アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

鷲か太陽か?

2005-07-21 01:29:46 | 
『鷲か太陽か?』 オクタビオ・パス   ☆☆☆☆

 パスのファンタスティックなコントが大好きなので、Amazonでこれを見つけて早速購入した。配送まで4~6週間になっていたがめげずに待った。他のパスの散文集なんてないからだ。評論ならたくさん出ているのだが。

 パスの作品といえばみんな知っているのは『波と暮らして』だろう。私もそうだった。やたらあちこちのアンソロジーに収録されているからだ。私が知っている限りでも「ラテンアメリカ怪談集」と「美しい水死人 ラテンアメリカ文学アンソロジー」に収録されている。ちなみに「ラテンアメリカ五人集」に『青い目の花束』他二篇が収録されている。二篇のうち一篇は散文詩だ。また「遠い女 ラテンアメリカ短篇集」には『「流砂」より』と題してやはり散文詩的な五篇が収録されている。

 『波と暮らして』は非常に印象的な短篇である。幻想短篇というよりコント・ファンタスティックといった方がふさわしい。最初読んだ時はポーのコントに似てると思った。波と暮すという、高度に散文詩的なイメージが、自在に軽やかにユーモラスに展開される。何より言葉の美しさとスピード感が素晴らしい。
 この人の短篇をもっと読みたいと思ったが、パスの短篇集なんて出ていなかった。他のアンソロジーでパスの名前を見つけても同じ『波と暮らして』だったりする。だから「ラテンアメリカ五人集」で『青い目の花束』と『見知らぬふたりへの手紙』を読めた時は嬉しかった。『見知らぬふたり』は小説というより散文詩に近い短篇だが、『青い目の花束』はまさに『波と暮らして』と同質のコントだった。これも、恋人に青い目で作った花束を贈るために追いはぎをする青年という、詩的でシュルレアリスティックなモチーフと軽やかな文章が鮮やかだった。

 どうしてパスといえばいつも『波と暮らして』ばかり収録されるのだろうと思っていたが、今回この『鷲か太陽か?』を読んで分かった。通常の意味で短篇小説と呼べるものが、これと『青い目の花束』ぐらいしかないのである。

 本書は「詩人の仕事」「動く砂」「鷲か太陽か?」の三部に分かれていて、それぞれの中に短篇もしくは散文詩が収められている。この中で短篇小説的な味わいがあるのは「動く砂」の中の諸篇である。全部で十篇だから、私が読んだことがなかったのは二篇だけだった。『眠る前に』と『書記の幻想』である。しかし「動く砂」中の十篇もはっきりした短篇小説と言うより、非常に散文詩的な短篇と呼ぶべきで、訳者あとがきにあるようにパスにしてみれば散文詩であるに違いない。
 「詩人の仕事」「鷲か太陽か?」はもうはっきり散文詩集である。

 私は『波と暮らして』『青い目の花束』的なコントを求めていたので、そういう意味では少々あてがはずれた。これもあとがきからだが、コルタサルはパスが「動く砂」収録のようなテクストをもっと書かなかったことをとても残念がっていたそうだ。その気持ちは痛いほど良く分かる。私も残念だ。

 しかしそれは私の勝手な願望というもので、本書は散文詩集として読むのが正しいわけだが、散文詩集としてはなかなか良い。私は詩はあまり読まないが、昔ランボーは好きだった。初期の韻文詩も好きだし、『イルミナシオン』も好きだった。パスのこの散文詩はランボーの『イルミナシオン』をもう少し熱帯っぽくというか、エネルギッシュにしたような印象を受けた。イメージのるつぼ、鮮やかなイメージが次から次へと現れては消えていく感じである。まあ他に散文詩なんてろくに読まないので比較することができない。しかし読んでいると、頭の言語中枢がすーっと解放されるような感覚があって、それがある種快感だった。

 あとちょっと気になったのは、訳がかなり堅い感じがしたことだ。私は「美しい水死人」バージョンの『波と暮らして』が好きで、訳者は井上義一氏だ。「ラテンアメリカ怪談集」の『波と暮らして』も井上氏の訳なのだが、不思議なことにかなり違う。「水死人」バージョンの『波と暮らして』が一番ユーモラスというか、砕けた訳になっていると思う。
 例えば本書では、

 …他の波たちがひらひらする服をつかみ、大声で叫んで引き止めようとしたにもかかわらず、彼女は僕の腕につかまると、一緒に海から飛び出した。…

 となっている部分が、「水死人」バージョンではこうなっている。

 …ほかの波がひらひらする衣装のすそをつかんで、行くなと叫ぶのを振り切るようにして、ぼくの腕にとりすがると、ぴょんぴょん跳ねながらついてきた。…

 まあこれは好みなんだろうが、私は井上義一氏が訳した「流砂」全篇を読んでみたいと思った。

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