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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

主が先立って下さる

2008-02-09 17:29:02 | 聖書から

聖書を読んでいると、何度読んだ箇所でも読むたびに新しい発見、感動があります。目覚めたばかりで行う朝のデボーション(聖書を読み、祈る)では、まだ頭がぼーっとしている時に読むので、はっとすることがあっても、それを忘れてしまうことが多いです。
でも、今朝デボーションを始めようとしたら、昨日の感動を思い出して、どうしても書き留めなければならないという気持ちになりました。


昨日読んだのは、創世記24章です。年老いたアブラハムがイサクのお嫁さんをさがして連れてくるようにしもべにたのみます。
アブラハムは、神さまの示して下さった約束の地、カナンに住んでいましたが、息子をカナン人と結婚させるべきではないと思っていました。
親族の住むところに行って、そこからめとらなければならないとしもべに言います。当時カナンは不毛の地で、親族が住んでいたアラム・ナハライムというところは豊穣の地でした。

しもべは「はい」と言うことができませんでした。イサクのお嫁さんにふさわしい女性がみつかったとしても、豊かな土地からこのような貧しい土地に嫁いできてくれるか心配でした。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなりませんか。(5節)」と、しもべはアブラハムに尋ねます。

アブラハムは、
「私の息子をあそこに連れ帰らないように気をつけなさい。私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使い(みつかい)をあなたの前に遣わされる。……(7節)」と答えます。

主は、御使い(みつかい)をあなたの前に遣わされる。と言い切ったアブラハム。なんという確信でしょう。しもべには不安がありましたが、アブラハムには『もし、みつからなかったら……。もし、その人がこちらに嫁いでくれなかったら』という思い煩いがいっさいありません。

かつてアブラハムは神さまから一人息子のイサクを全焼のいけにえとして捧げるように言われました。(それはイサクが成人する前です。イサクは40歳で結婚していますから、そのときから25年前くらいでしょうか)
そのときはもちろん葛藤があったでしょうが、途中で逃げたりせず、信仰によって
イサクを捧げようとしました。イサクが殺される直前に神さまがストップされ、イサクの代わりに雄羊を備えてくれました。「主の山の上には備えがある。(創世記22:14)」のみ言葉には今まで何度も励まされてきました。
それと同じ信仰だと思います。

はたして、しもべがアブラハムの出身地へいくと、リベカという女性がすでに備えられていました。しもべは難なくリベカをカナンの地へ連れてくることができました。

榎本保郎の「旧約聖書1日1章」には次のように書いてあります。

信仰とは、この神にたよって踏み出すことである。それはただ主の助けによって始められることである。そこに気づかず、恐れたり、煩悶したりすることは愚かである。いつでも主は信じる者の前にみ使いをつかわして、その歩みを助けたもうのである。



臆病なわたしは、恐れと思い煩いで、なかなか最初の一歩が踏み出せないことがあります。『一歩踏み出すとき、主が先だって下さる。だから大丈夫』と大いに励まされました。

今日は午後2時から「はこぶねクラブ」です。創作童話のパネルシアターをします。天気予報では3時から雪が降り始めるといっています。どうか、雪になりませんように。



追記

今日の「はこぶねクラブ」は、新一年生を招待する手紙を配っていました。その手紙を見て来てくれる子供がいるのか心配。天気のことも心配。パネルシアターのお話は15分くらいの童話を暗記して話すのですが、緊張して途中で忘れてしまうのではないかと心配し、自信もなかったのです。でもアブラハムの信仰に励まされて、よく祈ってから出かけました。

すると雪は降らず、4名の新一年生と、いつも参加してくれる子供、計8名の子供が集まってきました。パネルシアターも落ち着いてできました。お話の一文を語ると、次の一文が頭に浮かび、主が助けて下さったことを感じました。まさに主が先立って下さることを体験したのです。感謝!!



クリスチャン・ペンクラブのHPを更新しました。ぜひご覧下さい。



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