3日は大雨でしたが、息子一家と車で大洗水族館に行ってきました。GW中の息子の休みが3日と6日だけだというので、3日に出かけることにしました。
水族館はとても混んでいてゆっくり見学できませんでした。イルカショーも一時間以上並ばないと見ることができないと言われて、並ぶのをあきらめました。(下の水槽で水中でのようすを見ることができてよかったです)
キッズコーナーに行くと、ヒックンは喜んで遊具に登って遊び始めました。このようなキッズランドにひとりで入れるようになったのはつい最近のことです。
帰りに「何が楽しかった?」と聞くと、「キッズランド!」水族館よりイオンに行った方がよかったのかな?……。
日本クリスチャン・ペンクラブで「私と聖書の言葉」の800字エッセイを書く課題が出ています。今日になってやっと書き始めました。
下書きを紹介します。このあと20回ぐらい推敲するので、出来上がりの文章はだいぶ違ったものになりますが、テーマは同じです。
存在価値が認められて
○常に何かを心配し緊張している。
○社会人としての資格が不十分で劣っていると思っている。
○バカにされたり拒否されたりするのが恐ろしくて友人にも遠慮する。
○傷つくことを恐れて生活の場を狭めたりして異常なほどに引っ込み思案になる。
これらは回避性人格障害の特徴なのだそうです。これを読んで、すべてが中学生のころのわたしに当てはまっていると思いました。2番目は、社会人ではなく人間としての資格ですが……。
わたしは非常に劣等感が強く、人間失格のように思っていました。存在理由がわからず、生きる価値がないと思っていました。
なぜ自分が劣っていると思ったのかわかりません。すべてに自信がなく、何をやってもだめだと思い込んでいました。
友達にバカにされたり、嫌われることを恐れて、自分の意見や考えを言うことができませんでした。授業中の手を挙げての発言など、もってのほかです。そんなことするくらいなら死んだ方がましと思っていたほどですから、相当の引っ込み思案です。
高校生になってからは、自分を変えようと努力して積極的にふるまっていました。でも、自分の存在について疑問を抱いたままでした。
大人になっても、誰かからほんの少し批難されただけで人格のすべてを否定されたように思い、何日も食事がのどに通らないほど落ち込んでいました。
そんなわたしが根底から変えられたのは、『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』という聖書の言葉でした。
天地万物を造られた神様は、わたしたち人間のことも造って下さいました。造っただけではなく、母親の胎の中にいるときから愛を注いで下さいました。神様は片時も目を離すことなくご覧になり、育み、導いてくださいました。その神様がわたしのことを高価で尊いと言い、大切に思って下さるのです。
立派に生きられなくても、欠点があっても、存在そのものが尊いと言って下さる神様。
そのままでいいと言って下さる神様。
存在価値が認められて、自分が生きていていいのだとわかって、心から安堵しました。
人を恐れず、自分の意見が言えるようになったのは、この聖書の言葉に出会ったからです。
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水族館はとても混んでいてゆっくり見学できませんでした。イルカショーも一時間以上並ばないと見ることができないと言われて、並ぶのをあきらめました。(下の水槽で水中でのようすを見ることができてよかったです)
キッズコーナーに行くと、ヒックンは喜んで遊具に登って遊び始めました。このようなキッズランドにひとりで入れるようになったのはつい最近のことです。
帰りに「何が楽しかった?」と聞くと、「キッズランド!」水族館よりイオンに行った方がよかったのかな?……。
日本クリスチャン・ペンクラブで「私と聖書の言葉」の800字エッセイを書く課題が出ています。今日になってやっと書き始めました。
下書きを紹介します。このあと20回ぐらい推敲するので、出来上がりの文章はだいぶ違ったものになりますが、テーマは同じです。
○常に何かを心配し緊張している。
○社会人としての資格が不十分で劣っていると思っている。
○バカにされたり拒否されたりするのが恐ろしくて友人にも遠慮する。
○傷つくことを恐れて生活の場を狭めたりして異常なほどに引っ込み思案になる。
これらは回避性人格障害の特徴なのだそうです。これを読んで、すべてが中学生のころのわたしに当てはまっていると思いました。2番目は、社会人ではなく人間としての資格ですが……。
わたしは非常に劣等感が強く、人間失格のように思っていました。存在理由がわからず、生きる価値がないと思っていました。
なぜ自分が劣っていると思ったのかわかりません。すべてに自信がなく、何をやってもだめだと思い込んでいました。
友達にバカにされたり、嫌われることを恐れて、自分の意見や考えを言うことができませんでした。授業中の手を挙げての発言など、もってのほかです。そんなことするくらいなら死んだ方がましと思っていたほどですから、相当の引っ込み思案です。
高校生になってからは、自分を変えようと努力して積極的にふるまっていました。でも、自分の存在について疑問を抱いたままでした。
大人になっても、誰かからほんの少し批難されただけで人格のすべてを否定されたように思い、何日も食事がのどに通らないほど落ち込んでいました。
そんなわたしが根底から変えられたのは、『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』という聖書の言葉でした。
天地万物を造られた神様は、わたしたち人間のことも造って下さいました。造っただけではなく、母親の胎の中にいるときから愛を注いで下さいました。神様は片時も目を離すことなくご覧になり、育み、導いてくださいました。その神様がわたしのことを高価で尊いと言い、大切に思って下さるのです。
立派に生きられなくても、欠点があっても、存在そのものが尊いと言って下さる神様。
そのままでいいと言って下さる神様。
存在価値が認められて、自分が生きていていいのだとわかって、心から安堵しました。
人を恐れず、自分の意見が言えるようになったのは、この聖書の言葉に出会ったからです。

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神様からみて『高価で尊い』のです。
現状を見てわたしたちのことをそう言ったのではありません。
わたしたちは、神の似姿に作られたのです。
罪の多きわたしたちの現状を見ていません。
キリストの血によって『高価で尊い』と言っていた『本当のわたしたち』をこれほどまで愛してくれました。
わが子を十字架に捧げるまでわたしたちを愛してくれた神に感謝し、わたしたちの身分と特権がどれだけ素晴らしいか…感謝です。
>神様からみて『高価で尊い』のです。
現状を見てわたしたちのことをそう言ったのではありません。
その通りですね。わたしたちの現状にかかわらず、高価で尊いと言ってくださり、ご自分のひとり息子の命を与えてくださるほど大きな神様の愛に感謝ですね。