸を阻止することができなかったからである。
もし、尖閣諸島に警察も保安員もいなければ、
中国人の活動家は尖閣諸島で自由に行動して、
何日間も居続けただろう。

彼らが尖閣諸島で自由な行動ができなかったのは
沖縄県警が彼らを逮捕したからだ。
逮捕は実力行使である。
もし、沖縄警察に実力がなくて
中国人活動家のほうが実力が上であったら逮捕することはできなかった。
当たり前で幼稚な理屈と思うかもしれないが、
現実は実力の世界であることを私たちは認識するべきである。
戦後間もないころの沖縄は警察の実力は弱かった。
だから、暴力団がはばをきかせていた。
コザ市のバス停留所には金をせびる暴力員の下っ端がいて怖かった。
昔の沖縄の警察は
こういう連中を取り締まることができなかった。

日本社会の安全を保つには警察の実力がなければならない。
隣に共産党独裁国家中国や北朝鮮が存在する限り
日本・沖縄の安全を保つには軍隊の実力がなければならない。
尖閣諸島に中国の軍隊が侵入しない理由はたったひとつである。
米軍が駐留している上に、自衛隊が中国軍よりも強いからだ。
もし、米軍が日本に駐留していなくて
自衛隊がフィリピンやベトナムの軍隊のように弱かったら
中国の漁船団が尖閣の海を占領し、
漁船団を守るという理由をつけて中国の軍艦が尖閣の海に侵入し、
尖閣諸島に港をつくり、
軍隊が上陸して、
尖閣諸島を実行支配していただろう。
これは南沙諸島でベトナムやフィリピンの領海を中国軍が侵略した方法である。

中国の人民解放軍は日本やアメリカのようにシビリアンコントロールされていない。
人民解放軍には政治力があるし、
領土を拡大すれば人民解放軍のトップは利権と莫大な富を得ることができる。
人民解放軍を自衛隊やアメリカ軍と同じように
シビリアンコントロールされていると考えてはいけない。

尖閣諸島や沖縄が中国に侵略されていない理由はひとつである。
米軍・自衛隊が中国の人民解放軍より強いからである。
軍隊が弱かったチベットやウイグル自治区は
人民解放軍の武力によって制圧されたということを忘れてはならない。
尖閣諸島が日本の領土であるという証拠を見せてどんなに主張しても、
そんなものは人民解放軍にとってはただの紙切れだ。
尖閣諸島が中国の領土であるとする理由を中国はいくらでもつくれる。
争う相手が中国である限り尖閣諸島を守ることができるのは唯一武力しかない。

復帰前は世界一強い米軍が尖閣諸島、沖縄を守っていたから
中国は尖閣諸島・沖縄をチベットのように武力制圧することができなかった。
沖縄の平和を保ったのは反戦平和運動ではない。
米軍が沖縄の平和を中国から守ったのだ。
米軍基地があるゆえに起こる事件・事故は問題ではある。
しかし、基地被害と戦争被害は桁が違う。
基地被害をなくすために米軍基地を撤去させたら、
昔なら中国に侵略され、
チベットやウイグル地区のように中国に支配されていた。
今は自衛隊が強いし、
資本主義経済を導入して経済が発展した中国だから
戦争を起こせば中国も大不況に陥って、大きなマイナスになるから、
日本とまともな戦争はしないだろう。
しかし、アジアから米軍が撤退すれば、
自衛隊が強くても、
尖閣諸島、海底油田問題で中国は強引に攻めてくるだろう。
南沙諸島でも中国は強引な行動を取りフィリピン、ベトナムとの紛争を拡大するだろう。
北朝鮮は韓国との紛争を拡大するだろう。

沖縄のオスプレイ配備反対・米軍基地撤去などの反戦平和運動は
沖縄が平和だからできる運動だ。
いわゆる米軍に保護されているからできる運動である。



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風船アドバルーン揚げはテロに等しい行為



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「カマドゥー小たちの集い」は
「米軍基地には航空法が採用されず、
掲揚物などの規制がないことを逆手に取った試み」
でアドバルーン風船を普天間飛行場を離着陸する飛行機の高度と同じ高さに揚げた。

「カマドゥー小の集い」は
宜野湾市の若い母親たちが世界一危険な普天間飛行場に
我慢できないで立ち上がったグループであったはずである。
若い母親たちが立ち上がったことに私は期待した。
ところが子供を持つ親であるなら
普天間第二小学校の移転や子供の身の安全のためには
辺野古移設も仕方がないというような意見が出ると思ったが、
第二小学校の移転の話は一切ないし、
辺野古移設も反対だった。
 
結成した頃は{若い母親たち」が売りであり、
政治には素人の母親たちが立ち上がったという
イメージを与えていたのに、
今日の新聞にはメンバーの又吉京子さんは62歳とあり、
上原美智子さんも62歳とある。
しかも上原美智子さんは宜野湾ではなく那覇に住んでいる。
なんじゃあこりゃあという心境だ。
これは大衆組織の振りをした左系女性の政治集団だ。
がっくりきた。

飛行場の周囲にアドバルーン風船をあげるのは航空法では危険だからという理由で禁じている。
しかし、米軍基地には航空法が適用されていないという。
普天間飛行場のアドバルーン風船揚げは法律の網をくぐったやり方である。
法律違反ではないとしてもとても危険であることに違いはない。
アドバルーン風船が原因で事故が起こる可能性がある。
それなのに「カマドゥー小たちの集い」は
アドバルーン風船を揚げるのである。

ねずみ講も取り締まる法律が最初はなかった。
そのことを利用して大もうけをした人間がいる。
押し売りも昔は法律規制がなかった。
被害者が増えたので押し売りを禁ずる法律ができた。
現在問題になっているのが押し買いと呼ばれているものである。
貴金属類を強引に買う行為であるが
押し買いを規制する法律がないので今は犯罪にはならない。
法律の網をくぐって人間をだまして金儲けするのが詐欺師たちだ。
「カマドゥー小たちの集い」のアドバルーン風船揚げは
法律違反であったらなにをやってもいいという詐欺師の精神と同じである。
航空法で危険だから禁じているのだから危険であるのに違いはないのに、
「カマドゥー小たちの集い」はアドバルーン風船を揚げるのである。

「カマドゥー小たちの集い」は
子供のために立ち上がった母親たちの集いであったはずである。
今度のアトバルーン風船上げは、
「法律を破らなかったらなにをやってもいいと子供たちに教えましょう」と
いっているようなものだ。
とんでもない母親たちである。
これは母親失格だ。

風船はテグス付きなので空に放つわけではない。
凧揚げのように飛行機が飛ぶ高さまで揚げるのである。
飛行機にとって非常に危険である。
「風船がどうしても危険だというなら、危険な軍用機の方こそ飛ばさないでくださいと言いたい」
と述べているように
わざわざ飛行機が危険である高さにアドバルーン風船を揚げるのである。
軍用機が墜ちてもいいという考えである。これは抗議行動を超えた
テロ行為に等しい。


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彼らが絶対に口にしないこと

「沖縄に内なる民主主義はあるか」を当分の間は、
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新聞は過去の普天間飛行場関連の事故を並べ立て、
テレビでは8年前の沖国大へヘリコプターが
墜落した直後の映像を何度も流し、
普天間飛行場の危険性を明らかにしている。
8年前のヘリコプター墜落事故は一歩間違えば
何十人という死者が出てもおかしくない事故だった。
鮮やかな映像はつい昨日起こったような気にさせて、
危機感がひしひしと伝わってくる。

今でも、危険である普天間飛行場に
欠陥機オスプレイが配備されれば危険はますます増大する。
オスプレイが配備されればいつ事故が起こっても
おかしくないような宜野湾市になってしまう。
オスプレイ配備反対の人たちやマスコミは
そのように県民に忠告している。
私は、オスプレイ配備反対の人たちやマスコミに
おかしいことをひとつ感じるところがある。
世界一危険な飛行場にオスプレイが配備されれば
もっともっと危険な状態なるのだと怒りをあらわにする連中であるが、
あんなに危険危険と叫んでいるのに、
彼らは今までに沖国大や普天間第二小学校の移転を一言も口に出していない。

危険地帯があるなら
命を守るために危険地帯から遠ざかるのが
私たちの常識である。
沖国大や普天間第二小学校が
危険だ危険だと不安を訴えているのに
「移転したほうがいい」と言わないのは不思議である。
マスコミは、
「沖国大にヘリコプターが落ち、沖国大が危険地帯であると判明しました。
だから、沖国大は少しでも安全な場所に移転するべきでしょう」
とアドバイスをやるのが当然だと思うが、
マスコミは一度も口にしたことがない。

「人命第一ではないのか」
とマスコミやオスプレイ配備反対者に言葉を浴びせたくなる。
普天間飛行場の移設と
沖国大や普天間第二小学校の移転ではどちらがやりやすいかは明らかである。
普天間飛行場であるなら辺野古移設でも最低5年かかる、
県外移設なら最低20年以上かかる。
だったら沖国大や普天間第二小学校を移転させたほうがいい。
美浜の近くの広大な軍用地がすでに返還されている。
キャンプフォスーも広大な軍用地が使用されていない。
沖国大も普天間第二小学校も楽に移転できる場所がある。
移転したいといえば日米政府は喜んで協力してくれるだろう。
しかし、彼らは移転を口にしない。

彼らの言動や行動から、
彼らが人権を守ろうとしているのではないことがわかる。
彼らは普天間飛行場を撤去するのに人権問題を利用しているのだ。

人権を重視しているなら
騒音被害や人命の危険から生徒や学生を守るために
学校の移転を主張するのが当然の行為である。
しかし、彼らは普天間基地の危険性を声高に叫び、
学生や生徒の騒音被害、
人命危機を訴えることはしても、
学校を安全な場所に移転することを一言も口にださない。変ではないか。
おかしいではないか。
変ではないか。

彼らは普天間飛行場の騒音やヘリコプター墜落の危険を主張し、
一日も早い普天間飛行場の撤去を訴えているが、
彼らは人権を重視して主張いるわけではない。
人権が犯されることを利用して
普天間飛行場を沖縄からなくしたいのだ。

彼らの正体は反米主義者であって、
人権主義者ではない。
彼らは米軍基地を撤去するのが目的なのだ。
そのために人権主義者の振りをしているのだ。
普天間第二小学校が騒音被害を受けても
彼らの本心はなんとも思っていない。
もっと騒音被害が大きくなって、
世間に注目されたほうがいいと彼らは思っている。
彼らは学力が全国最下位になってもへとも思っていないような連中だ。
彼らは子供たちに騒音被害を押し付けて、
普天間飛行場の撤去をたくらむ連中だ。
生徒に愛情なんかあるわけがない。

普天間飛行場の危険性を訴え、
オスプレイ配備反対を声高に叫ぶ連中は、
絶対に沖国大や普天間第二小学校の移転を口にしない。
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