一昨日は土浦の花火大会でした。お天気が危ぶまれましたが、雨は降りませんでした。数年前、打ち上げた花火が雨雲や煙に遮られ、ほとんど見ることができなかった花火大会のことを思い出し、今年もそうなるのではないかと案じていましたが、今年はとてもよく見えました。70万人もの人花火見物に出かけたそうです。事故がなくてよかったです。
我が家は、マンションの2階ですが、打ち上げ場から近いのでよく見えます。息子一家を招いて一緒に見物しました。
ナルクンがどんな反応を示すか楽しみにしていました。喜んでいたのは最初の5分だけで、
「遊んで、遊んで」と手を引っ張られてしまいました。それでもわたしは、相手をしながら花火を見ていました。ヒックンはDSで写真を撮っていました。
花火大会で人が集まってくると、ざわめきが聞こえてきます。いつもは誰も通らない農道に人がたくさん歩いているのが見えます。屋台も軒を並べています。花火が始まると、スマホで画像を送る人たちがたくさんいるせいか、しばらくの間メールは送受信できません。
今、誰かが倒れたり、大けがをして救急車を呼んでも一時間ぐらいかかってしまいそうです。陸の孤島になったようで、恐怖を感じます。
出かけるにしても出先から帰るにしても、この時間帯は交通規制がかかっています。
一昨日、御茶ノ水でJCPの例会があったのですが、残念ながら行けませんでした。
花火を見ながら去年の花火大会を思い出しました。母が召されたのが10月1日で、花火大会はその2日後の10月3日でした。母のいたホームの部屋は8階で、我が家のマンションよりよく見えるし、ホームの部屋から見るのは最初で最後になるだろうと思って、息子一家や妹の家族といっしょにホームで花火見物をしました。
あのとき、どんな気持ちで準備していたのか……そのときの自分の気持ちがどうしても思い出せません。
花火の日に母が亡くなっているということは考えられなかったので、母に花火を見てもらうつもりで準備をしたのでした。
わたしは父親もがんで亡くしています。父は膀胱がんでした。同じく末期の状態でみつかったのですが、父と母の最期の容態は異なっていました。
父は、末期がんの痛みが出たので、モルヒネを使っており、最後の2日間は意識がありませんでした。意識のない父に向かって必死に聖書を読みましたが、意識が戻らないまま召されました。
母は、先日書いたように、痛みもなく召されました。同じ末期がんでも人によって違うのです。
「母は、あと3年は生きる。Mちゃん(わたしの娘)の結婚式に出る。」と言っていたのに、その願いはかなえられませんでした。
でも、東京の病院での手術が守られたことや、具合が悪い中でも土浦に来れたこと、最期まで看取ってくれるホームに入所できたこと、土浦の病院に入院しているとき、危機的状態にあったのに元気になれたこと……など考えると、奇跡の連続で、神様がずっと導いてくださったのだと気づかされます。
土浦へ引っ越す前、熱が出ていたのですが、そのときもし東京の病院へ連れて行っていたら、再入院となったことでしょう。
土浦の病院に入院したからこそ、洗礼を受けられたのだと思っています。
元気でホームで過ごせたのは2か月半ぐらいでしたが、かけがえのない時間でした。
わたし自身は、ほとんど毎日、病院へ、ホームへと通いましたが、不思議に具合悪くなりませんでした。(家では必要最低限の家事だけしてひたすら横になっていましたが)
病院は今年の3月に遠くへ移転してしまいました。移転前だったので自転車で通えたのです。
妹は週末になると必死な思いで2時間かけて都内から母のもとへ車で通っていました。振り返って、あんな体力がどこにあったかと思うと言っていました。
妹は、母が召された日は海外出張で日本にいませんでしたが、どんなことがあっても、仕事半ばで帰ってきてはいけないと母に言われていたので、死に目には会えないと覚悟しての出張でした。
人間が色々なことを計画し、こうあってほしいと願い、これから先のことを考えますが、自分ではどうすることもできないことがあります。いつ、どのようにして死ぬのかなど、自分のことでも想像がつきません。でも、すべてのことは神様の手によってタイミングよく行われるのです。だから、くよくよしたり、心配する必要はないのです。
聖書には
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3:11)」と書かれています。
アーメン(その通りです)
昨日と一昨日、2日続けて母の夢を見ました。召されてから初めての母の夢でした。白い毛皮のコートに身を包み、病院の椅子に座っていました。「どうしてそんなにおしゃれしているの?」と聞くと「今日退院するんだからいい恰好していなくちゃね」と笑いました。
おわり
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我が家は、マンションの2階ですが、打ち上げ場から近いのでよく見えます。息子一家を招いて一緒に見物しました。
ナルクンがどんな反応を示すか楽しみにしていました。喜んでいたのは最初の5分だけで、
「遊んで、遊んで」と手を引っ張られてしまいました。それでもわたしは、相手をしながら花火を見ていました。ヒックンはDSで写真を撮っていました。
花火大会で人が集まってくると、ざわめきが聞こえてきます。いつもは誰も通らない農道に人がたくさん歩いているのが見えます。屋台も軒を並べています。花火が始まると、スマホで画像を送る人たちがたくさんいるせいか、しばらくの間メールは送受信できません。
今、誰かが倒れたり、大けがをして救急車を呼んでも一時間ぐらいかかってしまいそうです。陸の孤島になったようで、恐怖を感じます。
出かけるにしても出先から帰るにしても、この時間帯は交通規制がかかっています。
一昨日、御茶ノ水でJCPの例会があったのですが、残念ながら行けませんでした。
花火を見ながら去年の花火大会を思い出しました。母が召されたのが10月1日で、花火大会はその2日後の10月3日でした。母のいたホームの部屋は8階で、我が家のマンションよりよく見えるし、ホームの部屋から見るのは最初で最後になるだろうと思って、息子一家や妹の家族といっしょにホームで花火見物をしました。
あのとき、どんな気持ちで準備していたのか……そのときの自分の気持ちがどうしても思い出せません。
花火の日に母が亡くなっているということは考えられなかったので、母に花火を見てもらうつもりで準備をしたのでした。
わたしは父親もがんで亡くしています。父は膀胱がんでした。同じく末期の状態でみつかったのですが、父と母の最期の容態は異なっていました。
父は、末期がんの痛みが出たので、モルヒネを使っており、最後の2日間は意識がありませんでした。意識のない父に向かって必死に聖書を読みましたが、意識が戻らないまま召されました。
母は、先日書いたように、痛みもなく召されました。同じ末期がんでも人によって違うのです。
「母は、あと3年は生きる。Mちゃん(わたしの娘)の結婚式に出る。」と言っていたのに、その願いはかなえられませんでした。
でも、東京の病院での手術が守られたことや、具合が悪い中でも土浦に来れたこと、最期まで看取ってくれるホームに入所できたこと、土浦の病院に入院しているとき、危機的状態にあったのに元気になれたこと……など考えると、奇跡の連続で、神様がずっと導いてくださったのだと気づかされます。
土浦へ引っ越す前、熱が出ていたのですが、そのときもし東京の病院へ連れて行っていたら、再入院となったことでしょう。
土浦の病院に入院したからこそ、洗礼を受けられたのだと思っています。
元気でホームで過ごせたのは2か月半ぐらいでしたが、かけがえのない時間でした。
わたし自身は、ほとんど毎日、病院へ、ホームへと通いましたが、不思議に具合悪くなりませんでした。(家では必要最低限の家事だけしてひたすら横になっていましたが)
病院は今年の3月に遠くへ移転してしまいました。移転前だったので自転車で通えたのです。
妹は週末になると必死な思いで2時間かけて都内から母のもとへ車で通っていました。振り返って、あんな体力がどこにあったかと思うと言っていました。
妹は、母が召された日は海外出張で日本にいませんでしたが、どんなことがあっても、仕事半ばで帰ってきてはいけないと母に言われていたので、死に目には会えないと覚悟しての出張でした。
人間が色々なことを計画し、こうあってほしいと願い、これから先のことを考えますが、自分ではどうすることもできないことがあります。いつ、どのようにして死ぬのかなど、自分のことでも想像がつきません。でも、すべてのことは神様の手によってタイミングよく行われるのです。だから、くよくよしたり、心配する必要はないのです。
聖書には
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3:11)」と書かれています。
アーメン(その通りです)
昨日と一昨日、2日続けて母の夢を見ました。召されてから初めての母の夢でした。白い毛皮のコートに身を包み、病院の椅子に座っていました。「どうしてそんなにおしゃれしているの?」と聞くと「今日退院するんだからいい恰好していなくちゃね」と笑いました。
おわり
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