「1971Mの死」の添削をお願いします

「かみつく」という季刊誌を出版する決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いすることにしました。短編小説「1971Mの死」の漢字の間違いや表現がおかしいと思う箇所の指摘をお願いします。
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1971Mの死 3


Mが「家族闘争」に悩んでいることは分かったが、私はMに同情はしなかったし、家族闘争を「頑張れ」と励ます気にもならなかった。私とMは同い年であり、二人は五年次になっていた。学生としては古参である。古参であるMが「家族闘争」に悩んでいるのはむしろ滑稽に思えた。Mは真面目であり、真剣に「家族闘争」をやろうとして悩んでいるかも知れないが、「家族闘争」はすでにそれぞれの学生がそれぞれのやり方で「処理」しているはずのものであった。Mは学科委員長をやった経験もあるのだから、「家族闘争」はすでに「処理」し、解決しているのが当然であった。
「マタヨシはこれからも家族闘争をやらない積もりなのか」
とMは訊いた。
「親にどんな風に話せばいいのだ」
学生運動のことを親に理解させるのは不可能であると言う意味で私は言った積もりだったが、Mは勘違いして、
「そうなんだよな。どのように話せばいいのか、それが非常に難しいんだよな」
と言い、
「親にどのように説明すればいいか。分からなくて困っている」
と嘆いた。
親に理解させる可能性がゼロではないと信じているMに私は苦笑した。
「家族闘争」の可能性を信じているMは、真面目で純真であると言えば聞こえはいいが、親たちが沖縄の古い因習に縛られていることを認識する能力がMは欠けているのだ。私は、「家族闘争なんかできるはずがない。止めろ」とMに言いたかったが、「家族闘争」に真剣に悩んでいるMが私の忠告を素直に聞き入れるはずはない。それに私は学生運動から離れた身である。いまさら「家族闘争」という重たい問題に首を突っ込む気持ちがなかったから、私は忠告するのを止めて黙っていた。
Mは体躯がよく姿勢もよかった。座っているときも背筋をまっすぐに伸ばしていた。演劇クラブ室で車座になって酒を飲んで酔ったときも、Mは背筋をピンと伸ばしていたので、「Mはまるで軍人みたいだ」と揶揄したことがあった。Mは三年前と同じように背筋を伸ばして、真正面の闇を見つめ、身じろぎもしないで座っていた。暫くしてMは、
「マタヨシは兄さんが居るか」
と訊いた。興味のない質問だったが、
「いや、居ない」
と答えた。Mは暫く黙ってから、
「マタヨシは長男か」
と訊いた。
「ああ」
と私が答えると、Mは、
「そうか。長男か」
と言い、
「僕も長男だ」
と言った。そして、
「学生運動をしていることを父に話すと、父は確実に怒るだろう。頑固な父だから、長男である僕でも勘当するかもしれない」
と言って、ため息をついた。
「勘当されるのか」
私は訊き返した。
「されるだろうな」
と言ったMの声は沈んでいた。
 私は親に勘当されたかった。しかし、長男である私を親が勘当することはあり得ないことだった。
家に束縛されないで自由に生きたい私は、「弟は俺よりしっかりしているから、弟が家を継いだほうがいい。弟が家を継ぐなら俺は家の財産は一銭ももらわなくていい」と母親に話したことがあった。母親は私の話にすごくショックを受け、嘆き悲しんだ。母親を嘆き悲しませてまで自由になる勇気のない私は主張を引っ込めざるをえなかった。
大学を休学して、一年くらい東京に住んでみたいと私が言った時も、母親は私が東京に行ったら一生帰ってこないという被害妄想に陥り、姉に私の東京行きを引き止めるように頼んだ。九歳年上の姉に、長男としての義務と責任についてこんこんと説教された私は東京行きを断念した。
長男が仏壇と家を継ぎ、親の面倒を看るのは絶対に守らなければならないと信じている親であったから、私が学生運動をやっていると親に告白しても親が私を勘当することは絶対にあり得ないことだった。私を勘当するのではなく、私が就職できるだろうかと心配し、御先祖様に申しわけないとか、世間に白い目で見られる弟や妹の将来が心配であるとか、村の人や親戚に恥ずかしくて顔を合わすことができないなどと嘆き悲しみ、私に学生運動を止めてくれと必死に頼んだだろう。母は精神的にまいって病気になったかもしれない。だから、私は親に学生運動をやっていると告白することはできなかった。もし、私の親が気丈な人間で、Mの親のように長男であろうと勘当するのなら、私は学生運動をやっていることを喜んで親に告白していただろう。
私にとって勘当されるということは歓迎することであったから、
「勘当されればいいじゃないか。親に頼らなくても俺たちは生きていける」
とMに言った。するとMは困惑し、
「いや、それはまずい」
と言った。
「なにがまずいんだ。勘当されれば、親の束縛から解放されて、自由に生きることができていいじゃないのか」
と私が言うと、
「いや、僕は長男だし、妹が居るし・・・」
とMは言葉を濁した。
「そんなのは関係ないよ」
と、私が言うと、
「いや、僕は長男だから将来は家を継いで親の面倒を看なければならない。それに、兄として妹のことも考えてあげないとな」
Mは長男しての義務を認める言い方をした。
「家か。親の面倒か」
私は、Mに失望しながら呟いた。
私が長男の呪縛から解放されたくても解放されないジレンマに悩んでいるのに、Mは長男の呪縛を自分から受け入れていた。私は学生運動をしている学生は沖縄の古い因習を批判し、家督相続思想を否定していると思っていた。しかし、現実は違っていた。私と同じ世代であり、私と同じ長男であり、私と同じ思想の学生運動をしているMが、長男の家督相続思想を受け入れていた。隣に座っているMが沖縄の古い因習を受け入れているのを知り、私は滅入っていった。
「親を説得する方法はないのかな」
とMが言った時に、私はカーっと頭にきて、
「ない」
と、激しい口調で言った。Mは私の突き放した言葉にショックを受けたようだった。Mは黙った。私も黙った。二人の間に沈黙が続いた。頭上のガジュマルの枝葉に風が吹いている音が聞こえ、Mの重いため息が左の耳に聞こえた。
 
演劇上演ができるかどうかの不安、卒業ができるかどうかの不安、親と絶縁して自由に生きる勇気のないジレンマ、社会に出たらどのように生きていけばいいのかなどなど、私も深刻な悩みを抱えている若者の一人であった。Mが学生運動と家族愛の板ばさみに深刻に悩んでいるのを理解はしても、私は私の悩みでいっぱいいっぱいであり、自分の悩みを横に置いて、Mの悩みの相談相手になることは私には無理だった。 

Mは、私と話す言葉を探しているようだった。しかし、見つけることができないまま、沈黙の時間が二人の間に流れていった。キャンパスに、急に突風が吹いて、木々が騒ぎ出し、頭上のガジュマルの枝葉は激しく揺れた。暫くして風が止み、キャンパスが静かになった時、
「マタヨシさん」
と、私の名を呼ぶ声がした。その声は、照屋さんが帰ってきたら、私のことを照屋さんに伝えてくれるように頼んだ学生の声だった。
「こっちだ」
私は返事をした。
「照屋さんが帰ってきた。自治会室に来てほしいって」
と、学生は言った。
「そうか、分かった」
私は立ち上がり、自治会室に向かった。Mも私の後ろからついてきた。
 照屋さんは数人の学生運動家と深刻な顔で話し合っていたが、私が自治会室に入ると、私を振り向いた。
「俺の革靴は見つかったのか」
「ごめん。見つからなかったわ」
革靴が見つからなかったと聞いて私はがっかりした。照屋さんは足元に置いてあった古い運動靴を取り、
「この靴を履いて」
と言った。
「誰の靴なのか」
と私が訊くと、
「知らない。自治会室にあったわ」
と言った。照屋さんの持っている運動靴は萎びていて臭そうだった。他人の汚れた靴を履くのは気持ち悪いし、足がむず痒くなりそうだ。私は裸足で帰ることにした。
「いいよ」
と私が言うと、照屋さんは、
「裸足はいけないわ」
と言い、自治会室の奥の方からゴム草履を探してきて、
「これを履いて」
とゴム草履を私に渡した。私はゴム草履を履き、自治会室を出た。
「マタヨシ」
背後からMの声が聞こえた。振り返ると、Mが近づいてきた。
「寮に帰るのか」
Mは訊いた。私は男子寮に住んでいなかった。なぜ、Mが「寮に帰るのか」と言ったのか理解できなかった。
「俺は寮には住んでいないよ」
と私は言った。
「住んでいないのか」
「ああ」
「そうなのか」
Mはがっかりした様子だった。
「寮に行って話をしないか」
Mは私を誘った。
間借り部屋に帰り、ラーメンを食べる以外に予定はなかったが、Mと話すということは、Mが抱えている「家族闘争」について話すということである。私はMと「家族闘争」のことを話し合う気にならなかったから、
「いや。用事があるから」
と嘘をついて断った。
「そうか」
Mは残念そうであった。話を続けたそうにしているMに、
「じゃな」
と言って、私はMから離れた。
構内の中央通りを横切り、図書館の左端にある小さな下り階段に向かって歩きながら振り向くと、自治会室から漏れている蛍光灯の白い光をバックにして、Mは名残り惜しそうに立っていた。


 赤平町の間借りに帰った私はラーメンを食べ、仮眠をした後にシャワーを浴びようと男子寮に行った。私は風呂代を節約するために男子寮のシャワー室を利用していた。私が男子寮に住んでいるとMが勘違いしたのはシャワー室を利用している私を時々見かけたからかもしれない。
ハイビスカスの垣根を曲がって男子寮に入ろうとした私の足が止まった。玄関に居る数人の学生の様子が変であったからだ。寮内ではみんな軽装であるのに彼らの服装はデモをする時のような厚着であったし、あたりを見回しながら落ち着きがなく歩き回っていた。彼らは確実に寮生ではなかった。異様さに気づいた私は玄関を離れ、男子寮の裏に回った。裏から入ると見知っている学生がいたので彼から話を聞いた。彼は男子寮が襲撃されたといい、自治会の学生たちは大学構内に逃げたと話した。私は大学の自治会室に急いで行った。
自治会室に集まっている学生たちはみんな恐怖で緊張していた。彼らの様子を見れば襲撃の激しさが想像できた。知り合いの学生が私を見ると、Mが重傷を負って病院に運ばれたと言った。M以外に早稲田大学から来た学生が負傷して病院に運ばれたらしい。Mが重傷であると聞いた私はMの様子を知りたかったのでそのまま大学構内に残った。

Mが死んだ。
夜明け前に病院から帰ってきた照屋さんがそう報告した。
私はMの死を全然予想していなかった。いつまで入院するのかを照屋さんが報告するのだろうと私は予想していた。しかし、私が全然想像できなかったMの死を照屋さんは話した。私は頭が真っ白になった
「家族闘争」さえできない純朴なMが死ななければならない理由はどこにもないという妙な思いが私にはあり、Mの死が信じられなかった。しかし、Mは死んだ。すすり泣きがあちらこちらから聞こえてきた。
 
沖縄の激しい政治の季節に、R大学の学生であったがゆえに学生運動に走ったM。沖縄に生まれたがゆえに沖縄の古い因習を受け入れていたM。家族を愛していたがゆえに学生運動に参加していることを打ち明けることができないで深刻に悩んでいた純朴な若者M。
Mは、革命へ突き進もうとする学生運動に参加しながらも、古い沖縄の因習を受け入れている若者の一人であった。革命思想と古い因習を同時に内包していたM。そんな矛盾を抱えている一人の若者が革命とは関係のない争いで命を失った。
Mの死のなにもかもが沖縄が内包している矛盾そのものであるように私には思われた。
Mの死に、私は、怒りや悲しみではなく、体中がいいようのない虚無感に包まれ、「なぜ・・・なぜ・・・」と、答えを出すことができない自問を繰り返していた。

あの日から、もう、四十年が過ぎた。

トタン屋根の古い木造の演劇クラブ室で、
「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」
と、くそ真面目な顔で、口から唾を飛ばして叫んでいたMの顔を思い浮かべると、今でも、苦笑してしまう。

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