お寺さんぽ Ver.03

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野田・福島合戦の勝利 (三好家の人々)7

2009年07月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。

永禄十年(1567)
しだいに対立を深めた三人衆と「松永久秀」は、畿内にて激突。
”東大寺焼き打ち”という奇策によって危機を脱した久秀ですが、永禄十一年(1568)に上洛した「織田信長」にあっさり降伏するのです。
一方、六角氏と結んで上洛軍に対抗した三人衆ですが、素早く軍事行動をおこした織田勢には成す術もなく撤退。
信長不在を狙った永禄十二年(1569)の「六条合戦」でも織田勢に敗北し、急速にその勢力を失っていくのでした…。


元亀元年(1570) [野田・福島合戦]
朝倉領へと侵攻した信長は、皆様よく知るように浅井勢の寝返りによって、総崩となりました。
(※この際に「松永久秀」は寝返らず、同行して終始彼を守り続けています)

この機を逃さずに、再起をかけた三好三人衆。
阿波「篠原長房」からの援軍も得て、摂津へと侵攻した三好勢は野田・福島に城を築いて織田勢に抵抗を見せました。
その兵力は、一族ほか美濃から追われていた「斎藤龍興」、雑賀衆などで膨れ上がり、1万5千ほどの大軍となります。
また、三人衆が城を築いた野田・福島の地は摂津と山城を結び、西には尼崎港があるという要所だったのです。

さて、この急報を受けた「織田信長」は、すぐさま岐阜を出陣。
数日のうちに、天王寺付近へと本陣を置き、四万という大軍勢によって両城を囲みました。
ここで織田勢は攻囲をじわじわと強化すると共に調略を仕掛けており、別所氏ほか各勢力の寝返り、切り崩しを成功させています。

こうした織田の作戦は的中し、まさに陥落間近…というその時!

これまで中立であった石山の「顕如(本願寺光佐 ※写真)」は、檄文によって門徒衆を召集。
全面対決を決した本願寺一派が、なんと夜に織田勢の背後を襲撃したのです!!

これによって攻守入れ替わった織田勢はたちまち浮足立ち、また東方面でも朝倉・浅井勢が挙兵したことを受け、すぐさま総撤退するのでした。

余談ですが、この際には仇敵である浅井氏と結んだ「六角義賢」も、近江にて反織田の兵を挙げています。
後に野洲川に布陣した六角勢は、織田方「柴田勝家」、「佐久間信盛」などの軍勢によって”主要国人のほとんどを失う”という壊滅的な敗北をするのでした。
よわよわです。

ともかく、こうして三好三人衆らは粘り勝ちをし、一時的にせよ織田勢の排除に成功しました。
信長はやむなく反対勢力らと次々に和議を結び、とりあえず三人衆らを阿波へと撤退させたのです。
しかし、ほどなくして信長と不和になった将軍「足利義昭」が信長に背くと、すぐさまこちらに同調。
信長包囲網の一角として、さらなる抵抗を続けることとなるのです。
もう過去の敵とかなんとかは関係ありません(笑)

なお、阿波の名将「篠原長房」ですが、彼は元亀二年(1571)頃に信長へ降伏し、三好家の存続を図っております。
この判断は、切れ者である彼の才を感じさせますね。

⇒ つづく。
  次回は「信長包囲網と三好勢」(8/9)

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信長が宿敵 本願寺顕如
鈴木 輝一郎
毎日新聞社

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※信長を徹底的に苦しめた、宿敵・本願寺。
 ゲームなどでも実にイヤな存在ですよねー。