生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

これで十分

2018-10-23 15:56:56 | 教会
新約聖書の神様はやさしくて、旧約聖書の神様は厳しいと思っている人はおられませんか? かつて、わたしもそう思っていました。

もっと前は、新約聖書は新しい訳で旧約聖書は古い訳だと思っていました。それにしては旧約聖書はぶ厚くて、新約聖書の何倍ものページ数があります。

ひとりで読むと、何のことが書かれているのか理解できません。旧約と新約がどうつながっているかもわかりません。
新約と旧約の『約』は約束の『約』、契約の『約』で、訳ではないこと。旧約はイエス・キリスト誕生以前のこと、新約聖書はイエス・キリストの誕生後の事が書かれていると教えていただいたとき、目が開かれたようでした。

先日の礼拝メッセージでは、へブル人への手紙から語られました。へブル人への手紙は新約聖書の中で難関といわれる書簡だそうです。

書いた人が誰なのかわかりません。パウロが書いた手紙には挨拶文がありますが、へブル人への手紙には挨拶も自己紹介もありません。自己紹介しなくても宛先のへブル人と周知の仲だったからか、それとも切迫感があって、まず伝えたいことをいきなり書いたのか、どちらかわかりません。

へブル人とはユダヤ系クリスチャンのことで、旧約聖書は認めるのですが、イエス・キリストが救い主とは認めない人たちです。
その人たちにへブル人への手紙の筆者は何を伝えたかったのでしょうか。

聖書には次のように書かれています。

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(へブル人への手紙1:3)」

旧約聖書では、海が二つに分かれたり、岩を杖でたたいたら水が出たり、天から火が降ったり、ライオンの穴に投げ入れられていたダニエルが助かったり……と数多くの可視的な奇跡が書かれています。

これらの奇跡はなぜ今は起こらないのかと思われる人もあるでしょうが、イエス様のしてくださったことに比べれば完全ではなく、キリストのひな型でしかないのです。

旧約に書かれているどの出来事よりはるかに卓越しているのが、イエス・キリストのしてくださったことです。「イエス・キリストのしてくださったことで十分だ」と牧師先生が言われました。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32)」

神様は、罪にために滅びてしまう私たちを救うためにイエス・キリストを惜しまずに死に渡されました。そこまでして私たちを愛してくださる神がすべてのものを恵んでくださらないわけがないでしょう。

神様のしてくださったことを思うと、胸が熱くなります。聖歌593番を歌いたくなりました。
1番を紹介します。


罪に満てる世界 そこに住む世人に
「いのち得よ」とイエスは 血潮流しませり
ああ 恵み はかりしれぬ恵み
ああ 恵み 我にさえ及べり



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