生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

手をつないで

2019-04-15 11:55:38 | 教会
上の写真は14日(日曜日)の写真です。
雨と風で散ってしまったと思っていたのに、まだこんなに咲いていました。

桜は咲いても必ず散ります。当たり前のことです。散らない桜があったら、それは造り物でしょう。
人間も必ず死を迎えます。死なない人はいません。でも、なぜか死について話す人は少ないです。避けているようにも思えます。

どんなに成功したって、ノーベル賞をとったって、大富豪になったって、人生の最後は死です。
むなしいとは思いませんか? テレビでは、どうしたら若く見えるか、死ぬ前まで健康でいるにはどうしたらよいか? などと、そのようなことばかり言っています。
肝心の死の問題についてまともに語る人は少ないです。それは死を克服していないと語れないことだからです

わたしは中学生のころ、なにもかも空しくなり、最後はどうせ死ぬのだからどうでもいい。と投げやりな気持ちで生きていました。

昨日の教会礼拝でのメッセージでは、まさに死の問題解決について明確に語られました。

旧約聖書創世記を読むと、ノアの洪水以前の人達は、寿命が長く、一番長い人で986歳です。でも、寿命が長いからと言って死なないわけではありません。
寿命が短い人でも聖書には「生んで、生きて、死んだ」と書かれています。人生が「生んで、生きて、死んだ」だけのものだったら、なんとはかないのでしょう。
例外もあります。エノクとエリヤです。

創世記5:24には「エノクは神とともに歩んだ。神は彼を取られたので、彼はいなくなった。」と書かれています。ともに歩んだとは、神と手をつないで歩んだということだそうです。

エノクはなんてすばらしい人生をおくったのでしょう。なんの経歴がなくても、エリヤのようにすごい力を持たなくても、エノクは神様の心と全くひとつになっていたのでしょう。
エノクが神様に近づけたのは、罪の問題が解決していたからです。
もし、解決していなければ神に近づくことができません。

イエス様が、十字架にかかって死んでくださったのは、わたしたち人間のため、あなたのためなのです。神様は、ご自分が造って愛しているあなたが罪のために滅びてしまうことが辛くて助ける方法を示しました。それは神のひとり子であるイエス・キリストを十字架につけて死にわたすことでした。
自分の子どもの身代わりに自分の命を差し出す人はいるでしょう。でも、人のために自分の愛する子を苦しめて死に至らせることのできる方は神様だけです。
イエス様は神の子なので、罪はありません。罪ある人間の身代わりになって罰を受けてくださいました。

イエス様は、神様に従われました。けれども、死んで終わりではありませんでした。
3日目によみがえられたのです。(教会ではこの日をイースターとしてお祝いしています)

そのおかげで誰でもイエス様を信じるだけで罪赦され、永遠のいのちをいただけるようになりました。肉体の死はあっても、イエス・キリストにある者は、決して死ぬことがないのです。

わたしは、このことを信じてから、むなしさがなくなりました。いつまでも残るもののために生かされたいと思います。エノクのように神様と手をつないで。

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(Ⅰコリント13:13)」



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