母が我が家に来ています。
母は80歳になりましたが、フィットネスクラブに週に3回も通うほど元気です。でも、久しぶりに一緒に出かけたら、以前と比べて歩く速度がずいぶん遅くなっていることに気づきました。
今日は市内の老人ホーム見学にいきました。老人ホーム見学は2か所目です。前回見学したところは部屋が狭く、収納が少ないことで気に入りませんでした。今日行ったところは、気に入ったようです。
でも、簡単に入居を決められません。都内に住む妹が母と一緒に住むことを望んでいるからです。
わたしは、母がキリストに導かれることを第一に願っています。土浦に住めば、教会の礼拝や高齢者の集いに連れて行けるので、こちらに住む方がいいと思います。
でも、決断するのは母自身です。無理強いはできません。
母が救われるために神様は最善のことをしてくださると信じて祈るばかりです。
今日の午後はゆっくりできたので、証し文を読んでもらったり、聖書の話をすることができました。
今年の土浦めぐみ教会の年間テーマ聖句の「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:16)」を母と読みました。
「体は日々老化によって衰えるけど、内なる人が毎日新たにされるって、すごいね。」と言うと母は大きくうなずいていました。
明日はヒックンを預かることになっているので、母は喜んでいます。
《宝物の時間》
すてきな言葉をありがとうございます。母と過ごすとき、この言葉を思い出して大切にしたいです。
Janetさんのお母様に対する想い、わかります。わたしも20年以上も前に召された祖母に対してそのような想いを抱いています。
お母様に神様の祝福がありますように!
お母様と文香さんご家族お一人お一人の上に
神様の恵みがありますように!
お祈りしております。
お母様をどうぞ、大事になさって下さいね。
大変でもきっと宝物の時間になることでしょう。
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私の母は、12年前に召されました。1998年3月24日春でした。クリスチャンではありませんでした。
天に帰った日、母は6年前に召された父と20才で逝った妹のためにお墓に持って行こうとお彼岸用のお団子を作り、その手を洗った直後にそのまま倒れました。
知人の知らせで、私が駆けつけた時にはすでに息がなく、たった一人で「楽になりました!これでお父さんの所に行ける。」とつぶやくような穏やかな顔をしていました。
数日後には私の所に引っ越する予定でした。
父が召されてからずっと一人暮らしだった母は私達に遠慮しつつもやっと同居の決心をした時でした。
まだ洗礼を受けていなかった私は、寂しい思いばかりをかけてしまった母に何とお詫びをしてよいやら・・・、気が動転するばかりでした。
神様を仰ぎ見て生きることが出来る幸せをとうとう伝えませんでした。
神様の愛のお話をしていませんでした。
それが私の十字架になっています。
罪だらけの私自身を神様にお委ねし許しを乞う日々です。しかし今、神様の愛のうちに平安でいられる事が感謝です。
でも、臨終の床で洗礼を受けられたことは、神様の愛にあふれたお取り計らいですね。
母のことを祈ってくださってありがとうございます。
三年前、父が主を信じて平安のうちに召されたことを母と話していました。
安らいだ楽しいひとときをお過ごしになられますように。そして、お母様の今後のこともお祈りさせていただきました。
神さまの最善を私も信じます。
私の母は、もう20年近く前に白血病で召されましたが(私が中学の時でした。)色々な状況が許さず、闘病中に洗礼を受けられずにいました。
しかし、召されるその臨終の床に牧師先生が来てくださり洗礼を授けてくださいました。
(兄と私が近所の教会学校に通っていたので、母の闘病中は、そちらの牧師先生が母のことを心配し足しげく自宅へ訪問してくださっていました。)
実は、その時母が病院にいることは親族しか知らなかったので、牧師先生が病室にいらっしゃること自体が不思議でした。(一番最後に病室に着いたのが私でした。)神さまがお取り計らいくださったのだと信じています。
文香さんのお母様のことも、神さまが責任を持ってくださると信じます。未熟ですし、微力ですが私も引き続きお祈りさせていただきます。