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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

死について

2010-12-04 11:40:06 | 聖書から
三浦光世さんの本を読んで、死について考えたことを続けて書きます。

「自分の死に顔がどんな顔か心配でたまらない」と言った人がいました。醜くゆがんだ顔だったら、人に見られたくないと言うのです。
苦しみの果てに召された方の顔は苦痛にゆがんでいるかもしれません。でも、見た人は、死によって苦しみが取り去られたので「よかった」と思うでしょう。
誰かに憎しみや怨みを抱いたまま亡くなった場合は、見る人の心を痛めるかもしれません。
でも、感謝と平安のうちに召されたら、その顔は見る人に慰めを与えるでしょう。

また、前の記事にも書きましたが、死に方、死にざま、死ぬ時期は自分では決められません。そのことについて心配してもはじまらないのです。

でも、感謝と平安に満たされて召されたいですね。
感謝と平安に満たされるにはどうしたらよいのでしょう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。(Ⅰテサロニケ5:18)」
と聖書に書かれています。

わたしは最初にこのみ言葉を読んだとき、いつも喜ぶなんてとてもできないと思いました。
予期せぬ災害、突然の事故、愛する人の死、そして自分の死・・・・そんなことが起こっても喜べるのでしょうか?

喜ぶのは、『主にあって』なのだと聞きました。主のみ手の中にあることが最高の喜びです。
その喜びは、どんな不幸な出来事によっても奪い去られません。
どんなことが起こっても、たとい突然死ななければならないときでも、神さまのみ手の中にあるのですから感謝です。

それに、キリストを信じる者は、永遠のいのちをいただき、天のみ国にイエス様と共に住めるという約束をいただいていますから、死をも喜ぶことができるのです。

イエス様は
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。(ヨハネ14:2)」とおっしゃっています。

もちろん、いのちある限りはせいいっぱい生かされて、時がきたら神さまのふところにいくのです。その時と死に方は神さまが決めて下さいますから、何の心配もいらないのです。


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