プロ市民の巧妙な投稿

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ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp

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私は自由、人権、民主主義を沖縄や日本の社会からは学んではいない。
教科書とアメリカ映画やフランス映画から学んでいる。
西武劇のカーボーイと日本の武士は違う。
カーボーイは労働者であり武士は支配階級である。
西部劇に登場する保安官は国が雇っているのではなく
町の市民が雇っている。
だから、保安官は町の市民のために働く。
町長も保安官も町の市民が選び、給料は市民の税金で支払う。
これも民主主義の基本である。
教科書では三権分立や議院内閣制について勉強した。
日本の民主主義の基本だ。
民主主義には絶対的に必要な思想がある。それは法治主義だ。

私は「沖縄に内なる民主主義はあるか」の
「琉球処分はなにをしたか」で法治主義について述べた。
明治政府は帝国憲法を制定し、
政府は法律を明文化した。
明文化するということは特定の人の勝手で法律を変えることはできない。
国民は身分の関係なく同じ法律で等しく裁かれるというのが法治主義だ。
民主主義になくてはならないのが法治主義である。
法律は国民の選挙で選ばれた国会議員がつくる。
そして、
国会で制定した法律を国全体に平等に施行する。
これが間接民主主義の原則だ。このことはほとんどの人が知っていることだ。
ところが沖縄の大衆運動は民主主義をはき違える。

1968年に、琉球政府の立法院で、
本土の国会ではすでに可決されていた教公二法を採決しようとしたとき、
立法院を取り巻いた教職員組合員たちは立法院突入を阻止しようとしたて
警察員を実力でゴボウ抜きにして、
立法院に突入し、
議員たちを散らし教公二法の採決を阻止した。
これは沖縄の大衆運動の視点から見れば民主主義の勝利ということになる。
しかし、米民政府は民主主義崩壊の危機だと嘆いている。
米民政府は沖縄の人たちの選挙で選ばれた議員に最高の権威があり、
立法院で法律を制定するのを民主主義だとと考えている。
しかし、
沖縄の大衆運動家たちは大衆運動の要求を実現することが
民主主義だと考えている。


タイムスに投稿している高木さんは、
オスプレイ配備反対の大会に参加することは、
単に反基地を唱えているのではなく、
本当に求めているのは民主主義だと述べている。
そうだろうか。
なぜ、反基地を訴えることが民主主義に関係があるのだろうか。
オスプレイ配備をはじめ基地問題は日本の国防問題である。
日本国全体に責任がある日本の政府が考え、
方針を決めるべき問題である。

日本民主主義国家である。
表現の自由が保障されている。
たとえ、国が決めたことでも反対の主張ができる。
もし、政府の方針に反対する運動が全国的に広がっていった場合は
政府の方針を変えることもできる。
それができるのは
日本が民主主義国家だからである。

国が決めたオスプレイ配備に反対する県民大会を
堂々と開催することができるのは日本が民主主義国家だからである。
中国のように独裁国家だったら開催はできない。
それどころか計画した人間たちは逮捕され刑務所行きだ。
日本が民主主義国家だから国の方針反対する県民大会を開催することができることを
私たちは理解するべきである。

高木さんは、
「小さな島のたった140万人の県民が、
日本政府や自由の国アメリカへ民主主義求めるのです。
すごいことではありませんか」」と述べている。
日本政府は1億人余の代表者である。
アメリカの政府は3億人余の人口の代表である。
計4億人の日米の代表者である日米政府が決めたことに
140万人の県民が決めたことを訴えることが
どうして民主主義を求めることになるのか。
高木さんは140万人県民と言うが、
まだ、正式に140万人県民の賛否投票をしていない。
それなのに140万人県民が基地反対していると
決めつけるのは間違っている。
県民大会を開催し、
1万人集まろうが3万人集まろうが
県民大会を開催したことで140万人県民が基地反対していると
決めつけることも間違っている。
賛否の投票もしていないのに140万人の県民が基地反対していると決めつけることは
民主主義に反する考えである。
米軍基地賛成の県民も多くいる。
高木さんが「140万人の県民」が基地反対していると決めつけるのは、
基地賛成の人々の存在を一切許さないという全体主義思想家であるからである。

オスプレイ反対の県民大会は
個人の主張を認める民主主義国家だからこそ開くことができる。
しかし、県民大会は国民に選ばれた人たちの集まりではない。
国防を左右する問題を数万人の個人の集合である県民大会は
国への要求を決めることはできるが、
議会制民主主義の日本では国防については
政府が決めるのであり県民大会で決める権利はない。

日本が民主主義国家だから
オスプレイ配置反対の県民大会を合法的に開くことはできるが、
日本が民主主義国家であるから
国民が選んでいない県民大会に集まった人々がオスプレイ配置反対を決めて、
それを実施することはできない。
オスプレイを沖縄に配備するというのは
民主主義のルールに従っている。
しかし、日本は民主主義国家であるから、
国民のほとんどが反対すれば中止させることができる。
オスプレイ問題はオスプレイに故障が多く危険であるから配備に反対している。
政府はオスプレイが安全だというアピールに必死である。
このように
民主主義ルールに従ってオスプレイ問題は進んでいる。

オスプレイ配備反対の県民大会には
民主主義を求めるような内容は全然ない。
オスプレイ配備反対の県民が集まるだけのことであり、
大衆運動である県民大会には政治的な拘束力はない。
それなのに
高木さんはオスプレイ反対の県民大会が本当に求めているのは民主主義だという。
オスプレイ配備反対・反基地を主張する人々が集まっただけで
なぜ民主主義を求めることになるのか。
内容がぜんぜん繋がらない。
おかしな理屈である。

皆さんは
この投稿は普通の人が書いたと思うだろう。
私はそうは思わない。
この投稿文は
反基地を訴えることが民主主義を訴えることであると述べているが、
反基地を訴えることは民主主義を訴えることとは関係がない。
この投稿文は民主主義者なら反基地を訴えるのが当然であるというふうに
民主主義という言葉に弱い市民を
反基地運動に巻き込むのを目的にしている投稿なのだ。

丁寧でとてもやさしい文章でありながら、
「民主主義」さえ基地反対運動の道具にする文章なのだ。
民主主義を軽視し侮辱している投稿である。
このような巧妙な文章が書けるのは
プロ市民と呼ばれている連中だ。
高木さんは恐らくプロ市民だろうな。

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