先日父の死のことを書いた証し文章「心のフィルムに」(ペンライト賞佳作作品)を掲載しました。
改めて自分の文章を読んだとき、クリスチャン用語を使っていることに気づきました。
「父に福音を伝えました」と書いてあったのです。
あかし文章は、キリスト教を知らない人にもわかるように書くというのが基本です。それなのにわたしは「福音」と書いていました。
福音とは何だろう? と思われた人もおられるでしょう。福音は『ふくいん』と読みます。
福音についてブログに書こうと思っていたちょうどそのとき、日曜の礼拝で福音についてのメッセージを聞きました。
パウロは、福音を『もっとも大切なこと』として伝えたといっています。
福音とは何か、聖書には次のように書かれています。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと、またケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。(Ⅰコリント15:3)」
(ケパとはペテロのことです。)
つまり、福音とは、大きくふたつに分けると、①キリストが死なれ、葬られたこと。
②キリストがよみがえられ、人々に現れたこと。です。
ローマ人への手紙には
「主イエスはわたしたちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(ロー:マ4:25)」
と書かれています。
キリストの死とよみがえりは、教会ができたころからの最初からのメッセージです。
ギリシャ語では①の「キリストが死なれ、葬られたこと」は過去形になっているのに、②の「キリストがよみがえられ人々に現れたこと」は完了形で書かれているそうです。
完了形として書かれている理由は、キリストがよみがえっただけでなく、それが継続している。すなわち、今も生きておられるという意味だと聞いたとき、「アーメン(その通りです)」と心の中で言いました。
「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。(ローマ6:9)」
わたしはキリストの復活を信じていますし、キリストが(目には見えませんが)いまも生きておられることを実感しています。でも、復活を信じることができない人にどう説明したらよいかわかりません。それは科学的に証明することができないからです。
②は完了形と同時に受身形になっているそうです。つまり、神の力によってキリストがよみがえらせられたという意味が込められているそうです。
「私たちの罪のために死なれたこと」という文は「私たちの代わりに」とも訳されるそうです。
キリストは、私たちの身代りに死んでくださいました。そしてよみがえったということは、キリストの死が身代わりとして有効であるという証拠だそうです。
つまり、よみがえりは、罪の赦しの証拠なのです。
わたしは神様をほめたたえ、心から賛美します。でも、その同じ口で悪口を言ったり、嘘をつくという罪を犯してしまう者です。
自分の人格にゆがみがあること。ほつれがあることを認めます。どうしようもなく落ち込んで、自分を責めてしまうこともありますが、そんなときは、泣きながら祈ります。
そうすると「泣かなくていい。お前はもう赦されているんだよ」というイエス様の言葉が聞こえてきます。
よみがえられたイエス様が生きてわたしに働きかけておられる証拠です。
いのちと平安を与えて下さるイエス・キリストに心から感謝します!。
*写真は昨日教会の帰りに撮った筑波山。今日は雨でけむっています。