のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」の決着・その後についてです。
天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
沖田畷にて、守備陣形で待ち構える「島津家久」
兵力に勝る「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」は序盤から力押しに押していましたが、家久の仕掛けた島津得意の”釣り野伏”の術中にはまってしまったのです。
左右累壁からの攻撃によって先鋒隊が崩されると、縦に細長く伸びていた全軍に影響。
湿地帯で思ったような動きが取れない龍造寺勢は、まるで将棋倒しのように全軍が崩されてしまうのでした。
総崩れとなった龍造寺勢。
囲まれた主だった将、龍造寺四天王の「成松信勝」、「百武賢兼」、「江里口信常」、「円城寺信胤」らも、ことごとく討死。
うち、「百武賢兼」は隆信を逃がすべく急襲の島津勢に向かい、主従四十名がことごとく討死。
「円城寺信胤」は隆信と同じ出で立ちで影武者を務めていましたが、味方が劣勢となる中で
「我こそは龍造寺山城守隆信である!」
そう名乗って突撃し、討死。
信胤と共に戦奉行を務め、本陣を守って奮戦していた「成松信勝」も名乗りを上げて敵中へと突撃し、主君の跡を追っています。
また、「江里口信常」は隆信の討死後に家久の陣中へと肉薄したものの、ぎりぎりで発見され、その家来に斬られています。
この際、敵将ながら剛直さに感動した家久は、「無双の剛の者、助けよ、助けよ」と皆を制止したものの間に合わず、
「子があれば養子に申し受けたい」
そう言ったそうです。
肥満のため、合戦では駕籠に乗っていたという総大将「龍造寺隆信」
本陣・背後にての斬り合いを、当初は味方の喧嘩だと勘違いしたそうです。
そう、彼が気付いた頃には、すっかり敵勢に囲まれていたのでした。
それほどの油断があったのですね。
駕籠は六名の配下に担ぎ手をさせて指揮を取っていましたが、最終的には彼らにも見捨てられ、島津方の「川上左京」に討ち取られるのでした。
享年五十六。
こうして、龍造寺勢は当主を失い、また総勢で二千という戦死者を出す大敗となったのでした。
右翼にて軍を支えていた重臣「鍋島直茂」
こちらも、中央部隊の壊滅によって総崩れになっています。
なお、龍造寺四天王にも数えられる「木下昌直」は総崩れとなった後に殿軍を務め、直茂の戦線離脱を見届けた上で敵中へと斬り込み、ここで壮絶な討死をしています。
隆信の子「龍造寺政家」が病弱で戦国武将としての才もなく、国政は直茂が代行していくこととなるのでした。
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やっぱりどんなんか見てから買いたいですもんね。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」の決着・その後についてです。
天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
沖田畷にて、守備陣形で待ち構える「島津家久」
兵力に勝る「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」は序盤から力押しに押していましたが、家久の仕掛けた島津得意の”釣り野伏”の術中にはまってしまったのです。
左右累壁からの攻撃によって先鋒隊が崩されると、縦に細長く伸びていた全軍に影響。
湿地帯で思ったような動きが取れない龍造寺勢は、まるで将棋倒しのように全軍が崩されてしまうのでした。
総崩れとなった龍造寺勢。
囲まれた主だった将、龍造寺四天王の「成松信勝」、「百武賢兼」、「江里口信常」、「円城寺信胤」らも、ことごとく討死。
うち、「百武賢兼」は隆信を逃がすべく急襲の島津勢に向かい、主従四十名がことごとく討死。
「円城寺信胤」は隆信と同じ出で立ちで影武者を務めていましたが、味方が劣勢となる中で
「我こそは龍造寺山城守隆信である!」
そう名乗って突撃し、討死。
信胤と共に戦奉行を務め、本陣を守って奮戦していた「成松信勝」も名乗りを上げて敵中へと突撃し、主君の跡を追っています。
また、「江里口信常」は隆信の討死後に家久の陣中へと肉薄したものの、ぎりぎりで発見され、その家来に斬られています。
この際、敵将ながら剛直さに感動した家久は、「無双の剛の者、助けよ、助けよ」と皆を制止したものの間に合わず、
「子があれば養子に申し受けたい」
そう言ったそうです。
肥満のため、合戦では駕籠に乗っていたという総大将「龍造寺隆信」
本陣・背後にての斬り合いを、当初は味方の喧嘩だと勘違いしたそうです。
そう、彼が気付いた頃には、すっかり敵勢に囲まれていたのでした。
それほどの油断があったのですね。
駕籠は六名の配下に担ぎ手をさせて指揮を取っていましたが、最終的には彼らにも見捨てられ、島津方の「川上左京」に討ち取られるのでした。
享年五十六。
こうして、龍造寺勢は当主を失い、また総勢で二千という戦死者を出す大敗となったのでした。
右翼にて軍を支えていた重臣「鍋島直茂」
こちらも、中央部隊の壊滅によって総崩れになっています。
なお、龍造寺四天王にも数えられる「木下昌直」は総崩れとなった後に殿軍を務め、直茂の戦線離脱を見届けた上で敵中へと斬り込み、ここで壮絶な討死をしています。
隆信の子「龍造寺政家」が病弱で戦国武将としての才もなく、国政は直茂が代行していくこととなるのでした。
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