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敵将も畏怖する戦巧者「島津家久」 (沖田畷合戦1)

2010年12月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

島津と聞いて真っ先に思い出すのは…”鬼島津”こと、関ヶ原の敵中突破で有名な「島津義弘(しまず・よしひろ)」でしょう。
戦のプロフェッショナルですよね。
しかし、島津家にはその義弘に勝るとも劣らない、戦巧者がいるのでした。
敵将も畏怖したという、義弘の弟「島津家久(しまづ・いえひさ)」です。
これから紹介する「沖田畷合戦」は、その才が遺憾なく発揮されたものなのです。


天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
中央ではその配下だった「羽柴秀吉」が着々とその地盤を固めていた頃。
九州に目を向けると、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
兵力では半数以下という、圧倒的に不利な島津勢。
それを率いて見事全軍を勝利に導き、大将「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」を討ち取ったその人こそ、今回の主人公「島津家久」なのです。


さて、まずは薩摩の島津氏の状況から。
鎌倉時代から続く名族、島津氏。
当主の「島津義久」は分裂していた島津家を統一した祖父・父の後を継ぎ、薩摩から支配を大きく拡大させていました。
伊地知氏、肝付氏を攻略して大隅までを手中にすると、日向の伊東氏を圧倒。
九州最大の大名「大友宗麟」率いる大部隊が迫った天正六年(1578)の「耳川合戦」では、得意の”釣り野伏”によって大友勢を耳川に破ったのでした。
こうして、続いて肥後へと進出した島津氏は、相良氏・阿蘇氏を追って南九州を固めつつあったのです。

今回の主人公「島津家久」は「島津貴久」の四男です。
天文十六年(1547)に誕生した彼は、義久とは十四、義弘とは十二歳違いの弟。
祖父「島津忠良(日新斎)」からは、
軍法戦術に妙を得たり
という評価を得た戦巧者で、先の「耳川合戦」でも活躍しています。

⇒ つづく。
 ※次回は「五州二島の太守・龍造寺氏」(2/6)


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