アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

夢の木坂分岐点

2013-08-03 23:45:26 | 
『夢の木坂分岐点』 筒井康隆   ☆☆☆☆☆

 1987年発表、谷崎潤一郎賞受賞作。『虚人たち』『虚構船団』『旅のラゴス』の後、『驚愕の曠野』『残像に口紅を』の前に書かれた本書は著者がドタバタ・ナンセンスから徐々に遠ざかり、ラテンアメリカ文学の影響を受けて急激に純文学へ傾斜していく時期の作品である。まさに渾身の作品で、当時の筒井康隆の集大成といっていいと思う。難解という評価もあるようで、確かに「七瀬シリーズ」や『おれの血は他人の血』のようなエンタメ作品と比べれば難解だが、それをいうと筒井の筒井たる由縁であるところのあまたの傑作群はすべて難解になってしまうだろう。筒井はエンタメも書ける作家だが、その本質は決してエンタメ作家ではない。本書はガルシア・マルケスやボルヘスやミラン・クンデラやカフカの真価を知る読者のための小説であり、そしてそれらの作家の作品に一歩もひけを取らない一級品である。

 常に方法論に自覚的な筒井康隆は、自分がこの『夢の木坂分岐点』の中で意図したことを一部本書の中で解説している(作品の中で意図を解説するなんて野暮だと決め付けてはいけない。それがあってさえ難解とされる作品を分かりやすくための工夫であり、かつ、それによって本書の夢幻的効果を更に助長する文学的仕掛けでもある)。登場人物である作家が講演の中で喋るという形の「解説」だが、それによれば、夢、虚構、現実をいずれも等価の「生」として捉え、そのすべてを精一杯生きるという人生の実践であり、その実践を「作品化」してみせたものが本書、ということになる。つまり夢や虚構やいわゆる「現実」のそれぞれが不思議なやり方で繋がり、絡み合い、影響を与え合い、渾然一体となって生成される「人生」とはいかなるものか、それを私たち読者はこの作品を読むことによって垣間見ることができるのだ。こんな小説が他にあるだろうか。

 最初は一応リアリズムで始まるこの小説は、主人公である「小畑重則」の会社員生活をまず描写するが、タクシーの中で居眠りしたのを機に「大畑重則」と名前が変わり、会社員としての過去が微妙に変化する。さらに一晩眠ると「大畑重昭」とまた名前が変わり、家族も変化し、彼は会社員と二足のわらじの兼業作家になっている。さらに一晩眠ると、とだんだん名前と立場が変化していき、やがて睡眠だけでなく彼が映画を観ると映画の世界がそれまでの世界に取って代わり、また小説を書き始めると小説の内容が取って代わり、講演を始めると講演の内容が取って代わる、と、現実がどんどん地すべりを起こして段階的に変化していく。つまり入れ子構造の小説になっているわけだが、夢や映画や講演が終わってまた元に戻る、ということはない。変化はひたすら一方通行で進んでいく。

 前半はこうやって会社員や作家生活のパラレル・ワールドをちょっとずつ描いている感じだが、後半は更に「小畑重則」であり「大畑重昭」であり「大村常昭」であり「松村常賢」である主人公の無意識の世界へと沈潜していき、いよいよ筒井康隆の本領発揮、シュールレアリスティックな夢界巡礼が始まる。ここからのイメージの飛翔、夢幻性はまったく素晴らしく、日本的な恐怖と不思議な安らぎと懐かしさに満ちた世界はつげ義春の「ねじ式」を思わせる。私が特に好きなのは狭い下町の路地にガトゴトと入っていく電車や、無数の座敷が連なる座敷宇宙の下りだが、座敷宇宙は短篇「遠い座敷」に描かれているものとほぼ一緒だ。最初は武家屋敷のような立派な座敷なのが、どんどん襖をあけて次の間次の間と進んでいくと、荒廃した日本家屋みたいになってくる。襖の向こうからぼそぼそ会話の声が聞こえてきたりする。

 それから座敷の掛け軸に描かれている観音様の顔が妻の顔だったりする。それが怖いので脇へよけると、「はいっ」という掛け声とともに観音様が向きを変える。ここらへんのイメージが持つ、無意識に訴えかけてくるニュアンスの豊穣さは凄いものがあると思う。

 そしていつの間にか娘と合流した主人公は座敷にある巨大な水槽にたどり着き、中にうごめく得体の知れない生物を見る。この生物は怒りっぽく幼稚でリアクションの予測がつかないが、要するにこれが自分自身の中に潜んでいる「癇癪」の正体、甘やかされて肥大した自我の正体だというのだ。主人公は娘と一緒に生物と対決し、また地上に戻る。他にも、前半から主人公の夢の中に登場していたヤクザや侍と邂逅する場面や、老婆のようになってあばら屋で自分の帰りを待ち続ける妻と会う場面などがある。

 これらのイメージを次々潜り抜けていく主人公の思考によって、読者はぼんやりとこの夢=虚構=現実のせめぎ合いの法則らしきものを感知できるが、それは私たちが実際に夢を見るメカニズムに酷似していて、またそのイメージ群の強烈な喚起力から、筒井康隆自身が自分の夢や無意識を掘り起こして持ち帰ってきたものだなという感じが強くする。小説を読むことが、限りなく夢を見る行為に近づく。筒井康隆ならでは至芸だ。

 夢幻世界の巡礼を一通り終え、終盤では多少リアリスティックなトーンに戻るが、ここで主人公の家族や会社の同僚、上司をまじえてサイコドラマの実演が行われる。本書のもう一つの特徴はこのサイコドラマで、これは前半の会社生活の中でも繰り返し出てくるが、この小説の世界では心理療法としてサイコドラマ、つまりお互いに役割交換して他人を演じてみたり他人の心理を想像して告白してみたり、という一種のセラピーが日常的に行われているらしい。このサイコドラマは、主人公の無意識世界への移行をスムースにする効果、そして人間心理というものの複雑なメカニズムを読者に意識させ、小説の狙いをより明確にする効果があるが、最後の締めとしても使われていて、作中人物たちにカタルシスを与えることで、主人公と一緒に夢巡りをしてきた読者の憑き物を落とす効果があるように思う。いってみれば読者もこの小説を読むことで、目覚めながら夢を見ていたわけだ。ただし、だからと言って主人公がいわゆる「現実」に戻ってくるような予定調和はなく、小説の最後では主人公の死が暗示されている。

 後半の無意識めぐりの圧倒的な迫力、目覚めながら夢を見る感覚こそが本書の醍醐味だと思うが、その部分が本書を「難解」と感じさせる理由かも知れない。それにしても感心するのは、こういうシュールな描写はえてして退屈になってしまうものだが、本書の場合まったくそんなことがなく、圧倒的な夢魔のリアリティ、呪縛力を持続している。その感覚も「ねじ式」に共通するものだが、これはおそらく筒井康隆が頭で考え出したものではなく、無意識の中から努力して拾ってきた本物の「夢」であり、元型的なイメージだからだろう。その創作者としての真摯な姿勢にも頭が下がるが、それを実際に紙上に再現してしまう筆力はただ事ではない。

 


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