goo blog サービス終了のお知らせ 

生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

臆病な戦士(その3)

2016-11-16 16:37:23 | 聖書から
先日放映された大河ドラマ、『真田丸』は、圧巻でした。(NHK朝ドラと大河ドラマは毎回観ています)手勢が少ないのに戦略で徳川軍に勝利した真田幸村は英雄のようにみえました。
戦いが終わって幸村は「実はかような大戦私も初めてなのだ」「心の臓が口から飛び出そうであった」と木村重成にそっとあかします。

ギデオンと似ているところです。でも、ギデオンと違うのは、幸村は戦略を亡き父のやり方から考えましたが、ギデオンは神様のやり方で戦いました。
13万5千人という諸民族の連合軍が攻めてこようとしていました。こちらの兵士は5千です。どう考えても勝てるとは思えません。
戦いの前にギデオンはためらいます。リーダーとして神様から召されています。でも、自分がリーダーでよいのかと不安になり、神様にしるしをもとめます。

イスラエルの気候は昼と夜の温度差が大きく、夜の間に露が下りることが多かったようです。
それでギデオンは神様に「羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったよう に、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。」と言いました。すると、そのようになりました。土だけ乾いて羊の毛が露にぬれているなんていうことはありえないことでした。しかし、羊の毛を絞ると鉢いっぱいになったそうです。

これで納得したと思うのですが、ギデオンはさらに神様に願います。
「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、 土には一面露が置かれているようにしてください。」
逆のことを言ったのですが、それもその通りになりました。

1度ならず2度までも神様を試すようなことをして……と思う方がいるかもしれません。でも、神様はこたえてくださいました。

『人が神様にしるしを求めるのは不信仰、罪だといわれていますが、ギデオンの行為は主なる神への信頼から出た行為です。ギデオンは神の霊に満たされていました。神に確信を求めるための行為だったので、神に受け入れられたのです』と牧師先生が言われました。

神様は戦いに備えてアクセルを与え、ギデオンはブレーキをかけました。
その後、ギデオンは戦いのリーダーとして活躍します。

『自分の力ではどうすることもできず、立つことも進むこともできないとき、神様と真剣に向き合うことが大切です。神様はアクセルを与えてくださいます。いえ、すでに与えてくださっています。』
と聞いて少し前に進んだ気がしました。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。
わたしのエッセーも掲載していますここをクリックして、メニューの作品「私とクリスマス」からご覧ください。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

臆病な戦士(その2)

2016-11-10 16:18:02 | 聖書から
ギデオンは、神さまから「勇士よ」と声をかけられ、ミデヤン人と戦うリーダーとして選ばれました。けれども、ギデオンはオフラという小さな町に住む、弱い存在でした。

オフラの町の人たちは、バアルという偶像を拝んでいました。
まずはそれをやめさせるため「バアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシュラ像を切り倒せ。(士師記6:25)」と神様が言われました。

ギデオンは神様に言われた通りにするのですが、父親や家族、町の人たちを恐れて、昼にではなく、夜に行いました。

翌朝、町の人たちはバアル祭壇が壊され、アシュラ像が切り倒されているのに気づきました。ギデオンがやったことを知り、ギデオンを殺せとギデオンの父に訴えました。

ギデオンの父、ヨアシュが「自分の祭壇が壊されたのだからバアルが自分で争えばいい」
と答えたので、人々はギデオンのことを「エルバアル」と呼びました。エルバアルとは、バアルは神であるという意味です。

ヨアシュはなぜギデオンを罰しなかったのでしょう……。「エルバアル」という名から、悔い改めたそうです。

もし、バアルが本当の神さまなら、祭壇を壊したギデオンを罰するはずです。しかし、バアルには何の力もありませんでした。ヨアシュは、神様がバアルを拝むことを嫌っておられると知っていて拝んでいたのですが、それが間違えだとはっきり気づいたのではないでしょうか。

ギデオンの勇気ある行動がヨアシュの心を変えたのです。

それで指導的立場にあったヨアシュは、オフラの町の人たちが偶像礼拝をすることを責めました。

ギデオンには、ミデヤン人という外なる敵と、神以外のものにより頼んで偶像礼拝する町の人たちという内なる敵がいました。
ミデヤン人と戦う前に、内なる敵を取り除いたことは、意味深いことだと思いました。

バアルとは、偶像とは、何でしょう。
たとえば、パソコンやスマホが何よりも大切になっていて、それに縛られていたら、それは偶像です。インターネットやゲームがやめられなくなり、気づかないうちに依存症になっていることがあります。それも偶像です。「神様を第一としないことが、偶像礼拝です」と聞いてドキッとしました。
ギデオンは「たたき切る」という意味だそうです。内なる敵をたたき切るのは外なる敵をたたき切るより大変なことかもしれません。


写真はセーヌ川。記事とは関係ありませんが、フランスの写真、これからも続けてアップしますね。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

臆病な戦士(その1)

2016-11-05 20:45:12 | 聖書から
旧約聖書士師記にギデオンという人物が出てきます。気が弱くて心配性のところは、自分とそっくりなので親しみを感じます。

水曜礼拝で士師記を学んでいるので、教えられたことと感想を書かせていただきます。


イスラエルの人たちは7年の間、ミデアン人に苦しめられていました。収穫の時期が近づくと、畑の作物を根こそぎ取られてしまいます。それでも立ち向かってくことができず、洞窟で隠れるようにして暮らしていました。

イスラエルの人たちは、神様に助けを求めました。
神さまは、みつかいを送って、酒ぶねの中で小麦を打っている青年に話しかけられました。
その青年こそ、ギデオンです。酒ぶねの中で小麦を打っていた訳は、ミデアン人にみつかったら恐ろしいので、酒ぶねに隠れていたのです。

みつかいがギデオンに言った言葉がすごいです。
「勇士よ、主があなたといっしょにおられる」
酒ぶねに隠れているような者に『勇士よ』と呼びかけてくださったのです。

みつかいはさらに言われました。
「あなたはイスラエルを、ミデアン人の手から救い出すことができる。わたし があなたを遣わすのではないか」

ギデオンはさぞかし驚いたことでしょう。

ギデオンは「どうすればイスラエルを救えるでしょうか」と尋ねます。
みつかいは「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミデアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」と言いました。
こわがり屋のギデオンは、そのあと何度も神さまに確かめながら、それでもミデアン人に勇敢に立ち向かっていきます。

ギデオンは①恐怖②心配③神に対する畏れという3つのおそれを抱いていました。
①や②は誰でも持っている恐れですね。③は恐れではなくて畏れです。

畏れとは、『神に対するつつしみ深さを伴った敬い』だと教えていただきました。これが大切なのだと聞きました。

神様に対して恐ろしいと感じるのは、たたりがあるかもしれない、ばちが当たるかもしれないと思うからでしょう。でも、天地万物を作られた神様は、たたりを起こしたり、ばちを当てたりしません。だから恐れるのではなく、畏敬の念を持つ意味で畏れるのです。

写真は知人からいただいたフランスのノートルダム寺院。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

とにかく前に進む

2016-10-27 15:55:46 | 聖書から
昨日から聖書輪読会を再開しました。
聖書輪読会は、20年ぐらい前、2人の方によって始まりました。わたしは誘われて2回目から参加しました。一年ぐらいして当初の2人は仕事を始めて参加できなくなり、その後は次々仲間が与えられ、これまで続いてきました。

最初輪読会は、毎週の水曜礼拝の前にしていました。そのあと月に一度になり、水曜礼拝の後、お弁当を食べてから始めるようになりました。
輪読会では聖書を一節ずつ交代に読んでいきます。一章読んだら感想など言い合い、次の章にすすみます。これまで新約聖書を2回読み、旧約聖書に入って民数記まで進みました。週一回で、一回5章ずつ読んでいくので、なかなか進みませんが……。

一昨年は、わたしの母が胃癌だとわかって、看病のため実家に通うことになったので中断しました。病気が見つかってから母は、約一年後に召されましたが、輪読会を再開する気力がなくなってさらに一年たちました。

友の働きかけがあって、再開することになりました。メンバーが減ったので2~3人集まればいいと思っていたら、なんと7人も集まりました。感激です!
台湾の方と韓国の方たちが加わってくださったのです。日本人は3人でした。

台湾、韓国の方は「読むが遅いので、迷惑かけてしまうかも……」と遠慮がちに言っておられましたが、遅いことは大いに歓迎。それだけみ言葉をじっくり味わえるのです。
彼女らの熱心さにこちらが励まされました。わたしがつかえて、台湾の方に正される場面もありました。

輪読会を始めるとき、牧師先生から言われた注意をお話しさせていただきました。

『聖書は、矛盾している記述があり理解に苦しむ箇所があります。聖書に書かれている一か所だけを取り上げて、勝手に解釈してしまうと危険があるので、教職者がいないときは、質問をしないこと。聖書を読んだ感想を言い、受けた恵みを分かち合うように』
ちょうど午前中に水曜礼拝で聞いたことと関連していました。水曜礼拝ではアナロジー(類似)という言葉が用いられていました。
聖書を読んでいて意味がわからなかったり、矛盾を感じたとき、類似する内容の別の聖書箇所を読むと、理解できることがある。聖書に真理の言葉を見いだすようにと言われたのです。

最後に読んだのが旧約聖書民数記の30章だったので、31章から始めました。1時間あまりで6章読み、民数記をクリアしてしまいました。

2年間もブランクがあって再開できるとは、すごいことだと思います。
一年休むと、もうやめてしまってもいいかな……。と思ってしまうからです。
友人のプッシュがなければ、始められなかったでしょう。み心にかなったことだとわかっていても億劫になっていたわたしです。続けることもエネルギーが必要ですね。

いつまで続けられるかわかりませんが、とにかく前に進めて感謝です。神様から続ける力をいただけるよう祈っています。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



広い門と狭い門

2016-10-22 15:48:32 | 聖書から
広い門と狭い門があったら、どちらに入りますか? 
広い門は楽に入れます。荷物を持って入ることもできます。

一方、狭い門に入るには、苦難や辛いことがあります。また、手ぶらでなければ入れません。
広い門には大勢の人が入り、狭い門にはわずかな人しか入っていません。

広い門の先には滅びへの道があり、いきつくところは死です。一方狭い門は救いへの道であり、狭い門を入った人は永遠のいのちをいただけます。
広い門、狭い門を入っていくとどうなるのか、入ってみないとわからないことです。

昨日は教会での家庭集会でした。教えられたことや気づかされたことを書いてみます。
青森県にある不老不死温泉は人気があって、大勢の人が訪れているそうです。
その温泉に入ったら不老不死になると本気で信じている人はいないと思いますが、「不老不死」また、「永遠のいのち」は人類の究極の望みですね。


人間は潜在的に永遠に生きたいと思っているのだそうです。それには理由があります。死からの恐怖です。この恐怖は人に刻まれているので、死にたいと思っている人でも死は怖いのです。
2000年前、ひとりの青年が、イエス様に永遠のいのちを得るための質問をしました。
イエス様は「努力して狭い門から入りなさい」と言われました。
神の国への門は狭いのです。なぜでしょう……。

大勢の人が楽な道を選びます。いろいろなものを背負って広い門に入っていきます。
狭い門には何かを携えて入ることができません。必要のないものは捨てて、自己を捨てて入るのです。
優先順位のいちばん上に自分を置くのではなく、神様を置くことが大切です。

狭い門から入るために「努力→努めること」が必要だとイエス様が言っておられますが、努めるとはどういうことなのでしょう……。

狭い門に入るために強い意志を持って信じ続けることです。そのために祈ることです。
狭い門はまだ開いています。狭い門に続いている道には苦しみもあります。でも、通ったとき、むなしい気持ちになりません。神様から報いを受けます。

イエス様を信じると永遠のいのちがいただけること。それはすばらしい贈り物です。受けるために狭い門に入ることが人生でいちばん大切なことです。このことを愛する人たちに伝えないではいられません。

人に伝えるとき、知恵と力と機会が与えられるように祈ることが大切です。伝えても、なかなか受け入れてもらえないとき、自分が悪いと責めてはいけません。その人が受け入れるかどうか、救われるかどうかは神様の領域であって、わたしたちの責任ではないからです。
「祈るとき『みこころなら』という言葉を忘れないように」と牧師先生が言われました。



いま、大事だと思ってしがみついているものがあっても、死ぬときにはすべては不要になります。本当に大切なものは何でしょう。永遠のいのちという本当に大切なものを得た人は、どんなに苦しいことがあっても平安があります。

聖書の言葉
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13-14)」



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


死んでも生きる

2016-02-25 20:28:13 | 聖書から
先日の記事、PペーパーはA5でなくてB4でした(訂正しました)。一枚で人物なら8人分描けます。たくさん書いた割には、ちっとも上達しませんが……。それでも子どもたちはプロジェクターで画像を映すより興味を示してくれます。

暗唱聖句パート2を覚えています。この前はエペソ書の長い箇所でしたが、次は20の聖書の言葉を箇所まで覚えるのです。もう少しなのに、ところどころ間違えます。期日は28日です。間に合うでしょうか。

ラザロのよみがえりのお話しを準備して心に留まったみことばは「イエスは涙を流された」
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのもの」です。

「イエスは涙を流された」については、2013年4月12日のブログに書いていますので、省略しますが、もうひとつのみことばについて考えたことを記します。

イエス様はラザロが重い病気にかかっていることを知ってもすぐにベタニヤに行かず、あえて2日間もそこに留まられました。
なぜでしょう……。ベタニヤに行ったら危険だからでしょうか。(実際、ユダヤの人たちがイエス様を石打ちにして殺そうとしていたので、弟子たちはイエス様がベタニヤに行くことを止めています)

そうではありません。イエス様がベタニヤに行くのを遅らせたのは、ラザロのよみがえりを確かなものにしようとされたからでしょう。
なぜラザロが死んでから4日もたってよみがえらせたのかというと、3日までなら仮死状態で葬られた人が、意識を取り戻して墓から出てくる可能性があったからです。

でも、4日もたっていたら腐敗が始まっているので、仮死状態とは考えられません。
不可能と思われる時期によみがえらせたのは、神様の栄光があらわされるためだったのです。

ラザロはひとことも発せず、どんな気持ちだったかも書かれていませんが、ラザロ自身は何を思っていたのでしょう。
死の病気にかかり、辛かったと思います。まだ若いのにこのまま死んでしまうのかと絶望していたことでしょう。
イエス様に呼ばれたとき、息を吹き返し、墓から出てきました。生きていることの尊さを知って喜びに溢れたことでしょう。
ラザロは、イエス様の愛といのちの尊さを知って、これまでとは違う歩みを始めたかもしれません。

「あなたが愛しておられる者が病気です」マルタとマリヤがイエス様に伝えた言葉です。
イエス様に愛されていても病気になるのです。でも、イエス様はその病気が神様の栄光をあらわすものとしてくださいます。

ラザロのよみがえりは、そのあとイエス様が十字架に架かって死に、3日後に墓からよみがえることの予表です。
でも、イエス様とラザロの決定的に違うことは、よみがえったラザロは、やがて年をとって死ぬ体でした。でも、イエス様は朽ちることのない、死のない体としてよみがえられたのです。

マルタは、イエス様の言葉をしっかり理解できませんでした。的外れともいえる言葉を発していますが、マルタの話したことに対してイエス様はすばらしい言葉を語ってくださいます。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」

イエス様とかかわるとき、失敗や的外れを通しても、それらが神様の栄光をあらわすものとなるのだと思うと嬉しくなりました。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


理不尽な出来事

2016-01-26 16:05:06 | 聖書から
先週は木曜日に教会での家庭集会があり、土曜日はクリスチャン・ペンクラブの例会でお茶の水まで行ってきました。教会までの20分、駅までの30分は歩いています。寒さの中でも健康が守られていることを感謝しています。

最近、酷いニュースばかりとびこんできます。テロ事件やバスの横転事故。
「神さまはどうしてこのような事件が起きるのをゆるしておられるんだろう。どんな意味があるのかな」とクリスチャンの友人が言いました。

児童文学の仲間は、
「『いいことをすれば幸せになり、悪いことをすれば不幸になる。』のなら、神様はいると思う。でも、現実はそうじゃない。むしろ誠実に生きている人に次々と不幸な目にあうように思える。だから、神様はいないと思う」
と言いました。

そう思われるのは、もっともです。

「なぜあんなにやさしい人が病気で苦しんで死ななければならなかったのか? 神様は本当にいるのか?」
そのように尋ねられたことがあります。

そんなときわたしは、「理由はわかりません」と答えます。そう答えるしかないからです。

理不尽なことが起きたら、神様がいないことの証拠になるのでしょうか。

聖書のヨブ記には、不条理の苦難について書かれています。ヨブのことは以前もブログに書きましたが、改めて書かせていただきます。

昔ヨブという人がいました。神様を信じ、決まりを守って生きる正しい人でした。奥さんと10人の子どもたちに恵まれ、たくさんの召使と家畜を持っていました。
ある日神様のところへサタンが来て言いました。ヨブは信仰深いけど、それは恵まれているからじゃないか? もし持っている物すべてを取り去られたら、神様をのろうかもしれないと言ったので、神様はヨブに不幸が訪れることをサタンにゆるしました。

ヨブは一日のうちに子どもたちと家畜、召使たちを失いました。
そのときヨブが言った言葉は「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」でした。

主とは神様のことです。子どもたちや召使、家畜はみんな神様から与えられたもの。だから神様が取られても当然のことだ。といって、神様をほめたたえています。

その信仰には驚きます。そのあとでヨブ自身がひどい皮膚病になり苦しみます。そのようすを見てヨブの奥さんは「神をのろって死になさい」と言いました。

ヨブは、それでも文句はいわなかったのですが、3人の友人が見舞いに来てくれ、ヨブに向かってこのようになったのはヨブに罪があるからだなどと言い始めました。友人の言葉に反論しているうちにヨブは自分の生まれた日をのろい、神様に文句を言い、どうしてこんな目に遭わせるのかと理由を尋ねます。
それが聖書の何章にもわたって書かれています。

最後に神さまはあらしの中からヨブに答えて「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするものは誰か?」と言われます。神さまのことばは、ヨブの疑問に対する答えになっていません。神さまは天上でのサタンとのいきさつについては説明しません。でも、ヨブは説明を求めていたのではありませんでした。

ヨブは、神の栄光に接し、その偉大さに触れ、自分の罪を認め悔い改めます。
「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです(40:4)」
ヨブは自分の無知、弱さを認め、神の全知全能に触れて、神さまのなさることは人間の知識では、はかることができないと思ったのです。

そして神様はヨブを癒し、子どもを与え、財産を倍にしてくれます。


ヨブ記を読むと、どんなことが起きても、神様に「なぜ?」と聞く必要はないのだと思わされます。どんなにむごいことが起きても、それは神様の御手の中で起こったことなのです。

現在と過去のことしかわからないわたしたちです。将来のことは少しもわからない者にとって、勝手に意味づけすることはできません。
神様は、ご自分がお造りになった生物(どんな人間でも、動物でも)をとても大切に思っておられるので、たとえ肉体が死んでも魂をねんごろに取り扱ってくださる。どんな死に方をしても天国で採算があうようにしてくださると、わたしはそのように思っています。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



赦されて・・・・・・

2015-09-03 20:03:55 | 聖書から
これまで、このブログに「赦す」ということについて何度も書いてきました。
今日は、子どもたちへのメッセージから考えさせられたことを書きますね。

イエス様はたくさんのたとえ話をされました。その中のひとつに赦されたしもべの話があります。
王様から6千億円もの借金をしていたしもべ(召使)がいました。返済を迫られて途方に暮れていました。家や家族を売っても、とうてい返すことのできないお金額です。しもべは、もう少し待ってくださいとひたすら頭を下げました。その姿を見てかわいそうに思った王様は、すべての借金を帳消しにしてくれます。

喜んだしもべは、帰り道で100万円貸していた友人と出会います。友人は返すのをもう少し待ってほしいと頼みます。それなのに、しもべは彼を赦さず牢屋に入れてしまいました。
この出来事を知った王は、そのしもべを呼びつけて言いました。「お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」
そして王は怒って、そのしもべを牢屋に入れてしまいました。

たとえ話が終わると、イエスさまは続けておっしゃいました。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。(マタイ18:35) 」

 このたとえ話の「王様」とは神様のことです。6千億円という途方もないお金、それほどの大きなわたしたちの罪を神様が帳消しにしてくださったのに……。わたしたちは、自分に対して他人がしたあやまち、罪を赦すことがなかなかできないのです。

前回も書きましたが、わたしは、小学生のとき、ガニウマというあだ名が付けられました。
当時は、そのあだ名をつけた男子とガニウマと呼んだ人たち全員を憎み、赦さないと思いました。

ところがです。中学生になったとき、わたし自身も人の心を傷つけるようなことをしてしまったのです。悪かったなあーと思っても、なかなかあやまれませんでした。ようやくあやまると、その人は 笑って「ぜんぜん気にしてないよ」と言ってくれました。
赦されるってなんて嬉しいことなのだろうと思いました。

イエス様は、6千億円の借金に相当するわたしたちの罪を赦して下さいました。十字架に架かってくださったのは、わたしたちの罪を赦すためだったのです。そのことを思うと、赦せないと言っている自分が恥ずかしくなります。

母は元気です。週に一度妹が来て母を買い物に連れて行ってくれます。車椅子での買い物も慣れてきたようです。
出かけると翌日、翌々日ぐらいまで疲れて調子が悪いのですが、元気回復して、また買い物に行きたいと言います。

これまでできていたことができなくなることで、落ち込んだりもします。でも、イエス様が共にいることを実感しているようです。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


雲に包まれて

2015-07-18 20:47:39 | 聖書から
昨日は母を連れて茨城の東京医大まで行ってきました。抗癌剤(飲み薬)の副作用で涙腺が詰まり、4月に西新宿の東京医大で涙腺に金属の管を入れる施術を受けました。2か月後に抜くことになっていたのですが、引っ越しと入院のため、眼科に行くことができませんでした。

このまま抜かなくても大丈夫と言われましたが、母としては抜かないと気が済まないようなので、茨城の東京医大へ紹介状を持って行ったのです。
わたしは運転ができないので、タクシーで往復しました。病院では車いすを借りて押して行ったのですが、母の具合が悪くならないか内心ハラハラしていました。

待たされないように朝早く出て、8時に着きました。初診だったので診察券を作るのに時間がかかりました。眼科では視力検査などを受け、ようやく診察となりました。
抜くのはあっと言う間でした。座った状態で、わずか数秒で抜けました。

母は晴れ晴れとした顔をしていました。長い間ほったらかしにしていた宿題を片付けられたという気持ちのようでした。
薬局と帰りのタクシーで待たされ、ホームに戻ったのは昼近くになっていましたが、母が元気だったので主に感謝しました。

一昨日は3か月ぶりの家庭集会でした。メンバーがそれぞれの理由で家庭を開放するのが難しくなっているので、教会の和室で行いました。
学びを通して教えられたことを書きます。

山上の変貌といって、イエス様が3人の弟子たちを連れて山に登ったとき、光り輝くという不思議なことが起きました。それだけでなく、モーセとエリヤが現れてイエス様と話をしたのです。モーセもエリヤも旧約時代の代表的預言者です。

なぜ、弟子たちがモーセとエリヤだとわかったのか、それはわかりませんが、ペテロは感激して、「ここに3つの幕屋を建てます」と言いました。

この発言について、聖書記者(ルカ)は「ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。」と書いています。

ペテロが幕屋を建てると言ったのは、モーセとエリヤとイエスさまがそこに住んでほしいと願ってのことです。でも、3人が話し合っていたのは、これからイエス様が人類の救いのために十字架に架かることについてでした。

つまり、ペテロの発言は的外れだったのです。イエス様が山に留まってしまったら、人類は救われないのです。

でも、ペテロに悪意はありません。ただ、感激して口にしたのです。

そんなペテロに対して神様のお取り扱いは何と優しいのでしょう。
神様は雷や火の中に存在を顕してくださることが多いのですが、このときは、ペテロたちを雲に包んでくれました。雲の中で恐怖を感じていると、「これはわたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい(ルカ9:35)」と、神様の声がしました。(彼とはイエス様のことです)

ペテロの失敗をとがめるのではなく、雲に包んでくださった神様。

わたしも的外れなことをよく言います。失敗ばかりしています。

数々の失敗を思い出しては、悲しい気持ちになっていたわたしの心が、優しい雲に包まれて癒されていくのを感じました。 



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


生きている言葉

2015-06-04 17:20:45 | 聖書から
母が入院して一か月がたちました。
毎日病院へ通い続けるのは、体力と気力が必要です。今日は疲れたなあ……と思うことはあっても、病院へ行くのをやめようと思う日はなく、ここまで続けられていることを主に感謝しています。
今日はわたし自身の診察の日だったので、診察の合間と終わった後に母の病室を訪れました。夕方から娘が病院へ行っています。

母は鼻からチューブで栄養をとるようになりました。もちろんチューブは一時的で、最終的には口から食べられるようになることが目標です。
検査や処置や体調の変化でつらいことが重なると、落ち込むこともあります。でも、気分のいい時は、ベッドを起こして読書したり、友人にハガキを書いたりしています。
ハガキには、「まだ退院できず、ぐずぐずしていますが、一日一日大切にしようと思っています。」
と書かれていました。

わたしは聖書の言葉を書いた紙を毎日持って行きます。最近は聖書の言葉の解説も書かれたものを持って行っています。母が少しでも慰められるようにと思って書くのですが、わたし自身が励まされています。

たとえば、次の聖書の言葉、
 「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。(イザヤ書7:4)」
は、ひとつひとつの出来事にあたふたしているわたしに『静かにするように。恐れないように』とイエス様が優しく語りかけてくださるようでした。
聖書の言葉は生きていて力があるのですね。


日曜日は、パプアニューギニアでのマイワ語新約聖書翻訳のため、パプアニューギニアで、20年以上にわたって奉仕されたN先生のメッセージを教会で聞きました。
自国の言葉で聖書を読みたいと願う人たちの思いが、20年近くかかってかなえられたのです。電気もガスも水道もない村で現地の人たちと共に暮らしながら翻訳をされたN先生ご夫妻です。どれだけのご苦労があったでしょうか……。献書式のようすの画像をみて、胸が篤くなりました。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

減った願いごと

2015-03-23 17:20:48 | 聖書から
先週、教会での家庭集会で祈りについて教えていただきました。
祈りといえば、こうあってほしいという自分の願い事と、友人知人のことを祈ることで終わってしまいがちです。そして付け足しのように感謝の祈りをしていました。

でも、いちばんに神様をほめたたえること、次は自分の過ちを具体的に言い表すこと。その次は、感謝を言い表すこと。最後に嘆願(助けを求める)と聞いて、順番が間違っていたと思いました。

そして、主の祈りを思い出しました。
主の祈りとは、イエス様の弟子たちがイエス様にどのように祈ったらよいか尋ねたとき、教えてくださった祈りです。
           
主の祈り
天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負い目お赦しください、
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン(マタイ6:9-13)


主の祈りでは、まず神様をほめたたえています。次に自分が生きるのに必要の満たしついて祈り、罪の赦しを祈ってから、願いを祈り、最後はまた主をほめたたえる言葉で終わっています。

「まず、神様をほめたたえるように」と言われましたが、どのようにして神様をほめたたえたらよいのでしょう。

旧約聖書の詩編には神様をほめたたえる言葉がたくさん書かれています。
詩編8篇、19編、23篇、46篇、95編、100篇、148篇を朗読しました。

特に心を打たれたた100篇を紹介します。

全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。
知れ、主こそ神。
主が、私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、
その牧場の羊である。
感謝しつつ、主の門に、
賛美しつつ、その大庭に、はいれ。
主に感謝し、御名をほめたたえよ。
主はいつくしみ深く
その恵みはとこしえまで。
その真実は代々に至る。




読みながら、神様が天と地とその中に住むものすべてを造ってくださったことを思いました。
神をほめたたえること、罪の告白、感謝、願いの順で祈りを紙に書くように言われました。
神をほめたたえることについては、次のように書きました。

わたしは、神様によって造られたのです。神様は、わたしより、わたしのことを知っておられます。わたしの細胞のひとつひとつ、髪の毛の数までご存じです。そして、愛してくださっています。
神様はわたしの心の状態や体の状態すべてをご存じです。
明日起きるできごとも、将来のこともすべてご存じで、最善をなしてくださいます。
全知全能の神様を心からほめたたえます。


神様の素晴らしさを思い、ほめたたえる祈りを書いたら、書く前は願い事ばかりだったのに、願いごとが少なくなってしまいました。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


心は燃えていても・・・・・・

2015-01-17 15:12:36 | 聖書から
一昨日は家庭集会でした。教会で行ったので、正確には家庭集会といわないのでしょうけれど……。
家庭集会は、我が家とあと2軒の家で行っていましたが、一軒の家でできなくなり、我が家で行うのも難しくなりました。

母のことがあって、土浦と東京の二重生活をしているので、準備ができません。さらにマンションは工事中で、音がうるさいこと。主人が仕事をやめて毎日家にいるようになったこと。という3つの障害があります。
24年続いた家庭集会ですが、このへんで終わりにしてもいいかな……と思っていたら、ぜひ続けてほしいとの声がいくつも上がりました。

教会には喫茶店のような雰囲気のトレーラーハウスがあります。そこを借りて行うことにしました。そこは、険しい道のりを歩いてきた登山者が、一休みしてほっとできる山小屋のような空間です。

マタイ26:36~46からイエス様がゲッセマネで祈っている箇所を中心に学びました。
イエス様が十字架につけられる前のことです。イエス様は弟子のペテロとヤコブとヨハネを連れて祈るためにゲッセマネに行かれました。

イエス様は苦しみもだえ始め、「悲しみのあまり死ぬほどです」と言われました。
情けないことに、こんなにイエス様が苦しんでおられるのに弟子たちは眠ってしまいます。(まるで自分の姿を見ているよう……)

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈るイエス様。杯にはすべての人類に対する神の裁きが入っています。

杯を受けるとは、十字架につけられて殺され、神様からも見捨てられることを意味します。イエス様でさえ、できればその苦しみを避けたいと思われるほど、過酷なことでした。

イエス様はさらに祈られます「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」

『最もつらいとき、このように祈ることができるでしょうか?』と問いかけられました。

つらいときは、そのつらさを取り除いてくださいと、そればかり祈ってしまいます。
でも、自分の願いより神様のみこころを優先させることの大切さを教えられました。

イエス様がみこころを優先させて十字架にかかってくださったからこそ、わたしたちは救われ、決して神様から見放されることがなくなったのです。

この聖書箇所を読んで、イエス様の苦しみもだえる姿を初めて見たかのようにはっとさせられました。この箇所は何度も読んでいるのに、イエス様の苦しむ姿をドラマの一場面を見るかのように距離を置いてみていました。そして心を痛めることなく弟子たちのように眠りこけていました。

『ごめんなさい。この杯の中にはわたしの汚い心が入っていて、それを受けるのにこんなに苦しんでくださっているのに、わたしは眠っていました。』これは、わたしの祈りです。

イエス様は、弟子たちに言われました。「あなたがたは、そんなに、一時間でもわたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」なんという愛とやさしさに満ちた言葉でしょうか。
イエス様は、わたしたちの肉体の弱さに同情されないお方ではないのです。
すべてをご存じで、「目をさまして、祈っていなさい」と言われたのです。

目をさまして祈っていられるように。自分の願いでなく、神様のみこころを優先させることができるように。このふたつを今年の目標にします。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


もっと近づいて

2014-11-26 18:03:23 | 聖書から
またまたご無沙汰してしまいました。まとまった時間が持てなくてなかなか書けません。

母はだいぶ元気になりました。食欲も出てきて色々なものが食べたいと言うようになりました。この間は、餃子が食べたいと言ったので、一緒に作って食べました。母が油で焼いたものを食べたのは3か月ぶりぐらいです。

歩く足どりも軽く、手術前の元気な時のようにスタスタ歩けるようになりました。
お祈りしてくださったみなさま、ありがとうございます。

まだ飲み薬による抗がん剤治療が続いています。抗がん剤治療をしているときは、免疫力が低下します。ウイルスに感染しやすくなるので、気をつけなくてはなりません。毎週訪れているわたしは絶対風邪をひけません。

わたしは抗がん剤治療を受けているとき、白血球の値が下がって肺炎になってしまいました。
母はだいじょうぶだろうか……喉が弱いわたしは風邪をひかずに乗り切れるのだろうか。……(例年だと、この季節、月に2回ぐらい風邪をひいているのです。)と、考え始めると不安になり、恐れに取り囲まれてしまいます。


そんなとき、礼拝メッセージで「恐れないで、ただ信じていなさい」という聖書の言葉が語られました。
先月24日のブログにこの聖書の言葉を書いたばかりだったので、はっとしました。
今のわたしに最も必要な言葉なのだと思います。

「わたしたちは、恐れと信仰のはざまを行ったり来たりしている。」
と聞いて、本当にそうだなあと思いました。『母のことも妹やわたしのこともすべて神様におまかせします』と祈って平安を与えられていたのに、また恐れが出てくるのです。

「イエス様は信仰のはざまに立っていてくださる。」と、K先生が言われました。

会堂管理者のヤイロは、娘が死にかけていたのでイエス様のところへ必死の思いで行き、癒しを願いました。
イエス様がヤイロのところへ行く途中で長血を患った女性が、病を癒してもらいたくてイエスの衣にそっとさわりました。
彼女は身体的痛みと、精神的苦しさ、社会的に阻害されていたこと、汚れた者とされていたことで神の前に出られないという4重の苦しみを負っていました。
女性はイエス様の衣にひそかにさわって、癒され、ひそかに帰りたいと思っていました。
イエス様は女性の苦しみを知っておられました。
あえて彼女が癒されたことを多くの人の前で証言させました。そして、「あなたの信仰があなたを治した」と声をかけました。
声をかけることによって、彼女のこれからの生活が変えられるためです。
救いとは、関係の破綻からの回復なのだそうです。

女性のことを癒しているうちにヤイロの家から人が来て、「あなたのお嬢さんはなくなりました」と言いました。
ヤイロは絶望しました。死んでしまえばいくらイエス様でもどうすることもできないと思ったからです。ヤイロの信仰はその程度でした。
しかし、イエス様は言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい」
イエス様はヤイロの娘の手を取って起き上がらせてくださいました。

ヤイロの信仰は、いのちそのものの主、イエスの信仰へと変わっていきます。
イエス様は、会堂管理者という身分の高いヤイロにも、長血を患った名もなき女性にも同じようにかかわってくださいました。絶望的なふたりの間に身を置いてくださいました。

ふたりともイエス様を求め、イエス様に近づいて行ったからです。

恐れがあってもいいのですね。
恐れと信仰のはざまに立たれ、励ましてくださるイエス様にもっと近づいていきたいです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

赦すとは・・・・・・

2014-09-05 12:50:47 | 聖書から
先日の水曜礼拝では「ヤコブの神」というテーマでメッセージを聞きました。
一時間以上に及ぶメッセージでした。ヤコブの生涯について語られたのですが、ヤコブの息子ヨセフのことにも触れ、『赦す』ということについて新たに教えられました。


ヨセフには11人の兄弟がいたのですが、父ヤコブに特別扱いされ、ヨセフだけそでつきの長服を着ていました。そのことで兄たちはヨセフを憎みました。

ヨセフは11の麦の束が自分におじぎをした夢、太陽と月、11の星が自分を伏し拝んだという夢をみます。それを兄たちに話をしたことで、兄たちはヨセフに殺意を抱くようになります。

ヨセフは兄たちの計らいによって、エジプトに売られてしまいます。父ヤコブには、動物の血をつけたヨセフの長服をみせて、獣に殺されたと話します。

ヨセフはエジプトで奴隷として働かされ、あらぬ嫌疑をかけられて牢屋に入れられますが、何年もたったあとで牢屋から出されます。

ヨセフはエジプトの王、パロの夢の意味を解いたため、エジプトの大臣になります。その後、パロのみた夢の通りエジプトの付近はひどいききんにおそわれますが、ヨセフのおかげでエジプトはききんのときにも食料が十分蓄えられていました。

そのうわさをきいて、ヨセフの兄弟たちが食料を買いにエジプトにやってきます。兄弟たちとひさしぶりに再会するのですが、兄たちは大臣がまさかヨセフだと思いません。ヨセフは涙をこらえて最初は知らないふりをしていました。

そして、とうとうこらえられなくなって、自分がヨセフであることをあかし、兄たちと涙の再会を果たすのです。
ヨセフは父ヤコブと兄たちとその家族をエジプトに招いて住まわせます。ヤコブが死んだとき、兄弟たちはヨセフが復讐するのではないかと恐れます。(創世記37章~50章に書かれています)

そのときに言ったヨセフの言葉を紹介します。
「ヨセフは彼らに言った。『恐れることはありません。どうして私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計らいましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(創世記50:19-20)」

ヨセフ物語を読むと、ヨセフが兄たちを赦したことに心打たれます。なぜ赦せたのでしょう……。その理由を何年も探っていました。
父親に愛されて何不自由なく暮らしていたのに兄によってエジプトに売られてしまったこと。エジプトの地で辛い目に遭ったことなど思うと兄たちをすんなりと赦すことはできないと思ったのです。

ヨセフは、自分の心に留めておけばいいのに兄たちに夢の話をして憎しみを買うようなことをしてしまいました。その罪に気づき、兄たちのしたことは仕方のないことだと思ったから赦せたのかなと思っていました。でも、そうではなかったのです。


ヨセフは「あなたがたは、私に悪を計らいました」と言っているので、兄たちのやったことは悪いとみなしています。
赦すというのは、過去が悪くないというのではなく、過去の事実に神が新しい意味をくださったことを知ることなのだと教えていただきました。

兄たちがエジプトに売りとばしたことを、『神が遣わした』と捉えられたとき、赦すことができたのです。
ヨセフがこの心境になるまでには20年の年月が必要だったと聞いて、納得しました。

エジプトに売られた当初は、葛藤もあったでしょう。牢屋に入れられたときは、まじめに働いていたのになぜ?という思いもあったでしょう。でも、ヨセフはいつも神様を見上げていました。
牢屋にいるとき、ヨセフが献酌官の夢を解き明かし、献酌官が赦されて牢を出されたので、無実の罪で牢に入れられた自分のことを王に話すように頼みました。ヨセフはこれでようやく牢屋から出されると期待したことでしょう。

ところが献酌官は忘れてしまいました。いつまでたっても牢屋から出されないので、ヨセフは辛かったことでしょう。でも、神様の時を待っていました。

出されたのはパロが不思議な夢をみたときでした。パロの夢を解いたことで、ヨセフはエジプトの大臣になるのです。

牢から出される時が神の定めた時だと思わずにはいられなかったでしょう。そして、最初は憎んでいたかもしれない兄たちのことを赦せるようになったのは、ヨセフが兄たちがしたことすら神の計画の中にあったのだと気づいたからなのでしょう。
赦すには時間が必要なこと。意味の転換をして、「神様」を主語として考えることができたとき赦せるのだと気づかされました。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

嫌いだった自分

2014-08-22 12:46:07 | 聖書から
大雨によって広島で大きな土砂災害が起こりました。
今は九州が危険な状況になっているそうです。どうかこれ以上被害が出ませんように。
どうか被害に遭われた方を守ってください。


今朝、旧約聖書の詩編139編を読みました。この詩はダビデが書いたものです。
ひとつひとつのことばが心にしみこんでいきました。
「アーメン(その通り)、アーメン」と言いながら読みました。

自分のことが嫌いでたまらず、自分がみじめでならなかった中学生のころを思い出しました。
かつてわたしは、もし神様がいて、自分が神様によって造られたのなら、神様は意地悪で不公平だと思っていました。

「どうして、こんなふうに造ったのですか?」と訴えたい気持ちでした。
訴えたら神様は「きみを造るとき、ちょっと失敗したんだよ」と言うかもしれないなどと想像していました。

わたしは自分を馬鹿にした人、いじめた人を嫌いました。でも、いちばん嫌ったのは自分自身だったのです。
体が弱かったこと、喘息という持病があったこと、内気な性格。運動神経が鈍く、並はずれて不器用だったこと。そして容姿も嫌っていました。
自分にいいところなど何もないと思っていました。

すっと後になってから教会に導かれ、自分が神様によって造られたことを知りました。
造ってくださった神様がどんなお方か教えていただきました。
神様は、不公平な方でも意地悪な方でも失敗する方でもないことを知りました。
「それなら、なぜわたしがこんなふうなんですか?」 
暫くの間は神様に抵抗していました。

でも、あるとき自分のことが受け入れられたのです。人と比較してあの人より劣っている、あるいは優れているという思いから解放され、自分の弱さを含めて欠点をそのまま受け入れられたのです。

聖書を読んだとき、神様が「わたしは目的を持ってお前をそのように造った。そのままのお前でいいんだよ。」と言ってくださっていることがわかりました。神様は、かけがえのないひとり子のいのちを与えてまでわたしを生かしてくださったのです。
詩編139:13-18まで紹介します。


それはあなたが私の内臓を造り、
母の胎のうちで組み立てられたからです。
私は感謝します。
あなたは私に、奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。
私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深いところで仕組まれたとき、
私の骨組はあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、
あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
私のために作られた日々が、
しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのは
なんとむずかしいことでしょう。
その総計は、なんと多いことでしょう。
それを数えようとしても、
それは砂よりも数多いのです。
私が目ざめるとき、
私はなおも、あなたとともにいます。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


拍手ボタンです

web拍手