人と自然

人は自然の一部である
水と緑によって癒される

誰が決めた「節分に鰯を食べる」

2012-02-06 | 地域

 目下、春を待つ思いが強い「うぬまじいちゃん」です。節分の夕食時に小鰯を焙ったのを3匹食べました。この地方の習慣らしいのです。当日、近くの歯医者で奥歯の二本の治療(一部に麻酔)で欠けた部分を補ってもらっていました。ところが食事中に硬いものが歯に当たったので注意してみると当日補ってもらった歯の部分でした。硬い石のように見える(小さい白い塊が2個)、鰯だけが原因とは思いませんが、残念なことでした。後日、家内の話を聞いていると節分の夜、鰯の頭をヒイラギの小枝に突き刺して玄関前に立てて置いた(これも例年どおり)朝、一個だけなくなっていた(猫が食った)が残る一個はそのままだったという。私いわく、鰯の頭をヒイラギに刺して玄関の前に立てるという行為はともかく、2本立てた鰯の頭のうち、一個だけなくなっていたのは、近頃の飼い猫は食べ物には飢えてはいない。ただし、猫などの動物はすべて自分の縄張りをもっていて、夜間、ときに昼間、その縄張りが荒らされていないか見回りを欠かさないものだ。我が家では犬も猫も飼っていないので、すぐ近くの飼い猫が日に幾度も見回りをしていることは承知している。軒下の雨のかからない場所に猫の糞がいつも必ずあります。もし、その糞を処分したら、その夜のうちに必ず、新しい糞をして、ここは自分の縄張りであることを他の猫たちに明確に知らせるのである。節分の夜に一個の鰯の頭だけが無くなっていたのは、その本能に基ずくものであり、決して鰯のあたまが食いたかったからではない。当夜は軒並みに鰯の頭が指してあるのだから。それにしても、誰がいつ、こういう習慣を流行らせたのか。素朴な疑問だ。