生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

樹齢100年の桜(その2)

2006-07-28 12:05:44 | 日記

 桜の木に会いに行って本当によかったです。木と会うのは何年ぶりでしょう。娘の小学校卒業式以来だとしたら、8年ぶりでしょうか。しみじみながめると味わい深いものを感じます。幹は岩のようにごつごつしていますが、なでるとポロポロと木の皮がはがれ落ちてきました。あわててそっと押さえました。(ごめんね、痛かった?)

人の胴まわりほどの太さの枝が張り出しており、何本もの支柱に支えられています。ふたつに裂けた幹から新しい木が出ているのを見て、木の生命力を感じました。


童話の紹介をします。主人公は、若いときは体が丈夫で、男勝りにしゃきしゃきと働いていた人です。年をとってから事故で歩けなくなり、施設に入ります。人の世話になるようになって、生きる意欲をなくしてしまった主人公が、若い介護士に背負われて樹齢100年の桜を見にいくというストーリーです。


この作品を合評してもらったとき、10人中10人が、テーマは『お婆さんが桜の木の生命力に触れて力づけられ、生きる意欲を持つ』というものだと思ったと言いました。違うのです。もちろん、木の生命力に力づけられるのですが、それがいちばん言いたいことではありません。
小学校の校庭の桜を見るためには、車を降りてから階段道を登って行かなければなりません。主人公は歩けないので介護士に背負ってもらうことになります。それが申し訳なくて、つらくて花見に行かないと言っていたのですが……最後には介護士の背中に委ねたということから、『委ねる』がテーマだと説明して納得してもらいましたが、説明しないとわかってもらえないのなら、この童話は作品として失敗です。最初から書きなおさなければ……。


ちょうど昨日の新聞に施設でお風呂に入れてもらいながら泣き叫んでいる人のことが書かれていました。誰だって、人の世話になどなりたくないでしょう。ほとんどの人がどんなに年をとっても自分の身のまわりのことは自分でしたい、(とくにしもの世話をしてもらいたくない)と思っているでしょう。

でも、体が弱って動かなくなり、どうしても人の手を借りなければならなくなったとき、みじめ、悲しい、申し訳ないと思う代わりに、嬉しい、幸せ、有り難うと感じられたら、どんなに楽でしょう。

 
病気や加齢のため弱くなった人が存在するわけは、健康な人のため。弱い人を支えることによって、人間本来の優しさが引き出されるため。自分以外の人を愛するためだと思います。神さまは「私たちは、互いに愛し合いましょう(Ⅰヨハネ4:7)」と言っておられます。弱い人は、社会に必要な人なのです。
つづく

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4 コメント

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「委ねる桜」 ()
2006-07-28 22:06:19
いつもブログをとても楽しみにしています。

そして頑張っていること、すごいなぁ!って。応援していますよ。



私はこの樹齢100年の桜を撮った人から素晴らしい写真を見せていただいたことがありました。 満開の桜の木は何本もの支柱によって支えられみごとな花をつけていました。痛々しくさえ感じました。この支柱がなければ幹が裂け、枝が折れて見事な桜をみることはないでしょう。

桜の木はこの支柱に枝を幹を委ねていると感じました。「介護士に背中を委ねる主人公」「支柱に幹を、枝を委ねる桜」この桜の木の全体を見れば「委ねる」というテーマにぴったりだと思いますが・・・・

勝手にそう思ってしまいました。
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風さんへ (土筆文香)
2006-07-29 17:07:32
応援有り難うございます。

風さんが、わたしのいいたいことをわかってくださって嬉しいです。



いつかはわたしも支柱に身を委ねる桜のようになりたいです。
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Unknown (優子)
2006-07-29 17:41:38
老いて、あるいは病んで人のお世話になる。本当にありがたいと分かるだけではなく、恥ずかしく惨めな気持ちに悲しむでしょう。そしていつしか、それを深く感謝してお世話を受けていく。それが、人として最後の学びの時ではないでしょうか。

お世話をする側もいろんなことを感じ経験します。その姿を見ている若者にもまた計り知れぬ恵みを受けているのですね。

私はそう思います。
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優子さんへ (土筆文香)
2006-07-29 22:04:04
そのとおりです。受け入れて感謝するまで、時間も必要でしょう。人としての最後の学びの時は、尊い時ですね。

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