Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

中東、日本タンカーと米原潜の衝突にて解った事

2007-01-21 23:53:10 | 日記・エッセイ・コラム

本当に辛い休日となった。先日の金曜に我が祖父が大往生、その告別式が終わるや否や、今度は大切な当Cafeの知友が急逝、一度に2人の恩人を失い心中穏やかならじと言う所。今夜は果して、眠れるだろうか。

さて海外の中東も不穏な情勢となりつつある。今月初め、この地区のペルシャ湾にて我国大型タンカーと合衆国海軍の原子力潜水艦が衝突する事故を生じたのは周知の所だが、同原潜は緊迫の度合いの増すイラン、イラクの両共和国に向けた隠密作戦行動中だった様だ。

イランと言えば、核兵器開発疑惑に揺れる渦中の国。対米強硬姿勢にて知られる同国の現大統領は、あくまで核兵器開発を完遂する意思表示をしている。更に同国はイスラム教シーア派が政治面でも圧倒的多数を占める事で知られ、隣国イラクもこの宗派が優勢である。為に合衆国は、イランの核技術がイラクへと流れる事を恐れての牽制目的の作戦でもある様だ。

我々日本人が深く自覚し、認識しなければならないのは我々の生活に不可欠な石油資源の殆んどが、危険なこの地域、そして海域を通って輸入されていると言う事だ。それ故一度ペルシャ湾一帯が危険な状況に陥れば原油の輸入は滞り、一気に品薄と価格高騰に見舞われる事であろう。合衆国海軍は情勢の如何によっては、対イラン軍事行動をも辞さない姿勢でせあると言われる。この様な状況に対し、我国として何ができ、どの様な貢献が可能かが真剣に検討されても良いのではないか。我国のエネルギー安全保障の為にも・・・。

Dscn1819

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逝く者は、待ってくれない

2007-01-21 00:21:00 | インポート
コナサン、ミンバンワ!今夜はご報告が1つ。
一昨日の早朝、母方の祖父が逝去致しました。1910=明治43年秋、長野県南信の出身で享年96。親族より聞いた話では、大往生に相応しい安らかな最期であった由。寿命より来る致し方ない事態とは言え、その事が何よりと思います。今夜は暫し、私が幼少の頃良く世話になった、この恩人の事を一時偲ばせて頂きたく思います。

今思い返すと、祖父の人柄は厳格なるも、どこかに温かさが隠されたものがあった様に思います。
私が生まれて以来、ずっと遠巻きに見守ってくれていた所、叱咤も多かったものの、深い所で背中を押してくれた所、そして職業人として、お世話になった各位を常に大切に思い続けた所・・・どれも私がどう逆立ちしても追いつけない事共でした。
多くの人々の親であった事も、その大きな1つでしょう。
又多くの親族が仲良く過す事を無上の楽しみとしており、最近は多忙にて中々会う機会のないこの者達に対し「俺の最期位皆で見送ってくれよ!」とのサインを、無言の内に発していたのかも知れません。

口は頗る良くなく、子供たる我が母や、親族達からも煙たがられる事しきり。
それでも一度失われてみますと「癖もあったがやはり、優れた人物だったのではないか」との想いを新たにさせられる気がします。
思えば今の私の文化的姿勢、祖国の尊厳と固有文化の尊重や皇統、そして戦没及び戦災被害各位に対する敬意の念も、問わず語りの内に、祖父がその線路を敷いてくれていた様な気がするのです。

戦後はずっと我が故郷、東三河にてその生涯を過しますが、今も残る居所の筋向いに私の幼少の頃あった、笠の付いた白熱灯の外灯のスイッチを毎夕入れに出、朝起きると切りに出るのが祖父の日課の1つでした。
レトロな家並みと相まってとても絵になる図であり、我が記憶に残る最も美しい情景の1つでもありますね。私はその祖父の後姿を眺めるのが好きでした。
又私が出生直後に住んだ、名古屋近郊が伊勢湾台風の大水害に見舞われた折には迅速に救援の手配をしてくれ、大変有難かった話を両親より聞いた事もあります。
戦前戦中の苦難の時代より、我が母を初めとする多くの家族を率いて良く頑張り、孫の我々にも良い姿勢を見せてくれましたが今世紀に入ってからはさすがに不調を隠せなくなり、福祉施設にての療養にも取組んでいた様ですが、遂に一昨日我が父を通じ、訃報に接した次第であります。

昨日はその祖父の告別式。とるのもとりあえず実家にて母、妹と合流し、多くの親族と共に、最後の挨拶を行ないました。
儀式の1つに拾骨がありますが、これは私にとり最も憂鬱な過程であります。
と申しますのも今を去る40年前に、祖父の長男だった叔父が不慮の事態にて早世、気丈な祖父も、この時ばかりは悲痛な面持ちを露わにしました。幼少だった私はその時の拾骨にも参加、その時の辛い記憶が時空を越え、トラウマになっているのかも知れませんね。此度の祖父の時も、その気持ちは遂に変わりませんでした。

祖父は私に時に大声で、又時には無言の内に姿勢にて、様々な事共を教えてくれました。その最期は本当に心の準備もできないままの、突然のものでした。
「逝く者は、待ってくれない」その事こそが祖父から私への、無言にての最後の教えであると、今は信じたく思います。合掌。
P.S 上記の事態により、本来は服喪すべき所でありますが、昨日我が両親より「それには及ばない」との見解が示されました。
従いましてその見解を尊重すべく、来年初の新年挨拶は、現状例年通りとさせて頂く所存です。*(日本)*
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