アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

土曜日

2008-03-03 18:01:09 | 
『土曜日』 イアン・マキューアン   ☆☆☆☆

 マキューアンの新作を読了。これまでの作品とはまた違ったタイプの小説だった。主人公は40代後半の脳神経外科医。妻と成人した二人の子供あり、豪邸あり、ベンツあり。長身、趣味はスカッシュ。息子と娘はそれぞれ詩人とミュージシャン。妻との関係は良好。義父は有名だが過去の人となった詩人、母親は認知症で施設の中。こういう、まあ言ってみれば満ち足りた生活(認知症の母親を除けば)を送っている主人公の、ある一日(土曜日)を描いた小説である。

 きっかり丸一日が、マキューアンらしく几帳面に描かれている。朝目覚めた時から夜眠りにつくまで。主人公ヘンリーが目覚めたところから小説は始まり、きっちり眠りに落ちるところで終わる。目覚めてすぐヘンリーは炎上しながらヒースロー空港に向かう飛行機を目撃する。この刺激的な光景が本の帯にも惹句として書かれているが、この小説は別にテロ事件の話ではない。炎上する飛行機の事件は単なるニュースとして、ヘンリー・ペロウンの一日のあちこちに顔を出すだけだ。この事件は関係者が逮捕されたりするが、別にテロ事件には発展しない(少なくともこの小説の中では)。その他、この日ロンドンでは米軍のイラク進攻の反対デモが行われていて、これも重要な背景となっている。というようなわけで、911以降の世界情勢が本書の重要なテーマの一つになっているのは間違いない。けれども小説が描くのはあくまでヘンリー・ペロウンの一日の出来事であり、出来事に遭遇してヘンリーが連想したり思い出したり思索にふけったりするそのさまざまな内容である。それは母親の昔の思い出だったり、娘がどのようにして詩に興味を持ったか、どのようにして息子がブルース・ミュージシャンになったかであったり、娘と義父のいさかいの記憶だったり、患者や同僚についての印象だったり、ヘンリーがブレア首相に会った時の記憶だったりする。

 裕福な医師の一日を描いた小説なんていうと、内面描写がメインで、アクションとしては大した事件は起きないだろうと思うかも知れないが、それは大間違い。ヘンリーの土曜日は波乱万丈である。彼は炎上する飛行機を目撃し、通りで車をぶつけ、チンピラに絡まれて暴行されそうになり、同僚とスカッシュをして口論になり、施設の母親に面会に行き、息子のバンド演奏を観に行き、料理をし、久しぶり帰ってきた娘とイラク進攻について議論し、義父と娘を仲直りさせようと気を使い、家族のパーティーの最中にチンピラに襲撃され、ナイフで妻を人質に取られ、緊急手術に呼び出される。ありとあらゆることが起きる。その他ヘンリーの回想の中で、家族の色んなエピソードが語られる。これは退屈な内面描写の純文学ではなく、エンターテインメントとしても充分面白い。

 主人公ヘンリーはマキューアンの主人公らしく理性と科学の信奉者で、優れた脳神経外科医でありながら芸術には理解がない。詩人である娘デイジーが彼の文学的教師だが、すすめられた本を読んでも彼にはさっぱり理解できない。彼が『アンナ・カレーニナ』『ボヴァリー夫人』、そしてマジック・リアリストの小説について色々考えるくだりは最高に笑える。

 それから彼はイラク進攻についてアンビバレンツを感じていて、イラク進攻大賛成のアメリカ人同僚と議論する際は反対派に傾き、反対派の娘と議論する時は賛成派に傾く。これはカリカチュアだなと思いながら読んでいたら、訳者あとがきによるとこれは作者自身のアンビバレンツでもあるとマキューアン自身が言っているらしい。これには驚いた。小説のアイロニーを破壊するようなことを作者自ら言うことへの驚きと、イラク進攻議論の単純さへの驚きである。イラク進攻については特に娘とヘンリーが交わす議論が激しいが、この時のヘンリーの論点は「サダムは人殺しだ、だからやっつけた方がみんなのためだ」に尽きる。ちょっと余談だが、イラク戦争時にアメリカでテレビをつけるとよく街頭インタビューをやっていて、道行くアメリカ人にイラク進攻の賛否を聞くと大体賛成で(テレビ局の意図的な編集かも知れない)、理由を聞くとみんな「サダムは悪者だから、やっつけた方がいい」「自由とデモクラシーのためには戦争も仕方がない」と判で押したような答えばかりだった。国際世論や国連の総意を無視して武力行使するのがそもそもデモクラシーの精神に反するとは誰も考えないようで、アメリカ人にとってデモクラシーとはすなわちアメリカの意志のことだというのが良く分かった。これは余談だが、マキューアンならイラク進攻についても(賛成にしろ反対にしろ)もっと屈折した考察があるだろうと思ったので意外だったのである。ちょっとがっかり。まあでも、そこがマキューアンの誠実さなのかも知れない。ミラン・クンデラならなんと言うだろうか。

 まあとにかくこのヘンリーはインテリで保守的、科学の進歩によっていずれ生命の神秘も解明されると信じ、芸術には価値を認めず、イラク進攻にはどっちつかず、ベンツに乗り、家には絵を飾り、健康のためにダイエットやる気満々という、善意の人だけれど自分の現状に満ち足りたそこそこのスノッブでもある。そういう彼の思考や連想や感情が事細かに描写されていくわけだが、医学から政治、料理、詩、ブルース、クラシック音楽までカバーする膨大な知識が披露されるという点では情報小説的な愉しみ方もできる。例えばヘンリーの好きなミュージシャン、スティーヴ・アールは「頭のいい人間のブルース・スプリングスティーン」だそうだ。こういうヘンリーの保守性、スノッブ性は作品全体に溢れていて、アイロニーとして機能しているが、苦手な人は駄目かも知れない。あまり小説の主人公にならないタイプの中年男性だ。

 しかし名人芸によって緻密に組み立てられた建築物、といういつもの印象はやはり健在である。医師の一日の出来事というスリリングなストーリーと、内面描写によってありとあらゆるトピックを自在に飛び回れる柔軟な手法はさすがテクニシャンだ。
 


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