沖縄政治家が妄想を吹聴するのは昔も今も同じ



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短編小説「1971Mの死」より

ベトナム戦争で莫大な国家予算を使って経済危機に陥ったアメリカは
沖縄のアメリカ軍基地を維持するのが困難になり、
経済力のある日本の援助が必要となっていた。
そこで、日米両政府は沖縄を日本に返還することによって、
沖縄の米軍事基地の維持費を日本政府が肩代わりする方法を考えだした。
沖縄が日本の一部となれば
米軍基地を強化・維持するための費用を国家予算として日本政府は合法的に決めることができる。
米軍基地の維持費を日本政府が肩代わりするための沖縄施政権返還計画は着々と進み、
1971年6月17日の今日、宇宙中継によって東京では外相愛知揆一が、
ワシントンではロジャーズ米国務長官が沖縄返還協定にそれぞれサインした。
これで「沖縄返還協定」が1972年5月15日午前0時をもって発効し、
沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになった。
日米政府による沖縄施政権返還協定に反発したのが「
祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」と
日米政府が全然考えていない非現実的な祖国復帰を自分勝手に妄想し続けていた沖縄の祖国復帰運動家たちであった。
妄想は妄想であり現実ではない。
妄想が実現することはありえないことである。
沖縄を施政権返還すれば沖縄の米軍基地の維持費を日本政府は堂々と国家予算に組み入れることができる。泥沼化したベトナム戦争のために莫大な戦費を使い果たし
財政的に苦しくなっていたアメリカを日本政府が合法的に経済援助するのが
沖縄の施政権返還の目的であった。
それが祖国復帰の内実であった。
ところが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」
という妄想を吹聴し続けた祖国復帰運動家たちは、
祖国復帰が実現するのは祖国復帰運動が日米政府を動かしたから実現したのだと自賛しながらも、
施政権返還の内容が自分たちの要求とは違うといって反発をした。
妄想の中から一歩も飛び出すことができない祖国復帰運動家たちは
祖国・日本に裏切られたなどと文句をいい、
日米政府が100%受け入れることがない非現実的な「無条件返還」の要求運動を展開した。
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短編小説「1971Mの死」からの引用文である。「
祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」は
日本政府も米政府も約束していなかったし、
その内容ついて祖国復帰運動家たちが日米政府と同じテーブルで交渉したこともなかった。
祖国復帰運動家たちが自分勝手に祖国復帰をそのように決めて
沖縄の人々に宣伝しただけである。
実現不可能な妄想を主張したのに、主張通りの返還ではなかったので復帰運動家たちは日本政府に裏切られたなどといって日本政府を非難した。

なぜ、復帰運動家たちは
「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」と
沖縄の人々がよろこんで飛びつくようことを吹聴したのか。
彼らの目的は別にあった。
祖国復帰すればバラ色の生活になると吹聴して多数の沖縄の人々の支持を得ることによって、
日米政府に圧力をかけ、祖国復帰を早く実現させるのが彼らの目的だった。
祖国復帰すれば沖縄に米軍が駐留を続けようと、
核爆弾を保有しようとそれとは関係なく、
確実に莫大な利益を得る階層が存在していた。
それが沖縄の公務員や教員である。
戦後の日本は戦前と同じように公務員や教員を優遇していたが、
沖縄はアメリカ流政治のために、公務員や教員の給料は沖縄の経済力に比例して低かった。
本土の半分くらいだったらしい。
そのことを沖縄の教員や公務員は知っていて、
祖国復帰すれば自分たちの給料が二倍になることを知っていた。
給料アップを目的にしたからこそ公務員・教員の祖国復帰への情熱は高かったのだ。
しかし、公務員もマスコミもそのことを表にすることはなかった。
だから、実現不可能な妄想「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」と
吹聴して沖縄の人々を祖国復帰へ巻き込んだのだ。
祖国復帰運動は反米主義の人民党(共産党)、社会党、社大党などの政治団体と
飛躍的な待遇改善を狙った公務員・教員のコンビによって盛りあがっていった。

祖国復帰して公務員・教員は目的が達し中流生活が保障された。
後は革新政党中心の反米主義を続けることであった。
祖国復帰運動の時に染みついた実現不可能な妄想を平気で言い、
沖縄の人々に妄想を抱かせるのが共産党、社民党、社大党、公務員組織、教員組織である。

「普天間飛行場の県外移設」がそうである。

私は「沖縄に内なる民主主義はあるか」の「普天間飛行場は辺野古移設しかない」で
県外移設が不可能であることを説明した。
本土で普天間飛行場の移設を受け入れるところはどこにもない。
「県外移設」は「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」と同じで
妄想なのだ。
妄想を吹聴して
沖縄の人々に夢を抱かせているのが革新政党と教員組織、公務員組織である。
それにアホな沖縄自民党も乗っかっているから、
沖縄の政治はメチャクチャである。

県外移設を主張している国会議員、知事、地方の首長、革新政治家、運動家の誰ひとりとして、
「政府が県外説場所を探さないなら自分たちで探す」と発言した者はいない。
たった一人もいないのだ。
もし、「県外移設」を本気で望んでいるのなら「自分たちで探す」と発言する者が現れて当然である。
しかし、今までにたった一人もいない。
国会議員から革新政治家、自民・民主の政治家まで多くの政治家が「県外移設」を主張しているのだから、彼らがその気になれば政府に頼らなくても自分たちで探す能力は十二分にある。
しかし、誰一人として「自分たちで探す」と言わないのだ。
非常におかしいことである。
ありえないことである。

「県外移設」の移設場所は国内であるから探し回ることは簡単である。
それなにのに、なぜ「県外移設」を主張している政治家が「自分たちで探す」と発言しないのか。
理由はひとつしかない。
「県外移設」が不可能であることを彼らは知っているからだ。
もし、「自分たちで探す」と発言してしまったら、
「県外移設」する場所を自分たちで探さなければならない。
その結果、移設場所がないことを自噴たちが証明してしまうことになる。
だから彼らは口が裂けても「自分たちで探す」とは言わないのだ。いわないで、
「県外移設」を高らかに主張して、政府を非難するのだ。
これが沖縄政治家の常とう手段である。
何もしない。
何もできない。
口だけの政治家が沖縄の政治家だ。





翁長那覇市長は
「41市町村がこのように一緒になって活動するのは全国でも初ではないか。多くの県民に自らのこととして参加してほしい」と自画自賛している。
保守のプライドを左系に投げ売った翁長市長は
近いうちに行われる総選挙で自民党が政権をとった時に
どうするのだろう。
見ものである。

大型バス15台を市民の税金を使って借り、
勤務時間中に公務員を旗づくりに使っている。
市民の税金を政治運動である県民大会に使うのは税金の私物化だ。
なんと県民大会の費用が2700万円と言う。
ほとんどは税金のようだ。

地方の最高権力者である首長が結束するのであれば
地方公務員の全員が強制的に参加させられるであろう。
9・9県民大会は地方権力者による公務員強制総動員+一部の県民集合大会である。
県民大会と呼べるようなものではない。



掲示板の方が対話がやりやすいと思って。
掲示板をつくりました。
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「1971Mの死」の添削をお願いします

「かみつく」という季刊誌を出版する決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いすることにしました。短編小説「1971Mの死」の漢字の間違いや表現がおかしいと思う箇所の指摘をお願いします。
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1971Mの死 1


学生運動やら演劇クラブでの酒と論争の日々を過ごしたせいで、私は多くの単位を落としていた。R大学の国文学科に入学して五年が経過していたが今年も卒業の見込みがなかった。
一九七一年六月一七日、五年次の私は三年次の学生と一緒に中世文学の講義を受けていた。古典に全然興味のない私だったが卒業するためには必修科目の中世文学を受けないわけにはいかなかった。窓際に座り、教授の講義を念仏のように聞きながら、青空と白い雲の下の慶良間諸島や遥か遠くに見える読谷飛行場の像のオリをぼんやりと眺めているうちに講義の終了のベルは鳴った。五年次の私には講義が終わってから話し合う相手はいなかったので、講義が終わるとすぐに講義室を出た。生協の食堂でカレーライスを食べ、それから崖道を下って、トタン屋根の我が演劇クラブ室にでも行こうかと思いながら廊下を歩いていると、背後から、
「先輩」
聞き覚えのある声がした。振り向くと一年後輩の礼子だった。
「先輩、明日、与儀公園で県民大会があるけど、参加できないですか」 
礼子は私を県民大会に誘った。学生運動と距離を置くようになっていた私は県民大会に参加したくなかった。
「県民大会かあ。ううん、どうしよう」
私が県民大会に行くのを渋っていると、
「なにか用事があるのですか」
と、礼子は訊いた。
国文学科委員長をしていた頃は私が礼子を政治集会に熱心に誘ったし、一緒に学生集会や県民大会などに参加した。礼子は運動音痴で弱虫であったが、デモの時に機動隊にジュラルミンの盾でこずかれて怪我をしたり、一部の学生が火炎瓶を投げつけたために機動隊に襲われる怖い体験をしても学生運動に参加し続けていた。礼子とは違い、学科委員長を辞めてからの私は次第に学生運動に距離を置くようになり学生集会や県民大会などに参加しなくなっていた。
「明日は家庭教師の仕事があるんだ」
「無理ですか」
「無理かもしれない」
「できたら参加して欲しいです」
いつになく礼子はしつこく私を県民大会に誘った。今までも数回政治集会に誘われたが私はヤボ用があるといって断った。その時は、「じや、次は参加してください」といって礼子は私を誘うのをあきらめた。しかし、今日の礼子はすぐにはあきらめなかった。家庭教師をする家はどこですかと聞いたり、家庭教師の曜日を変更できませんかと聞いたりした。礼子は来年卒業する。就職活動もあるし政治集会に参加するのをそろそろ終えようと思っているのだろう。だから、私を県民大会に誘っているのかもしれない。礼子と話しているうちに、私は礼子の誘いを断るわけにはいかないと思った。
家庭教師をやる家は那覇市の立法院の近くにあった。立法院前から市内線のバスに乗れば開南を通って与儀公園まで直行で行ける。家庭教師を早く終わらせれば県民大会に間に合わせることができるだろう。
「家庭教師を早く切り上げれば県民大会に間に合うかもしれない」
礼子はほっとしたように微笑んだ。
「そうですか。よかった。それでは、明日の県民大会で」
と言って、礼子は去って行った。

一九七一年六月一八日、私は家庭教師の仕事を早めに終わって、スーツに革靴のまま与儀公園に行った。その日の県民大会は、宇宙中継によって東京とワシントンで結ばれた「沖縄返還協定」に抗議する県民大会であった。日米政府による「沖縄返還協定」締結によって、来年の一九七二年五月一五日午前0時に沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになる。 
バスを降り、与儀公園に入った私は、公園に並んでいる団体の中にR大学自治会の学生集団を探したが、見つけることができなかった。変に思いながら公園内を見渡すと、大会場の後ろの方に白いヘルメットの集団が見えた。近づいていくと、R大学の自治会長がハンドスピーカーを握り、県民大会の議事進行を無視して、公園の芝生に座っている学生たちに向かってがなり立てているのが見えた。私は学生集団の中に礼子たちを探した。手を上げている女性が目に入った。見ると礼子だった。私は後輩の学科委員長に「よっ」と挨拶をしてから礼子のいる集団に混じった。
礼子たちは四年次であり来年は卒業するので、私たちの雑談は卒業の話になった。
「卒業したらなんの仕事をするんだ」
「中学校の先生よ」
「え、弱虫のお前が中学校の先生になるのか。いじめられて泣かされるぞう」
と、私がからかうと、
「仕方ないでしょ。他にいい仕事がないもの。先輩は今度卒業できるの」
と、礼子は反撃してきた。痛いところを突かれて、私が返答に困っていると、
「ほら、先輩は卒業できないのでしょう。他人のことをとやかく言わないで自分のことを心配したほうがいいわ」
「他人のことをとやかく言って悪かったな」などと雑談していると、学生運動のリーダーたちから立ち上がるように指示された。
「県民大会はまだ終わっていないよ。どうするのだろう」
「さあ、知らないわ」
R大学の学生集団は立ち上がり、ジグザグデモを始めた。そして、革新政党や労働組合の代表が居並んでいる会場の前に出ると、演壇をぐるぐる回り始めた。デモ隊の中から数人のヘルメットを被った学生が出てきて、演壇に駆け上がり、演説している労組の代表者と進行係を排除して演壇を占拠した。学生たちは演壇の中央で日の丸と星条旗を交錯させるとふたつの旗に火をつけた。灯油を染み込ませた日の丸と星条旗は勢いよく燃え、演壇の回りをジグザグデモしている学生たちの意気は上がり、シュプレヒコールは大きくなった。
私は、日の丸と星条旗が燃え終わると、デモ隊は意気揚々と元の場所に戻るだろうと予想しながら演壇の周囲をデモっていた。すると、労働者の集団がデモ隊に近づいてきた。私はその集団はデモ隊への抗議の集団であり、デモを指揮しているリーダーたちと押し問答が起こるだろうと思っていたが、労働者の集団がデモ隊に接近すると、デモ隊の一角が悲鳴を上げて一斉に逃げ始めた。労働者の集団は抗議をするためではなく、学生のデモ隊を実力で排除するためにやってきたのだった。県民大会の演壇を占拠し、日の丸と星条旗を燃やしたのは横暴な行為であり許されるものではない。しかし、だからといって労働者集団が学生のデモ隊を問答無用に襲撃するのは私には信じられないことだった。唖然とした私は、逃げ惑う学生たちの流れに押されて走った。走っている途中で、前日の雨でぬかるんでいる泥土に足を取られ、片方の革靴が抜けてしまった。私は革靴を取ろうとして立ち止まろうとしたが、逃げ惑う群の圧力は強く、私は群れに押し流されて与儀公園の外に出た。
片方の革靴を失った私は困った。スーツと革靴は上流家庭の家庭教師をしている学生には必需品であり、貧乏学生の私は高価である革靴をそのまま捨てるわけにはいかなかった。はぐれてしまった礼子たちのことが気になったが、それよりも革靴の方が私には切実な問題だった。会場が落ち着いてから与儀公園に戻ろうと、私はバス停留所に向かう学生たちの群れから離れて道路の端に立ち、与儀公園の様子を見ていた。すると、照屋さんが近寄って来て、
「どうしたの」
と私に訊いた。照屋さんは情報収集を専門に活動している学生運動家だった。

私が学科委員長をやっていた時、照屋さんと私は那覇警察署の様子を探るために那覇署の近くのバス停留所で張り込みをしたことがあった。私と照屋さんは那覇署が見えるバス停留所のベンチに座っていたが、なんの飾り気もない服を着ている男女がバス停留所に長時間座っているのを逆に警官に怪しまれて私と照屋さんは那覇警察署に連れて行かれた。私と照屋さんの服装や表情を見て、私たちが学生運動家であることが警官にはすぐに分かっただろう。私は数人の警官に囲まれて素性を聞かれたが私は無言を貫いた。私の態度を生意気だと思った背の低い警官が私の腹を突いた。ぐっと私が腹を固めて我慢したので、お、こいつ腹を固めたぞ、結構腹が固いなと言いながら一発目より強く突いた。私はカーっと頭にきた。もし、あと一、二発腹を突かれたら私は警官に殴りかかる積もりになっていた。私の気持ちは顔にも表れたので、警官は真顔になり、なんだお前は、やる積もりかと私を睨んだ。私は睨み返した。その時、隣の警官が、「やめとけ、比嘉。大人げないぞ」と比嘉という警官を制した。我に返った比嘉という警官は苦笑いしながら去って行った。黙秘を通したので留置場に入れられるのを私は覚悟したが、暫くして私と照屋さんは解放された。

私は照屋さんに革靴を演壇の近くのぬかるみに取られたことを話した。すると照屋さんは、暫くの間会場の様子を見てから与儀公園に戻る予定だと言い、
「私が革靴を探してあげるから、あなたは自治会室で待っていて」
と言った。学生運動から離れている私は自治会室には行きたくなかったので、自分で革靴を探すと言った。すると、照屋さんは顔を曇らせて、「男は危険だから」と言った。
「主催者側となにかトラブっているのか」
と、私が訊くと、照屋さんは頷いた。照屋さんの話では、県民大会の主催者側とR大学自治会は険悪な関係になっていて、R大学の県民大会への参加は認められていなかったという。

日本は沖縄の祖国であり、母なる祖国に復帰するのが沖縄の悲願であると主張している祖国復帰運動にとって、日の丸は祖国日本の象徴であり崇高な存在であった。ところが、その頃のR大学の学生集団は、崇高なる日の丸を、こともあろうに祖国復帰運動家たちが目の敵にして最も嫌っているアメリカの象徴である星条旗と交錯させて一緒に燃やす行為を繰り返していた。星条旗と一緒に日の丸を焼却するR大の学生集団の行為は、日の丸を祖国復帰運動の象徴にしている運動家たちを嘲笑し侮辱しているようなものであった。だから、与儀公園の県民大会の主催者はR大学を嫌悪し、参加を許可しなかったし、演壇で日の丸と星条旗を燃やしたR大学の学生集団を実力で排除したのだろう。
R大学のデモ隊が労働者集団に襲われた事情は知ったが、だからといって私が労働者集団に襲われるのは考えられないことであった。私は自分で革靴を探すと言った。しかし、照屋さんは、私の顔は彼らに覚えられているかも知れないから危険だと言い張った。私は学生運動でそんなに派手なことをやっていなかったし一年近く学生運動から離れている。労働者集団に私の顔を覚えられていることはないと思ったが、照屋さんは私の身を心配してくれて私が与儀公園に戻ることに反対しているし、照屋さんと押し問答を続けると照屋さんの活動を邪魔してしまう。私は仕方なく照屋さんに革靴のことを頼み、R大学の自治会室に向かった。
首里にあるR大学に到着した私は自治会室に居たくなかったので、照屋さんが来たらキャンパスに居ると伝えてくれるように顔見知りの学生に頼んで自治会室を出た。むさくるしい自治会室を出ると、満点の空には星が煌めいていた。
木々が林立しているキャンパスは闇に覆われ、所々に立っている外灯の周囲は白っぽい空間を作っていた。自治会室の開けっ放しの出入り口や窓から漏れている蛍光灯の光を背にして、私は芝生を踏みながら歩き、腰を下ろすのにほどよい場所を探した。薄闇の中を進むとガジュマルの木が植わっている場所があり、私はガジュマルの木の根に腰を下ろした。
那覇市で一番空に近いR大学のキャンパスには初夏の涼しい風が吹き、頭上のガジュマルの枝葉をざわつかせていた。
・・・・・県民大会に行かなければよかった。県民大会に行かなければ、今頃は間借り部屋でのんびりとラーメンを食べていた・・・・・私はガジュマルの幹に背を持たせながら、県民大会に行ったことを後悔していた。
 礼子たちのことが気になった。国文学科は女性が多い。このような襲撃で被害を被るのは女性たちだ。私が学科委員長になった頃からR大学の学生運動は急に過激な行動が増えていき機動隊に襲われることが多くなった。礼子と一緒のデモで最初に機動隊に襲撃されたのは開南交番所の焼き討ち事件だった。
国際通りから与儀公園に向かう途中の開南交番所に来た時、リーダーたちの指示でデモ隊は交番所の周りをぐるぐる回り始めた。デモの予定コースや行動については学科委員長である私に前もって知らされるが、交番所の周りをぐるぐる回るのを私は知らされていなかった。顔見知りのリーダー格のNがデモ隊の中から出てきて交番所の前に立つと、隠し持っていた火炎瓶を交番所の窓に投げつけた。一発目は燃えなかった。二発目を投げると交番所の中から炎が燃え上がった。デモ隊は威勢が上がったが、私の周囲にいる女性たちは恐怖で顔をひきつらせていた。暫くすると後ろのほうで悲鳴が聞こえた。機動隊が襲ってきたのだ。パニック状態になっている礼子たちはどうしていいか分からないで戸惑っていた。「逃げろ」私は礼子たちに逃げるように指示した。見る見るうちに機動隊は近づいてきた。交番所を焼かれた機動隊の勢いはいつもより激しかった。
「早く逃げるんだ」
私は激しく迫ってくる機動隊を見ながら叫んだ。礼子たちは平和通りのほうに逃げた。私はゆっくり走りながら礼子たちが去っていくのを見守っていたが、機動隊のひとりが私を狙って追ってきた。私は礼子たちとは逆方向の与儀公園の方に向かって逃げた。機動隊はしつこく私を追いかけてきたので私は路地に逃げたが、路地は崖になっていて行き止まりになっていた。私は数メートルの崖下に飛んだ。着地したところは家の庭だった。機動隊からは逃げ切れたが、飛び降りた時に私は足に怪我をした。
 あの時の礼子は逃げる時に転んで手足に軽い怪我をしていた。今日は日の丸と星条旗を県民大会で焼却したために労働者集団に襲撃されたが、革靴をぬかるみに取られた私は立ち止まったりしたので礼子たちより逃げるのが遅れた。後ろから走った私は礼子や他の国文学科の学生を見なかったから今日は転ばないで無事に逃げただろう。

ソ連、中国、モンゴル、北朝鮮、北ベトナムなどアジア大陸のほとんどの国が日本やアメリカと対立する社会主義国家であり、アジアの社会主義圏は拡大しつつあった。ベトナム戦争は敗北の色が濃くなり、南ベトナムが北ベトナムに併合されて社会主義国家になるのは時間の問題だった。米軍が駐留していなければ北朝鮮に侵略される可能性が高い韓国、中国侵略に脅かされ続けている台湾、フィリピンの共産ゲリラの不気味な存在。カンボジアなどの東南アジアの毛沢東主義派の武力攻勢など、アジアは共産主義勢力がますます拡大し、日米政府にとってますます沖縄の軍事基地は重要な存在になっていた。
ベトナム戦争で莫大な国家予算を使って経済危機に陥ったアメリカは沖縄のアメリカ軍基地を維持するのが困難になり、経済力のある日本の援助が必要となっていた。そこで、日米両政府は沖縄を日本に返還することによって、沖縄の米軍事基地の維持費を日本政府が肩代わりする方法を考えだした。
沖縄が日本の一部となれば米軍基地を強化・維持するための費用を国家予算として日本政府は合法的に決めることができる。米軍基地の維持費を日本政府が肩代わりするための沖縄施政権返還計画は着々と進み、1971年6月17日の今日、宇宙中継によって東京では外相愛知揆一が、ワシントンではロジャーズ米国務長官が沖縄返還協定にそれぞれサインした。これで「沖縄返還協定」が1972年5月15日午前0時をもって発効し、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになった。
日米政府による沖縄施政権返還協定に反発したのが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」と日米政府が全然考えていない非現実的な祖国復帰を自分勝手に妄想し続けていた沖縄の祖国復帰運動家たちであった。妄想は妄想であり現実ではない。妄想が実現することはありえないことである。
沖縄を施政権返還すれば沖縄の米軍基地の維持費を日本政府は堂々と国家予算に組み入れることができる。泥沼化したベトナム戦争のために莫大な戦費を使い果たし財政的に苦しくなっていたアメリカを日本政府が合法的に経済援助するのが沖縄の施政権返還の目的であった。それが祖国復帰の内実であった。ところが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」という妄想を吹聴し続けた祖国復帰運動家たちは、祖国復帰が実現するのは祖国復帰運動が日米政府を動かしたから実現したのだと自賛しながらも、施政権返還の内容が自分たちの要求とは違うといって反発をした。妄想の中から一歩も飛び出すことができない祖国復帰運動家たちは祖国・日本に裏切られたなどと文句をいい、日米政府が100%受け入れることがない非現実的な「無条件返還」の要求運動を展開した。
ソ連・中国等の社会主義圏とアメリカ・西ヨーロッパ諸国の民主主義圏との緊迫した世界的な対立やアジアの政治情勢やベトナム戦争の劣勢を考えれば、沖縄の米軍基地を再編強化するための本土復帰であるのは歴然としたものであった。世界やアジアの政治情勢を無視して、自分勝手に描いた妄想でしかない祖国復帰論が日米政府に通用するはずがなかった。

R大学の自治会は、沖縄の施政権返還は日本政府とアメリカ政府の共謀によって沖縄の米軍基地を強化維持するのが目的であることを世間にアピールするために日の丸と星条旗を交錯させて燃やし続けていた。私はその行為は理解できたし賛同もできた。しかし、県民大会の議事進行を邪魔し、演壇を占拠して日の丸と星条旗を燃やすのは横暴な行為だ。許されることではない。あのような横暴なことをやるから一般学生は離れていくのだ。横暴で過激な行為は学生運動を衰退させてしまうだけである。
明日になれば、私が学科委員長だった頃と同じように、それぞれの学科委員長はそれぞれの学科集会を開き、県民大会の演壇で日の丸と星条旗を燃やした意義を学生たちに説明するだろう。しかし、県民大会の議事進行を中断させて、演壇を占拠したことに正当性があるかどうかという問題はなおざりにするだろうし、日の丸と星条旗を燃やしただけで、R大自治会の主張が県民大会に集まった人たちに理解されたかどうかの問題もなおざりにしてしまうだろう。私は過激化していく学生運動にため息をついた。

自治会室から漏れてくる光が暗くなった。誰かが私の居る場所に近づいてきたためだ。照屋さんが来るには早いなと思いながら私は振り向いた。影の正体は女性ではなく男性であった。男は明るい場所から木々が植わっているキャンパスのうす暗い場所に入ったために、私を見つけることができないようだった。
「マタヨシ」
男は私の名を呼んだ。声を聞いて男の正体が分かった。私の名を呼んだ男はMだった。
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「1971Mの死」の添削をお願いします

「かみつく」という季刊誌を出版する決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いすることにしました。短編小説「1971Mの死」の漢字の間違いや表現がおかしいと思う箇所の指摘をお願いします。
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1971Mの死 2



私がMと出会ったのは三年前だ。演劇クラブはフランスの作家ジャン・ジュネ作の「黒ん坊たち」を大学祭で上演することになったが、役者が不足していたのでテイが彼と同じ電気学科の後輩であるMを連れてきた。Mは高校時代の先輩であるテイが役者をやってくれと頼むと、役者の経験はなかったのに承知したという。
Mの役は老いてもうろくした元将軍だった。元将軍は四六時中居眠りをしていて、たまに目が覚めると、意味不明の、「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」というセリフを吐いた。元将軍を演ずることになったMは読み合わせの時から全力で、「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」と叫び、セリフを言うたびに唾を飛ばした。読み合わせだから、大声を出す必要はないと注意すると、「はい」と頷いたが、Mの叫びは直らなかった。Mが唾を吐いて叫ぶたびに、私たちは大笑いしたものだ。Mはくそ真面目で不器用な男だった。
夏休みに、演劇クラブは伊平屋島で合宿をすることになった。演劇クラブ室で酒宴を開いている時に、男子寮の裏にある円鑑池で、夜になると「モー、モー」と牛のように鳴く正体不明の動物がいる話になった時、シゲがあれは食用ガエルであると教えた。私がなんとかして食用ガエルを捕まえて食べたいものだと言うと、伊平屋島出身のシゲは、伊平屋島の田んぼには食用かえるがたくさん棲んでいて、簡単に捕まえることができると言った。それに、伊平屋島には野生のヤギもいて、ヤギを捕まえて食することもできると言った。それじゃあ恒例の演劇クラブの夏休み合宿は伊平屋島にしようということになった。オブザーバーであるMも伊平屋島の合宿に参加した。
伊平屋島に到着し、わくわくしながら田んぼに行くと、稲刈り時期の田んぼは干上がり、食用カエルはいなかった。私たちはがっかりした。どうしても食用かえるが食べたい私たちは、合宿している小学校の教室の裏の小さな池に棲んでいる食用カエルを捕まえて食べた。
伊平屋島の裏海岸には年中涸れることのない水溜りのある不思議な岩があるといい、シゲは岩に私たちを案内した。この岩に時々ヤギがやってきて水を飲むとシゲは話した。山羊は水を飲まないはずだと私が言うと、シゲは、いやヤギは水を飲むと言い張って私とシゲは言い争った。ささいなことでもどちらが正しいかを真剣に言い争うのが私たちの青春だった。
私たちは岩から離れ、合宿している小学校に向かって砂浜を歩いた。すると浜を歩いている野生のヤギを見つけた。私はヤギを捕まえようと追いかけた。ヤギは崖の方に逃げた。私がなおも追いかけるとヤギは崖を登り始めた。私はしめたと思った。崖登りなら人間の方が早いはずである。ヤギを追って私は崖を登った。ところが崖登りは私よりも数倍ヤギの方が上手だった。ヤギは時々立ち止まって私を振り向きながらゆうゆうと崖を登ると野原に去って行った。見物していた演劇クラブの仲間は大笑いした。
「食用ガエルは田んぼにいないし、ヤギを捕まえることはできないし、シゲはうそつきだ」
と私がシゲを責めると、シゲはヤギを絶対捕まえてみせると意地を張った。シゲはヤギを捕まえる相棒にMを指名した。Mは素直にシゲの指名に従った。
「お前たちは先に学校に帰れ。俺とMでヤギを捕まえるから」
とシゲは言った。
日が暮れて、回りが闇に覆われた頃、シゲとMは内臓と首のない子ヤギを自転車の前に括り付けて帰ってきた。女性たちは悲鳴を上げた。男たちは酒を飲みながらヤギ肉を食した。
浜辺の貝を食したり、魚を釣ったり、島のあちらこちらを冒険したり、ヘビが寝床に侵入して大騒ぎになったり、私たち若者は演劇の練習はそっちのけで伊平屋島の夏を楽しんだ。夏休みが明けて暫くすると、「黒ん坊たち」は頓挫し、Mは演劇クラブ室に来なくなった。
三年次になった時に、Mと私は学科委員長になり、学生運動の場で顔を合わせるようになった。しかし、Mは無口であり顔を合わせると黙礼をするくらいで、私とMが親しく話をすることはなかった。私が学科委員長を辞めてからはMと顔を合わせることはほとんどなくなった。先刻、私が自治会室に入った時、Mは自治会室に居た。久しぶりに会った私とMは黙礼をしただけで、言葉は交わさなかった。そのMがなぜ私と会おうとしているのか。
革靴を失って憂鬱な私はMと話す気がなく黙っていた。闇の中の私を見つけることができないMが、私を探すのをあきらめて去って行くのを期待していたが、
「マタヨシ」
と、Mは再び私の名を呼んだ。私は仕方なく、「ああ」と、私の居場所を知らせる声を発した。Mは私の声を聞き、私の居る場所に近づいてきた。私は自治会室の明かりを背にして近づいてきたMを黙って見ていた。Mは私の側に立つと、
「元気か」
と言った。
「ああ」
私は生返事をした。Mは、
「ちょっといいか」
と言った。断りたかったが、私は、
「ああ」
と答えた。Mは私の側に座った。
「マタヨシはまだ演劇をやっているのか」
とMは訊いた。Mの質問に私はむっとした。
私が入学した年の四月に、演劇クラブはベケットの「勝負の終わり」を上演し、その年の秋の大学祭に「闘う男」を上演した。しかし、リーダーのゼンジが大学を中退すると、翌年に「黒ん坊たち」が頓挫し、それ以後演劇クラブは四年間も上演しない状態が続いていた。
このままだと演劇クラブは廃部になりクラブ室を明け渡さなくてはならない恐れがあった。私は歴史のある演劇クラブを廃部にした人間にはなりたくなかった。部員が私を含めて四人だけになってしまった状況で、私は三人だけ登場する「いちにち」という戯曲を書き上げ、役者の経験がない新人部員の三人を一から鍛えながら練習を続けていた。三人の中の一人でも退部すれば上演はできない。上演に辿りつけるかどうか不安を抱えながら私は演劇クラブを運営していた。
私の苦しい状況を知らない無神経なMの質問にむっとした私は、
「ああ」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「そうか」
と言ったMに、私は無意識にソッポを向いていた。
私の側に座ったMは、「そうか」と言った後、次の言葉がなかなか出なかった。私はMと話す気はなかったし、話す材料もなかったので黙っていた。Mは黙り、私も黙っていた。暫くして、
「シゲはどうしているか」
私たちを伊平屋島に案内し、Mと子ヤギを捕まえたシゲは私と同じ国文学科の学生で私より一期先輩だった。ジャン・ジュネの「黒ん坊たち」を持ち込んだのがシゲであったが、シゲはすでに中退していた。
「中退したよ」
「そうか、中退したのか。・・・・ケンはどうした。ケンは卒業したのか」
ケンは私より二年先輩で「勝負の終わり」でハムを演じた学生だった。彼は演出の能力がなく、三年前にアラバールの不条理劇「ファンドとリス」の上演を目指したが頓挫した。
「卒業した」
「就職したのか」
「ああ」
「なんの仕事をしているのか」
「黒真珠のセールスをしている」
「そうか」
と言ったMは黙った。
Mは演劇クラブの近況を聞くために私の所に来たのではないだろう。Mがなにを私と話したいか知らないが、私は、演劇の話にしろ、政治の話にしろ、Mと話し合う気にはならなかった。
「みんな、もう居ないか」
Mはしみじみと言った。
Mが演劇クラブに居た頃の学生は、私以外は誰も居なかった。シゲ、トシ、タカヤス、ナエは中退して演劇クラブを去った。ケン、テイ、ショウゴ、キシャバ、ミチヨ、アッチャンは卒業して演劇クラブを去った。私だけが中退も卒業もしないでまだ演劇クラブに残っていた。Mは演劇クラブを懐かしんでいたが、私にとって演劇クラブは孤独で厳しい闘いを強いられている現実であった。演劇クラブを懐かしんでいるMに私は苛ついた。
Mと話したくない私は黙っていたが、
「そうか。みんな居なくなったか。居なくなって当たり前だな」
と、Mは独り言を言った。そして、黙った。私も黙っていた。
暫くして、Mが、
「マタヨシは家族闘争をやったか」
と言った。唐突な話題の転換であった。Mが私のところにやって来た目的は「家族闘争」について話し合いたかったからだと私は知った。しかし、私にとって、「家族闘争」は時代遅れの話題でしかなかったから拍子抜けした。私は思わず、
「はあ」
と言った。

「家族闘争」というのは、家族に学生運動をやっていることを打ち明け、家族と話し合い、自分たちがやっている学生運動を家族に理解させ、家族に学生運動を応援させる運動のことであった。
一九六六年にフランスのストラスブール大学で民主化要求の学生運動が始まり、それが一九六八年にはソルボンヌ大学の学生の民主化運動へと発展し、その年の五月二十一日にはパリで学生と労働者のゼネストを行った。そして、労働者の団結権や学生による自治権、教育制度の民主化を大幅に拡大することに成功した。それをフランスの五月革命と呼んだ。フランスの五月革命は学生が原動力となった革命として世界中に有名になった。
大学の民主化を目指して闘ったフランスの学生たちは、自分たちの運動の意義を理解させるために家族と話し合った。学生の民主化運動を理解した家族は学生を応援し、家族を巻き込んだ民主化運動は次第に学生運動から大衆運動へと発展していった。
五月革命が成功した原因のひとつに学生たちが家族の説得に成功したことをあげ、それを家族闘争と呼び、学生運動のリーダーたちは私たちに家族闘争をやるように指示したのだった。
フランスの五月革命のように大学の自治や民主化を目指した運動であったなら、私は家族の理解を得るために喜んで話していただろう。しかし、R大学の学生運動は五月革命のような民主化運動とは性格が異なっていた。
R大学の学生運動はアメリカ軍事基地撤去、ベトナム戦争反対などを掲げていたが、反戦平和運動の域に止まるものではなかった。沖縄最大の大衆運動である祖国復帰運動を批判し、民主主義国家であるアメリカを帝国主義呼ばわりし、ソ連をスターリン官僚主義と批判して反帝国主義反スターリン主義を掲げた学生運動であった。本土の学生運動と系列化していったR大学の学生運動は急速に過激になっていった。ヘルメットを被ってジクザグデモをやり、ゲバ棒で機動隊と衝突したり、火炎瓶を投げたりした。
R大学の学生運動を、古い沖縄の因習を信じている私の親が理解し、納得し、応援するのは不可能であった。民主主義社会を目指した運動であったなら私は熱心に両親を説得していたはずである。しかし、民主主義国家アメリカを帝国主義呼ばわりし、将来のプロレタリア革命を目指しているR大学の学生運動を家族に理解させるのは不可能であった。上からの指示であったが、私は「家族闘争」はやらないことに決めた。
それに、大統領や国会議員だけでなく県知事や地方議員までが国民の選挙で選ばれるアメリカや日本の民主主義国家で労働者階級が政治の実権を握るために暴力革命を起こすというのはむしろ社会が後退するのではないかという疑問が私にはあった。国民の代表である大統領や議員が国民の一部である労働者階級の暴力によって滅ぼされるのはおかしい。プロレタリア革命の後は国民の選挙が行われないとすれば民主主義国家での暴力革命は目指してはいけないのではないかと私は疑問に思っていた。民主主義とプロレタリア革命の狭間で私自身が悩める若者であったから家族闘争どころではなかった。
学生運動のリーダーたちは「親の理解を得ない限り、真の闘いとは言えない」と、フランスの五月革命を例にして、「家族闘争」をすることを指示したが、多くの学生は親の理解は得られないことを予想していたから、私と同じように「家族闘争」を避けていた。リーダーの指示を素直に受けて、「家族闘争」をやった殊勝な学生も居たが、彼らの多くは、親に説得されて学生運動から離れたり、親に勘当されたり、親子喧嘩になって家出をしたり、強引に休学をさせられて大学に来なくなったりした。
私は「家族闘争」をしないということで私なりに「家族闘争」を処理したのだが、私とMが「家族闘争」をやるように指示されたのは二年以上も前のことであった。激しく変動する時代を生きている若者にとって二年前ははるか昔である。私にとって「家族闘争」は時代遅れの四字熟語であった。「マタヨシは家族闘争をやったか」という時代遅れのMの質問に、私はあきれて、興味のない質問に答える気もなく、黙っていた。
・・・Mよ。俺は与儀公園で革靴を失って苛々しているし、久しぶりに参加した県民大会で肉体はひどく疲れている。お前と古臭い「家族闘争」の話なんかしたくないから、さっさとここから立ち去ってくれ。俺を独りにしてくれ・・・
というのが、その時の私の正直な気持ちだった。私の沈黙に、感のいい人間なら、話をしたくない私の気持ちを察知して、その場から去っていっただろう。しかし、Mは感のいい人間ではなかった。Mは私の側に座り続けた。
私がなにも言わないのでMは困惑したようだったが、質問の内容が唐突なので、私が返事をするのに苦労していると思ったのか、
「マタヨシの親はなんの仕事をしているんだ」
と、Mは私への質問の内容を変えてきた。私は予想していなかった質問に戸惑い、
「え」
と言い、Mを見た。
Mは私をではなく正面の闇を見つめていた。Mはまるで正面の暗闇と話しているようだった。Mは相手と目を合わせて話すことが苦手で、会話をする時には目を合わすことを避けて話す癖があったことを思い出した。
私は、親の話なんかやりたくないという意を込めて、
「農民だ」
と、ぶっきらぼうに言った。
「そうか、農民か」
と言った後に、Mは暫く黙っていた。Mはじっと動かないで闇を見つめていたが、
「僕の親はコザ市のゴヤで洋服店をやっている」
と、自分の親の仕事のことを話した。
「客の多くは嘉手納空軍基地のアメリカ人だ」
と言い、ため息をついた。
コザ市はアメリカ軍人や彼らの家族を客としている商売が多く、アメリカ人を客にして繁盛していた。Mの親もそのひとりだった。
Mの話に興味のない私は黙っていた。私の言葉を待っているMだったが、私がなにも言わないので、暫くすると、
「マタヨシは妹が居るか」
と訊いた。え、それで親の話は終わりかよ、と私は苦笑し、Mが話下手だったことを思い出した。演劇クラブ室でのクラブ員どうしの会話や酒宴の場での会話でMから話すことはなかった。質問されたら質問にだけ答える一問一答の対話しかMはやらなかった。Mとの対話はすぐに途絶えるのが普通だった。
Mの質問に、私は、
「居る」
と、一言の返事をした。Mは、
「そうか」
と言い、暫く黙っていたが、
「僕も妹がいる」
と闇を見つめながら言った。Mの声は暗く重かった。
「僕の妹は専門学校に通っている。来年は卒業だ」
Mは言葉を止めた。そして、
「しかし」
と言った後、ため息をつき、それから、
「僕が学生運動をしていることが世間に知れたら、妹の就職に悪い影響を与えるかもしれない」
と、また、ため息をつき、
「マタヨシの妹は仕事をしているのか」
と私に訊いた。
「している」
「どんな仕事をしているのか」
「さあ、知らない」
「知らないのか」
Mは驚いて訊き返した。私の妹はある建設会社の事務員をしていたが、妹の話をしたくない私は、「さあ、知らない」と答えた。
「弟は居るのか」
と、Mは訊いた。
「居る」
と私が答えると、
「そうか、弟も居るのか」
とMは言い、Mに弟が居るとも居ないとも言わないで、Mは黙った。暫くして、
「マタヨシの親はマタヨシが学生運動をやっているのを知っているのか」
弟ではなく親の話に変わった。
「いや、知らない」
私が言うと、
「そうか」
と言い、Mは少しの間黙ってから、
「マタヨシの親は保守系なのかそれとも革新系なのか」
と、また、質問の内容を変えた。
琉球政府の主席公選の時、貧しい私の父母は区の有力者に恩納村にある山田温泉に招待された。母は初めて行った山田温泉に喜び、有力者に感謝した。そして、有力者の指示に従い、保守系の候補者に投票した。つまり、私の父母は買収されたのだ。しかし、私の父母には買収されたという自覚はなかったし、罪悪感もなかった。私の父母は保守か革新かではなく、昔からのしきたり通りに地域の有力者に従うだけの人間であった。有力者が保守系だったから私の父母も保守系ということになる。
「保守系だ」
と、私が言うと、
「そうか、保守系か。僕の父も保守系だ」
と言った。Mは暫く黙っていたが、
「マタヨシは親に学生運動をやっていることを話すつもりはないのか」
と訊いた。私は学生運動のことは一切親には話さないと決めていたし話さなかった。それに今は学生運動から離れたのだから家族に話す必要も隠す必要もなかった。私は一年近く自治会室に行ったことはなかったし、学生集会に参加したこともなかった。だから私が学生運動から離れていることに普通なら気付くはずである。しかし、Mは私が学生運動にまだ参加していると思っているようだった。学生運動から離れていることをMに話せば、その理由を説明しなければならないだろう。それもMが納得するように説明しなければならない。それは面倒くさいので私は学生運動から離れていることをMに話さなかった。私は苦笑しながら、
「話すつもりはない」
と言うと、
「どうして話さないんだ」
と、Mは真面目な顔をして言った。私はMにあきれた。
「俺たちの政治思想を話しても、俺たちの親が理解できるはずがない」
私は両親に話さない理由を説明した。Mは、
「そうだな。そうかも知れないな」
と言い、ため息をついた。
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「1971Mの死」の添削をお願いします

「かみつく」という季刊誌を出版する決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いすることにしました。短編小説「1971Mの死」の漢字の間違いや表現がおかしいと思う箇所の指摘をお願いします。
・・・・・・・・・・

1971Mの死 3


Mが「家族闘争」に悩んでいることは分かったが、私はMに同情はしなかったし、家族闘争を「頑張れ」と励ます気にもならなかった。私とMは同い年であり、二人は五年次になっていた。学生としては古参である。古参であるMが「家族闘争」に悩んでいるのはむしろ滑稽に思えた。Mは真面目であり、真剣に「家族闘争」をやろうとして悩んでいるかも知れないが、「家族闘争」はすでにそれぞれの学生がそれぞれのやり方で「処理」しているはずのものであった。Mは学科委員長をやった経験もあるのだから、「家族闘争」はすでに「処理」し、解決しているのが当然であった。
「マタヨシはこれからも家族闘争をやらない積もりなのか」
とMは訊いた。
「親にどんな風に話せばいいのだ」
学生運動のことを親に理解させるのは不可能であると言う意味で私は言った積もりだったが、Mは勘違いして、
「そうなんだよな。どのように話せばいいのか、それが非常に難しいんだよな」
と言い、
「親にどのように説明すればいいか。分からなくて困っている」
と嘆いた。
親に理解させる可能性がゼロではないと信じているMに私は苦笑した。
「家族闘争」の可能性を信じているMは、真面目で純真であると言えば聞こえはいいが、親たちが沖縄の古い因習に縛られていることを認識する能力がMは欠けているのだ。私は、「家族闘争なんかできるはずがない。止めろ」とMに言いたかったが、「家族闘争」に真剣に悩んでいるMが私の忠告を素直に聞き入れるはずはない。それに私は学生運動から離れた身である。いまさら「家族闘争」という重たい問題に首を突っ込む気持ちがなかったから、私は忠告するのを止めて黙っていた。
Mは体躯がよく姿勢もよかった。座っているときも背筋をまっすぐに伸ばしていた。演劇クラブ室で車座になって酒を飲んで酔ったときも、Mは背筋をピンと伸ばしていたので、「Mはまるで軍人みたいだ」と揶揄したことがあった。Mは三年前と同じように背筋を伸ばして、真正面の闇を見つめ、身じろぎもしないで座っていた。暫くしてMは、
「マタヨシは兄さんが居るか」
と訊いた。興味のない質問だったが、
「いや、居ない」
と答えた。Mは暫く黙ってから、
「マタヨシは長男か」
と訊いた。
「ああ」
と私が答えると、Mは、
「そうか。長男か」
と言い、
「僕も長男だ」
と言った。そして、
「学生運動をしていることを父に話すと、父は確実に怒るだろう。頑固な父だから、長男である僕でも勘当するかもしれない」
と言って、ため息をついた。
「勘当されるのか」
私は訊き返した。
「されるだろうな」
と言ったMの声は沈んでいた。
 私は親に勘当されたかった。しかし、長男である私を親が勘当することはあり得ないことだった。
家に束縛されないで自由に生きたい私は、「弟は俺よりしっかりしているから、弟が家を継いだほうがいい。弟が家を継ぐなら俺は家の財産は一銭ももらわなくていい」と母親に話したことがあった。母親は私の話にすごくショックを受け、嘆き悲しんだ。母親を嘆き悲しませてまで自由になる勇気のない私は主張を引っ込めざるをえなかった。
大学を休学して、一年くらい東京に住んでみたいと私が言った時も、母親は私が東京に行ったら一生帰ってこないという被害妄想に陥り、姉に私の東京行きを引き止めるように頼んだ。九歳年上の姉に、長男としての義務と責任についてこんこんと説教された私は東京行きを断念した。
長男が仏壇と家を継ぎ、親の面倒を看るのは絶対に守らなければならないと信じている親であったから、私が学生運動をやっていると親に告白しても親が私を勘当することは絶対にあり得ないことだった。私を勘当するのではなく、私が就職できるだろうかと心配し、御先祖様に申しわけないとか、世間に白い目で見られる弟や妹の将来が心配であるとか、村の人や親戚に恥ずかしくて顔を合わすことができないなどと嘆き悲しみ、私に学生運動を止めてくれと必死に頼んだだろう。母は精神的にまいって病気になったかもしれない。だから、私は親に学生運動をやっていると告白することはできなかった。もし、私の親が気丈な人間で、Mの親のように長男であろうと勘当するのなら、私は学生運動をやっていることを喜んで親に告白していただろう。
私にとって勘当されるということは歓迎することであったから、
「勘当されればいいじゃないか。親に頼らなくても俺たちは生きていける」
とMに言った。するとMは困惑し、
「いや、それはまずい」
と言った。
「なにがまずいんだ。勘当されれば、親の束縛から解放されて、自由に生きることができていいじゃないのか」
と私が言うと、
「いや、僕は長男だし、妹が居るし・・・」
とMは言葉を濁した。
「そんなのは関係ないよ」
と、私が言うと、
「いや、僕は長男だから将来は家を継いで親の面倒を看なければならない。それに、兄として妹のことも考えてあげないとな」
Mは長男しての義務を認める言い方をした。
「家か。親の面倒か」
私は、Mに失望しながら呟いた。
私が長男の呪縛から解放されたくても解放されないジレンマに悩んでいるのに、Mは長男の呪縛を自分から受け入れていた。私は学生運動をしている学生は沖縄の古い因習を批判し、家督相続思想を否定していると思っていた。しかし、現実は違っていた。私と同じ世代であり、私と同じ長男であり、私と同じ思想の学生運動をしているMが、長男の家督相続思想を受け入れていた。隣に座っているMが沖縄の古い因習を受け入れているのを知り、私は滅入っていった。
「親を説得する方法はないのかな」
とMが言った時に、私はカーっと頭にきて、
「ない」
と、激しい口調で言った。Mは私の突き放した言葉にショックを受けたようだった。Mは黙った。私も黙った。二人の間に沈黙が続いた。頭上のガジュマルの枝葉に風が吹いている音が聞こえ、Mの重いため息が左の耳に聞こえた。
 
演劇上演ができるかどうかの不安、卒業ができるかどうかの不安、親と絶縁して自由に生きる勇気のないジレンマ、社会に出たらどのように生きていけばいいのかなどなど、私も深刻な悩みを抱えている若者の一人であった。Mが学生運動と家族愛の板ばさみに深刻に悩んでいるのを理解はしても、私は私の悩みでいっぱいいっぱいであり、自分の悩みを横に置いて、Mの悩みの相談相手になることは私には無理だった。 

Mは、私と話す言葉を探しているようだった。しかし、見つけることができないまま、沈黙の時間が二人の間に流れていった。キャンパスに、急に突風が吹いて、木々が騒ぎ出し、頭上のガジュマルの枝葉は激しく揺れた。暫くして風が止み、キャンパスが静かになった時、
「マタヨシさん」
と、私の名を呼ぶ声がした。その声は、照屋さんが帰ってきたら、私のことを照屋さんに伝えてくれるように頼んだ学生の声だった。
「こっちだ」
私は返事をした。
「照屋さんが帰ってきた。自治会室に来てほしいって」
と、学生は言った。
「そうか、分かった」
私は立ち上がり、自治会室に向かった。Mも私の後ろからついてきた。
 照屋さんは数人の学生運動家と深刻な顔で話し合っていたが、私が自治会室に入ると、私を振り向いた。
「俺の革靴は見つかったのか」
「ごめん。見つからなかったわ」
革靴が見つからなかったと聞いて私はがっかりした。照屋さんは足元に置いてあった古い運動靴を取り、
「この靴を履いて」
と言った。
「誰の靴なのか」
と私が訊くと、
「知らない。自治会室にあったわ」
と言った。照屋さんの持っている運動靴は萎びていて臭そうだった。他人の汚れた靴を履くのは気持ち悪いし、足がむず痒くなりそうだ。私は裸足で帰ることにした。
「いいよ」
と私が言うと、照屋さんは、
「裸足はいけないわ」
と言い、自治会室の奥の方からゴム草履を探してきて、
「これを履いて」
とゴム草履を私に渡した。私はゴム草履を履き、自治会室を出た。
「マタヨシ」
背後からMの声が聞こえた。振り返ると、Mが近づいてきた。
「寮に帰るのか」
Mは訊いた。私は男子寮に住んでいなかった。なぜ、Mが「寮に帰るのか」と言ったのか理解できなかった。
「俺は寮には住んでいないよ」
と私は言った。
「住んでいないのか」
「ああ」
「そうなのか」
Mはがっかりした様子だった。
「寮に行って話をしないか」
Mは私を誘った。
間借り部屋に帰り、ラーメンを食べる以外に予定はなかったが、Mと話すということは、Mが抱えている「家族闘争」について話すということである。私はMと「家族闘争」のことを話し合う気にならなかったから、
「いや。用事があるから」
と嘘をついて断った。
「そうか」
Mは残念そうであった。話を続けたそうにしているMに、
「じゃな」
と言って、私はMから離れた。
構内の中央通りを横切り、図書館の左端にある小さな下り階段に向かって歩きながら振り向くと、自治会室から漏れている蛍光灯の白い光をバックにして、Mは名残り惜しそうに立っていた。


 赤平町の間借りに帰った私はラーメンを食べ、仮眠をした後にシャワーを浴びようと男子寮に行った。私は風呂代を節約するために男子寮のシャワー室を利用していた。私が男子寮に住んでいるとMが勘違いしたのはシャワー室を利用している私を時々見かけたからかもしれない。
ハイビスカスの垣根を曲がって男子寮に入ろうとした私の足が止まった。玄関に居る数人の学生の様子が変であったからだ。寮内ではみんな軽装であるのに彼らの服装はデモをする時のような厚着であったし、あたりを見回しながら落ち着きがなく歩き回っていた。彼らは確実に寮生ではなかった。異様さに気づいた私は玄関を離れ、男子寮の裏に回った。裏から入ると見知っている学生がいたので彼から話を聞いた。彼は男子寮が襲撃されたといい、自治会の学生たちは大学構内に逃げたと話した。私は大学の自治会室に急いで行った。
自治会室に集まっている学生たちはみんな恐怖で緊張していた。彼らの様子を見れば襲撃の激しさが想像できた。知り合いの学生が私を見ると、Mが重傷を負って病院に運ばれたと言った。M以外に早稲田大学から来た学生が負傷して病院に運ばれたらしい。Mが重傷であると聞いた私はMの様子を知りたかったのでそのまま大学構内に残った。

Mが死んだ。
夜明け前に病院から帰ってきた照屋さんがそう報告した。
私はMの死を全然予想していなかった。いつまで入院するのかを照屋さんが報告するのだろうと私は予想していた。しかし、私が全然想像できなかったMの死を照屋さんは話した。私は頭が真っ白になった
「家族闘争」さえできない純朴なMが死ななければならない理由はどこにもないという妙な思いが私にはあり、Mの死が信じられなかった。しかし、Mは死んだ。すすり泣きがあちらこちらから聞こえてきた。
 
沖縄の激しい政治の季節に、R大学の学生であったがゆえに学生運動に走ったM。沖縄に生まれたがゆえに沖縄の古い因習を受け入れていたM。家族を愛していたがゆえに学生運動に参加していることを打ち明けることができないで深刻に悩んでいた純朴な若者M。
Mは、革命へ突き進もうとする学生運動に参加しながらも、古い沖縄の因習を受け入れている若者の一人であった。革命思想と古い因習を同時に内包していたM。そんな矛盾を抱えている一人の若者が革命とは関係のない争いで命を失った。
Mの死のなにもかもが沖縄が内包している矛盾そのものであるように私には思われた。
Mの死に、私は、怒りや悲しみではなく、体中がいいようのない虚無感に包まれ、「なぜ・・・なぜ・・・」と、答えを出すことができない自問を繰り返していた。

あの日から、もう、四十年が過ぎた。

トタン屋根の古い木造の演劇クラブ室で、
「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」
と、くそ真面目な顔で、口から唾を飛ばして叫んでいたMの顔を思い浮かべると、今でも、苦笑してしまう。

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