「1971Mの死」の添削をお願いします

「かみつく」という季刊誌を出版する決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いすることにしました。短編小説「1971Mの死」の漢字の間違いや表現がおかしいと思う箇所の指摘をお願いします。
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1971Mの死 1


学生運動やら演劇クラブでの酒と論争の日々を過ごしたせいで、私は多くの単位を落としていた。R大学の国文学科に入学して五年が経過していたが今年も卒業の見込みがなかった。
一九七一年六月一七日、五年次の私は三年次の学生と一緒に中世文学の講義を受けていた。古典に全然興味のない私だったが卒業するためには必修科目の中世文学を受けないわけにはいかなかった。窓際に座り、教授の講義を念仏のように聞きながら、青空と白い雲の下の慶良間諸島や遥か遠くに見える読谷飛行場の像のオリをぼんやりと眺めているうちに講義の終了のベルは鳴った。五年次の私には講義が終わってから話し合う相手はいなかったので、講義が終わるとすぐに講義室を出た。生協の食堂でカレーライスを食べ、それから崖道を下って、トタン屋根の我が演劇クラブ室にでも行こうかと思いながら廊下を歩いていると、背後から、
「先輩」
聞き覚えのある声がした。振り向くと一年後輩の礼子だった。
「先輩、明日、与儀公園で県民大会があるけど、参加できないですか」 
礼子は私を県民大会に誘った。学生運動と距離を置くようになっていた私は県民大会に参加したくなかった。
「県民大会かあ。ううん、どうしよう」
私が県民大会に行くのを渋っていると、
「なにか用事があるのですか」
と、礼子は訊いた。
国文学科委員長をしていた頃は私が礼子を政治集会に熱心に誘ったし、一緒に学生集会や県民大会などに参加した。礼子は運動音痴で弱虫であったが、デモの時に機動隊にジュラルミンの盾でこずかれて怪我をしたり、一部の学生が火炎瓶を投げつけたために機動隊に襲われる怖い体験をしても学生運動に参加し続けていた。礼子とは違い、学科委員長を辞めてからの私は次第に学生運動に距離を置くようになり学生集会や県民大会などに参加しなくなっていた。
「明日は家庭教師の仕事があるんだ」
「無理ですか」
「無理かもしれない」
「できたら参加して欲しいです」
いつになく礼子はしつこく私を県民大会に誘った。今までも数回政治集会に誘われたが私はヤボ用があるといって断った。その時は、「じや、次は参加してください」といって礼子は私を誘うのをあきらめた。しかし、今日の礼子はすぐにはあきらめなかった。家庭教師をする家はどこですかと聞いたり、家庭教師の曜日を変更できませんかと聞いたりした。礼子は来年卒業する。就職活動もあるし政治集会に参加するのをそろそろ終えようと思っているのだろう。だから、私を県民大会に誘っているのかもしれない。礼子と話しているうちに、私は礼子の誘いを断るわけにはいかないと思った。
家庭教師をやる家は那覇市の立法院の近くにあった。立法院前から市内線のバスに乗れば開南を通って与儀公園まで直行で行ける。家庭教師を早く終わらせれば県民大会に間に合わせることができるだろう。
「家庭教師を早く切り上げれば県民大会に間に合うかもしれない」
礼子はほっとしたように微笑んだ。
「そうですか。よかった。それでは、明日の県民大会で」
と言って、礼子は去って行った。

一九七一年六月一八日、私は家庭教師の仕事を早めに終わって、スーツに革靴のまま与儀公園に行った。その日の県民大会は、宇宙中継によって東京とワシントンで結ばれた「沖縄返還協定」に抗議する県民大会であった。日米政府による「沖縄返還協定」締結によって、来年の一九七二年五月一五日午前0時に沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになる。 
バスを降り、与儀公園に入った私は、公園に並んでいる団体の中にR大学自治会の学生集団を探したが、見つけることができなかった。変に思いながら公園内を見渡すと、大会場の後ろの方に白いヘルメットの集団が見えた。近づいていくと、R大学の自治会長がハンドスピーカーを握り、県民大会の議事進行を無視して、公園の芝生に座っている学生たちに向かってがなり立てているのが見えた。私は学生集団の中に礼子たちを探した。手を上げている女性が目に入った。見ると礼子だった。私は後輩の学科委員長に「よっ」と挨拶をしてから礼子のいる集団に混じった。
礼子たちは四年次であり来年は卒業するので、私たちの雑談は卒業の話になった。
「卒業したらなんの仕事をするんだ」
「中学校の先生よ」
「え、弱虫のお前が中学校の先生になるのか。いじめられて泣かされるぞう」
と、私がからかうと、
「仕方ないでしょ。他にいい仕事がないもの。先輩は今度卒業できるの」
と、礼子は反撃してきた。痛いところを突かれて、私が返答に困っていると、
「ほら、先輩は卒業できないのでしょう。他人のことをとやかく言わないで自分のことを心配したほうがいいわ」
「他人のことをとやかく言って悪かったな」などと雑談していると、学生運動のリーダーたちから立ち上がるように指示された。
「県民大会はまだ終わっていないよ。どうするのだろう」
「さあ、知らないわ」
R大学の学生集団は立ち上がり、ジグザグデモを始めた。そして、革新政党や労働組合の代表が居並んでいる会場の前に出ると、演壇をぐるぐる回り始めた。デモ隊の中から数人のヘルメットを被った学生が出てきて、演壇に駆け上がり、演説している労組の代表者と進行係を排除して演壇を占拠した。学生たちは演壇の中央で日の丸と星条旗を交錯させるとふたつの旗に火をつけた。灯油を染み込ませた日の丸と星条旗は勢いよく燃え、演壇の回りをジグザグデモしている学生たちの意気は上がり、シュプレヒコールは大きくなった。
私は、日の丸と星条旗が燃え終わると、デモ隊は意気揚々と元の場所に戻るだろうと予想しながら演壇の周囲をデモっていた。すると、労働者の集団がデモ隊に近づいてきた。私はその集団はデモ隊への抗議の集団であり、デモを指揮しているリーダーたちと押し問答が起こるだろうと思っていたが、労働者の集団がデモ隊に接近すると、デモ隊の一角が悲鳴を上げて一斉に逃げ始めた。労働者の集団は抗議をするためではなく、学生のデモ隊を実力で排除するためにやってきたのだった。県民大会の演壇を占拠し、日の丸と星条旗を燃やしたのは横暴な行為であり許されるものではない。しかし、だからといって労働者集団が学生のデモ隊を問答無用に襲撃するのは私には信じられないことだった。唖然とした私は、逃げ惑う学生たちの流れに押されて走った。走っている途中で、前日の雨でぬかるんでいる泥土に足を取られ、片方の革靴が抜けてしまった。私は革靴を取ろうとして立ち止まろうとしたが、逃げ惑う群の圧力は強く、私は群れに押し流されて与儀公園の外に出た。
片方の革靴を失った私は困った。スーツと革靴は上流家庭の家庭教師をしている学生には必需品であり、貧乏学生の私は高価である革靴をそのまま捨てるわけにはいかなかった。はぐれてしまった礼子たちのことが気になったが、それよりも革靴の方が私には切実な問題だった。会場が落ち着いてから与儀公園に戻ろうと、私はバス停留所に向かう学生たちの群れから離れて道路の端に立ち、与儀公園の様子を見ていた。すると、照屋さんが近寄って来て、
「どうしたの」
と私に訊いた。照屋さんは情報収集を専門に活動している学生運動家だった。

私が学科委員長をやっていた時、照屋さんと私は那覇警察署の様子を探るために那覇署の近くのバス停留所で張り込みをしたことがあった。私と照屋さんは那覇署が見えるバス停留所のベンチに座っていたが、なんの飾り気もない服を着ている男女がバス停留所に長時間座っているのを逆に警官に怪しまれて私と照屋さんは那覇警察署に連れて行かれた。私と照屋さんの服装や表情を見て、私たちが学生運動家であることが警官にはすぐに分かっただろう。私は数人の警官に囲まれて素性を聞かれたが私は無言を貫いた。私の態度を生意気だと思った背の低い警官が私の腹を突いた。ぐっと私が腹を固めて我慢したので、お、こいつ腹を固めたぞ、結構腹が固いなと言いながら一発目より強く突いた。私はカーっと頭にきた。もし、あと一、二発腹を突かれたら私は警官に殴りかかる積もりになっていた。私の気持ちは顔にも表れたので、警官は真顔になり、なんだお前は、やる積もりかと私を睨んだ。私は睨み返した。その時、隣の警官が、「やめとけ、比嘉。大人げないぞ」と比嘉という警官を制した。我に返った比嘉という警官は苦笑いしながら去って行った。黙秘を通したので留置場に入れられるのを私は覚悟したが、暫くして私と照屋さんは解放された。

私は照屋さんに革靴を演壇の近くのぬかるみに取られたことを話した。すると照屋さんは、暫くの間会場の様子を見てから与儀公園に戻る予定だと言い、
「私が革靴を探してあげるから、あなたは自治会室で待っていて」
と言った。学生運動から離れている私は自治会室には行きたくなかったので、自分で革靴を探すと言った。すると、照屋さんは顔を曇らせて、「男は危険だから」と言った。
「主催者側となにかトラブっているのか」
と、私が訊くと、照屋さんは頷いた。照屋さんの話では、県民大会の主催者側とR大学自治会は険悪な関係になっていて、R大学の県民大会への参加は認められていなかったという。

日本は沖縄の祖国であり、母なる祖国に復帰するのが沖縄の悲願であると主張している祖国復帰運動にとって、日の丸は祖国日本の象徴であり崇高な存在であった。ところが、その頃のR大学の学生集団は、崇高なる日の丸を、こともあろうに祖国復帰運動家たちが目の敵にして最も嫌っているアメリカの象徴である星条旗と交錯させて一緒に燃やす行為を繰り返していた。星条旗と一緒に日の丸を焼却するR大の学生集団の行為は、日の丸を祖国復帰運動の象徴にしている運動家たちを嘲笑し侮辱しているようなものであった。だから、与儀公園の県民大会の主催者はR大学を嫌悪し、参加を許可しなかったし、演壇で日の丸と星条旗を燃やしたR大学の学生集団を実力で排除したのだろう。
R大学のデモ隊が労働者集団に襲われた事情は知ったが、だからといって私が労働者集団に襲われるのは考えられないことであった。私は自分で革靴を探すと言った。しかし、照屋さんは、私の顔は彼らに覚えられているかも知れないから危険だと言い張った。私は学生運動でそんなに派手なことをやっていなかったし一年近く学生運動から離れている。労働者集団に私の顔を覚えられていることはないと思ったが、照屋さんは私の身を心配してくれて私が与儀公園に戻ることに反対しているし、照屋さんと押し問答を続けると照屋さんの活動を邪魔してしまう。私は仕方なく照屋さんに革靴のことを頼み、R大学の自治会室に向かった。
首里にあるR大学に到着した私は自治会室に居たくなかったので、照屋さんが来たらキャンパスに居ると伝えてくれるように顔見知りの学生に頼んで自治会室を出た。むさくるしい自治会室を出ると、満点の空には星が煌めいていた。
木々が林立しているキャンパスは闇に覆われ、所々に立っている外灯の周囲は白っぽい空間を作っていた。自治会室の開けっ放しの出入り口や窓から漏れている蛍光灯の光を背にして、私は芝生を踏みながら歩き、腰を下ろすのにほどよい場所を探した。薄闇の中を進むとガジュマルの木が植わっている場所があり、私はガジュマルの木の根に腰を下ろした。
那覇市で一番空に近いR大学のキャンパスには初夏の涼しい風が吹き、頭上のガジュマルの枝葉をざわつかせていた。
・・・・・県民大会に行かなければよかった。県民大会に行かなければ、今頃は間借り部屋でのんびりとラーメンを食べていた・・・・・私はガジュマルの幹に背を持たせながら、県民大会に行ったことを後悔していた。
 礼子たちのことが気になった。国文学科は女性が多い。このような襲撃で被害を被るのは女性たちだ。私が学科委員長になった頃からR大学の学生運動は急に過激な行動が増えていき機動隊に襲われることが多くなった。礼子と一緒のデモで最初に機動隊に襲撃されたのは開南交番所の焼き討ち事件だった。
国際通りから与儀公園に向かう途中の開南交番所に来た時、リーダーたちの指示でデモ隊は交番所の周りをぐるぐる回り始めた。デモの予定コースや行動については学科委員長である私に前もって知らされるが、交番所の周りをぐるぐる回るのを私は知らされていなかった。顔見知りのリーダー格のNがデモ隊の中から出てきて交番所の前に立つと、隠し持っていた火炎瓶を交番所の窓に投げつけた。一発目は燃えなかった。二発目を投げると交番所の中から炎が燃え上がった。デモ隊は威勢が上がったが、私の周囲にいる女性たちは恐怖で顔をひきつらせていた。暫くすると後ろのほうで悲鳴が聞こえた。機動隊が襲ってきたのだ。パニック状態になっている礼子たちはどうしていいか分からないで戸惑っていた。「逃げろ」私は礼子たちに逃げるように指示した。見る見るうちに機動隊は近づいてきた。交番所を焼かれた機動隊の勢いはいつもより激しかった。
「早く逃げるんだ」
私は激しく迫ってくる機動隊を見ながら叫んだ。礼子たちは平和通りのほうに逃げた。私はゆっくり走りながら礼子たちが去っていくのを見守っていたが、機動隊のひとりが私を狙って追ってきた。私は礼子たちとは逆方向の与儀公園の方に向かって逃げた。機動隊はしつこく私を追いかけてきたので私は路地に逃げたが、路地は崖になっていて行き止まりになっていた。私は数メートルの崖下に飛んだ。着地したところは家の庭だった。機動隊からは逃げ切れたが、飛び降りた時に私は足に怪我をした。
 あの時の礼子は逃げる時に転んで手足に軽い怪我をしていた。今日は日の丸と星条旗を県民大会で焼却したために労働者集団に襲撃されたが、革靴をぬかるみに取られた私は立ち止まったりしたので礼子たちより逃げるのが遅れた。後ろから走った私は礼子や他の国文学科の学生を見なかったから今日は転ばないで無事に逃げただろう。

ソ連、中国、モンゴル、北朝鮮、北ベトナムなどアジア大陸のほとんどの国が日本やアメリカと対立する社会主義国家であり、アジアの社会主義圏は拡大しつつあった。ベトナム戦争は敗北の色が濃くなり、南ベトナムが北ベトナムに併合されて社会主義国家になるのは時間の問題だった。米軍が駐留していなければ北朝鮮に侵略される可能性が高い韓国、中国侵略に脅かされ続けている台湾、フィリピンの共産ゲリラの不気味な存在。カンボジアなどの東南アジアの毛沢東主義派の武力攻勢など、アジアは共産主義勢力がますます拡大し、日米政府にとってますます沖縄の軍事基地は重要な存在になっていた。
ベトナム戦争で莫大な国家予算を使って経済危機に陥ったアメリカは沖縄のアメリカ軍基地を維持するのが困難になり、経済力のある日本の援助が必要となっていた。そこで、日米両政府は沖縄を日本に返還することによって、沖縄の米軍事基地の維持費を日本政府が肩代わりする方法を考えだした。
沖縄が日本の一部となれば米軍基地を強化・維持するための費用を国家予算として日本政府は合法的に決めることができる。米軍基地の維持費を日本政府が肩代わりするための沖縄施政権返還計画は着々と進み、1971年6月17日の今日、宇宙中継によって東京では外相愛知揆一が、ワシントンではロジャーズ米国務長官が沖縄返還協定にそれぞれサインした。これで「沖縄返還協定」が1972年5月15日午前0時をもって発効し、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになった。
日米政府による沖縄施政権返還協定に反発したのが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」と日米政府が全然考えていない非現実的な祖国復帰を自分勝手に妄想し続けていた沖縄の祖国復帰運動家たちであった。妄想は妄想であり現実ではない。妄想が実現することはありえないことである。
沖縄を施政権返還すれば沖縄の米軍基地の維持費を日本政府は堂々と国家予算に組み入れることができる。泥沼化したベトナム戦争のために莫大な戦費を使い果たし財政的に苦しくなっていたアメリカを日本政府が合法的に経済援助するのが沖縄の施政権返還の目的であった。それが祖国復帰の内実であった。ところが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」という妄想を吹聴し続けた祖国復帰運動家たちは、祖国復帰が実現するのは祖国復帰運動が日米政府を動かしたから実現したのだと自賛しながらも、施政権返還の内容が自分たちの要求とは違うといって反発をした。妄想の中から一歩も飛び出すことができない祖国復帰運動家たちは祖国・日本に裏切られたなどと文句をいい、日米政府が100%受け入れることがない非現実的な「無条件返還」の要求運動を展開した。
ソ連・中国等の社会主義圏とアメリカ・西ヨーロッパ諸国の民主主義圏との緊迫した世界的な対立やアジアの政治情勢やベトナム戦争の劣勢を考えれば、沖縄の米軍基地を再編強化するための本土復帰であるのは歴然としたものであった。世界やアジアの政治情勢を無視して、自分勝手に描いた妄想でしかない祖国復帰論が日米政府に通用するはずがなかった。

R大学の自治会は、沖縄の施政権返還は日本政府とアメリカ政府の共謀によって沖縄の米軍基地を強化維持するのが目的であることを世間にアピールするために日の丸と星条旗を交錯させて燃やし続けていた。私はその行為は理解できたし賛同もできた。しかし、県民大会の議事進行を邪魔し、演壇を占拠して日の丸と星条旗を燃やすのは横暴な行為だ。許されることではない。あのような横暴なことをやるから一般学生は離れていくのだ。横暴で過激な行為は学生運動を衰退させてしまうだけである。
明日になれば、私が学科委員長だった頃と同じように、それぞれの学科委員長はそれぞれの学科集会を開き、県民大会の演壇で日の丸と星条旗を燃やした意義を学生たちに説明するだろう。しかし、県民大会の議事進行を中断させて、演壇を占拠したことに正当性があるかどうかという問題はなおざりにするだろうし、日の丸と星条旗を燃やしただけで、R大自治会の主張が県民大会に集まった人たちに理解されたかどうかの問題もなおざりにしてしまうだろう。私は過激化していく学生運動にため息をついた。

自治会室から漏れてくる光が暗くなった。誰かが私の居る場所に近づいてきたためだ。照屋さんが来るには早いなと思いながら私は振り向いた。影の正体は女性ではなく男性であった。男は明るい場所から木々が植わっているキャンパスのうす暗い場所に入ったために、私を見つけることができないようだった。
「マタヨシ」
男は私の名を呼んだ。声を聞いて男の正体が分かった。私の名を呼んだ男はMだった。
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