「大田昌秀さんにかみつく」の添削をお願い3

今度「かみつく」という季刊誌を出す決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。しかし、資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いします。

「大田昌秀さんにかみつく」の3


大田さんはどうして見え見えの嘘をつく

 大田さんの経済論はあまりにもひどい経済論であるが、歴史観もひどい。大田さんは「こんな沖縄に誰がした」で「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」などと仰っている。私は沖縄の歴史をあまり知らない。そんな私でも尚巴志が三山を統一したのは知っている。三山を統一したということは武力で制圧したことである。話し合いで三山を統一したなんて話は聞いたことがない。私は歴史を調べるために「ジュニア版 琉球・沖縄史」を買った。大人用の歴史書となると字が小さくなり内容が詳しく字数の量が多い。読むのに大変だ。だから、字が大きく字数の少ないジュニア版を買った。家に帰って、テレビをつけっぱなしの居間でコーヒーを飲みながら歴史を調べてみた。

1187年頃 舜天、中山(沖縄本島中部)王に即位。
1406年 尚思紹父子、武寧を滅ぼして、尚思紹が中山王になる。
1416年 尚巴志、北山を滅ぼす
1429年 尚巴志王、南山を滅ぼして全島を統一する。
1500年 八重山のオヤケ・アカハチの乱を平定。
1571年 尚元王、奄美大島を征服。
1609年 薩摩の島津家久が琉球に侵攻し、尚寧王を連行する。

1453年五代王・尚金福がなくなると後継争いは激しくなった。争いとは口喧嘩ではない。武力による争いであり、戦争である。後継争いの戦火で首里城は焼け、後継争いをした二人も死んだ。護佐丸・阿痲和利の乱もある。金丸が尚円になったときも武力によるクーデターだったと言われている。王位継承争いの解決方法は話し合いではなく武力争いであった。
武寧を滅ぼす、北山を滅ぼす、南山を滅ぼすというのは武力で滅ぼすということだ。つまり琉球王朝は軍隊を持ち、戦争をしていたということであり、太田さんのいう「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」という歴史的な事実はどこにもない。それがまっかな嘘であるということが中学・高校生用の歴史本でわかる。元大学教授であった大田さんが中学程度の歴史を知らないのだ。信じられないことである。
琉球王朝は八重山や奄美大島も武力で制圧して、植民地にしている。「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」というのは間違っている。むしろ暴力で解決したというのが正しい。
琉球人が乱暴であり、中国に嫌われたことを「ジュニア版 琉球・沖縄史」には書いてある。

琉球は明国への朝貢がゆるされると、毎年、中国へ行って貿易をおこなうようになりました、しかし、そうほうの間に何の問題もなく、平穏に朝貢貿易がつづけられていたのではありませんでした。琉球人の中には、不法行為によって厳しく処罰される者もおり、信頼を損なう事件も起こっていました。
 1475年には中国皇帝から尚円王に対し、「琉球使者の中に、殺人、放火によって強盗を働いた者がいる。犯人をつかまえて処罰せよ」と命令がありペナルティーとして「今後、中国への朝貢は2年に1貢とする」ことが言い渡された。琉球王府は、この事件に琉球人がかかわっていないことを報告し、従来通り1年1貢にもどすように嘆願を繰り返したが、1時期は1年1貢にもどったことがあったが、1年1貢は許されなかった。理由は使節にしたがってやってきた琉球人が、違法な取引をしたり、不法滞在で地元住民とのあいだでトラブルをおこしたりしていたからである。
                   「ジュニア版 琉球・沖縄史」より

琉球人が暴力を用いずに話し合いで解決したというのは嘘である。中国で暴力をふるってトラブルを起こしていた事実が歴史にちゃんと残っている。
学者である太田さんがなぜこんなみえみえの嘘をつくのか不思議でならない。

大田さんは沖縄の貧困には目を向けない

 再び「星の流れに」に話を戻す。沖縄の歴史を調べて驚くべき沖縄の貧困の事実を知ったからだ。

18世紀にはいると、台風や干ばつなど異常気象があいつぎ、困窮した農村はそのたびに飢きんと疫病にみまわれ、多くの餓死者をだしていました。
 農村がこのような自然環境の変化に大きく左右されたのは過重な税負担と、地方役人による不当な取り立てが原因でした。その為、予測される災害にすら対応がままならず、まったくの無防備な状態で災害にみまわれるありさまでした。
 こうした社会にはそれを回復させる余力など残っておらず、大量の餓死者をだしていったのです。その上飢きんにみまわれた年でも、農民の租税免除はその場限りで、ほとんどの農村が翌年にはようしゃなく年貢を取り立てられました。
 農村はますます貧しくなり、借金のかたに土地を質入れしたり、身売りしたりする農民があとを絶ちませんでした。
 身売りとは、年貢をおさめるために借り入れた米やお金を返せなくなった農民が、貸主のもとで一定年限、下男下女としてつとめることです。これによって家族が崩壊することを家内倒れといい、これと連動して、上納の責任単位である与(組)がくずれてしまう与倒れの現象も起こりました。身売り農民のひきうけもとは、地元の有力者か間切りや村役人などの特権階層でした。農村はしだいに、ウェーキと呼ばれる富農層と、ヒンスーと呼ばれる貧農層とに二極分解していきました。
                     「ジュニア版琉球・沖縄史」

薩摩藩に支配されていた琉球王府は、

年貢   9000石
芭蕉布  3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ  3800枚
牛皮   200枚

以上の品々を薩摩藩に毎年献納しなければならなかった。その負担は琉球王府が負うのではない。琉球王府は支配者として贅沢三昧の生活をしていた。薩摩藩への莫大な献納を負わされるのは農民である。薩摩に支配された琉球の農民は重税に苦しんだ。
吉屋チルーのように遊郭に売られていく子供は後を絶たなかった。

しかし、驚いたことに、沖縄の貧困は琉球王朝時代で終わらなかった。四民平等になったはずの明治から昭和の戦争直前まで沖縄の農民の貧困は変わらなかったのである。
その歴史的事実が中・高校生用の本に載っている。中・高校生用の本にだよ。「ジュニア版 琉球・沖縄史」から引用する。

 当時の沖縄の人口は約60万人ほどで、その7割が農民でした。しかも、多くは零細農家で、サトウキビを主作物とする農家をいとなんでいました。
 廃藩置県後、沖縄では換金作物としてサトウキビを栽培する農家が増え、サツマイモ畑や水田までもキビ畑にかえていました。砂糖生産中心のこの生活形態は、自然環境や経済変動の影響をうけやすく、ことあれば、すぐさま食糧不足と経済危機にみまわれるという弱さを持っていました。それが最悪の形であらわれたのが、大正末期から昭和初期にかけておこったソテツ地獄でした。
 沖縄の輸出品は、砂糖のほかに、泡盛・パナマ帽子・畳表・鰹節・漆器などがありましたが、その8割を砂糖が占めていたので、国際的な糖価の暴落は県経済に深刻な影響を与えました。国税の滞納額も、1921(大正10)年以後は40%台を推移し、銀行などの金融機関にも大きな打撃を与えました。それにおいうちをかけるように、台風や旱ばつがおそい、農村は文字どおりソテツを食べて、飢えをしのばなければならない状態にまでおいつめられていきました。
 多額の借金をかかえ、生活がどうにも立ちゆかない農家では、最後の手段として身売りが公然とおこなわれました。男性は漁業に従事する糸満へ、女性は遊女として辻の遊郭へ売られました。また、海外移住や本土へ出稼ぎとして沖縄を出ていく人びともふえていきました。
                     「ジュニア版 琉球・沖縄史」

 昭和の名曲「星の流れに」は、戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、敗戦後の荒廃した日本で生き抜くために身を落とした女性の歌であることを説明した。しかし、沖縄では戦争に翻弄される以前から「星の流れに」のような娼婦に身を落とす女性が多かった。戦前の沖縄では、身売りされるのは女性だけでなく男性も多くいた。いわゆる女性の辻売りと男性の糸満売りである。

 子供の頃、母親から聞いた話だが、戦前は男の子供が駄々をこねて泣くと、「糸満に売り飛ばすぞ」と脅したそうである。すると子供は泣くのをぴたりとやめた。糸満の漁師に売られた子供は漁師として徹底的に鍛えられる。泳げない子供でも縄で縛って海に放り込んだそうだ。溺れて死にそうになってもなかなか引き上げない。もし、訓練中に死んだとしても事故として片づけられる。糸満に売られたら殺されても文句が言えないということである。まさに子供にとって死ぬかもしれない過酷な運命に放り投げられるのが糸満売りであった。
 辻売りや糸満売りは琉球王朝時代の話ではない。戦前の話なのだ。私の家の前に三〇〇坪ほどの空き地があり、その空き地を借りて畑をやっていたじいさんがいたが、彼は与那国出身で、糸満売りで沖縄にやってきたと話していた。
 戦前までは辻売りや糸満売りが公然と行われていたが、その原因は沖縄の貧しさであった。大正末期から昭和にかけて沖縄ではソテツ地獄があった。昭和時代になってまで沖縄はソテツ地獄と呼ばれる飢餓があったのである。
明治以後は人身売買は法律で禁じられていたが沖縄では公然と人身売買が行われていたという。

 「星の流れに」の女性の貧困は日本の敗戦が原因であるが、沖縄の場合は敗戦以前に貧困問題があった。
大田さんは、昔の琉球は平和主義であり「命どぅ宝」を合い言葉に他者と有効的共生の生き方をして沖縄は豊かであったような印象を与えているが、とんでもないことである。豊かであったのは少数の士族階級の人間たちであり、多くの農民は貧困生活を強いられていた。
明治以降も同じであった。明治時代になり表面上は四民平等になったが実際は富む士族階級と貧しき農民階級の関係は続いていた。明治政府は人材不足であり沖縄に派遣できる人材は少なく沖縄県の政治は統治能力のある沖縄の士族層に任せた。そのためにほとんどの役人は士族出身者が占め、財産のある士族層が経済界も支配していた。沖縄の内実は琉球王朝時代と大差はなかった。
戦前の沖縄の産業は寄留商人と呼ばれる本土出身者と政府の手厚い保護でえた不動産や資金をもとに、貿易・金融・開墾・鉱業開発・新聞社などを経営した尚家が支配していて、人口の70%以上を占めていた小作農民は貧困生活を強いられていた。沖縄社会の70%を占める農民の生活を無視しては沖縄を語ったことにはならない。ところが大田さんは農民を無視して沖縄を語るのである。
沖縄の長い歴史の中で農民や庶民が人間らしい人権や自由を得たのは戦後である。戦前は士族階層と本土の寄留商人が政治と経済を牛耳っていて、農民は差別され、貧困にあえいでいた。土地のない農民は小作人となり低賃金で本土資本の製糖工場のさとうきび畑で働かされていた。戦後になり、米民政府によって寄留商人は沖縄から排除された。士族階層の特権は剥奪され、土地は小作人に分け与えられた。そして、商売が誰でも自由にやれるようになった。平和通り商店街の発展が戦後の沖縄を象徴している。戦後の沖縄ではアメリカ通りと呼ばれていた商店街が至るところにあり一坪くらいの小さな店がいっぱい並んで活況を呈していた。少ない資金でも商売ができるのが平和通りやアメリカ通りであった。店を営んでいたのはウチナー女性たちであった。女性が自由に商売できるようになったのも戦後である。
米民政府は琉球銀行を設立して商売や起業を一般の人でもやりやすくした。外国資本の参入も自由にしたので外国の資本が沖縄に流入した。それをやったのは沖縄の政治家ではなく米民政府であった。戦後の沖縄経済が活発になっていったのは米民政府がアメリカ流の市場開放政策を行ったからである。
アメリカは沖縄を統治し続けたが、アメリカは中国などの社会主義国家の拡大を抑止する軍事目的で沖縄を統治したのであり、沖縄を搾取するためではなかった。そもそも世界一の経済大国であるアメリカが貧乏な沖縄を搾取するはずがない。米民政府はアメリカ流政治を沖縄に適用して沖縄社会内の差別を徹底してなくし市民が自由に活動できるようにした。米民政府は薩摩藩のように沖縄を搾取することもなく、琉球王府のように農民を搾取することもなく、多くの沖縄人を軍作業員して雇用し、アメリカ兵やその家族は沖縄の店で買い物をして多額の金を沖縄に落とした。米民政府は市場を自由にし、沖縄の産業を育成して沖縄経済を活性化させていった。
戦前の沖縄社会と戦後の沖縄社会を比較すれば戦後の沖縄社会は自由であり経済は何倍も発展していて庶民の生活も向上していることが分かる。

大田さんは琉球王朝時代、戦前、戦後の市民レベルでの人権、自由、経済、生活を言及していない。大田さんは支配者同士の駆け引きを問題にしていて、沖縄が身分制度のある封建社会であるのかそれとも民主主義社会であるかを問題にしていない。
江戸幕府時代に日米修好通商条約をアメリカと結んだように外交問題は日本国内が封建社会であるか民主主義社会であるかは関係がない。大田さんの追及している米軍と沖縄、日本政府と沖縄の問題は日米修好通商条約と似た外交問題であり、沖縄社会の人々の自由、平等、生活には関係がない。大田さんは沖縄が他国から干渉されない独立国であるなら沖縄の民は幸せになれるという考えであるようだが、それはとんでもない錯覚である。沖縄が独立していた琉球王朝時代は士族階級の支配する不平等社会であった。農民は不自由で貧しい生活を強いられた。戦後、アメリカが沖縄を統治することによって琉球王朝時代から延々と続いていた士族階級の支配から解放されたのである。本当の四民平等は戦後の米民政府によって実現したといえる。もし、アメリカが統治しなかったら戦前の不平等社会が戦後も続いていただろう。
安保条約や基地問題が沖縄問題の中核ではない。沖縄の人たちの生活のありようが沖縄問題の中核である。大田さんの「こんな沖縄に誰がした」は沖縄の貧困、労働、失業、福祉、人権、学力など沖縄の深刻な問題をなおざりにし、中核から外れた問題だけに終始している。「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」がそれを象徴している。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 日本は首相公... 「大田昌秀さ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。