お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

五州二島の太守・龍造寺氏 (沖田畷合戦2)

2010年12月12日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
兵力では半数以下という圧倒的に不利な島津勢を率い、見事に全軍を勝利に導いたその人こそ、今回の主人公「島津家久」なのでした。


前回に続いて、島津に対する龍造寺氏。
北九州の大半を押さえていたのは「大友宗麟」でした。
しかし、その宗麟でも服属させることができなかったのが、”肥前の熊”こと佐賀城主の「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」なのです。

もともとは平安時代末期に「藤原季家」が肥前の龍造寺郷(佐賀市)にて地頭職を得たのが龍造寺氏の起こり。
結構古い家柄なんですね。
戦国時代では、守護大名家・少弐氏(しょうにし)の家臣となっていました。
当初は出家していた隆信でしたが後に還俗。
水ヶ江龍造寺、続いて宗家・村中龍造寺を相続しています。
一時期は内紛によって逃亡生活を送っていましたが、蒲池氏の支援を受けて帰国しました。

戦国大名としての地位に返り咲いた隆信は、曾祖父「龍造寺家兼」が見抜いていたその才を発揮。
主君筋である少弐氏を筑後へ追放するのでした。
九州地方ではなかなか珍しい、下剋上を果たしているんですね
以後は肥前の周辺豪族を次々と破り、やがて大友氏とも対立。
これには、安芸の毛利氏と結んで抵抗しています。

元亀元年(1570)
宗麟の弟「大友親貞」の率いる六万という大軍勢に取り囲まれています。
この絶体絶命の危機を「鍋島直茂」の奇襲策によって撃破する(今山合戦)などしぶとい抵抗を見せるのでした。
大友氏とは結局は和議を結ぶこととなったものの、その支配下でしたたかに勢力を拡大。
「有馬晴信」、「大村純忠」という諸将を下して肥前の統一に成功すると、天正六年(1578)の「耳川合戦」後の大友氏の混乱に乗じて積極的に出兵。
肥後、筑前、筑後…と、勢力を拡大していくのでした。
こうして、龍造寺氏は九州を三分する一家にまで勢力を拡大、”五州二島の太守”となっていたのです。

⇒ つづく。
 ※次回は「離反を招く龍造寺氏」(3/6)


[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 戦国時代の幕開け「北条早雲」 <前編> <後編>
⇒ 暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [  ]
⇒ 梟雄?名将?不確かな東北出世頭 「津軽為信」 [ ]
⇒ 謀略が得意な天性無欲正直の人 「尼子経久」 [    ]
⇒ イケてる三好軍団 「三好長慶とその一族」 [         10]


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】



最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (のりちゃん)
2015-05-27 12:22:29
はじめまして
先祖をたどって,もう調べるのは無理かなと言うことが一つ残っています。
私の先祖は、古くは北肥戦史にも出ています、沖田縄手で戦死した石丸彌次郎です。隆信の法要に参列している戦死者の子孫の名簿の中に,曾祖母の弟の名がありました。法要のたびごとに参列した人物名が書かれていましたので,代々名が分かりました。
ところで,おそらく隆信と同じ世代に,村中龍造寺系の龍造寺胤家の子孫の中に龍造寺鎭家がいます。改姓して石丸備後守といまも佐賀市内寺の墓地にあります。
石丸氏が出てくるのは,隆信が筑後に追いやられて,再び佐賀城へ攻めるときに,伴った者たちの中に石丸氏が出てきます。石丸備後守とか,与賀・川副の郷士石丸氏とあり,この2つは別なのか同一人物なのか分かりません。
私の先祖の石丸彌次郎が龍造寺鎭家の関係なのか知りたいのですが,文献もないし、行き止まっています。やはり石丸備後守の過去帳だけが手がかりでしょうかね?
返信する