お寺さんぽ Ver.03

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非凡な嫡男・父の念願を果たす (村上義清6)

2011年04月03日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日が源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)※写真」のラストです。

信濃へ侵攻した甲斐の若き大将「武田晴信」
これに義清は上田原で大敗させたほか、戸石城攻防戦でも”戸石崩れ”という痛い敗戦を味あわせたのでした。
しかし、晴信に仕えていた「真田幸隆」は調略によって次々にその勢力を削ぎ、晴信念願の戸石城をも調略によってあっさり攻略。
こうした事態に動揺した北信濃の国人らは、こぞって村上方より鞍替えをしてしまうのです。
ついに葛尾城を支えられなくなった義清は、越後の龍「上杉謙信」を頼って落ち延びたのでした。

天文二十二年(1553)
葛尾城の落ちた数ヵ月後には、謙信の支援もあり八幡にて武田勢に勝利。
この時は葛尾城の奪回に成功しておりますが、反撃を受けて越後へと撤退しております。
さらに三カ月後、上杉の主力と共に信濃へと侵攻。
ここでは先鋒として出陣した義清は、布施での合戦に武田勢の先鋒を崩すなど活躍していました。
しかし、決戦を避けた武田勢がため、兵を退いています。
こちらが第一次の「川中島合戦」です。

武田・上杉が激突した「川中島合戦」には二度ほど従軍している義清。
しかし、結局望みは果たせなかったのです。

晩年はその庇護を受け、根知城を預けられて越後西浜地方を支配しておりました。
元亀元年(1573)にて越後・根知城で病死。
享年七十。
菩提寺は長野県埴科郡は「満泉寺」です。

上杉勢に属した嫡男「村上国清」
父と似て非凡な才を発揮し、信濃、越中などを転戦して活躍しています。
「上杉謙信」にも気に入られ、その側近となていました。
謙信に代わって書状を発行する要職を得たほか、越後の名族であった山浦上杉家を継いで「山浦国清」との名乗りになりました。
こうして、一門衆並みの厚遇を受けるのです。
なお、上洛から急遽沈黙した「武田晴信」について疑問を持ち、その死を謙信まで伝えたのも国清であったようです。
相続争い「御館の乱」でも、判断良く「上杉景勝」を支持して勝利に貢献。
その一字を拝領して、「山浦景清」となったのです。

天文十年(1582)
この年には信濃四郡の代官として「海津城」を与えられ、父の念願だった信濃復帰を果たしております
(※後に越後へ帰還してますが)
さらに、徳川家との外交交渉にも尽力。
後の「小田原城合戦」でも「上杉景勝」と共に従軍し、こちらでは先鋒を任されています。
謙信に続き、よく景勝を補佐しておりました。

なお、上杉勢として活躍する彼の陣中へ手紙を出していた義清。
”家臣を自らの分身とし、人の扱いには留意するよう…”
そうした内容であったようです。
息子の活躍に満足しているという書状もあり、武田勢を駆逐した猛将の優しい一面が垣間見えます。
調略によって崩されるあたりを含め、おそらくこの方は単純にイイ人だったのではないでしょうか。




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