お寺さんぽ Ver.03

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誕生、”北信濃最強武将” (村上義清4)

2011年03月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)※写真」です。

クーデターによって家督を継いだ「武田晴信」
信濃へ侵攻するとたちまち諏訪氏、大井氏、高遠氏などを下し、村上氏と対立することとなったのでした。
上田原にて激突した両軍勢でしたが、地の利を生かした村上勢が優位。
両腕と言われた「板垣信方」、「甘利虎泰」が討死するほか、晴信自身までもが傷を負う大敗となったのです。
しかし、その敗戦に乗じた信濃守護「小笠原長時」が武田勢にあっさり駆逐されたことで、反武田勢力の勢いは弱まってしまったのでした。
もう、余計な事するんだからー。


天文十九年(1550)
「上田原合戦」から二年後のこと。
”東には神川へのぞむ崖、西も険しく、山上は広く要害堅固、規模広大”
…という、小県郡の山城・戸石城。
かねてより、晴信はこの戸石城を狙っていたと言われています。

「高梨政頼」との争いから、義清自らが出陣していたのを好機とし、再び晴信は軍勢を動かしました。
しかし、その報を受けた義清は逆に政頼と結び、共に戸石城の救援へと駆け付けてきたのです。
これは、義清が単に武力一辺倒の大将ではなかったことを示していると思います。
こちらの合戦が晴信にとって二度目となる敗戦、「戸石城攻防戦」です。

戸石城を攻囲して一ヶ月という武田勢。
軍勢を急遽反転させた義清の報に接した晴信は、撤退を決意しました。
しかし、六千の村上勢はそれを執拗に追撃。
戸石城から討って出た守備隊と挟撃されてしまうのです。
こうして、殿軍となった備中守「横田高松(よこた・たかとし)」が討死したほか、千ほどの兵を失う大敗となるのでした。

これが”戸石崩れ”と、世に宣伝された敗戦です。
なんと、この「村上義清」は二度に渡って戦国最強軍団と言われた武田勢を退けているのです。
スゴイでしょ。
”北信濃最強武将”
そう呼ばれていたのも、決して伊達ではありません。

ちなみに、またまたそれに乗じて旧領回復をめざした懲りない信濃守護「小笠原長時」
家臣「平瀬義兼(ひらせ・よしかね)」を頼って筑摩群へ侵攻を図りましたが、こちらでも失敗。
武田勢の総攻撃を招く切っ掛けとなり、以後長時は流浪生活となっていくのでした。
この名目上での支配者と、自力で勢力を拡大した実力者の対比がちょっと可笑しいですね。

⇒ つづく。
 ※次回は「最強武将を手玉にした真田の智謀」(5/6)


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